話 1
婚約者の晴翔は, 私との結婚式を「ただのパーティー」に格下げすると一方的に告げた. 会社の恩人の娘が末期がんで余命一年だから, 彼女と偽装結婚するのだと.
しかし, その裏で彼はとっくに彼女を妊娠させていた. 私が彼の「恩返し」という言葉を信じようと苦しんでいる間, 二人は密かにお腹の子の父親と母親になる喜びを分かち合っていたのだ.
「君は残酷だ. 病気の人の気持ちを少しも理解してくれないのか? 」
彼は私を一方的に責め, 彼女の元へ駆けつける. 私への愛情など, とうの昔に消え失せていた.
なぜ, 私たちの未来はこんなにもあっけなく壊されてしまったのだろう?
全てを失った私は, 彼との結婚式の日に海外へ旅立つことを決意した. これは, 私の新しい人生の始まり. そして, 彼への訣別の儀式なのだ.
第1章
塚田莉結 POV:
石田晴翔は, 私との結婚を「ただのパーティー」に格下げした. それは, 彼の会社の恩人の娘, 桐山友美子が末期がんで余命一年だという理由で, 彼が彼女と偽装結婚すると一方的に告げた日から, 私を襲った悪夢の始まりだった.
「莉結, 僕を信じてくれ. これは, 会社のためなんだ. 友美子さんの会社を守るため, 恩返しなんだ」
晴翔は, 私に何度も何度もそう説明した. その言葉は, 私の耳には届かなかった. 彼の理屈を繰り返すたびに, 私の心は少しずつ冷えていった.
「恩返し, 恩返しって... . 晴翔, そんな言葉で, 私たちが築き上げてきた全てが台無しになるのよ」
私の声は震えていた.
「わかっている. でも, これしか方法がないんだ. 友美子さんの最後の願いなんだ」
彼の言葉は, まるで録音されたテープのように, いつも同じだった.
私は最初, 彼の提案を断固として拒否した.
「そんな偽りの結婚, 認められない. 私たちの結婚式はどうなるの? 」
私は彼の目を見て, 必死に訴えた. だが, 彼の瞳に映るのは, 私への罪悪感と, 友美子への義務感だけだった.
数日後, 彼は態度を変え, 私に懇願するようになった.
「莉結, 頼む. この結婚は形式的なものだ. 君との結婚は, ちゃんと行う. ただ, 友美子さんとの入籍を先に済ませるだけだ」
彼の言葉は, 私を追い詰めた. 疲弊した私は, いつしか反論する気力も失っていた.
「君は残酷だ. 病気の友美子さんの気持ちを, 少しも理解してくれないのか? 」
友美子から直接そう言われた時, 私の全身の血液が凍り付くようだった.
一体, 誰が誰に残酷だと言うのだろう?
私の心の中では, 激しい反論が渦巻いた. 私が, 晴翔と築き上げてきた未来を, 病気を盾に奪おうとしているあなたの方が, よほど残酷ではないか, と.
だが, 私は何も言えなかった. 疲れ果てていたのだ. この先の人生で, こんなにも言い争うことになるなんて, 想像もしていなかった.
「... もう, いい」
私はそう呟くと, 力なくソファに沈み込んだ.
夜, 親友の笹原光子に電話をかけた.
「ねえ, 光子. 晴翔が, 私との結婚を『ただのパーティー』だなんて言い出したの」
私の声は, 震えどころか, ほとんど息のようなかすれ声だった.
光子はすぐに電話口で息を飲んだ. 一瞬の沈黙の後, 光子の怒りに満ちた声が響き渡った.
「は? 何それ? ふざけてんの? 晴翔くん, 頭おかしいんじゃないの? 」
光子の激しい反応は, 私の心の奥底にまだ残っていた僅かな希望を揺さぶった.
「彼は, 『会社の恩返しのためだ』って. 友美子さんが末期がんで, 彼女の会社を守る最後の願いだって言うの」
彼の言葉を繰り返すたびに, 私自身が彼を正当化しているように聞こえて, 胃の底が冷たくなった.
