話 1
付き合って5年目の記念日, 私は彼が隠していた婚約指輪を見つけた.
この特別な日にプロポーズされると信じていたのに, 翌朝SNSで見たのは, 大手建設会社の社長令嬢の薬指にその指輪が輝いている写真だった.
「愛してる, 莉枝」という彼の投稿. 私との5年間は, 一体何だったのだろう.
絶望の中, 私は彼らのプロポーズの現場に駆けつけた. そこで私を待っていたのは, 彼の裏切りだけではなかった.
会社では, 莉枝のネックレスを盗んだと濡れ衣を着せられ, 彼に平手打ちされ, 解雇された.
5年間, 彼の夢を支えるために全てを捧げた結果がこれ? 私の人生は, 彼の都合のいい駒だったというの?
だが, 彼らが知らないことがある. 私の両親が, 私のためにもっともふさわしい婚約者を用意していたことを.
「お母さん…私, 結婚する. お見合い相手と」
これは, 私の復讐の始まり.
第1章
私は昨日, 彼が婚約指輪を隠しているのを見つけた. 今日, 私たちは付き合って5年目の記念日. この特別な日に, 彼からのプロポーズを期待していたのに, 私の世界は一瞬で崩れ去った.
勇信の建築事務所の設立5周年記念パーティーの準備で忙しい合間, 私は彼の机の引き出しを整理していた.
奥の方に, 小さなベルベットの箱が隠されているのを見つけた時, 心臓が跳ね上がった.
開けてみると, そこにはキラキラと輝くダイヤモンドの指輪が収まっていた.
シンプルなソリティアリング. 私たちが以前, 冗談交じりに「もし結婚するなら, こんなのが良いね」と話していた通りのデザインだった.
私は箱をそっと閉じ, 元の場所に戻した.
指先が震えていた. 喜びと, かすかな不安が混じり合った感情だった.
勇信は最近, 忙しそうだった. 新しいプロジェクトに取り掛かっていると聞いていたから, きっとサプライズの準備も大変だったに違いない.
明日, 私たちの5周年記念日. きっと, あの指輪を渡してくれるのだろう.
私は一人, アパートのリビングで微笑んだ. 壁には, 勇信と私の写真が飾られている. 初めて二人で旅行した沖縄のビーチでの写真, 彼の初めての建築コンペで優勝した時の写真, そして私が作った和菓子を彼が美味しそうに食べている写真.
どの写真も, 私たちの愛の証だった.
「みか, 愛してるよ」
彼がそう言ってくれた時の声が, 今も耳に残っている. 彼はいつも, 言葉で愛情を表現してくれる人だった. だから, きっとプロポーズも, 私を最高に幸せな気持ちにしてくれるに違いない.
私は携帯を手にとって, 彼とのメッセージ履歴を開いた. 最後のメッセージは今朝の「頑張ってね」だった.
私の心は, 期待と幸福感で満たされていた. まるで, 甘い和菓子を一口食べた時のように, じんわりと温かさが広がっていく.
この5年間, 私は勇信のために生きてきたと言っても過言ではない. 彼の夢を支え, 無給で働き, 自分の貯金まで切り崩して資金援助をしてきた.
「立花堂」の一人娘として, 和菓子の才能を評価されることもあったけれど, 私はいつも彼の影に隠れることを選んだ. 彼の成功が, 私の喜びだった.
彼の笑顔が, 私のすべてだった.
そんな私が, 今日, ついに彼の隣に並び立つ日が来るのだと信じていた. 人生の新しいチャプターが, 今まさに開かれようとしている.
私の指には, まだ何も飾られていない. でも, 明日には, あの輝くダイヤモンドが私の指に嵌められるのだろう.
そう思うと, 胸が高鳴って, 眠れない夜を過ごした.
翌朝, 私は最高の気分で目覚めた. 今日は特別な日.
朝食を済ませ, パーティーの最終チェックのため, 勇信の事務所へ向かう前に, SNSを何気なく開いた.
勇信のアカウントに, 新しい投稿があった.
