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翌朝, 私は出社した. 心は空っぽだったが, 体は自動的に動いた.

パソコンを立ち上げ, 辞職届のフォーマットを開く. 必要事項を打ち込み, 印刷する.

用紙がプリンターから吐き出される音だけが, 静かなオフィスに響き渡った.

この会社で, 勇信と出会った. 大学を卒業してすぐ, 私は彼の才能に惹かれ, 彼と同じ建築事務所に就職した.

和菓子の専門学校も出ていたけれど, それは彼の夢を邪魔しないように, と諦めていた.

「君は, 僕の一番の理解者だ」

そう言ってくれた彼の言葉を信じていた. 彼の言葉が, 私の生きる意味だった.

何度か, 結婚の話題を振ったこともあった.

「勇信, いつになったら, 私と結婚してくれるの? 」

私は, 冗談めかして, そう尋ねた.

彼はいつも, 優しく私の頭を撫でて, こう言った.

「美歌, もう少し待ってくれ. 今は, まだ仕事が軌道に乗っていない. 男は, 先に仕事で成功しないと, 君を幸せにできないだろう? 」

彼は「先立業, 後成家」という言葉をよく口にした. 私はその言葉を信じて, 彼を待ち続けた.

彼がプロジェクトで成功し, 昇進した時, 私は心の中で「これで, ついに」と期待した.

その日, 私は彼からのプロポーズを待ちわびていた.

しかし, 彼の口から出たのは「僕, 昇進したんだ. これからも, もっと頑張らないと」という言葉だけだった.

私の期待は, いつも空振りに終わった. 私は, 彼の成功を心から喜びながらも, どこかで「私へのプロポーズは, いつなのだろう」という思いを抱いていた.

今思えば, それは私の勝手な期待だったのかもしれない. 彼は, 私と結婚するつもりなど, 最初からなかったのだ.

「美歌さん, 辞めるんですか? 」

背後から, 同期の由美の声がした. 彼女は, 私の手元にある辞職届を見て, 驚いた顔をしている.

「ええ, 少しね」

私は, 無理に笑顔を作った.

「え, でも, 美歌さん, 今度昇進だって噂じゃないですか! もったいないですよ! 」

由美の声は, 心底もったいないと思っているようだった.

「結婚することになったから」

私は, そう嘘をついた.

「えええ! おめでとうございます! 知らなかったです! 相手は, やっぱり勇信さんですか? 」

由美は目を輝かせながら, 私を祝福する.

私は, 笑顔が凍りつくのを感じた.

「ねえ, 知ってる? 勇信さん, 畑山建設の令嬢と婚約したんだって! 本当に, お似合いだよね. 幼馴染なんだってさ」

由美の声が, 私の耳に鋭く突き刺さった.

私は, 何も言えずに, ただ顔が引きつるのを感じた.

「美歌さん? 顔色悪いですよ? 」

由美が心配そうに, 私の顔を覗き込む.

私は, 震える手で携帯を取り出した. 勇信の連絡先を探す. 彼の名前は, すでに私の連絡先リストから消えていた.

SNSも確認した. 彼のアカウントは, 私をブロックしていた.

仕事の連絡用のアカウントだけが残っていたが, そこには, 私との個人的なメッセージは一切残されていなかった.

勇信は, 私との関係を, 完全に抹消したのだ.

その時, オフィスのドアが開いた.

勇信と莉枝が, 腕を組んで入ってきた. 莉枝の顔は, 血色が良く, 健康そのものだった. 彼女の表情には, 病の影など, 微塵も感じられない.

「皆さん, ご紹介します. 今日から, この部署の新しい責任者となる, 畑山莉枝さんです」

勇信の声が, オフィスに響き渡った.

周囲の同僚たちは, 一瞬, 驚きに顔を硬直させたが, すぐに笑顔を作り, 莉枝に挨拶を始める.

「畑山さん, どうぞよろしくお願いいたします! 」

「こちらこそ, どうぞよろしく」

莉枝は, 優雅に微笑みながら, 同僚たちの挨拶に応えていた.

私は, 手に握りしめた辞職届が, 汗で湿っているのを感じた.

勇信が, 私の方を見た. 彼の視線には, 不満と, かすかな苛立ちが混じっていた.

「美歌, 君も莉枝さんに挨拶しないのか? 」

彼の声は, 私を咎めるように響いた.

莉枝が, 私の方に歩み寄ってくる. 彼女は, 私に手を差し出した.

「立花さん, 初めまして. これから, どうぞよろしくね」

彼女の声は, 優しかった. しかし, その瞳の奥には, 冷たい光が宿っているように感じられた.

私は, 反射的に手を伸ばそうとした.

その時, 勇信が, 莉枝の手をそっと引いた.

「莉枝, 彼女はもうすぐ辞めることになっているんだ. 挨拶は, またの機会に」

彼の声は, 冷たく, そして事務的だった.

莉枝は, 勇信に腕を引かれ, そのままオフィスを後にした.

私は, 宙ぶらりんになった手を, ゆっくりと下ろした.

その手は, まるで, 私の心のように, 空っぽだった.

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婚約指輪と裏切りの五年間

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