「恩返し? それが, あんたとの婚約を一方的に破棄して, 別の女と偽装結婚する理由になるわけ? 莉結, あんた, それで納得してるの? 」
光子の声は, 私を責めているのではなく, 私のために怒ってくれているのだとわかった.
「彼曰く, これは『偽装結婚』だから, 私たちには何の影響もないって」
私は晴翔の言葉をそのまま引用した. 彼の言葉の無害性を強調することで, 自分を守ろうとしていたのかもしれない.
「馬鹿にするのもいい加減にして! 偽装だろうが何だろうが, 結婚は結婚よ! あんたの気持ちを何だと思ってるの? ! 」
光子は感情的に叫んだ.
「莉結, 晴翔くんは本当にあんたを愛しているの? 愛しているなら, そんなことできるはずないじゃない! 」
光子の言葉は, 私の心を深く抉った. 彼の行動が, 私の長年の愛への裏切りだと, 誰よりも私が知っていた.
彼の「愛している」という言葉が, まるで偽りの鎖のように私を縛り付けていることに, この時, 私は気づいた.
晴翔はすでに, 彼の心の中で決定を下していた. 私の意見や感情は, 彼の計画の中では取るに足らないものだったのだ. 私は, 彼にとって, ただの付録だった.
その時, 晴翔の携帯が鳴り響いた. 彼は慌てて通話ボタンを押す.
「うん, すぐに行く. 大丈夫だ」
受話器から漏れる声は, 焦りと, 同時に深い安堵に満ちていた.
彼は私にろくに説明もせず, スマートフォンを片手に家を飛び出していった.
「友美子さんのところに行く」
彼の背中を見送りながら, 私は苦笑いを浮かべた.
彼の, あの切羽詰まった声. あの優しい表情. 私には, もう向けられることのない表情だった.
過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った.
私と晴翔は幼馴染で, 成長するにつれて自然と惹かれ合った. 私は彼の隣にいることが, まるで空気のように当たり前だった.
ある日, 私が彼の仕事に協力しようと, 夜遅くまで資料をまとめていた時があった.
「莉結, 君は僕を信頼していないのか? 」
私が彼に渡した資料に, 何点か疑問点を挙げただけで, 彼は不機嫌な顔をした.
「君はいつもそうだ. 僕のやること全てに口を出す」
まるで私が彼を責めているかのような言い方だった.
私はただ, 彼のために最善を尽くしたいだけだったのに.
私はいつも, 彼の言葉を自分の中で言い聞かせていた.
「晴翔は, 本当に努力家だから. 完璧主義だから, 自分にも人にも厳しいんだ」
そうやって, 彼の冷たい態度や, 時に見せる不信感を, 私は自分の中で納得させていた.
きっと, 結婚すれば変わる. そう信じて疑わなかった.
だが, 現実は違った. 彼は何も変わっていなかった.
晴翔は, 私を置き去りにして, 急ぎ足で玄関を出て行った.
彼の足取りは, 友美子の元へ向かう喜びで弾んでいるように見えた.
取り残されたリビングには, 静寂だけが広がっていた.
この静けさが, 私の心に深く沈み込んでいく.
晴翔が, 友美子の元へ急いだ理由.
まさか, そんな, と頭を振ったが, 悪寒が走った.
胸騒ぎを覚えながら, 私はスマートフォンを手に取った.
光子からのメッセージ.
「莉結, 大変なことになってるよ. あんた, これ, 見てないの? 」
添付された写真を開く.
そこに写っていたのは, 友美子の膨らんだお腹. そして, 添えられた一通の紙.
それは, まぎれもなく妊娠診断書だった.
話 2
塚田莉結 POV:
妊娠診断書.
それは, 友美子の名前と, 晴翔の名前が連名で書かれていた.
心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたように激しく脈打つ.
私は震える指で, 診断書の日付と妊娠週数を確認した.
三ヶ月.
私が晴翔に偽装結婚を告げられた, あの衝撃的な日の, さらに二週間前の日付だった.
友美子が妊娠したことを, 晴翔はとっくの昔に知っていた.
知っていて, 私に「偽装結婚」を持ちかけ, 私との結婚式を「ただのパーティー」に格下げしようとしたのだ.
そう思うと, 全身の血が逆流するような感覚に襲われた.
