話 1
政治家一族の御曹司, 市田礼司さんのためなら, どんなことでもしました. 彼の輝かしい未来のため, 私は喜んで泥を被ったのです.
しかし, 偶然聞いてしまった会話で, 私は彼の本命の婚約者を守るための, ただの「身代わり」に過ぎないと知ってしまいました.
私の3年間の献身は, 彼のキャリアのための「全10回の自作自演ショー」の一部.
私の苦しみは, 彼の「実績ポートフォリオ」の一ページでしかありませんでした.
彼は私を「利用価値があっただけ」と冷たく言い放ち, 最後の仕上げに私を「事故」に巻き込む計画まで立てていたのです.
私が信じ, 尽くしてきたすべてが, 偽りだったなんて.
絶望の淵で, 私は彼から逃れることを決意し, 幼馴染との縁談を受け入れました. これは, 偽りの愛にすべてを捧げた女が, 本当の幸せを掴むまでの復讐の物語.
第1章
大森心穂 POV:
「礼司さんのためなら, どんなことでもします. 」
私の言葉は, あの密室に吸い込まれていった.
彼の輝かしい未来のため, 私は自ら泥を被ることを選んだのだ.
彼の命令だった.
あの有名な政治家一族の御曹司, 市田礼司.
彼が「これは僕のキャリアに必要なんだ」と囁けば, 私は盲目的に信じ, 従った.
世間からの激しい非難, 誹謗中傷の嵐.
それらすべてを, 私は喜んで受け入れた.
彼が「大丈夫. 君は僕の唯一だ」と, たった一度だけ言ってくれたから.
激しい罵声が飛ぶ中, 私は転倒した.
左膝を強く打ち付け, 冷たいコンクリートに血が滲む.
痛みはひどかった.
でも, それよりも, 礼司さんの笑顔を思い浮かべた.
彼の成功のためなら, この程度の傷なんて.
私は顔を上げて, 真っ直ぐにカメラのフラッシュを見つめた.
事務所の裏口から抜け出そうとした時だった.
いつもは閉まっているはずの, 礼司さんの私室のドアが, ほんの少しだけ開いていた.
中から, 聞き慣れない話し声が漏れてくる.
私の心臓が, 嫌な音を立てた.
嫌な予感がした.
なぜなら, 礼司さんは決して, 私室のドアを開け放しておくような人ではなかったから.
「いやはや, 大森心穂もよくやるよな. あそこまで尽くすなんて, 本当に馬鹿としか言いようがない. 」
男の声が, 嘲笑を含んで響いた.
それは, 礼司さんの秘書, 加藤さんの声だった.
私は息を飲んだ.
体が, 硬直した.
壁に背を押し付け, 身を潜める.
「ああ, でも, 今回の映像は最高傑作じゃないですか? あの必死な顔. 礼司様の危機管理能力をアピールするには, あの純粋さが一番効く. 」
次に聞こえてきたのは, 別の男の声.
これも, 秘書の一人のようだった.
「ああ, なかなかだね. 」
冷たい声が響いた.
礼司さんだ.
私の体が, びくりと震えた.
「琴栄の汚れ仕事を肩代わりさせるには, 十分すぎるパフォーマンスだよ. 」
琴栄?
その名前が, 私の頭の中で警鐘のように鳴り響いた.
膝の傷が, 突然熱を持ったようにジンジンと痛み出した.
まるで, 体中の血が凍りついたみたいだった.
震える指先で, 私はドアの隙間をもう少し広げた.
薄暗い部屋の中.
大きなモニターに映し出されていたのは, まさしく私だった.
先ほど, 私が転倒した瞬間の映像.
礼司さんが, それを冷たい視線で見つめている.
私の必死な表情が, 画面いっぱいに映し出されていた.
「これで10回のうち, 9回目ですね. 次の最終章で, 礼司様は名実ともに, あの市田家の後継者として盤石の地位を築かれるでしょう. 」
加藤さんの声が, どこか興奮しているように聞こえた.
10回.
最終章.
琴栄の汚れ仕事の肩代わり.
すべての言葉が, 頭の中でバラバラになり, そして一つに繋がった.
私は, 彼にとって, ただの身代わりだったのだ.
信じられない.
信じたくない.
「しかし, 大森さんも可哀想なものですね. 礼司様のことを, 心から慕っていたのに. 」
別の秘書らしき声が, 少しばかり同情を含んで言った.
それは, まるで遠い昔の出来事を語るような響きだった.
「利用価値があっただけのことだ. 」
礼司さんの声は, 一切の感情を帯びていなかった.
