話 2
男の子というものは、元来弱い生きものだと思う。
ある村に茜という女の子がいる。黒髪の二つあるお下げをした子だ。この子はやたら喧嘩が強い。茜に負けた男の子はとうとう母親に助けを求めてしまうが、話を聞き終わると「茜ちゃんは悪くない、あんたが悪い」と叱られてしまうのだった。そういった子達はみんな決まって「茜はずる賢い」というのだが、茜は喧嘩ごと以外は非常に礼儀正しく、両親の手伝いなんかもよくやっていたために、近所の婦人方からの評判がすこぶるよかった。
そして、喧嘩に勝ったとしても、喧嘩をしたことで茜自身がこっぴどく怒られる。決まって、父親からであった。
ある夕暮れ時、勤めの婦人が家に帰る際、たまたま茜の家の軒先を通りかかった。その時、ちらと見えたのが、家の玄関の横にある太い柱に、まるで座禅を組んでいるかのように静かに縄でくくりつけられている茜だった。その話は、家で話題になり、次の日には男達の酒の肴になり、以来、茜が柱にくくりつけられている時は決まって喧嘩があったのだなと近所でも分かってしまうのだった。それで、負けた子達の親も、納得しきってしまっているところもある。
「あんたも括りつけようか」
母親たちは決まって、最後にこう付け足すようになった。すると、大抵の男の子はこの言葉ですごすご引き下がった。
ただ、村で一番強い男の子は別だったようで、 「何でえ、柱なんか」そう言って茜に負けじと柱にくくりつけられる。そうして、特にボス男子と戦った日には、戦いの後の静かな夕暮れと珍妙な光景が見られると村で評判だった。
これは、茜にとってはいささか恥ずかしい話だったが、それでも茜が喧嘩をやめないのには理由があった。茜には6歳下に夕陽という弟がいる。この夕陽、何分、幼い頃から体が弱く、また非常に泣き虫だったためによくいじめられた。
しかし、茜は夕陽が実に可愛かった。弟よと母に見せられたその時から、母親の横に陣取って、夕陽を眺めたり、あやしたりしてずっと面倒を見てきたのだ。その可愛い夕陽が3歳をすぎた頃から、他の男の子にいじめられ始める。遊びに行って泣いて帰って来る度に、激昴を突き抜けて、火の玉となって飛んでいく。仕返しをする。という流れなのだった。
そして、茜曰く、「喧嘩したのはあたしも悪い。しかし、あいつらはもっと悪い」と。
茜が喧嘩して、父親も母親も大変であった。飲み屋に、大男2人が静かに入っていったが、片方の緊張感はあたりの空気も縛るほどのものであった。
「ほんに、すいません」
酒の席で、筋骨隆々の四角い顔の大男が深々頭を下げると、隣の男は酒を置き、急いでかぶりを振る。
「そんな。棟梁、頭をあげてください。子どもの喧嘩やし、それにこちらこそ、ほんに申し訳ない。うちの子がもともと悪いですから、茜ちゃんは親孝行ないい子やないですか」
丸顔の男も急に頭を下げた。茜の父は仰天してかぶりを振る。
「いや、顔をおあげください。しかし、そう仰られましても……かと言って、大事な他所の子をいつもいつも……。あの子のお転婆ぶりには……参った」
少し酒をあおり、また、頭を下げる。日本名物・しし脅しの完成である。
「しかし、茜ちゃんも、生まれた世が世なら天下統一でも目指しとったでしょうな。うちの家内も私も茜ちゃんは大いに好いとりますからな。いやぁ、惜しい……」
そう言って、最初に謝られた方の負けず劣らずの屈強そうな丸顔男は上機嫌で笑う。
茜の父は苦笑して、済まなそうに顔を少し上げた。
「優しい子なんですが……どうもなぁ」
飲み屋の台の上に肘を置いて手を組み、ため息をついた。
「うちの子も、茜ちゃんが柱に縛られとるのに、俺が縛られんかったら、それこそ負けやとか言って、縛られとりますよ。ほんに、茜ちゃん様様やなぁ。あの悪ガキには耐えられませんて今頃、便でも漏らしとりましょ。ほんにいい薬になります」
そう言って、こちらはそれ以上に頭を下げる。
「はぁ……」
棟梁と呼ばれた男の背中はまた、弓なりにしなっていった。
丸顔の男と別れ、茜の父は月の照らす道をほろ酔いでとぼとぼ帰り、家に着く。玄関にたどり着くと、まだ平気そうな顔をして、茜がくくりつけられていた。近づいていって、
「もう良かろ」