「最高の夜だった. 君といると, どんな困難も乗り越えられる気がするよ. 愛してる, 莉枝」
写真には, 勇信と, 大手建設会社の社長令嬢, 畑山莉枝が写っていた.
莉枝の薬指には, まぎれもないあのダイヤモンドの指輪がきらめいていた.
私の心臓が, まるで誰かに握りつぶされたかのように, 激しく痛んだ. 息が, 止まる.
世界が, 一瞬で色を失った.
頭の中が真っ白になり, 何も考えられない. 手が震え, 携帯を落としそうになる.
「莉枝... ? 」
勇信は私に, 莉枝を「お腹の子の父親です」と紹介した. その言葉が, 私の脳裏に焼き付いている.
私は, 昨夜のパーティーの準備で忙しかった. 彼が莉枝と会っていたなんて, 全く知らなかった.
勇信は, 私と5年間付き合っていた恋人だったはずだ. それなのに, 彼は別の女性にプロポーズしていた. しかも, その女性は妊娠しているという.
私が必死に支えてきた5年間は, 一体何だったのだろう.
私は急いでタクシーを拾った. 行き先は, SNSに投稿された写真の背景から推測できる, あの高級ホテル.
心臓が喉元までせり上がる. 呼吸が苦しい.
ホテルに着くと, ロビーは華やかな装飾で彩られていた. どこかのパーティーが開かれているのだろう.
私は人混みをかき分け, 彼のSNSの写真に写っていた場所へ向かった.
そこには, 多くの人々が集まっていた. 中央には, 勇信と莉枝が, 笑顔で寄り添っていた.
勇信は, 私の知っている, あの優しい笑顔で莉枝を見つめていた. まるで, 私が一度も見たことのないような, 深い愛情を込めて.
莉枝の左手には, 私の指輪が光っていた.
私の目の前で, 勇信は莉枝の膝をつき, 彼女の手を取り, 何かを囁いている. 莉枝は顔を赤らめ, 嬉しそうに頷いた.
周囲からは, 拍手と歓声が沸き起こった.
「おめでとう! 」「お幸せに! 」
祝福の声が, 私の耳に刺さる. そのどれもが, 私を嘲笑っているように聞こえた.
私はその場に立ち尽くした. 足元がぐらつき, 立っているのがやっとだった.
まるで, 時間が止まってしまったかのようだった. 私だけが, この幸福な世界から取り残された, 異物のように感じられた.
胸が, 張り裂けそうだった. いや, もうすでに, 粉々に砕け散ってしまったのかもしれない.
私の頬を, 温かいものが伝った. 涙だった.
でも, 声を出すことも, 泣き崩れることもできなかった. 全身の力が抜け, ただ麻痺したようにそこにいた.
周囲の人々は, 幸せそうな二人を見つめ, 互いに祝福の言葉を交わしている. 誰も, 私の存在に気づかない.
私は, 透明人間になったようだった.
勇信は, 莉枝の手を握りしめ, 幸せそうに笑っている. その笑顔は, かつて私に向けられていたものと寸分違わなかった.
その時, 携帯が震えた. 母からの電話だった.
「みか? どうしたの, 何かあった? 」
母の声が, 遠く聞こえる. 私は震える声で, 絞り出すように言った.
「お母さん... 私, 結婚する」
静まり返ったロビーで, 私の声はか細く響いた.
母は一瞬, 言葉を失ったようだった.
「え, 美歌? どういうこと? 勇信くんと? 」
私は答えることができなかった. ただ, 息を吸い込むことすら苦しかった. 喉が詰まって, 言葉が出ない.
「勇信くんじゃない. 別の, お見合い相手と」
絞り出した言葉は, 自分でも信じられないほど冷たく響いた.
母は驚きを隠せない様子だったが, すぐに声のトーンを変えた.
「あら, そう! まあ, 美歌もそういう気になったのね. お父さんも喜ぶわ. やっぱり, 家柄のしっかりした方が安心だものね」
母の声は, 喜びと安堵に満ちていた. その声が, 私の心にさらに深く突き刺さる.
