話 2
大森心穂 POV:
「どうしたの? 急に気が変わったの? 」
母の声が, 電話越しに心配そうに響く.
私が雅さんとの縁談を受けると伝えた時, 母は驚きを隠せずにいた.
私は, 礼司さんの私室で聞いた会話の内容を, 母には話せなかった.
話せば, 母はきっと悲しみ, そして怒るだろう.
私はただ, 「北都での生活に少し疲れたの」とだけ答えた.
「大丈夫よ, 心穂. どんな時でも, あなたの居場所はここにあるから. 」
母の優しい言葉が, 私の心に深く染み渡った.
「雅さんも, きっと喜んでくれるわ. 」
母は, 私の体調を気遣いつつ, 雅さんが私の良き理解者になってくれるだろうと繰り返した.
私は曖掻く言葉を濁し, もうすぐ帰ると伝えた.
電話を終え, 私は深く息を吐いた.
まだ少し震える体を叱咤し, 私は隠れていた場所からゆっくりと顔を出した.
礼司さんの部屋からは, もう何の音も聞こえない.
もう大丈夫だろう.
そう思った矢先, 廊下の角から, 加藤さんが現れた.
私の心臓が, 再び嫌な音を立てる.
「大森さん, こんなところでどうしたんですか? 礼司様がお探しですよ. 」
加藤さんの声は, いつも通りの丁寧なものだったが, 私の耳には, 彼のあの嘲笑が蘇る.
私は何も答えず, ただ, 加藤さんの横を通り過ぎた.
礼司さんの部屋へと, 真っ直ぐに向かう.
ドアを開けると, 礼司さんがソファーに座っていた.
「心穂, どこに行っていたんだい? 心配したじゃないか. 」
礼司さんは, 私を見ると, 安堵したように微笑んだ.
その笑顔は, かつて私の心を捕らえた, あの甘い笑顔.
部屋の中には, あの嘲笑していた秘書たちもいた.
彼らは私に会釈をする.
もし, あの会話を聞いていなければ, 私はきっと, 今も彼の優しい笑顔に騙され, 彼の言葉を信じ込んでいたのだろう.
私の心は, 冷え切っていた.
「済まない. 少し気分が悪くて, 外の空気を吸っていたんだ. 」
私は, 努めて平静を装って答えた.
「そうか. 無理をさせてしまったね. 」
礼司さんは, そう言って私の手を掴もうとした.
私は, 咄嗟にその手を避ける.
「膝, どうしたんだい? 血が出ているじゃないか! 」
礼司さんの声に, 驚きと焦りが混じった.
彼は, 私の膝の傷を見て, 目を見開いた.
「何があったんだい? すぐに医者を呼べ! 」
彼は秘書たちに指示を出すと, 私をソファに座らせ, 自ら膝の傷を心配そうに覗き込んだ.
「これでは, 僕の『危機管理能力』が問われてしまう. 君が怪我をしてしまっては, 意味がないだろう. 」
彼の指先が, 傷口に触れる.
その瞳は, まるで本当に心配しているかのようだった.
だが, 私の心は, 冷めきっていた.
偽りの優しさ.
偽りの心配.
すべてが, 彼にとっての「危機管理能力」の一環なのだ.
「誰かと電話していたようだが, 何かあったのかい? 」
礼司さんの声が, 突然, 私の耳元で囁かれた.
私は, 一瞬, 息を止める.
私のスマホの着信音も, 彼の私室にいた秘書たちの耳には届いていたのだろう.
「ええ, 実家からです. 」
私は, 冷静を装って答えた.
「母が, 私の縁談について, 少し焦っているようで. 」
私の言葉に, 部屋の中の空気が, 一瞬にして凝固した.
秘書たちが, 互いに顔を見合わせる.
礼司さんの顔から, 表情が消えた.
「縁談? 僕たちの関係を, まさか…」
彼は, 私を睨みつけるように見つめた.
「以前から決まっていたことですから. 母も, 私がもう良い歳だと心配しているようです. 」
私の言葉に, 礼司さんは眉をひそめた.
「君のことは, 僕がきちんと話して, 納得させるから. 僕たちの未来は, 僕が守る. 」
彼の言葉は, いつものように力強かったが, 私の心には響かなかった.
彼が私を家族に紹介しない本当の理由.
それは, 私が彼の本命の婚約者ではないからだ.