と、縄を外そうとすると、
「父ちゃん、ごめん」と、頭を下げる。
「うむ」
そう言って、茜は縄から解放されると少しずつ体を解しながらゆっくり立ち上がり、大きく背伸びをする。
父親はその姿を見て、また一段と深くため息をついた。
その日、茜と夕陽の寝静まった頃、父親はちゃぶ台で酒を飲みながら、母親を誘った。
「珍しいわね」と言いながら、子供を産んでから、いっそう丸々とした、丸顔の女性は、自分の分のお猪口を持ってやってくる。
「まあ、座ってくれ……。ふぅむ。あ、済まない、そら」
右手に徳利を持っているのを忘れていたらしく女性のお猪口に注いでやる。
女性はありがとうと言って、クイッと飲干すと、悪くない酒だね、酒屋さんの言う通りだと笑った。
話 3
「茜には困ったものだ」
台所で、息をひそめるようにしてポツンと茜の父は一滴の酒をこぼした。酒は音もなくちゃぶ台にぴろんと少し揺れて乗った。
茜の母はそれをじっと眺めていたようで、それから自らのおちょこで酒を少しあおっていた。実は、この母はかなり飲める。かつて、茜の父が男の威厳を見せようと飲ませたところ、逆に潰されてしまった過去があって、それが見事に脳裏に蘇ってきた。その時は、翌朝気づくと、前日開けた一升瓶はその日のうちに消えてしまって、次の日、からの一升瓶が二本、丁寧に台所の脇に置かれていた。
「あんまり、飲みすぎるなよ」
酒の酔いが少し引いて、顔に緊張が走った。茜の母はただ、にやりとした。
「大丈夫よ、今日はほどほどにするわ」
そう言って茜の母は残りの酒を飲み干すと、これじゃだめだと席を立って、枡と一升瓶を持ってきた。勝手にしてくれ、と視線を外して隅を見る。母に肩をパシッと叩かれて、視線を合わせる。茜の父はあきれ顔だったが、結局、満面の笑顔にほだされ、お互いににやりとした。
「茜が最近やたらと喧嘩しているよな。あいつのことが心配なんだよ。この先男の子は力をどんどんつけていく。茜はどうしたって女の子なんだから…」
酒をあおって、どうしたものか、とつぶやいた。そして、茜の母が、はい、と徳利から酒を注ぐと、もう一度あおって、
「それに。それに、あの子はどんな罰も効き目がない。かといって、これ以上の罰は与えたくない。大事な、大事な我が娘だぞ…」
次第に、声が大きくなっていったので、どうどう、と諌められ我に返って、すまない、という。
「相手の子も,
大事なお子さんだ。喧嘩両成敗とは言うもののな」
気づけば茜の母は枡の酒を飲みほして、二杯目を注ぐ最中だった。
「大丈夫よ、茜は。私の娘だから」
と、根拠もなくただそう言った。
「喧嘩の原因は知ってるわよね」
注ぎ終わって、視線をこちらに向けると茜の母は枡を口に持っていって話す。
「夕陽のことだな」
「そうよ。あの子が怒るのはいつも夕陽のことでよ」
「夕陽にはすまないことをしたなあ。俺も昔は体が弱かった。要らんところを似せてしまった」
「でも、あなたはとても頑健になったじゃない。あの子も大丈夫よ」
「確かにそうだがな」
と、いつの間にか注がれていた酒を、少しなめて、これはいかんと茜の父は思った。この女のペースに合わせていたら、たとえお猪口であっても危ないと咄嗟に判断し、手を緩めたのだった。
「夕陽を少し鍛えてみるか…」
お猪口に残る酒をなめるように飲み干すと、隣で二杯目の枡を上機嫌で飲み干す女性に苦い笑みを送った。
「そうね、あんまり無理させないでね」
この夫婦はこの時廊下から、かた、と物音が聞こえたのを知らない。
翌朝、寝床で差し込む光に眩しい思いで茜の父親が目覚めた時、庭から棒の打ちつける音とともにえいやという声が響くのが聞こえた。
何事かと思い、飛び起きて、着物を直しながら庭に出てみると、棒を持った茜に向かって夕陽が同じくらいの長さの棒を打ちこんでいるのを見つけた。
棒は茜にはちょうどいい長さだが、夕陽にはちょっと長すぎる。えいや、という声はまだあどけなく弱弱しく、茜は、
「腹から声を出すんだ」と息まきながら、時折、打ちこまれる棒をはじいては、握りが甘いだの、もっと強く打ちこめだのと言っている。
茜の父は、急に頭から血の気が引いたのを感じ、縁側によろめきつつ座りこんだ。