どうして? なぜ?
私の頭の中は, 疑問と怒りでいっぱいに膨れ上がった.
私はその場で意識を失いそうになった.
足元がぐらつき, 立っていることすらできなくなる.
まるで, 私の世界が音を立てて崩れ落ちていくようだった.
晴翔が最近見せていた, あの優しい表情. あの焦った声.
それらは全て, 友美子とそのお腹の子に向けられたものだったのだ.
私が, 彼らの「偽装結婚」を受け入れるかどうか, 苦しんでいる間も, 彼らはひそかに, この「喜ばしい」事実を分かち合っていたのだろう.
私が必死に準備を進めていた結婚式.
あの幸せな誓いを立てる日.
それは, 私にとって, 人生で最も輝かしい瞬間になるはずだった.
それが, 晴翔の口から「ただのパーティー」と形容された日から, 私はもう, その日を心待ちにすることはできなかった.
そして今, その「パーティー」すら, 意味をなさなくなっていた.
全てが終わったのだ. 私の希望は, 粉々に砕け散った.
その時, 私の携帯が鳴った. 振動音が, 耳元で雷のように響く.
電話に出てみると, それは大学時代の恩師, 田中教授からだった.
「塚田くん, 元気かい? 実は, 君に話があるんだ. 海外の研究プロジェクトで, どうしても君の力が必要なんだが, どうだろう? 」
田中教授の声は, いつもと変わらず穏やかだった.
私はその提案に, 一瞬, 戸惑いを覚えた.
「教授, 私, 以前にもお話した通り, 結婚の準備がありますので…」
私は反射的にそう答えた.
教授は少し間を置いてから, 優しい声で続けた.
「うん, それは聞いている. だが, 今回のプロジェクトは, 以前君が強く関心を示していた分野だ. しかも, 君がトップに立つ. これは, 君にとってまたとないチャンスだと思うのだが」
教授の言葉は, 私の心に一筋の光を差し込んだ.
晴翔は, もうすぐ, いや, もうすでに, 友美子の子供の父親になる.
私と彼の関係は, 完全に終わったのだ.
私はもう, 彼のために何かを犠牲にする必要はない.
「教授, お引き受けします. 喜んで参加させてください」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
「本当かい? ! それは嬉しいね! ただし, 条件がある. 研究に集中するため, 私生活は一切持ち込まないこと. プロジェクト期間中は, 完全に研究に没頭してほしい」
教授の言葉に, 私は迷わず答えた.
「はい, 承知いたしました. 私生活の整理は, きちんとつけてから渡航します」
私には, もう失うものは何もなかった.
私生活など, とうに壊れ果てていた.
教授は少し驚いた様子だったが, すぐに喜びに満ちた声で言った.
「そうか! それは頼もしい! では, すぐに手続きを進めよう. 出発は, 君の都合に合わせて調整しよう」
「出発は, 私の結婚式の日にしてください」
私の口から出た言葉は, 自分でも驚くほど冷徹だった.
電話を切ると, 私は壁掛けカレンダーの, 未来の結婚式の日に大きく赤い丸をつけた.
そして, その横に力強く書き込んだ.
「新しい, 私の人生の始まりの日」
私の結婚式の日. それは, 私にとって, 晴翔との関係を完全に断ち切り, 新たな人生を歩み出すための「訣別の日」となるだろう.
そして, これからの数年間, 私はこの男と二度と会うことはないだろう.
話 3
塚田莉結 POV:
晴翔は, 結局その夜, 帰ってこなかった.
朝になっても彼の姿はなく, リビングには冷え切った空気が漂っていた.
私はスマートフォンを手に取り, 彼のSNSをチェックした.
そこには, 友美子と晴翔が親密そうに並んで写る写真がアップされていた.
友美子の顔は, 病で痩せこけているはずなのに, 晴翔の隣では, まるで輝くように幸せそうだった.
彼らは友美子の実家で, 彼女の両親と共に食卓を囲んでいた.
晴翔は, 友美子の父親と楽しそうに談笑し, 母親の料理を絶賛していた.
その光景は, あまりにも自然で, 私には見慣れない彼の姿だった.