私が彼の「ショー」の一部であり, 利用されているだけの身代わりだからだ.
私の存在が, もし世間に知れたら, 彼の政治家としての未来は, あっという間に崩れ去るだろう.
そして, 彼の「危機管理能力」も.
彼は, 決して私を, 彼の未来の中に描いてなどいなかった.
彼は, いつも私を, 彼の「実績ポートフォリオ」の中にしか見ていなかった.
医者が来て, 私の膝を診察した.
「念のため, 入院して経過観察しましょう. 」
医者の言葉に, 礼司さんは強く頷いた.
「もちろん. 彼女は僕にとって, 大切な人間だから. 」
礼司さんは, そう言って, 私の手を握った.
「病院のベッドが空いていない? 僕の部屋を使えばいい. 僕が彼女のそばにいるから. 」
彼は, そう言って, 私を連れて病院の個室へと向かった.
私は, 黙って彼の指示に従った.
彼の計画は, まだ終わっていない.
私は, 彼の「最終章」に付き合うわけにはいかない.
夜が更け, 礼司さんが隣のソファで眠りについた.
その寝息が, 静かに部屋に響く.
私は, ゆっくりと体を起こした.
膝の痛みは, まだ引かない.
だが, 私の心に宿った決意は, どんな痛みよりも強かった.
私は, そっと礼司さんの携帯電話を手に取った.
パスワードは, 彼の誕生日.
三年間のつき合いで, 私は彼のすべてを知っているつもりだった.
着信履歴の一番上.
「琴栄」という名前.
その下に, ハートの絵文字が添えられていた.
私の指先が, 震える.
だが, その震えは, もう悲しみから来るものではなかった.
憎しみと, そして, 冷たい決意.
彼の携帯電話の中には, 隠しフォルダがあった.
そのタイトルは, 『実績ポートフォリオ: ミホ』.
そこに収められていたのは, 私が身代わりとして苦しんだ, すべての「スキャンダル」の映像だった.
私が転倒し, 罵声を浴びる姿.
涙を流し, 世間の非難に耐える姿.
私が流した血と涙は, すべて彼の「実績」として, 丁寧に記録されていたのだ.
三年間の私の献身.
それは, 彼にとって, たった一つの言葉で片付けられるものだった.
「実績」.
話 3
大森心穂 POV:
翌日, 私が退院する日, 礼司さんは盛大なサプライズを用意していた.
「心穂, 退院おめでとう! 君が元気になってくれて, 本当に嬉しいよ. 」
彼は, 満面の笑みで私を迎えた.
大きな花束, 豪華なプレゼント, そして, 私を祝うためのパーティー.
いつものことだった.
私が何か苦しい思いをする度に, 礼司さんはこうして, 高価なプレゼントや甘い言葉で, 私を繋ぎ止めてきたのだ.
だが, 私の心は, もう何も感じなかった.
空虚.
それだけが, 私の心を占めていた.
「礼司さん, ごめんなさい. 今日は, 少し個人的な用事があって…」
私は, 努めて平静を装って言った.
「パーティーには, 参加できません. 」
礼司さんの笑顔が, 一瞬にして凍りつく.
「どうしたんだい, 心穂? 何かあったのか? 最近, 君は少し変だよ. 」
彼の言葉には, 心配の色が滲んでいた.
だが, その心配の裏に, 私への支配欲が隠されていることを, 私は知っていた.
私は, 彼の手を避けるように, 一歩後ずさりした.
「いいえ, 何も. ただ, 少し, 一人になりたいだけです. 」
その時, ドアが開いた.
「礼司様! 」
甘く, 可愛らしい声が響いた.
朝倉琴栄.
彼女の姿が, そこに立っていた.
私と, 瓜二つの容姿.
彼女は, 私を見ると, にこやかに微笑んだ.
「大森さん, 退院おめでとうございます. 礼司様から, あなたのお話は聞いていましたわ. 」
琴栄の瞳は, 私を値踏みするように見つめている.
私は, 体が硬直するのを感じた.
彼女は, あの「ショー」のすべての真相を知っているのだろうか.
私が, 彼女の身代わりを務めていたことを.
もし, 知っていたとしたら, 彼女は私に何を求めているのだろう.
礼司さんは, 琴栄を見ると, 私のことなど忘れたかのように, 彼女に駆け寄った.
