話 2
塚田莉結 POV:
妊娠診断書.
それは, 友美子の名前と, 晴翔の名前が連名で書かれていた.
心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたように激しく脈打つ.
私は震える指で, 診断書の日付と妊娠週数を確認した.
三ヶ月.
私が晴翔に偽装結婚を告げられた, あの衝撃的な日の, さらに二週間前の日付だった.
友美子が妊娠したことを, 晴翔はとっくの昔に知っていた.
知っていて, 私に「偽装結婚」を持ちかけ, 私との結婚式を「ただのパーティー」に格下げしようとしたのだ.
そう思うと, 全身の血が逆流するような感覚に襲われた.
どうして? なぜ?
私の頭の中は, 疑問と怒りでいっぱいに膨れ上がった.
私はその場で意識を失いそうになった.
足元がぐらつき, 立っていることすらできなくなる.
まるで, 私の世界が音を立てて崩れ落ちていくようだった.
晴翔が最近見せていた, あの優しい表情. あの焦った声.
それらは全て, 友美子とそのお腹の子に向けられたものだったのだ.
私が, 彼らの「偽装結婚」を受け入れるかどうか, 苦しんでいる間も, 彼らはひそかに, この「喜ばしい」事実を分かち合っていたのだろう.
私が必死に準備を進めていた結婚式.
あの幸せな誓いを立てる日.
それは, 私にとって, 人生で最も輝かしい瞬間になるはずだった.
それが, 晴翔の口から「ただのパーティー」と形容された日から, 私はもう, その日を心待ちにすることはできなかった.
そして今, その「パーティー」すら, 意味をなさなくなっていた.
全てが終わったのだ. 私の希望は, 粉々に砕け散った.
その時, 私の携帯が鳴った. 振動音が, 耳元で雷のように響く.
電話に出てみると, それは大学時代の恩師, 田中教授からだった.
「塚田くん, 元気かい? 実は, 君に話があるんだ. 海外の研究プロジェクトで, どうしても君の力が必要なんだが, どうだろう? 」
田中教授の声は, いつもと変わらず穏やかだった.
私はその提案に, 一瞬, 戸惑いを覚えた.
「教授, 私, 以前にもお話した通り, 結婚の準備がありますので…」
私は反射的にそう答えた.
教授は少し間を置いてから, 優しい声で続けた.
「うん, それは聞いている. だが, 今回のプロジェクトは, 以前君が強く関心を示していた分野だ. しかも, 君がトップに立つ. これは, 君にとってまたとないチャンスだと思うのだが」
教授の言葉は, 私の心に一筋の光を差し込んだ.
晴翔は, もうすぐ, いや, もうすでに, 友美子の子供の父親になる.
私と彼の関係は, 完全に終わったのだ.
私はもう, 彼のために何かを犠牲にする必要はない.
「教授, お引き受けします. 喜んで参加させてください」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
「本当かい? ! それは嬉しいね! ただし, 条件がある. 研究に集中するため, 私生活は一切持ち込まないこと. プロジェクト期間中は, 完全に研究に没頭してほしい」
教授の言葉に, 私は迷わず答えた.
「はい, 承知いたしました. 私生活の整理は, きちんとつけてから渡航します」
私には, もう失うものは何もなかった.
私生活など, とうに壊れ果てていた.
教授は少し驚いた様子だったが, すぐに喜びに満ちた声で言った.
「そうか! それは頼もしい! では, すぐに手続きを進めよう. 出発は, 君の都合に合わせて調整しよう」
「出発は, 私の結婚式の日にしてください」
私の口から出た言葉は, 自分でも驚くほど冷徹だった.
電話を切ると, 私は壁掛けカレンダーの, 未来の結婚式の日に大きく赤い丸をつけた.
そして, その横に力強く書き込んだ.
「新しい, 私の人生の始まりの日」
私の結婚式の日. それは, 私にとって, 晴翔との関係を完全に断ち切り, 新たな人生を歩み出すための「訣別の日」となるだろう.
そして, これからの数年間, 私はこの男と二度と会うことはないだろう.
話 3
塚田莉結 POV:
晴翔は, 結局その夜, 帰ってこなかった.
朝になっても彼の姿はなく, リビングには冷え切った空気が漂っていた.
私はスマートフォンを手に取り, 彼のSNSをチェックした.
そこには, 友美子と晴翔が親密そうに並んで写る写真がアップされていた.
友美子の顔は, 病で痩せこけているはずなのに, 晴翔の隣では, まるで輝くように幸せそうだった.
