話 2
細川瑞樹 POV:
薄暗いホテルのスイートルームのドアの向こうから, 甘ったるい嬌声と, 翔風の荒い息遣いが聞こえてくる. それは, 私がこの10年間, 何度となく耳にしてきた音だった. 今日の音は, いつもにも増して, 私の皮膚を這いずり回る虫のように不快だった. 彼が連れ込んだのは, もちろん小田桐美月だ.
私は手に持った銀のトレイを, さらに強く握りしめた. 翔風の命令は絶対だ. 彼の「お気に入り」のために, 最高の夜食を用意しろ, と.
毎晩, 私はこうして彼の「召使い」を演じてきた. まるで, 私が彼らの蜜月を支える影の存在であるかのように. 部屋のドアをノックする. 中から, 少し苛立ったような翔風の声がした.
「入れ」
私は静かにドアを開けた. 部屋の中は, 甘ったるい香水の匂いと, アルコールの混じった空気に満ちていた. 美月は, 乱れたドレスのまま, 翔風の膝の上に座っていた. 私の視線が, 美月の胸元に一瞬だけ留まる. 私が引き裂いたドレスと, 彼女が身につけた私のネックレス. その対比が, 私をさらに奥底へと沈めていく.
「遅いぞ, 瑞樹. 美月が腹を空かせている」
翔風は私を軽蔑するような目で見た. 美月はニヤリと笑い, 翔風の胸に顔をうずめた.
「翔風様, 瑞樹さんは, わざと私を待たせているんですよ. きっと, 嫉妬しているんです... 」
美月は, わざとらしく私に聞こえるように囁いた. 私の心は, すでに何をも感じないほど麻痺していた. 彼女の言葉は, ただの空虚な音として, 私の耳を通り過ぎていった.
私は無言でトレイをテーブルに置いた. 香ばしい香りが部屋に広がる. 美月はすぐに飛びつき, 小さなサンドイッチを口に運び始めた.
「翔風様, これ, 美味しいわ! 瑞樹さん, 意外とやるじゃない」
美月は私を挑発するように言った. 翔風は, 一口も食べずに私を睨みつけた.
「瑞樹, お前は本当に懲りないな. あれだけの屈辱を受けても, まだそんな顔をしているのか? 」
彼の言葉は, 昨夜のパーティーでの出来事を指していた. 彼の言葉が私の心を抉る. だが, 私はただ, 無表情で彼の言葉を受け止めるだけだった. 痛みは, もはや感じなかった.
その時だった.
私のポケットに入れていた携帯電話が, 激しく振動した. 何度も, 何度も, 途切れることなく.
私は反射的に携帯電話を取り出した. 画面には, 見慣れない緊急連絡先の文字が点滅していた.
私の心臓が, 一瞬にして凍りついた. それは, 結子の病院からの連絡だった.
「もしもし? 」
私の声は, ひどく震えていた. 電話の向こうから, 切迫した看護師の声が聞こえた.
「細川様ですか! ? 大変です! 結子様の容態が急変しました! 意識レベルが低下して, 心拍も不安定です! すぐに, すぐに病院へ来てください! 」
私の手から, 携帯電話が滑り落ちた. ガチャン, と鈍い音が部屋に響いた.
結子, 容態急変... . 意識レベル低下, 心拍不安定... .
私の全身から, 血の気が引いていくのが分かった. 視界が白く霞み, 膝が震え, 立つこともままならない. 結子. 私の, たった一人の弟.
私は, 崩れ落ちるように翔風の足元に膝をついた.
「翔風さん, お願いします... 結子が... 結子の容態が急変しました! 病院に行かなければ... 」
私の声は, もはや懇願だった. 喉が引き裂かれそうなくらい叫び出したかった. これまでの冷徹な仮面は, 目の前の絶望の前では, 何の意味もなさない.
翔風は, 眉をひそめた.
「また, 金目当ての芝居か? 今度はどんな手を使った? 」
彼の言葉は, 私にとって最大の絶望だった. 彼は, 私の唯一の家族の, 命の危機に瀕した状況を, 再び「芝居」だと決めつけたのだ.
「違います! 本当です! 病院から電話が... ! 」
私は, 床に落ちた携帯電話を指差した. 画面には, まだ緊急通知の文字が点滅していた.
「翔風さん, お願いします... 結子が死んでしまう... 早く, 早く病院へ... 」
私の声は, か細い糸のように途切れ途切れになった. 私の目から, 涙が溢れ出した. この10年間, 流すことを許さなかった涙が, 止めどなく頬を伝った.
美月が, 翔風の腕に抱きついた.
「翔風様, 怖い! 瑞樹さん, 急に泣き出して... まるで, 私を脅しているみたい... 」
美月は, 震える声で言った. 彼女の視線が, 私に向けられる. その瞳には, 恐怖ではなく, 隠しきれない歓喜の光が宿っていた.
翔風は, 私をぞっとするような目で見下ろした. まるで, 私が汚らしい虫であるかのように.
「見てみろ, 美月が怯えている. お前のその芝居には, うんざりだ」
彼の瞳には, 少しの憐憫もなかった. 私は, 彼の心の中に, 私に対する愛や, 人間としての感情が, もう, これっぽっちも残されていないことを悟った.
「翔風様, 瑞樹さんはきっと, 結子さんの治療費が足りないから, また何か企んでいるんですよ」
美月が, さらに油を注ぐように言った.
翔風は, 冷酷な目で私を見下ろした.
「瑞樹, お前はもう, 俺のホテルから一歩も出すな. 美月, この女をスイートルームに閉じ込めておけ. 決して, 外に出すな」
彼の言葉は, 死刑宣告のように私の心に響いた.