「琴栄! どうしてここに? まだ外は冷えるから, 風邪を引いてしまうよ. 」
礼司さんは, 琴栄を抱き寄せ, 私の腕を掴んだ.
「心穂も, 早く車に乗って. パーティー会場へ行こう. 」
彼の腕が, 私を強引に車へと押し込んだ.
車の中, 私はまるで余計な荷物のように感じた.
礼司さんは, 琴栄と楽しそうに話している.
「今回のパーティーは, 琴栄の好きなテイストで飾り付けたんだ. 気に入ってくれるといいな. 」
琴栄は, 嬉しそうに礼司さんの腕に体を寄せた.
「まあ, 礼司様, 本当に嬉しいわ. 私, ずっとこの日が来ることを夢見ていましたの. 」
二人の会話から, 今日のパーティーが琴栄の誕生日を祝うものだと知った.
パーティー会場は, 豪華絢爛だった.
琴栄の好きな花が飾られ, 彼女の好きな音楽が流れている.
礼司さんの秘書たちが, 私に会釈をする.
彼らは, 口々に琴栄の誕生日を祝い, 礼司さんをからかっていた.
「礼司様, 琴栄様のために, ずいぶん奮発されましたね! 」
「これで, 琴栄様も大満足でしょう! 」
その時, 彼らは私に気づいた.
彼らの顔から, 笑顔が消える.
気まずい沈黙が, 会場に漂った.
琴栄は, そんな空気を感じ取ると, にこやかに私の手を引いた.
「大森さんも, さあ, こちらへ. 皆さん, 私と礼司様をからかうのがお好きなのよ. 」
彼女は, そう言って, 私を座席へと促した.
私は, にこやかに微笑んだまま, 席に座った.
「お気遣い, ありがとうございます. 」
私の心の中では, 嘲笑が渦巻いていた.
彼らにとって, 私はただの「身代わり」.
私が, この場にいることすら, 彼らにとっては迷惑なのだろう.
「大森さん, 礼司様のために, ずいぶんご苦労されたそうですね. 」
琴栄の声が, 突然, 私の耳元で囁かれた.
「礼司様から, 色々伺いましたわ. 大森さんが, あんなに大変な思いをして, 礼司様を守ってくださったなんて. 」
彼女の言葉には, 感嘆と, そして, どこか冷たい響きが含まれていた.
「私も, 礼司様のために, あんな風に尽くせたら, どんなに幸せかしら. 」
琴栄は, そう言って, わざとらしくため息をついた.
礼司さんは, 満足そうに頷いた.
「心穂には, 本当に感謝しているんだ. あの時, 君が身を挺してくれなかったら, 僕のキャリアは危なかった. 」
彼は, そう言って, 当時のスキャンダルの一部始終を話し始めた.
私の苦しみは, 彼にとっては, ただの「実績」に過ぎない.
琴栄は, 目を輝かせた.
「まあ, 大森さん, 本当に素晴らしいわ! 私も, あんな素敵な時計が欲しいですわ. 礼司様からいただいた, あの時計よ. 」
彼女の言葉に, 私は顔色を変えた.
それは, 私が彼のために, 危険な任務を遂行した時, 彼が「記念だ」と言って私に贈った, 唯一の贈り物だった.
礼司さんは, あっさりと頷いた.
「ああ, あの時計かい? 琴栄が気に入るなら, 僕が持っているものをあげよう. いや, それ以上のものを. 」
礼司さんは, すぐに秘書に指示を出した.
秘書は, 慌てて部屋を出て行った.
そして, 数分後, 秘書が持ってきたのは, あの時計よりもずっと高価な, 最新モデルの時計だった.
礼司さんは, その時計を琴栄の腕に嵌めてやった.
「どうだい? 琴栄に似合っているよ. 」
琴栄は, 嬉しそうに礼司さんに抱きついた.
私の心臓が, 冷たく凍りつく.
その時, 礼司さんの秘書が, 彼の耳元で何かを囁いた.
礼司さんの顔色が, 一瞬にして変わる.
彼は, 眉をひそめ, 何かを考えるように腕を組んだ.
そして, 小さく頷いた.
「心穂, 少し付き合ってくれないか. 」
礼司さんは, 私の手を掴んだ.
その手は, 冷たかった.
私は, 彼の言葉に, 何も答えることができなかった.