2

蓮は、沙英がバーから静かに消えたのを、何かの駆け引きだと思っていた。

俺の話を盗み聞きして、焦らしてるんだ、と。賢い女だ、と。

彼はわかっていなかった。まったく。

彼女の傷の深さを、想像すらできなかった。

それよりも、怜佳とのライブ前のいい雰囲気を台無しにされかけたことに、苛立っていた。

「な?マジでヤバいやつだろ」彼女がいなくなった後、蓮はバンドメンバーに吐き捨てた。

「怜佳さんの計画、正解だったな」ベーシストのマコトが、いつも通り蓮に同調した。

「ああ、婚約、子供、全部だ。これでアイツも逃げてくだろ」蓮は怜佳の前で自信ありげに言った。彼女は片眉を上げて彼を見ていた。

怜佳はただ、冷たく計算高い笑みを浮かべた。「いいPRになるわ、ダーリン。ロックスターが真実の愛を見つける。身を固める。レーベルはそういう話が大好きなのよ」

数時間後、ショーケースライブが終わった頃に、健司が私を見つけた。

私は寮の部屋にうずくまっていた。暖房がガンガンにかかっているのに、涙でぐしょぐしょで、震えが止まらなかった。

「沙英」健司はためらいがちに声をかけた。「蓮から聞いた。バーにいたんだってな」

私は彼を見なかった。

「あいつはクズだ、沙英。あいつが言ったこと、計画してること…最低だよ」

「でも、止めなかった」私はかすれた声で囁いた。

「前に話そうとしたんだ。怜佳と組んで『沙英を追い払う』なんて言い出した時に。でも、あいつは聞く耳を持たなかった」

健司はぐしゃぐしゃの髪をかきむしった。「あいつは怜佳に完全に夢中なんだ。彼女は業界でのし上がりたい。そして蓮は…蓮は、彼女がそのための切符で、それ以上の何かだと思ってる」

ブースにいた蓮を思い出す。怜佳を見る彼の目。誰にも向けたことのない眼差し。

私がずっと、自分に向けられることを夢見ていた眼差し。

「本当に、付き合ってるの?」私は尋ねた。それを聞いて、現実にしなければならなかった。

健司はゆっくりと頷いた。「ああ、沙英。そうなんだ。もうしばらく経つ。かなり本気で」

その言葉は、また腹にパンチを食らったようだった。

彼はもっと何か言おうとした。蓮は馬鹿だとか、お前にはもっといい人がいるとか。

でもその時、健司が置いていた蓮のスマホが鳴った。怜佳の声が、部屋の向こうからでも聞こえた。

健司と一緒に来たらしいが、私の部屋の外で待っていた蓮が、すぐに出た。

「もしもし、ハニー。ああ、ショーケースは最高だったよ…うん、今ちょっと用事を済ませてて…いやいや、もう終わる」

彼の声。私と話す時とは全然違う。優しくしてくれる時でさえ、こんな声は聞いたことがない。

彼が部屋に顔を突っ込んだ。「大丈夫か、沙英?」私をちゃんと見てもいない。彼の意識はもう半分、怜佳の元にあった。

私はただ、彼を見つめた。

「そうか。じゃあな。健司、怜佳が祝杯あげたいって。お前も来るか?」

健司が答える前に、彼はもういなくなっていた。

健司はため息をついた。「な?夢中なんだよ。お前がただのヤバいファンじゃなくて、本気で心配してるって伝えようとしたんだ。でも、マコトとリョウのやつらが煽るんだ。『ただのガキだろ、蓮。怜佳さんは大人の女だ』って」