私の心臓が, まるでガラスのように砕け散る音を聞いた気がした.
「同情など無用だ. 彼女が僕のために尽くすのは, 当然のことだと思っているよ. いや, むしろ, そう思わせるように仕向けたんだからね. 」
彼の言葉は, 私の盲目的な愛を, 根底から否定するものだった.
彼の声には, 私への愛情も, 感謝も, 微塵も含まれていなかった.
あるのは, ただ, 道具を見るような冷たい軽蔑だけ.
私の存在そのものが, 彼にとっては, 手のひらの上の駒に過ぎなかった.
頭の中が, 真っ白になった.
手足の震えが止まらない.
膝の傷口が, まるでそこから心が流れ出していくかのように, 熱く, 熱く脈打っていた.
体中の血液が, 一瞬にして冷水に変わったようだった.
礼司さんへの愛.
彼の成功を願う気持ち.
すべてが, 偽りだった.
私が信じ, 尽くしてきた3年間は, 彼が仕組んだ茶番劇の一部だったのだ.
政治家一族の御曹司, 市田礼司.
彼の輝かしいキャリアのため.
彼が仕組んだ数々のスキャンダル.
その身代わり.
世間からの激しい非難.
誹謗中傷.
私の献身的な犠牲.
それは, 彼が本命の婚約者, 朝倉琴栄を汚れ仕事から守り, 自身の「危機管理能力」を父親 (大物政治家) にアピールするための, 周到に仕組まれた「全10回の自作自演のショー」だった.
私の苦しみは, 彼の政治的キャリアを盤石にするための「実績ポートフォリオ」の1ページに過ぎなかった.
部屋の中から, 誰かが立ち上がる気配がした.
私の心臓が, ドクンと跳ね上がる.
見つかってはいけない.
私は, 痛む膝を庇いながら, 必死で壁伝いに移動した.
物陰に隠れるように, 身をかがめる.
息を殺し, じっと身を潜めた.
膝の傷口が, 再び強く痛み出した.
転倒したばかりの古傷が, 無理な体勢で開いてしまったようだ.
それでも, 私は一歩も動けなかった.
肉体的な痛みは, 心の絶望に比べれば, 何でもなかった.
魂が, 真っ二つに引き裂かれたような感覚.
私を支配していたのは, 深くて, 冷たい, 無限の虚無感だった.
彼にとって, 私は何だったのだろう.
愛しい人? 違う.
大切な人? それも違う.
ただの便利な道具.
いつでも捨てられる, 価値のないもの.
彼の言葉が, 耳の奥で何度も繰り返される.
「同情など無用だ. 彼女が僕のために尽くすのは, 当然のことだと思っているよ. いや, むしろ, そう思わせるように仕向けたんだからね. 」
あの甘い言葉は, すべて演技だった.
私への優しい眼差しも, 抱きしめる腕も, 偽りだった.
京都の老舗呉服屋「大森屋」の一人娘.
温室育ちのお嬢様.
本来なら, 世間の泥に塗れることなど, 一生なかったはずなのに.
礼司さんのため, 私は生まれ育った京都を離れ, この大都会, 北都 (きたみやこ) へとやってきた.
家族の反対を押し切って.
私の人生のすべてを, 彼に捧げたのだ.
そのすべてが, 朝倉琴栄のためだったなんて.
私が流した涙も, 受けた罵声も, 負った傷も, すべては, 彼の本命の婚約者を守るための盾であり, 彼のキャリアを飾るための汚いポートフォリオの1ページだった.
雨の日の傘.
停電の夜の抱擁.
あの時の彼の優しさは, 私の純粋さを試すための, 冷酷な実験だったのか.
彼の真の目的は, 私を彼に盲目的に従わせ, 利用することだったのだ.
その時, ポケットの中でスマホが震えた.
見ると, 実家の母からの着信.
私の思考が, 一瞬途切れた.
「心穂, 元気にしてる? そろそろ, あなたの縁談の話を進めようかと思って. 相手は, 小さい頃から顔を合わせていた松井雅さんよ. 」
母の声は, いつも通り優しかった.
松井雅.
その名前に, 私の凍りついた心が, 微かに揺れた.
私が北都へ来る前, 母は何度も, 雅との婚約の解消を渋っていた.
その母がこんなに簡単に.
私のため, 母はどれほどの苦労を背負ったのだろう.
家族の温かさ.
故郷の香り.
それらが, 私を絶望の淵から引き上げようとしている.
私は, もう, 彼に利用されるだけの人生は送りたくない.