「ええ... そうね」
私はそれ以上何も言えなかった. ただ, 母の言葉に同意することしかできなかった.
「じゃあ, すぐにでも一度, お相手の方と会ってみましょう. お父さんと話して, 日程を決めるわ」
母は矢継ぎ早に話を進める. 私の気持ちなど, 全く考えていないようだった. いや, 考える必要がなかったのかもしれない.
私は, もう何もかも, どうでもよかった.
「わかった. 数日中に, 私物を整理したら, 実家に帰る」
そう言って, 私は電話を切った.
冷たい風が, 私の頬を撫でる. 私は, まるで魂が抜けたかのように, そこに立ち尽くしていた.
勇信と莉枝が, 抱き合ってキスをしている. 周囲からは, さらに大きな拍手と歓声が上がった.
その光景は, 私にとってあまりにも残酷だった.
私は, 自分がまるで木偶の坊になったようだった. 動くことも, 感情を露わにすることもできない.
心が, 完全に麻痺してしまったかのようだった.
再び携帯が鳴る. 今度は父からだった.
「美歌! お母さんから聞いたぞ! 本当にそれでいいのか? お前が, 勇信くんと結婚するって, ずっと言ってたじゃないか」
父の声は, 心配と同時に, どこか戸惑いが混じっていた.
「うん. もう, いいの」
私の声は, 感情のこもらない, 乾いた声だった.
「そうか... まあ, お前が決めたことなら, 親として異論はない. むしろ, 安心した」
父の声に, 安堵の色が混じる.
「実家, いつ帰ってくるんだ? 」
「数日中に荷物を整理して, 帰る」
「わかった. 無理はするなよ」
父はそう言って, 電話を切った.
私は再び, 勇信と莉枝の方を見た. 二人は, まだ幸せそうに抱き合っている.
その時, 勇信がふと, 私のいる方を見た. 彼の視線が, 私と交錯する.
一瞬, 彼の笑顔が消え, 驚きと, かすかな動揺が顔に浮かんだ.
彼女はなぜここに? こんな時に, 邪魔をするな.
彼の心の声が, 私の心に直接響いたような気がした.
勇信はすぐに莉枝の手を取り, そそくさと会場の奥へと消えていった. まるで, 私から逃げるかのように.
莉枝は, 勇信の腕に抱かれながら, 私を一瞥した. その視線には, 勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた.
私は, 二人が消えた後も, しばらくそこに立ち尽くしていた.
かつて, 勇信は私に言った. 「いつか, 君を一番美しい花嫁にするよ」と.
あの言葉も, すべて嘘だったのだろうか. 彼にとって, 私はただの都合の良い存在だったのだろうか.
私の誕生日に, 彼はいつも私を最高のレストランに連れて行ってくれた. そして, サプライズのプレゼントを用意してくれた.
そんな彼が, 今日, 別の女性にプロポーズしていた. しかも, その日は, 私たちの5周年記念日だった.
私の心は, 凍りついてしまった.
私は, ゆっくりと踵を返し, ホテルを後にした. 背後からは, まだ彼らの幸せそうな笑い声が聞こえてくる.
勇信の友人たちの祝福の声も聞こえた. 彼らは, 私たちの関係について, 何も知らなかったのだろう.
私と勇信が, どれほどの時間を共に過ごし, どれほどの夢を語り合ってきたか. 彼らは, そのすべてを知らない.
そのことに, 私はひどく心酸を覚えた.
私はバス停に向かい, 一番遠くまで行くバスに乗り込んだ. 窓の外の景色が, 涙で滲んでいく.
何をする気力もなく, ただバスに揺られていた.
アパートのドアを開けると, 玄関に大きな段ボール箱が置かれているのが目に入った.
配達員がもう帰った後だった. 箱には, 私の名前が書かれている. 送り主は, 勇信だった.
「お誕生日おめでとう, 美歌」
箱の横に貼られたメッセージカードには, 彼の筆跡でそう書かれていた.
今日は, 私の誕生日でもあった. 私は, すっかり忘れていた.
