話 2
「美歌, ただいま」
勇信の声が, 静まり返った部屋に響いた. 彼は一抱えもある花束を抱えていた. 白いカサブランカと赤いバラ. 私の一番好きな花だ.
彼の顔には, いつもの穏やかな笑顔が浮かんでいる. 私が, 今日ホテルで見た, あの笑顔だ.
彼は, 私の顔に驚いた様子もなく, 平然とこちらに向かって歩いてくる. まるで, ホテルの出来事など, 何もなかったかのように.
「疲れただろう. パーティーの準備, ありがとう」
彼はそう言って, 花束を私に差し出した.
私は, 麻痺した手でそれを受け取った. 重くて, 冷たい花束だった.
「このカサブランカは, 君の純粋さを. この赤いバラは, 僕の情熱を象徴しているんだ」
彼はそう言って, 私の頬に触れようとした.
私は, 彼の言葉に, そしてその仕草に, 全身の毛が逆立つような嫌悪感を覚えた.
彼の言葉は, まるでどこかの舞台のセリフのように, 空虚に聞こえた.
「話があるんだ」
彼は, 私から少し離れて, ソファに座った.
「莉枝のことなんだけど」
彼の口から, その名前が出た瞬間, 私の体は硬直した.
「彼女は, 昔から体が弱くてね. 最近, また持病が悪化してしまって... 」
彼は, 悲しげな顔をして, ゆっくりと話し始めた.
「それで, 彼女のお父さんが, 僕に頼んできたんだ. 莉枝を安心させてやってほしいって」
安心させる? どうやって?
「莉枝とは, 幼馴染なんだ. 僕が建築家を志したのも, 彼女の夢を叶えるためだった」
彼の言葉は, 私の知っている過去とは全く違うものだった. 私の知る過去では, 彼が建築家を志したのは, 私の「立花堂」を改装するためだったはずだ.
「彼女は, 僕がずっと支えてきた人なんだ. だから, 僕が彼女を裏切るわけにはいかない」
裏切る? 裏切っているのは, あなたでしょう?
「だから, 僕は彼女に, プロポーズしたんだ」
彼は, 私の目を真っ直ぐに見つめて, そう言った. その瞳には, 一切の迷いも, 罪悪感も感じられなかった.
「君には, 悪いと思っている. でも, 莉枝には, 僕が必要なんだ」
彼は, 私に理解を求めているようだった. 彼の言葉は, 私への説明ではなく, 一方的な通告だった.
私が数日中にこのアパートを出ていくことを, 彼は知る由もない.
私は, ただ静かに頷いた.
彼が私に「君はもう少し, 自分の意見を言った方がいい. いつも僕の言うことばかり聞いているから, つまらないんだ」と言った日のことを思い出した.
彼は, 私が彼の言葉に反論しないことを, 私の「魅力のなさ」だと考えていたのだろうか.
私は, 彼が望む女性になろうと, 必死に努力してきた. 彼の好みに合わせて, 服装を変え, 髪型を変え, 彼の好きな料理を覚え, 彼の好きな音楽を聞いた.
彼の才能を信じ, 彼の言葉を信じ, 彼の夢を支えることが, 私の存在意義だった.
そんな私が, 今, 彼の前で静かに頷いている.
彼の顔に, 安堵の表情が浮かんだ.
「ありがとう, 美歌. 君は, 本当に優しいね」
彼はそう言って, 私の頭をそっと撫でた.
その瞬間, 私の心は, 完全に凍りついた. 彼の優しさが, まるで毒のように感じられた.
「莉枝は, 明日からこのアパートで暮らすことになる」
勇信の言葉に, 私の全身が震えた.
「だから, 君には, もう少しの間, 友人や同僚には, 僕たちがまだ付き合っていると話しておいてほしい」
彼は, 私に何を求めているのだろう. 偽りの関係を続けろと?
「莉枝は, デリケートな時期なんだ. 君の協力が必要なんだ」
彼の言葉は, 私への侮辱だった. 彼の都合の良いように, 私を利用しようとしている.
私は, ゆっくりと顔を上げた. そして, 乾いた笑みを浮かべた.
「わかった」
そう言って, 私は花束をテーブルに置いた.
勇信は, 私の反応に戸惑ったように, 眉をひそめた.
彼は, 私の手を握ろうとした. 私は, 素早く手を引いた.
彼の衣領に, わずかに口紅の跡が残っているのが見えた.
私は, 吐き気がした. 胃の奥から, 嫌悪感がこみ上げてくる.
勇信は, 私の拒絶に, 顔を歪ませた.
「美歌, どうしたんだ? 」
彼の声は, 苛立ちを帯びていた.
私は, 何も言わずに, ただ彼を見つめた.
彼は, 私の視線に耐えられなかったのか, 焦れたように立ち上がった.
「じゃあ, 僕は莉枝のところへ行く. 何かあったら, 連絡してくれ」
彼は, そう言って, 慌ただしくアパートを出て行った.
ドアが閉まる音を聞きながら, 私はテーブルの花束をゴミ箱に投げ込んだ.
そして, 勇信からの誕生日プレゼントも, 一緒にゴミ箱に押し込んだ.
私の目は, もう涙を流すことはなかった.
私は立ち上がり, 自分の荷物をまとめ始めた. クローゼットから服を取り出し, スーツケースに詰める.
このアパートに, もう私の居場所はない. 彼との思い出も, すべて置いていく.
この場所は, もう私の家ではない. ただの, 空っぽの箱だ.
私は, 彼の影がちらつくこの場所から, 一刻も早く立ち去りたかった.