「やめて, 翔風さん! 結子が, 死んでしまう... ! 」
私は必死に懇願した. しかし, 彼の冷たい命令は, すでにホテルの警備員に伝わっていた.
二人の大柄な男が, 私を掴んだ. 私はもがき, 抵抗した. 結子のためなら, どんなことでもする. 彼の手から逃れようと, 私は必死に暴れた.
しかし, 男たちの力は圧倒的だった. 私は無理やり引きずられ, 奥の部屋へと連行された. 豪華なスイートルームの一室. しかし, 私にとっては, それはただの監獄だった.
ドアが, ガチャン, と重い音を立てて閉まった. 鍵がかけられる音が, 私の絶望を決定づけた.
結子... . 私の, たった一人の弟.
部屋の窓から, 遠くに見える街の明かりが, ひどく冷たく見えた. 翔風は, 結子の命を, 見殺しにしようとしている.
私の心は, 完全に壊れた.
彼に対する, わずかに残っていた情も, この瞬間, 完全に消え去った.
話 3
細川瑞樹 POV:
閉じ込められた部屋は, 豪華ではあったが, 私にとっては薄暗い監獄だった. 壁の絵画も, 高価な調度品も, 私には何の価値もなかった. ただ, 密閉された空気だけが, 私の呼吸を圧迫していた.
「開けて! お願い, 開けてください! 」
私はドアを叩き続けた. 私の声は, 虚しく部屋の中に響き渡るだけだった. 喉が枯れ, 指先が赤く腫れ上がったが, 誰も答える者はいない. 壁は, 私の絶望を嘲笑うかのように, 冷たく沈黙していた.
膝から崩れ落ち, 私は床にへたり込んだ. 体中の力が抜けていく. 携帯電話は, 翔風に奪われていた. 外部との連絡手段は, 何一つない. 私は完全に孤立無援だった.
頭の中で, 看護師の切迫した声が何度も繰り返される.
「結子様の容態が急変しました! 意識レベルが低下して, 心拍も不安定です! 」
結子... . 私の, 大切な弟.
私は, あの時の結子の笑顔を思い出した. 事故で下半身不随になって以来, 彼はいつも私に, 無理にでも笑顔を見せてくれた.
「ねえちゃん, 早く元気になって, 俺の分までたくさん生きてね. 俺は, ねえちゃんの幸せが一番大事だから」
彼は, いつも私の幸せを願ってくれた. そして, 私は彼に誓ったのだ. どんなことがあっても, 守り抜くと. 彼の命を, 何としてでも繋ぎ止めると.
なのに, 今, 私は何もできない. 私は, ただこの部屋に閉じ込められているだけだ.
翔風. 彼の冷たい目, 嘲笑するような言葉.
彼は, 私の唯一の希望を, 奪おうとしている.
私を, 本当に愛していたとでも? そんな感情, 彼の心には一瞬たりとも存在しなかった. 彼はただ, 私を罪悪感で縛り付け, 彼の側に置いておきたかっただけだ.
「瑞樹, お前は本当に美しい. その瞳の奥には, 誰も知らない情熱が隠されている」
彼の言葉が, フラッシュバックのように脳裏をよぎる. あれは, 私たちの婚約初期の頃の言葉だった. 彼は確かに, 私を特別だと言った. あの頃の私は, 彼の言葉を信じていた. 彼の瞳に映る私が, 彼の言葉の通り, 特別な存在であると信じていた.
しかし, その幸福は, あまりにも脆かった.
あの事故の日.
病院の白い天井が, 私の視界いっぱいに広がっていた. 全身を襲う激痛と, 耳元で聞こえる, 医者の冷たい声.
「細川瑞樹さん, 目を覚ましましたか. 残念ながら, あなたの弟さんは... 」
そして, 翔風の声.
「お前がやったんだ! お前が, イチゴを, 俺の初恋を奪ったんだ! 」
彼の顔は, 怒りと憎悪に歪んでいた. 彼は, 私のベッドサイドで, 私を激しく罵倒した.
「お前のせいで, イチゴは声を失った! お前の弟も, 再起不能だ! すべて, お前の嫉妬と策略のせいだ! 」
私は何も言えなかった. 全身の麻痺と, ショックで, 声が出なかった.
翔風は, 私の弟のことまで罵倒した.
「お前たち姉弟は, 俺の人生を破壊した疫病神だ! だが, 安心しろ. 俺がお前の弟の治療費を出してやる. お前は一生, 俺に償うんだ」
私は, 彼の言葉に, ただ震えるしかなかった.
その日以来, 私は彼の人形になった. 彼が信じる「罪」のために, 彼に全てを捧げると誓った.
しかし, 私は知っていた. その事故は, 私のせいではないことを.
翔風の祖父, 三浦会長. 彼が, 翔風の結婚相手として相応しくないと判断した上條苺を排除し, そして, 家柄の劣る私を, 翔風に恩を売る形で縛り付けるために, 仕組んだことだった.
翔風と苺が乗っていた車に細工をし, 私が運転する車と衝突させた. すべては, 会長の周到な計画だった. 私は, ただ, その計画の「都合の良い」駒として利用されただけなのだ.
弟の命を人質に取られ, 私は彼に逆らうことはできなかった. 弟の莫大な治療費と, 最先端の医療技術. それを翔風が提供してくれる限り, 私は彼に尽くすしかなかった.
しかし, 今, 翔風は, その弟の命を, 見殺しにしようとしている.
私の心の中で, 何かが完全に砕け散った.
もう, 何も残っていない. 何も, 縛るものはない.
部屋は, どんどん暗くなっていく. 時間の感覚が曖昧になり, 私がどれくらいの時間, ここに閉じ込められているのかも分からなかった. ただ, 結子の顔だけが, 私の瞼の裏に焼き付いていた.