晴翔は, 私の両親にはいつもどこかよそよそしく, 形式的な態度しか取らなかった.
「お父様, お母様, いつもお世話になっております」
そう言って, 深々と頭を下げる彼の姿は, まるで営業先での取引先の人間に対するかのように, どこか他人行儀だった.
私の家族に対する彼の態度は, いつもそうだった.
私は, 胸の奥で渦巻く痛みを必死に押し殺した.
この痛みは, もう私の身体の一部になってしまったかのようだ.
私はすぐに光子に電話をかけた.
「ねえ, 光子. 結婚式, キャンセルするわ」
光子は電話口で, 絶句した.
「え? 莉結? どうしたの突然? 何かあったの? 」
彼女の驚きは当然だった.
晴翔は, 私との結婚式の準備にも, あまり乗り気ではなかった.
「莉結に任せるよ. 君の好きにしていい」
彼はいつもそう言って, 私に全てを押し付けた.
私は, 彼が喜んでくれることを想像しながら, 夜遅くまでプランナーと打ち合わせを重ね, ドレスを選び, 料理を決めてきた.
私の頭の中には, 晴翔と笑顔でバージンロードを歩く, 完璧な結婚式のイメージが鮮明にあった.
「あの晴翔くんが, あんたとの結婚を『ただのパーティー』だなんて言うくらいだから, よっぽど酷いことになったんでしょ? でも, 本当にいいの? 一生に一度のことだよ? 」
光子は心配そうに尋ねた.
「いいの. もう, 何もかも, どうでもよくなった」
私がそう答えると, 光子は沈黙した.
私の心は, 途方もない苦しみに満ちていたが, 同時に, どこか諦めにも似た安堵を感じていた.
私は, ずっと信じていたのだ.
晴翔は, きっと私のことを愛している.
今はまだ, 彼の中で何かが邪魔をしているだけだ.
時間が経てば, きっと彼は変わってくれる.
そう思っていた.
だが, 友美子の出現と, そのお腹の中の命は, 私の幻想を打ち砕いた.
晴翔が友美子に向ける, あの優しい眼差し.
それは, 私がどんなに努力しても, 彼から引き出すことができなかった愛情表現だった.
私は, 彼の「恩返し」という言葉を信じようとした.
きっと, 彼は後でちゃんと私に説明してくれる.
そう自分に言い聞かせていた.
だが, 彼と友美子が, 私の知らないところで密かに子供をもうけていたことを知った時, 私の心は完全に折れた.
もう, この関係を続ける意味はない.
「ごめんね, 光子. 詳しいことは, まだ話せない」
私はそう言って, 電話を切った.
私の大切な友人に, 晴翔の裏切りを全て話すことはできなかった.
彼女を悲しませたくなかったし, 私自身の醜い感情を, 誰にも見られたくなかったからだ.
その夜, 私は光子と居酒屋で飲み明かした.
他愛ない話をして, 笑って, 泣いた.
光子は何も聞かず, ただ私の隣にいてくれた.
閉店近くになり, 私はふらふらと家に帰った.
玄関のドアを開けると, リビングの明かりがついていた.
晴翔が, ソファに座ってスマートフォンをいじっていた.
私が家に入ると, 彼はすぐに顔を上げた.
「どこに行ってたんだ? 酒臭いぞ」
彼の声には, 僅かな苛立ちが混じっていた.
その言葉を聞いた瞬間, 私の心の中で何かが弾けた.
私のために, 心配する言葉ではない. ただ, 彼の不快感を露わにしているだけだ.
彼の顔には, 私が帰ってこなかったことへの心配よりも, 彼が友美子の元を離れて家にいなければならなかったことへの不満が滲んでいた.
私は何も言わず, バスルームへと向かった.
シャワーを浴びて, パジャマに着替える.
リビングに戻ると, 晴翔はまだソファに座って, 画面を眺めていた.
「莉結, 少し話があるんだ」
彼の声が, 静かなリビングに響いた.
その言葉を聞いた瞬間, 私の心臓がギュッと締め付けられた.
以前, 彼と「話し合い」をした時に感じた, あの絶望感を思い出す.
また, 彼の自己中心的な理屈を聞かされるのだろうか.