「お母さん…私, 雅さんとの縁談, 受けるわ. 」
私の声は, 震えていたけれど, その中に, 確かな決意が宿っていた.
電話を切ると, 私はそっと身を潜めた場所から移動した.
礼司さんの部屋から, 足音が遠ざかっていく.
私は, このまま, この場所から消えなければならない.
もう, 二度と, 彼らの目に触れない場所へ.
私は, もう, 彼らが仕組んだ「ショー」の一部にはならない.
私の人生は, 私のものだ.
この体中の震えが止まるまで, 私はじっと待つしかなかった.
話 2
大森心穂 POV:
「どうしたの? 急に気が変わったの? 」
母の声が, 電話越しに心配そうに響く.
私が雅さんとの縁談を受けると伝えた時, 母は驚きを隠せずにいた.
私は, 礼司さんの私室で聞いた会話の内容を, 母には話せなかった.
話せば, 母はきっと悲しみ, そして怒るだろう.
私はただ, 「北都での生活に少し疲れたの」とだけ答えた.
「大丈夫よ, 心穂. どんな時でも, あなたの居場所はここにあるから. 」
母の優しい言葉が, 私の心に深く染み渡った.
「雅さんも, きっと喜んでくれるわ. 」
母は, 私の体調を気遣いつつ, 雅さんが私の良き理解者になってくれるだろうと繰り返した.
私は曖掻く言葉を濁し, もうすぐ帰ると伝えた.
電話を終え, 私は深く息を吐いた.
まだ少し震える体を叱咤し, 私は隠れていた場所からゆっくりと顔を出した.
礼司さんの部屋からは, もう何の音も聞こえない.
もう大丈夫だろう.
そう思った矢先, 廊下の角から, 加藤さんが現れた.
私の心臓が, 再び嫌な音を立てる.
「大森さん, こんなところでどうしたんですか? 礼司様がお探しですよ. 」
加藤さんの声は, いつも通りの丁寧なものだったが, 私の耳には, 彼のあの嘲笑が蘇る.
私は何も答えず, ただ, 加藤さんの横を通り過ぎた.
礼司さんの部屋へと, 真っ直ぐに向かう.
ドアを開けると, 礼司さんがソファーに座っていた.
「心穂, どこに行っていたんだい? 心配したじゃないか. 」
礼司さんは, 私を見ると, 安堵したように微笑んだ.
その笑顔は, かつて私の心を捕らえた, あの甘い笑顔.
部屋の中には, あの嘲笑していた秘書たちもいた.
彼らは私に会釈をする.
もし, あの会話を聞いていなければ, 私はきっと, 今も彼の優しい笑顔に騙され, 彼の言葉を信じ込んでいたのだろう.
私の心は, 冷え切っていた.
「済まない. 少し気分が悪くて, 外の空気を吸っていたんだ. 」
私は, 努めて平静を装って答えた.
「そうか. 無理をさせてしまったね. 」
礼司さんは, そう言って私の手を掴もうとした.
私は, 咄嗟にその手を避ける.
「膝, どうしたんだい? 血が出ているじゃないか! 」
礼司さんの声に, 驚きと焦りが混じった.
彼は, 私の膝の傷を見て, 目を見開いた.
「何があったんだい? すぐに医者を呼べ! 」
彼は秘書たちに指示を出すと, 私をソファに座らせ, 自ら膝の傷を心配そうに覗き込んだ.
「これでは, 僕の『危機管理能力』が問われてしまう. 君が怪我をしてしまっては, 意味がないだろう. 」
彼の指先が, 傷口に触れる.
その瞳は, まるで本当に心配しているかのようだった.
だが, 私の心は, 冷めきっていた.
偽りの優しさ.
偽りの心配.
すべてが, 彼にとっての「危機管理能力」の一環なのだ.
「誰かと電話していたようだが, 何かあったのかい? 」
礼司さんの声が, 突然, 私の耳元で囁かれた.
私は, 一瞬, 息を止める.
私のスマホの着信音も, 彼の私室にいた秘書たちの耳には届いていたのだろう.
「ええ, 実家からです. 」
私は, 冷静を装って答えた.
「母が, 私の縁談について, 少し焦っているようで. 」
私の言葉に, 部屋の中の空気が, 一瞬にして凝固した.
秘書たちが, 互いに顔を見合わせる.
礼司さんの顔から, 表情が消えた.
「縁談? 僕たちの関係を, まさか…」
彼は, 私を睨みつけるように見つめた.