配達員の声が聞こえた. 「前川様は, いつも奥様を大切になさっていて, 本当に素敵な旦那様ですね! 」
私は, その言葉に何も反応できなかった. ただ, 冷たい視線で箱を見つめた.
箱をリビングに置き, 私はソファに無力に倒れ込んだ.
部屋は, 静まり返っていた. 勇信はまだ帰ってきていない.
この部屋には, 勇信と私が共に過ごした5年間の思い出が詰まっている. 壁には, 彼と私の写真が飾られている. 彼の使っていたマグカップ, 彼が読んでいた本, 彼のギター.
そのすべてが, 今は私を嘲笑っているように感じられた.
私の目から, 大粒の涙が溢れ出した.
勇信からのプレゼントは, まるで汚物のように感じられた. 触れることすら嫌悪感を覚える.
私は, そのままソファに座り込み, 時間が経つのも忘れて横たわっていた.
どれくらい時間が経っただろうか. 部屋のドアが, 突然開く音がした.
話 2
「美歌, ただいま」
勇信の声が, 静まり返った部屋に響いた. 彼は一抱えもある花束を抱えていた. 白いカサブランカと赤いバラ. 私の一番好きな花だ.
彼の顔には, いつもの穏やかな笑顔が浮かんでいる. 私が, 今日ホテルで見た, あの笑顔だ.
彼は, 私の顔に驚いた様子もなく, 平然とこちらに向かって歩いてくる. まるで, ホテルの出来事など, 何もなかったかのように.
「疲れただろう. パーティーの準備, ありがとう」
彼はそう言って, 花束を私に差し出した.
私は, 麻痺した手でそれを受け取った. 重くて, 冷たい花束だった.
「このカサブランカは, 君の純粋さを. この赤いバラは, 僕の情熱を象徴しているんだ」
彼はそう言って, 私の頬に触れようとした.
私は, 彼の言葉に, そしてその仕草に, 全身の毛が逆立つような嫌悪感を覚えた.
彼の言葉は, まるでどこかの舞台のセリフのように, 空虚に聞こえた.
「話があるんだ」
彼は, 私から少し離れて, ソファに座った.
「莉枝のことなんだけど」
彼の口から, その名前が出た瞬間, 私の体は硬直した.
「彼女は, 昔から体が弱くてね. 最近, また持病が悪化してしまって... 」
彼は, 悲しげな顔をして, ゆっくりと話し始めた.
「それで, 彼女のお父さんが, 僕に頼んできたんだ. 莉枝を安心させてやってほしいって」
安心させる? どうやって?
「莉枝とは, 幼馴染なんだ. 僕が建築家を志したのも, 彼女の夢を叶えるためだった」
彼の言葉は, 私の知っている過去とは全く違うものだった. 私の知る過去では, 彼が建築家を志したのは, 私の「立花堂」を改装するためだったはずだ.
「彼女は, 僕がずっと支えてきた人なんだ. だから, 僕が彼女を裏切るわけにはいかない」
裏切る? 裏切っているのは, あなたでしょう?
「だから, 僕は彼女に, プロポーズしたんだ」
彼は, 私の目を真っ直ぐに見つめて, そう言った. その瞳には, 一切の迷いも, 罪悪感も感じられなかった.
「君には, 悪いと思っている. でも, 莉枝には, 僕が必要なんだ」
彼は, 私に理解を求めているようだった. 彼の言葉は, 私への説明ではなく, 一方的な通告だった.
私が数日中にこのアパートを出ていくことを, 彼は知る由もない.
私は, ただ静かに頷いた.
彼が私に「君はもう少し, 自分の意見を言った方がいい. いつも僕の言うことばかり聞いているから, つまらないんだ」と言った日のことを思い出した.
彼は, 私が彼の言葉に反論しないことを, 私の「魅力のなさ」だと考えていたのだろうか.
私は, 彼が望む女性になろうと, 必死に努力してきた. 彼の好みに合わせて, 服装を変え, 髪型を変え, 彼の好きな料理を覚え, 彼の好きな音楽を聞いた.
