話 2
携帯を床に放り投げ, 私はその場に崩れ落ちた. 浴室の床は冷たく, 私の体温を吸い取っていく. シャワーのザーザーという音が, 嵐の海のように私を包み込んだ. 遠くから聞こえる, 楽しそうな笑い声. それは, 私を嘲笑っているかのようだった.
愛. 未来. 家族. 数分前まで私の心を占めていた, 温かい感情の全てが, 突如として毒に変わった. 光矢の甘い言葉も, 優しい眼差しも, 全てが偽りだった. 私を愛していたわけではない. ただ, 私を利用していただけ. 母を殺した犯人を守るために, 私と結婚した. 私は, 彼にとっての道具だったのだ.
まるで, 体中の血液が沸騰したかのように, 熱いものが喉まで込み上げてきた. 胃の奥からこみ上げてくる吐き気に, 私は口元を強く押さえた. 何もかもが, 汚らわしい. 彼の嘘で塗り固められた世界で, 私の赤ちゃんが生まれてくるなんて.
ふいに, 携帯が鳴った. 雅からのメッセージだ. 彼女のアイコンは, 光矢とのツーショット. 海外の高級リゾート地で, 二人寄り添って笑っている写真だった. 光矢は, 私には「緊急で病院に呼ばれた」と言っていたのに.
雅のメッセージには, 光矢が私に送ったものと全く同じ言葉が書かれていた. 「桃香は何も知らない. 私は彼にとって, ただの操り人形. でも, それももう終わりよ. 私の赤ちゃんが生まれる前に, この地獄のような結婚から解放してあげる」.
雅は, 私の妊娠を知っていた. そして, 光矢も. 彼らは, 私と私の赤ちゃんを, 最初から排除するつもりだったのだ.
携帯を握りしめた私の手が, 震えが止まらない. 私は, 彼らの計画の一部だった. 愛なんて, 存在しなかった. ただひたすらに, 利用され, 裏切られた.
私の心の中の, 最後の希望の光が, 潰えるのを感じた. もう, 全てが終わりだ.
私は立ち上がり, 鏡に映る自分を見た. 憔悴しきった顔. 虚ろな瞳. このままでは, 私は壊れてしまう. 彼らの望むように, 悲劇のヒロインとして朽ちていくなんて, 絶対に嫌だ.
私は, この地獄のような場所から, 逃げ出さなければならない.
私はすぐにインターネットで, 海外への渡航手続きについて調べた. パスポートの取得, ビザの手続き. 時間がかかるものばかりだった.
私の頭に, 最悪の選択肢が浮かんだ. このお腹の子を, 産むべきではない. 彼らの血が混じった命を, 彼らの嘘と欺瞞に満ちた世界に生み落とすなんて. 私は, 私自身も, この子も, 救わなければならない.
私はすぐに, 産婦人科に電話をかけた. 人工妊娠中絶の予約. 声が震えて, うまく話せない. それでも, 私は必死に言葉を紡いだ.
電話を切った後, 私はそっとお腹に手を当てた. まだ, 小さな命. ごめんなさい. お母さんは, あなたを愛してる. でも, こんな世界にあなたを連れてくることはできない.
その夜, 私は街頭の大型ビジョンに映るニュースを見た. 光矢と雅が, 満面の笑みで手を取り合っている映像が流れていた. 二人は, 世間から「理想のカップル」として称賛されていた. 私の存在は, どこにもなかった.
私は, 光矢の世界で, 最初から存在しない人間だったのだ. 胃の奥が熱くなり, 吐き気で体がぐらつく. それでも, 私はなんとか踏みとどまった. 吐き出しても, 汚いものが消えるわけじゃない.
私は, もう彼らの世界に, 一切の未練も執着もない. ただ, この地獄から, 逃げ出すことだけを考えていた.
話 3
私はその夜, 光矢が帰宅するのを, 死んだように待っていた. 彼の足音が聞こえるたびに心臓が跳ね上がったが, すぐにそれは鈍い痛みに変わる. ドアが開く音. 光矢の声. 「桃香, ただいま」.
リビングに入ってきた光矢は, 私を見るなり, 少し驚いたような顔をした. そして, すぐにその表情を, いつもの優しい夫の顔に変えた.