はっきりした。私は邪魔者。後始末されるべき存在。

翌日、私は留学生オフィスに向かった。

フィレンツェへの留学プログラムの申請書を、震えない手で記入した。

年度の初めにオファーされていた奨学金。蓮から遠くなるからと、一度は断ろうとしたもの。

今では、それが脱出口のように思えた。

フィレンツェ。新しい街、新しい人生。

福岡と、桐谷蓮から、できるだけ遠い場所へ。

数日後、健司の二十五歳の誕生日だった。

ソーホーの高級ロフトでのパーティー。

行きたくなかった。蓮に会うこと、彼らを見ることを考えると、吐き気がした。

でも健司は懇願した。「頼むよ、沙英。俺の誕生日なんだ。少しだけでいいから」

だから私は行った。平気な顔を貼り付けて。ダメージジーンズとバンドTシャツが、まるで衣装のように感じられた。

ロフトは人でごった返し、うるさくて、誰もが必死に見えた。

そして、彼らを見つけた。

蓮の腕には、九条怜佳が絡みついていた。

彼女は、鋭く、磨き上げられたような美しさだった。完璧な髪、完璧な服、そして目の奥が笑っていない笑顔。

彼らは私に一直線に向かってきた。胃がねじれた。

「沙英!」蓮は、少し明るすぎる声で言った。「来てくれて嬉しいよ。紹介したい人がいるんだ」

彼は怜佳を指した。「九条怜佳だ。俺の、婚約者」

婚約者。筋書きの一部だとわかっていても、その言葉は予想以上に私を打ちのめした。

怜佳は完璧に手入れされた手を差し出した。その握手は、固く、冷たかった。

「蓮からあなたのことは全部聞いてるわ、可愛い子ちゃん」彼女の声は、見下すような甘さに満ちていた。

「ちょっとした片想い、可愛らしいじゃない。でも彼はもう大人なの。私たち、そろそろ家族計画も考えてるのよ」

彼女は意味ありげに、平らな自分のお腹を撫でた。

「あなたも、きっと同い年の人が見つかるわ」

3

私は無理に笑った。「おめでとうございます。お二人の幸せを、心から願っています」

自分の声が、驚くほど落ち着いていることに気づいた。

蓮はほっとした顔をした。怜佳の笑顔は、ほんのわずかに引きつった。

そこへ、蓮のバンド仲間であるマコトとリョウが、ビールを片手に swaggering over してきた。

「よお、沙英!昔、俺たちのためにクッキー焼いてくれたの、覚えてるか?」マコトがからかうように言った。

「あとポスターもな!『MIDNIGHT HOWL、福岡を制覇!』とか書いてたよな」リョウが大げさな声で真似をした。

二人は下品に、大声で笑った。

「俺たちのナンバーワン追っかけだったもんな、沙英は?」

「健気な片想いだよな」マコトは怜佳にウィンクした。「うちの蓮も、やっと大人になったってことだ」

近くにいた業界人たちが、くすくす笑った。

顔が燃えるように熱くなった。完璧に、完膚なきまでに、屈辱的だった。

蓮はただそこに立っていた。かすかな、気まずそうな笑みを浮かべて。彼らを止める言葉は、一言もなかった。

彼は、どうでもよかったのだ。

その時、わかった。何年もの間、彼が私の存在を、私が彼とバンドの周りをうろつくことを許していたのは、健司がいたからだ。

健司は彼の親友で、バンド仲間。だから、その妹にも我慢していた。

今、彼には怜佳がいる。もう私に我慢する必要はない。

彼は私に消えてほしかった。この茶番劇は、それを確実にするためのものだった。

私は言い訳を呟いてその場を離れた。逃げ出したかった。

悲しみが胸に重くのしかかり、息が苦しかった。

街を見下ろす大きな窓のそばの、静かな隅を見つけた。

「大変な夜だったわね」

九条怜佳が隣にいた。シャンパンのグラスを二つ持っている。一つを私に差し出した。

私は首を振った。「いえ、結構です」

「聞いて」彼女の声は、先ほどより柔らかく、まるで共犯者のようだった。「蓮って、ちょっと馬鹿なところがあるの。あいつらも最低。気にすることないわ」

私はただ彼女を見つめた。

「本心ですよ、怜佳さん。お二人の幸せを願っています。私は、自分の人生を歩みますから」

彼女はシャンパンを一口飲み、私を品定めするような目で見た。

「本当に?ねえ、蓮って時々寝言を言うのよ。昔は、あなたの名前を呟いてた。何度も」

息が止まった。彼女は何を企んでいるの?

「罪悪感があったんだと思う。『二十二になるまで待ってろ』なんてくだらないこと言って、あなたを期待させたことにね」

彼女は肩をすくめた。「それとも、純粋で可愛いアート系の女の子に構われるのが、本当に好きだったのかもね」

彼女の笑みは、鋭く、すべてを知っているかのようだった。

私が何か答える前に、突然、頭上から大きなきしむ音がした。

二人で見上げた。

巨大なアートオブジェ、重い金属の彫刻が、天井から吊るされていた。

それが、揺れていた。

危険なほどに。

人々が悲鳴を上げ始めた。

どこからともなく現れた蓮が、本能的に怜佳を掴み、彫刻の直撃コースから乱暴に引き離した。

彼は、私の方を一瞥すらしなかった。

彫刻は、金属がねじれ、石膏が砕ける耳をつんざくような轟音と共に落下した。

私は真下ではなかったが、大きくギザギザの破片が一つ、空を舞って飛んできた。

足に激痛が走った。焼けるような、目のくらむような苦痛。

鎖骨のあたりにも、もう一撃。

そして、意識が遠のいた。

病院のベッドで目が覚めた。

消毒液と、恐怖の匂い。

健司がいた。顔は青ざめ、目は充血していた。

「沙英?ああ、神様、沙英、本当にごめん」彼は泣き出しそうだった。

「何があったの?」私の声は、かすれていた。

「彫刻が…落ちたんだ。お前が巻き込まれた。足の骨が折れてる、かなりひどく。それと、ここにも深い切り傷が」彼はそっと自分の鎖骨に触れた。

彼は激怒していた。「蓮のやつ…怜佳と突っ立ってただけだった。彼女を引き離した後、振り返りもしなかったんだ」

その言葉を、私は受け止めた。蓮は怜佳を救った。当然だ。彼女は彼の婚約者で、彼の未来。

私はただの…沙英。

その事実は、もう痛みさえ感じなかった。ただの、事実だった。

「大丈夫だよ、健司」私は囁いた。「彼は選んだ。それでいいの」

それが、すべてを決定づけた。ここを去るという、私の決意を。

健司は私を見た。彼の目には、私のものと同じ痛みが映っていたが、同時に、煮えたぎるような怒りも見て取れた。

「よくないよ、沙英。こんなの、何一つよくない」

でも私は、冷たい確信と共に知っていた。もう終わったのだと。私が蓮との間に何かあると思っていたものも、私が夢見ていた未来も、すべて消え去ったのだと。

そして不思議なことに、私は穏やかだった。

フィレンツェに行く。私は癒される。新しい人生を築く。

密かに、私は本当の計画を立て始めた。航空券と、片道切符の旅の計画を。

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愛が灰燼と化すとき

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