頭に手を当て、とにかくこの状況が何なのか整理したくて、
「茜」と鋭い声を飛ばす。
「はい!」と元気な声が聞こえ、茜が駆け寄ってくる。表情はとても凛々しく、清々しい。ともかく、何をしているのか問いたださねばと、
「何をしているのか」
と、静かに低く尋ねた。その声に動じず、茜は居住まいを正し、より真剣な表情になって応える。
「昨日、僭越ながら父上と母上のお話をお聞きし、夕陽を鍛えるのを私めがやらせていただこうと思ったのであります」
父親はその言葉に面喰って、まだ子どもと思っていたのに、何という言葉の回し方だろうかと思い、しかし、父の威厳も保たねばとも思って、
「それはお前が勝手に思ったことで私は聞いていない。おまえに頼んだ覚えもない。何でもかんでもこういうことは順序を守らねばならない。分かるか」と聞き返した。
茜は平身低頭して、「ごめんなさい」といった。
「では父上、お許しください」とも言った。
「夕陽はまだ年端もいかない。体も弱い。力もない。お前とは違うのだ。父の言葉が分かるか」
「夕陽に合わせろということですか」
「そうだ」
茜はムッとした。
「父上、鍛えるということは、相手に合わせることはできません。ちがいますか」
違う、と、厳として言う父に、茜がたじろぐ。茜が初めて困惑を浮かべた。
「鍛えるということは、けして無理を促すことではない。夕陽にあの棒は長すぎる。鍛えるということは、相手の少し先を行くことで、導くということだ」
そういうと、茜は至極納得した様子で、分かりました、と一礼した。
「そこまで言うならお前に任せる。けして無理はさせるなよ」と父が言うと、茜はすこぶる喜んで、夕陽の元へ戻っていった。
ため息の好きな男である。茜の父親はここでもまた一つ、ため息を吐いた。
それからというもの、茜はどこに行くにも夕陽を伴った。
今日はあの山へいった、川へ行った、剣術をした、相撲をしたと来る日も来る日も報告をした。茜が夕陽を伴っているせいでいじめっ子も手を出せないらしく、茜の喧嘩騒ぎもほとんどなくなっていた。
時々、父親も心配で共に行動するのだが、茜の行動力や剣術の技量に感嘆し、だんだんと夕陽も体力がついてきたことを実感した。
そんなある日、茜が体調を崩して高熱を出し、寝込んでしまった。村の医者は薬を持たせ、近頃の夕陽の訓練の気疲れなどからくるものなのだろうといった。
「大丈夫じゃ、茜ちゃんは体力もあるし、すぐに良くなるじゃろう」
そう言って、医者はかかか、と笑った。
しかし、帰る間際にそっと茜の父親を呼びつけて、
「だけれども、念のため、夕方もう一度様子を見に来るわ。大丈夫じゃろうがな。心配は移るでな。看病する側が元気なのが大事じゃわい」
そう、静かに、目を厳しくして言い残していった。
寝床で、濡れたタオルを額に当てられ、母に甲斐甲斐しく世話をされながら、寝言は「夕陽、夕陽、そうじゃない、こうだ」と言っている。
母は「よくもまあ、こんなになっても」と笑っている。
その夜更け、茜の様子を見に来た父は、枕元に夕陽が正座しているのにびっくりして、寝床のふすまを必要以上に開け、夕陽、と声をあげた。夕陽はゆっくりこちらを見て、おとう、と漏らす。
「ずっといたのか」
「うん、姉上が、夕陽、夕陽と言っていると、母上が。本当に言ってるよ」
「茜の具合はどうだ」
「もういいだろうって、お医者様が」
そう聞くと、茜の安定した寝息が聞こえてくるのが分かり、どこまでも、人騒がせなお姉さんだな、と父は安堵を漏らした。それを聞いて、夕陽がくすくすと笑った。
父は夕陽を連れ出して、縁側へ行くと、自ら腰掛けて、隣を促した。
縁側からは月が見えた。細く、薄くたなびく雲が月にかかったり、離れていったりしながら、揺れている。
「夕陽は姉ちゃんが好きか」
月を見ながら、父が尋ねた。
「うん。厳しいけど」
「そうか」とポツンと父が返す。
「夕陽、体の弱いの、ごめんな」
そう言いながら、父は月から目が離せなかった。
「姉ちゃんがずっと、男が泣くのは情けないって言ってた」と、夕陽は言う。
「夕陽は男が泣くのは情けないと思うか」
「うん……。でも」
「それでも泣いちゃうんだ」
「父ちゃんも……姉ちゃん、無事でよかったな」
「うん」