彼らは友美子の実家で, 彼女の両親と共に食卓を囲んでいた.
晴翔は, 友美子の父親と楽しそうに談笑し, 母親の料理を絶賛していた.
その光景は, あまりにも自然で, 私には見慣れない彼の姿だった.
晴翔は, 私の両親にはいつもどこかよそよそしく, 形式的な態度しか取らなかった.
「お父様, お母様, いつもお世話になっております」
そう言って, 深々と頭を下げる彼の姿は, まるで営業先での取引先の人間に対するかのように, どこか他人行儀だった.
私の家族に対する彼の態度は, いつもそうだった.
私は, 胸の奥で渦巻く痛みを必死に押し殺した.
この痛みは, もう私の身体の一部になってしまったかのようだ.
私はすぐに光子に電話をかけた.
「ねえ, 光子. 結婚式, キャンセルするわ」
光子は電話口で, 絶句した.
「え? 莉結? どうしたの突然? 何かあったの? 」
彼女の驚きは当然だった.
晴翔は, 私との結婚式の準備にも, あまり乗り気ではなかった.
「莉結に任せるよ. 君の好きにしていい」
彼はいつもそう言って, 私に全てを押し付けた.
私は, 彼が喜んでくれることを想像しながら, 夜遅くまでプランナーと打ち合わせを重ね, ドレスを選び, 料理を決めてきた.
私の頭の中には, 晴翔と笑顔でバージンロードを歩く, 完璧な結婚式のイメージが鮮明にあった.
「あの晴翔くんが, あんたとの結婚を『ただのパーティー』だなんて言うくらいだから, よっぽど酷いことになったんでしょ? でも, 本当にいいの? 一生に一度のことだよ? 」
光子は心配そうに尋ねた.
「いいの. もう, 何もかも, どうでもよくなった」
私がそう答えると, 光子は沈黙した.
私の心は, 途方もない苦しみに満ちていたが, 同時に, どこか諦めにも似た安堵を感じていた.
私は, ずっと信じていたのだ.
晴翔は, きっと私のことを愛している.
今はまだ, 彼の中で何かが邪魔をしているだけだ.
時間が経てば, きっと彼は変わってくれる.
そう思っていた.
だが, 友美子の出現と, そのお腹の中の命は, 私の幻想を打ち砕いた.
晴翔が友美子に向ける, あの優しい眼差し.
それは, 私がどんなに努力しても, 彼から引き出すことができなかった愛情表現だった.
私は, 彼の「恩返し」という言葉を信じようとした.
きっと, 彼は後でちゃんと私に説明してくれる.
そう自分に言い聞かせていた.
だが, 彼と友美子が, 私の知らないところで密かに子供をもうけていたことを知った時, 私の心は完全に折れた.
もう, この関係を続ける意味はない.
「ごめんね, 光子. 詳しいことは, まだ話せない」
私はそう言って, 電話を切った.
私の大切な友人に, 晴翔の裏切りを全て話すことはできなかった.
彼女を悲しませたくなかったし, 私自身の醜い感情を, 誰にも見られたくなかったからだ.
その夜, 私は光子と居酒屋で飲み明かした.
他愛ない話をして, 笑って, 泣いた.
光子は何も聞かず, ただ私の隣にいてくれた.
閉店近くになり, 私はふらふらと家に帰った.
玄関のドアを開けると, リビングの明かりがついていた.
晴翔が, ソファに座ってスマートフォンをいじっていた.
私が家に入ると, 彼はすぐに顔を上げた.
「どこに行ってたんだ? 酒臭いぞ」
彼の声には, 僅かな苛立ちが混じっていた.
その言葉を聞いた瞬間, 私の心の中で何かが弾けた.
私のために, 心配する言葉ではない. ただ, 彼の不快感を露わにしているだけだ.
彼の顔には, 私が帰ってこなかったことへの心配よりも, 彼が友美子の元を離れて家にいなければならなかったことへの不満が滲んでいた.
私は何も言わず, バスルームへと向かった.
シャワーを浴びて, パジャマに着替える.
リビングに戻ると, 晴翔はまだソファに座って, 画面を眺めていた.
「莉結, 少し話があるんだ」
彼の声が, 静かなリビングに響いた.
その言葉を聞いた瞬間, 私の心臓がギュッと締め付けられた.
以前, 彼と「話し合い」をした時に感じた, あの絶望感を思い出す.
また, 彼の自己中心的な理屈を聞かされるのだろうか.