彼の才能を信じ, 彼の言葉を信じ, 彼の夢を支えることが, 私の存在意義だった.
そんな私が, 今, 彼の前で静かに頷いている.
彼の顔に, 安堵の表情が浮かんだ.
「ありがとう, 美歌. 君は, 本当に優しいね」
彼はそう言って, 私の頭をそっと撫でた.
その瞬間, 私の心は, 完全に凍りついた. 彼の優しさが, まるで毒のように感じられた.
「莉枝は, 明日からこのアパートで暮らすことになる」
勇信の言葉に, 私の全身が震えた.
「だから, 君には, もう少しの間, 友人や同僚には, 僕たちがまだ付き合っていると話しておいてほしい」
彼は, 私に何を求めているのだろう. 偽りの関係を続けろと?
「莉枝は, デリケートな時期なんだ. 君の協力が必要なんだ」
彼の言葉は, 私への侮辱だった. 彼の都合の良いように, 私を利用しようとしている.
私は, ゆっくりと顔を上げた. そして, 乾いた笑みを浮かべた.
「わかった」
そう言って, 私は花束をテーブルに置いた.
勇信は, 私の反応に戸惑ったように, 眉をひそめた.
彼は, 私の手を握ろうとした. 私は, 素早く手を引いた.
彼の衣領に, わずかに口紅の跡が残っているのが見えた.
私は, 吐き気がした. 胃の奥から, 嫌悪感がこみ上げてくる.
勇信は, 私の拒絶に, 顔を歪ませた.
「美歌, どうしたんだ? 」
彼の声は, 苛立ちを帯びていた.
私は, 何も言わずに, ただ彼を見つめた.
彼は, 私の視線に耐えられなかったのか, 焦れたように立ち上がった.
「じゃあ, 僕は莉枝のところへ行く. 何かあったら, 連絡してくれ」
彼は, そう言って, 慌ただしくアパートを出て行った.
ドアが閉まる音を聞きながら, 私はテーブルの花束をゴミ箱に投げ込んだ.
そして, 勇信からの誕生日プレゼントも, 一緒にゴミ箱に押し込んだ.
私の目は, もう涙を流すことはなかった.
私は立ち上がり, 自分の荷物をまとめ始めた. クローゼットから服を取り出し, スーツケースに詰める.
このアパートに, もう私の居場所はない. 彼との思い出も, すべて置いていく.
この場所は, もう私の家ではない. ただの, 空っぽの箱だ.
私は, 彼の影がちらつくこの場所から, 一刻も早く立ち去りたかった.
私の心は, 冷え切っていた. もう, 彼に対して何の感情も抱かない.
ただ, 早く, ここから逃げ出したかった.
私の指先が, まだ震えている. それは, 悲しみでも, 怒りでもなく, ただの虚無感だった.
私は, もう一度, 部屋を見渡した.
この5年間, 私がすべてを捧げた場所.
そして, 今日, すべてを失った場所.
私は, この場所を, もう二度と振り返ることはないだろう.
話 3
翌朝, 私は出社した. 心は空っぽだったが, 体は自動的に動いた.
パソコンを立ち上げ, 辞職届のフォーマットを開く. 必要事項を打ち込み, 印刷する.
用紙がプリンターから吐き出される音だけが, 静かなオフィスに響き渡った.
この会社で, 勇信と出会った. 大学を卒業してすぐ, 私は彼の才能に惹かれ, 彼と同じ建築事務所に就職した.
和菓子の専門学校も出ていたけれど, それは彼の夢を邪魔しないように, と諦めていた.
「君は, 僕の一番の理解者だ」
そう言ってくれた彼の言葉を信じていた. 彼の言葉が, 私の生きる意味だった.
何度か, 結婚の話題を振ったこともあった.
「勇信, いつになったら, 私と結婚してくれるの? 」
私は, 冗談めかして, そう尋ねた.
彼はいつも, 優しく私の頭を撫でて, こう言った.
