話 3
奈津穂 (ナツホ) POV:
朝, 目が覚めると, 全身が鉛のように重く, 頭の中は真っ白だった. 昨夜の悪夢のような出来事が, 鮮明に脳裏に焼き付いていた.
「奈津穂, 起きてるかい? 」
浩二の声が聞こえ, ドアが開いた. 彼はいつものように, 私の頬に触れようとした. 私は反射的に顔を背けた. 彼の指先が私の肌に触れる寸前で, 空を切った.
彼の顔に, 微かな戸惑いの色が浮かんだ. 私は, 彼を見つめる自分の表情が, どれほど冷たく, 嫌悪に満ちているかを知っていた. 私の身体は, 彼の接触を, まるで毒のように拒絶していた.
「…どうしたんだい? 身体の調子が悪いのかい? 」
浩二は私の顔を覗き込み, 心配そうに眉を寄せた. 彼は私の拒絶を, 私の体調不良のせいだと誤解しているようだった. 私は何も言わず, ただ彼を見つめた.
「腕, まだ痛むのかい? 」
浩二は私の右腕に目をやった. 彼は, 私が怪我をしていることを, 今ようやく思い出したかのように見えた.
「着替えよう. 病院へ連れて行ってあげる」
浩二はそう言って, 私の服を差し出した. 私は, 彼の差し出す服から, 僅かに香水の匂いがすることに気づいた. それは, 小夜子の香水の匂いだった. 私の胃の底から, 再び吐き気が込み上げてきた.
「…どこへ行くの? 」
私は絞り出すような声で尋ねた.
「病院だよ. 君が勝手に怪我したせいで, 僕まで心配なんだから」
浩二の声には, 僅かな苛立ちが混じっていた. 私は何も言わず, ただ黙って彼の後を追った. 私の心は, まるで感情を失ったかのように麻痺していた.
病院の待合室に座っていると, 突然, 見知らぬ女性の声が聞こえた.
「浩二さん! 」
その声に, 浩二はハッと顔を上げた. そこに立っていたのは, 小夜子だった. 彼女は顔色が悪く, 額に汗を浮かべていた.
「小夜子! どうしたんだい? 」
浩二は私の隣に座っていたにもかかわらず, 私を一瞥することもなく, すぐに小夜子の元へ駆け寄った. 私はその瞬間, 心臓を鷲掴みにされたような痛みに襲われた.
浩二が小夜子の元へ駆け寄った瞬間, 私の身体はよろめいた. 右腕の痛みに耐えきれず, 私は再び床に倒れ込んだ. 折れた腕が, 再び激しく床に打ち付けられた. 激痛が全身を駆け巡ったが, 浩二は私に気づきもしなかった.
「大丈夫かい? 小夜子」
浩二は小夜子を抱きしめ, 真剣な表情で彼女の顔を覗き込んでいた. 小夜子は浩二の腕の中で, 私のことを挑発するかのように, わずかに口元を歪めていた. その視線が, 私の心を深く抉った.
私は, 小夜子が着ている服が, 私と同じデザインであることに気づいた. 浩二が私に買ってくれた, お気に入りの服だったはずなのに. 私の心は, 羞恥と怒りに震えた. 私は, 彼にとって, 小夜子の代用品でしかなかったのだ.
「奈津穂さん, どうしたんですか? こんなところで」
小夜子は浩二の腕の中で, 私に尋ねた. その声は, まるで私を心配しているかのように聞こえたが, その瞳には冷たい嘲笑が宿っていた.
「ああ, 彼女はちょっと…」
浩二は私のことを見ることなく, 目を泳がせながら, 言葉を濁した. 彼は, 私が怪我をしていることを, 小夜子に隠そうとしているようだった.
「…そう, 大丈夫ですか? 」
小夜子はそう言いながら, 私をじっと見つめていた. 私は, 浩二がまた嘘をついていることに, 何の驚きも感じなかった. 彼はいつもそうだ. 自分の都合の悪いことは, すぐに隠蔽しようとする.
私は, 浩二が過去にも私にどれだけの嘘をついてきたかを思い出した. 私たちの関係は, 彼の嘘で築かれていたのだ.
「小夜子, 大丈夫かい? 少し横になろう」
浩二は小夜子を抱き上げ, 私を待合室に置き去りにして, 別の部屋へと向かっていった. 私の心は, 絶望の淵に沈んでいった. 彼は, 私を完全に無視した.
私は, 床に倒れたまま, 自分の右腕から血が滲み出ていることに気づいた. 包帯の下から, 赤黒い血がゆっくりと広がり, 白い床に小さな染みを作っていた. 骨の髄まで響くような激痛が, 私の全身を襲った.
浩二の背中は, 小夜子を心配する気持ちで満ち溢れているように見えた. 彼は, もう私を愛していない. その事実が, 私の心の中で確信に変わった.
「そこの患者さん, 大丈夫ですか? ! 」
突然, 看護師の声が聞こえた. 彼女は私の元に駆け寄り, 私の腕を見て顔色を変えた.
「すぐに処置します! 一体どうされたんですか! 」
看護師は私を救急室へと運び込み, 迅速な処置をしてくれた. 私の体は冷たい汗でびっしょりだった.
「ご主人は? なぜこんな重傷の患者さんを一人にしているんですか! 」
看護師の声が, 私の耳に鋭く響いた.
処置が終わると, 看護師は私に「ご主人が迎えに来るまで, ここで休んでいてください」と言った. 私は, 反射的に浩二に連絡しようと携帯を手に取った. しかし, 指先が震え, 番号を押すことができなかった.