「以前から決まっていたことですから. 母も, 私がもう良い歳だと心配しているようです. 」
私の言葉に, 礼司さんは眉をひそめた.
「君のことは, 僕がきちんと話して, 納得させるから. 僕たちの未来は, 僕が守る. 」
彼の言葉は, いつものように力強かったが, 私の心には響かなかった.
彼が私を家族に紹介しない本当の理由.
それは, 私が彼の本命の婚約者ではないからだ.
私が彼の「ショー」の一部であり, 利用されているだけの身代わりだからだ.
私の存在が, もし世間に知れたら, 彼の政治家としての未来は, あっという間に崩れ去るだろう.
そして, 彼の「危機管理能力」も.
彼は, 決して私を, 彼の未来の中に描いてなどいなかった.
彼は, いつも私を, 彼の「実績ポートフォリオ」の中にしか見ていなかった.
医者が来て, 私の膝を診察した.
「念のため, 入院して経過観察しましょう. 」
医者の言葉に, 礼司さんは強く頷いた.
「もちろん. 彼女は僕にとって, 大切な人間だから. 」
礼司さんは, そう言って, 私の手を握った.
「病院のベッドが空いていない? 僕の部屋を使えばいい. 僕が彼女のそばにいるから. 」
彼は, そう言って, 私を連れて病院の個室へと向かった.
私は, 黙って彼の指示に従った.
彼の計画は, まだ終わっていない.
私は, 彼の「最終章」に付き合うわけにはいかない.
夜が更け, 礼司さんが隣のソファで眠りについた.
その寝息が, 静かに部屋に響く.
私は, ゆっくりと体を起こした.
膝の痛みは, まだ引かない.
だが, 私の心に宿った決意は, どんな痛みよりも強かった.
私は, そっと礼司さんの携帯電話を手に取った.
パスワードは, 彼の誕生日.
三年間のつき合いで, 私は彼のすべてを知っているつもりだった.
着信履歴の一番上.
「琴栄」という名前.
その下に, ハートの絵文字が添えられていた.
私の指先が, 震える.
だが, その震えは, もう悲しみから来るものではなかった.
憎しみと, そして, 冷たい決意.
彼の携帯電話の中には, 隠しフォルダがあった.
そのタイトルは, 『実績ポートフォリオ: ミホ』.
そこに収められていたのは, 私が身代わりとして苦しんだ, すべての「スキャンダル」の映像だった.
私が転倒し, 罵声を浴びる姿.
涙を流し, 世間の非難に耐える姿.
私が流した血と涙は, すべて彼の「実績」として, 丁寧に記録されていたのだ.
三年間の私の献身.
それは, 彼にとって, たった一つの言葉で片付けられるものだった.
「実績」.
話 3
大森心穂 POV:
翌日, 私が退院する日, 礼司さんは盛大なサプライズを用意していた.
「心穂, 退院おめでとう! 君が元気になってくれて, 本当に嬉しいよ. 」
彼は, 満面の笑みで私を迎えた.
大きな花束, 豪華なプレゼント, そして, 私を祝うためのパーティー.
いつものことだった.
私が何か苦しい思いをする度に, 礼司さんはこうして, 高価なプレゼントや甘い言葉で, 私を繋ぎ止めてきたのだ.
だが, 私の心は, もう何も感じなかった.
空虚.
それだけが, 私の心を占めていた.
「礼司さん, ごめんなさい. 今日は, 少し個人的な用事があって…」
私は, 努めて平静を装って言った.
「パーティーには, 参加できません. 」
礼司さんの笑顔が, 一瞬にして凍りつく.
「どうしたんだい, 心穂? 何かあったのか? 最近, 君は少し変だよ. 」
彼の言葉には, 心配の色が滲んでいた.
だが, その心配の裏に, 私への支配欲が隠されていることを, 私は知っていた.
私は, 彼の手を避けるように, 一歩後ずさりした.
「いいえ, 何も. ただ, 少し, 一人になりたいだけです. 」
その時, ドアが開いた.
「礼司様! 」
甘く, 可愛らしい声が響いた.
朝倉琴栄.
彼女の姿が, そこに立っていた.
私と, 瓜二つの容姿.
彼女は, 私を見ると, にこやかに微笑んだ.
「大森さん, 退院おめでとうございます. 礼司様から, あなたのお話は聞いていましたわ. 」
琴栄の瞳は, 私を値踏みするように見つめている.
私は, 体が硬直するのを感じた.
彼女は, あの「ショー」のすべての真相を知っているのだろうか.
私が, 彼女の身代わりを務めていたことを.