「どうしたんだい, まだ起きてたのか. 疲れてるだろうに」彼は私の隣に歩み寄り, 手を伸ばしてきた.
私はその手を, 条件反射のように避けた. 彼の体温が, 私の肌に触れるのが, ひどく嫌だった.
「雅は... どこにいるの? 」私の声は, ひどくかすれていた.
光矢の動きが, 一瞬止まった. 彼はすぐに平静を取り戻し, 少し困ったように眉を下げた.
「雅のことか. 彼女は郊外の別荘にいるよ. 少し情緒が不安定でね. ピアニストとしての大事な指を守るためにも, しばらく静かな環境で休ませてあげないと」
彼は, 私にそう説明しながら, 再び手を伸ばしてきた.
「桃香も疲れてるだろう. 休んだ方がいい. 雅のことは, 僕がなんとかするから」
私は, 彼の言葉の意味を考えた. 雅の指. 彼女の情緒. そして, 私の疲労. まるで, 私が何かを責めているかのような, 彼の言い方.
「雅が, なぜ, 私たちの別荘にいるの? 」私の声は, 震えていた.
光矢は, まるで私の質問が理解できないかのように, 目を瞬かせた.
「君と僕の家よ. 私たちが, 一緒に家具を選んで, 壁の色を決めて, 未来を語り合った, この家. なぜ, この家に... 」
彼の顔に, 不快そうな表情が浮かんだ. すぐにそれは, 少し失望したような, 冷たい眼差しに変わった.
「桃香, 君も大人だろう. 雅は僕の大事な幼馴染だ. 困っている者を助けるのは当然だと思わないか? 」彼は, まるで私が嫉妬深い女であるかのように, 私を非難した.
私は, 彼の言葉に反論する気力もなかった. 私の心臓は, もう何も感じない. ただ, 全身が冷え切っている.
光矢は, 私を嫌悪している. それが, 彼の瞳にありありと映っていた. 私の感情は, 彼にとって, ただの面倒な「嫉妬」でしかないのだ.
夜が更け, 光矢はシャワーを浴びて寝室に戻ってきた. 彼は私の背後から, そっと抱きしめようと腕を伸ばした.
その時, 彼の携帯がピカリと光った. 画面には「雅」の文字.
光矢は, 私の体を離し, すぐに携帯を手に取った. 彼は寝室のドアを開け, 廊下に出ていった. 私には聞こえないように, 声を潜めて話していたが, 雅を心配する優しい声が, ドアの隙間から漏れてくる.
数分後, 光矢は寝室に戻ってきた. 彼は私の額に, そっとキスをした.
「ごめん, 桃香. 雅がね, どうしても僕に話したいことがあるみたいで. 少し出てくるよ. ゆっくり寝ててね」
彼の足音が, 遠ざかっていく. そして, ドアが閉まる音と共に, 私の心は再び, 深い闇に沈んでいった.
私は暗闇の中で目を開け, 天井を見つめた. 額に残る彼のキスが, まるで汚れた烙印のように, 熱く, 不快だった.
私にとって, 彼は全てだった. でも, 彼にとって, 私は何だったのだろう. 彼が命をかけて守ろうとしているのは, 雅だった. 彼の愛の全ては, 雅に注がれていた. 私は, ただのおまけ. いや, それ以下だ.
私は静かにベッドから起き上がった. 足元に置いてあったスーツケースを引っ張り出す. 彼のくれた高価な服や宝石には, 一切手をつけなかった. 私が大切にしていた, わずかな私物だけを, スーツケースに詰めていく.
スーツケースをクローゼットの奥に隠し, 私はベッドの端に座って, 夜が明けるのを待った. 光矢は, 結局, 朝まで帰ってこなかった.
朝一番で, 私は光矢の書斎へと向かった. 彼の書斎の鍵は, いつも決まった場所に隠してあった. 私は震える手で鍵を開け, 書斎の奥にある彼の金庫を探した.
金庫の扉は, 指紋認証と暗証番号でロックされていた. 暗証番号は, 私たちの結婚記念日だ. 私はその番号を打ち込んだ. カチリ, と, 軽快な音を立てて金庫の扉が開いた. 私の心臓が, 耳元で激しく脈打つ.
中には, 予想通りのものが収められていた.