私の心は, 冷え切っていた. もう, 彼に対して何の感情も抱かない.
ただ, 早く, ここから逃げ出したかった.
私の指先が, まだ震えている. それは, 悲しみでも, 怒りでもなく, ただの虚無感だった.
私は, もう一度, 部屋を見渡した.
この5年間, 私がすべてを捧げた場所.
そして, 今日, すべてを失った場所.
私は, この場所を, もう二度と振り返ることはないだろう.
話 3
翌朝, 私は出社した. 心は空っぽだったが, 体は自動的に動いた.
パソコンを立ち上げ, 辞職届のフォーマットを開く. 必要事項を打ち込み, 印刷する.
用紙がプリンターから吐き出される音だけが, 静かなオフィスに響き渡った.
この会社で, 勇信と出会った. 大学を卒業してすぐ, 私は彼の才能に惹かれ, 彼と同じ建築事務所に就職した.
和菓子の専門学校も出ていたけれど, それは彼の夢を邪魔しないように, と諦めていた.
「君は, 僕の一番の理解者だ」
そう言ってくれた彼の言葉を信じていた. 彼の言葉が, 私の生きる意味だった.
何度か, 結婚の話題を振ったこともあった.
「勇信, いつになったら, 私と結婚してくれるの? 」
私は, 冗談めかして, そう尋ねた.
彼はいつも, 優しく私の頭を撫でて, こう言った.
「美歌, もう少し待ってくれ. 今は, まだ仕事が軌道に乗っていない. 男は, 先に仕事で成功しないと, 君を幸せにできないだろう? 」
彼は「先立業, 後成家」という言葉をよく口にした. 私はその言葉を信じて, 彼を待ち続けた.
彼がプロジェクトで成功し, 昇進した時, 私は心の中で「これで, ついに」と期待した.
その日, 私は彼からのプロポーズを待ちわびていた.
しかし, 彼の口から出たのは「僕, 昇進したんだ. これからも, もっと頑張らないと」という言葉だけだった.
私の期待は, いつも空振りに終わった. 私は, 彼の成功を心から喜びながらも, どこかで「私へのプロポーズは, いつなのだろう」という思いを抱いていた.
今思えば, それは私の勝手な期待だったのかもしれない. 彼は, 私と結婚するつもりなど, 最初からなかったのだ.
「美歌さん, 辞めるんですか? 」
背後から, 同期の由美の声がした. 彼女は, 私の手元にある辞職届を見て, 驚いた顔をしている.
「ええ, 少しね」
私は, 無理に笑顔を作った.
「え, でも, 美歌さん, 今度昇進だって噂じゃないですか! もったいないですよ! 」
由美の声は, 心底もったいないと思っているようだった.
「結婚することになったから」
私は, そう嘘をついた.
「えええ! おめでとうございます! 知らなかったです! 相手は, やっぱり勇信さんですか? 」
由美は目を輝かせながら, 私を祝福する.
私は, 笑顔が凍りつくのを感じた.
「ねえ, 知ってる? 勇信さん, 畑山建設の令嬢と婚約したんだって! 本当に, お似合いだよね. 幼馴染なんだってさ」
由美の声が, 私の耳に鋭く突き刺さった.
私は, 何も言えずに, ただ顔が引きつるのを感じた.
「美歌さん? 顔色悪いですよ? 」
由美が心配そうに, 私の顔を覗き込む.
私は, 震える手で携帯を取り出した. 勇信の連絡先を探す. 彼の名前は, すでに私の連絡先リストから消えていた.
SNSも確認した. 彼のアカウントは, 私をブロックしていた.
仕事の連絡用のアカウントだけが残っていたが, そこには, 私との個人的なメッセージは一切残されていなかった.
勇信は, 私との関係を, 完全に抹消したのだ.
その時, オフィスのドアが開いた.
勇信と莉枝が, 腕を組んで入ってきた. 莉枝の顔は, 血色が良く, 健康そのものだった. 彼女の表情には, 病の影など, 微塵も感じられない.
「皆さん, ご紹介します. 今日から, この部署の新しい責任者となる, 畑山莉枝さんです」
勇信の声が, オフィスに響き渡った.
周囲の同僚たちは, 一瞬, 驚きに顔を硬直させたが, すぐに笑顔を作り, 莉枝に挨拶を始める.
「畑山さん, どうぞよろしくお願いいたします! 」
「こちらこそ, どうぞよろしく」
莉枝は, 優雅に微笑みながら, 同僚たちの挨拶に応えていた.
私は, 手に握りしめた辞職届が, 汗で湿っているのを感じた.
勇信が, 私の方を見た. 彼の視線には, 不満と, かすかな苛立ちが混じっていた.
「美歌, 君も莉枝さんに挨拶しないのか? 」
彼の声は, 私を咎めるように響いた.
莉枝が, 私の方に歩み寄ってくる. 彼女は, 私に手を差し出した.
「立花さん, 初めまして. これから, どうぞよろしくね」
彼女の声は, 優しかった. しかし, その瞳の奥には, 冷たい光が宿っているように感じられた.
私は, 反射的に手を伸ばそうとした.
その時, 勇信が, 莉枝の手をそっと引いた.
「莉枝, 彼女はもうすぐ辞めることになっているんだ. 挨拶は, またの機会に」
彼の声は, 冷たく, そして事務的だった.
莉枝は, 勇信に腕を引かれ, そのままオフィスを後にした.
私は, 宙ぶらりんになった手を, ゆっくりと下ろした.
その手は, まるで, 私の心のように, 空っぽだった.