もし, 知っていたとしたら, 彼女は私に何を求めているのだろう.
礼司さんは, 琴栄を見ると, 私のことなど忘れたかのように, 彼女に駆け寄った.
「琴栄! どうしてここに? まだ外は冷えるから, 風邪を引いてしまうよ. 」
礼司さんは, 琴栄を抱き寄せ, 私の腕を掴んだ.
「心穂も, 早く車に乗って. パーティー会場へ行こう. 」
彼の腕が, 私を強引に車へと押し込んだ.
車の中, 私はまるで余計な荷物のように感じた.
礼司さんは, 琴栄と楽しそうに話している.
「今回のパーティーは, 琴栄の好きなテイストで飾り付けたんだ. 気に入ってくれるといいな. 」
琴栄は, 嬉しそうに礼司さんの腕に体を寄せた.
「まあ, 礼司様, 本当に嬉しいわ. 私, ずっとこの日が来ることを夢見ていましたの. 」
二人の会話から, 今日のパーティーが琴栄の誕生日を祝うものだと知った.
パーティー会場は, 豪華絢爛だった.
琴栄の好きな花が飾られ, 彼女の好きな音楽が流れている.
礼司さんの秘書たちが, 私に会釈をする.
彼らは, 口々に琴栄の誕生日を祝い, 礼司さんをからかっていた.
「礼司様, 琴栄様のために, ずいぶん奮発されましたね! 」
「これで, 琴栄様も大満足でしょう! 」
その時, 彼らは私に気づいた.
彼らの顔から, 笑顔が消える.
気まずい沈黙が, 会場に漂った.
琴栄は, そんな空気を感じ取ると, にこやかに私の手を引いた.
「大森さんも, さあ, こちらへ. 皆さん, 私と礼司様をからかうのがお好きなのよ. 」
彼女は, そう言って, 私を座席へと促した.
私は, にこやかに微笑んだまま, 席に座った.
「お気遣い, ありがとうございます. 」
私の心の中では, 嘲笑が渦巻いていた.
彼らにとって, 私はただの「身代わり」.
私が, この場にいることすら, 彼らにとっては迷惑なのだろう.
「大森さん, 礼司様のために, ずいぶんご苦労されたそうですね. 」
琴栄の声が, 突然, 私の耳元で囁かれた.
「礼司様から, 色々伺いましたわ. 大森さんが, あんなに大変な思いをして, 礼司様を守ってくださったなんて. 」
彼女の言葉には, 感嘆と, そして, どこか冷たい響きが含まれていた.
「私も, 礼司様のために, あんな風に尽くせたら, どんなに幸せかしら. 」
琴栄は, そう言って, わざとらしくため息をついた.
礼司さんは, 満足そうに頷いた.
「心穂には, 本当に感謝しているんだ. あの時, 君が身を挺してくれなかったら, 僕のキャリアは危なかった. 」
彼は, そう言って, 当時のスキャンダルの一部始終を話し始めた.
私の苦しみは, 彼にとっては, ただの「実績」に過ぎない.
琴栄は, 目を輝かせた.
「まあ, 大森さん, 本当に素晴らしいわ! 私も, あんな素敵な時計が欲しいですわ. 礼司様からいただいた, あの時計よ. 」
彼女の言葉に, 私は顔色を変えた.
それは, 私が彼のために, 危険な任務を遂行した時, 彼が「記念だ」と言って私に贈った, 唯一の贈り物だった.
礼司さんは, あっさりと頷いた.
「ああ, あの時計かい? 琴栄が気に入るなら, 僕が持っているものをあげよう. いや, それ以上のものを. 」
礼司さんは, すぐに秘書に指示を出した.
秘書は, 慌てて部屋を出て行った.
そして, 数分後, 秘書が持ってきたのは, あの時計よりもずっと高価な, 最新モデルの時計だった.
礼司さんは, その時計を琴栄の腕に嵌めてやった.
「どうだい? 琴栄に似合っているよ. 」
琴栄は, 嬉しそうに礼司さんに抱きついた.
私の心臓が, 冷たく凍りつく.
その時, 礼司さんの秘書が, 彼の耳元で何かを囁いた.
礼司さんの顔色が, 一瞬にして変わる.
彼は, 眉をひそめ, 何かを考えるように腕を組んだ.
そして, 小さく頷いた.
「心穂, 少し付き合ってくれないか. 」
礼司さんは, 私の手を掴んだ.
その手は, 冷たかった.
私は, 彼の言葉に, 何も答えることができなかった.