「美歌, もう少し待ってくれ. 今は, まだ仕事が軌道に乗っていない. 男は, 先に仕事で成功しないと, 君を幸せにできないだろう? 」
彼は「先立業, 後成家」という言葉をよく口にした. 私はその言葉を信じて, 彼を待ち続けた.
彼がプロジェクトで成功し, 昇進した時, 私は心の中で「これで, ついに」と期待した.
その日, 私は彼からのプロポーズを待ちわびていた.
しかし, 彼の口から出たのは「僕, 昇進したんだ. これからも, もっと頑張らないと」という言葉だけだった.
私の期待は, いつも空振りに終わった. 私は, 彼の成功を心から喜びながらも, どこかで「私へのプロポーズは, いつなのだろう」という思いを抱いていた.
今思えば, それは私の勝手な期待だったのかもしれない. 彼は, 私と結婚するつもりなど, 最初からなかったのだ.
「美歌さん, 辞めるんですか? 」
背後から, 同期の由美の声がした. 彼女は, 私の手元にある辞職届を見て, 驚いた顔をしている.
「ええ, 少しね」
私は, 無理に笑顔を作った.
「え, でも, 美歌さん, 今度昇進だって噂じゃないですか! もったいないですよ! 」
由美の声は, 心底もったいないと思っているようだった.
「結婚することになったから」
私は, そう嘘をついた.
「えええ! おめでとうございます! 知らなかったです! 相手は, やっぱり勇信さんですか? 」
由美は目を輝かせながら, 私を祝福する.
私は, 笑顔が凍りつくのを感じた.
「ねえ, 知ってる? 勇信さん, 畑山建設の令嬢と婚約したんだって! 本当に, お似合いだよね. 幼馴染なんだってさ」
由美の声が, 私の耳に鋭く突き刺さった.
私は, 何も言えずに, ただ顔が引きつるのを感じた.
「美歌さん? 顔色悪いですよ? 」
由美が心配そうに, 私の顔を覗き込む.
私は, 震える手で携帯を取り出した. 勇信の連絡先を探す. 彼の名前は, すでに私の連絡先リストから消えていた.
SNSも確認した. 彼のアカウントは, 私をブロックしていた.
仕事の連絡用のアカウントだけが残っていたが, そこには, 私との個人的なメッセージは一切残されていなかった.
勇信は, 私との関係を, 完全に抹消したのだ.
その時, オフィスのドアが開いた.
勇信と莉枝が, 腕を組んで入ってきた. 莉枝の顔は, 血色が良く, 健康そのものだった. 彼女の表情には, 病の影など, 微塵も感じられない.
「皆さん, ご紹介します. 今日から, この部署の新しい責任者となる, 畑山莉枝さんです」
勇信の声が, オフィスに響き渡った.
周囲の同僚たちは, 一瞬, 驚きに顔を硬直させたが, すぐに笑顔を作り, 莉枝に挨拶を始める.
「畑山さん, どうぞよろしくお願いいたします! 」
「こちらこそ, どうぞよろしく」
莉枝は, 優雅に微笑みながら, 同僚たちの挨拶に応えていた.
私は, 手に握りしめた辞職届が, 汗で湿っているのを感じた.
勇信が, 私の方を見た. 彼の視線には, 不満と, かすかな苛立ちが混じっていた.
「美歌, 君も莉枝さんに挨拶しないのか? 」
彼の声は, 私を咎めるように響いた.
莉枝が, 私の方に歩み寄ってくる. 彼女は, 私に手を差し出した.
「立花さん, 初めまして. これから, どうぞよろしくね」
彼女の声は, 優しかった. しかし, その瞳の奥には, 冷たい光が宿っているように感じられた.
私は, 反射的に手を伸ばそうとした.
その時, 勇信が, 莉枝の手をそっと引いた.
「莉枝, 彼女はもうすぐ辞めることになっているんだ. 挨拶は, またの機会に」
彼の声は, 冷たく, そして事務的だった.
莉枝は, 勇信に腕を引かれ, そのままオフィスを後にした.
私は, 宙ぶらりんになった手を, ゆっくりと下ろした.
その手は, まるで, 私の心のように, 空っぽだった.