話 1
妊娠の喜びを夫に伝えようと, 私は弾む心で書斎のドアに手をかけた.
そこで聞こえたのは, 夫が愛人に囁く, 耳を疑うような裏切りの言葉だった.
「あの事故でお母さんが死んだのは君のせいじゃない. そう処理した俺を信じろ」
「彼女と結婚したのは, 君を一生守るためだ」
母を殺した真犯人を守るための結婚.
あまりの衝撃に動揺した私は, その後, 愛人に海へ突き落とされ, お腹の子を失った.
薄れゆく意識の中で見たのは, 冷たい海に沈む私を見捨て, 愛人を抱きしめて安堵する夫の姿だった.
病室で目覚めた私に, 夫は謝罪するどころか, 愛人を庇って私を責め立てた.
「雅は悪くない. 君が彼女を追い詰めたんだ」
私の中で, 何かが音を立てて壊れた.
私は涙を拭い, 密かに集めた全ての証拠を弁護士に送信した.
愛も情けも捨てて, 私は彼らを地獄へ突き落とす.
第1章
陽性反応. 検査薬の二本線は, 私の世界を瞬く間に光で満たした. 信じられないほどの喜びが胸いっぱいに広がり, 私は弾むような足取りで夫, 黒田光矢の書斎へと向かった. 早く伝えたい. 彼がどんな顔をするだろう. きっと, 私と同じように喜んでくれるはずだ.
書斎のドアは少し開いていた. 中から光矢の声が聞こえてくる. 普段の彼の声よりも, 少しだけ熱を帯びていた. 私はドアノブに手をかけ, そっと耳を傾けた.
「ああ, 雅. 心配するな. 桃香は何も気づいていない... 」
私の体から, 一瞬で熱が引いていくのを感じた.
「あの事故でお母さんが死んだのは君のせいじゃない, あくまで病死だ... そう処理した俺を信じろ」
脳が白い靄に包まれたように, 思考が停止した. 事故, 母, 病死... . 光矢の声が, まるで遠い世界のこだまのように響く.
「彼女と結婚したのは, 君を一生守るためだ」
その言葉が, 私の耳の奥で, 何度も何度も反響した. 君を, 一生, 守るため. 私との結婚は, 彼の「君」を守るための手段だった.
数年前の, あの雨の夜のことが, 鮮明に蘇る. 母を亡くした悲しみと, 病院の冷たい廊下で私を慰めてくれた光矢の優しい手. 彼はあの時, 私にとって唯一の光だった. 彼がくれた愛は, 私の心に深く染み渡り, 生きる意味を与えてくれた.
まるで, 全てが嘘だったと告げられたかのように, 私の心臓は突然, 氷に包まれた. 全身の血が凍りつき, 指先まで感覚が麻痺する.
膝から力が抜け, 私はその場にへたり込んだ. 手のひらに握りしめていた妊娠検査薬が, カタリと音を立てて床に落ち, プラスチックが砕ける音が, 私の夢が砕け散る音のように聞こえた.
光矢の電話はまだ続いていた.
「桃香は従順で扱いやすい妻だ. 君が余計なことをしなければ, 何も問題ない」
従順で, 扱いやすい妻. 彼の言葉が, 私の心臓を鈍器で何度も叩き潰す. 痛みはない. ただ, 虚無だけが残った. 私は彼にとって, ただの道具だったのだ.
スマホが震えた. 画面には「最愛の妻」と表示された光矢の名前. その文字が, 目に刺さるほど痛く, 醜悪に見えた.
私は震える手でスマホを掴み, 浴室へと駆け込んだ. 蛇口をひねり, シャワーの水を最大にする. 水音で, 外の音が聞こえないように.
「もしもし, 桃香? どうしたんだい, こんな時間に」彼の声は, 書斎で聞いた冷たい声とはまるで違う. 優しく, 心配そうに聞こえた.
「ああ, ちょっと... 喉が渇いて」私の声は, ひどく震えていた.
「そうか. 今, 緊急で病院に呼ばれててね. 遅くなるかもしれない. 先に寝てていいよ」
彼の言葉の裏で, グラスがカチリと鳴る音が聞こえた. 病院? それとも, 誰かのパーティー? あるいは, 雅と... . 指の爪が, 手のひらに食い込む. 痛みが, 私を現実に戻した.
「うん... わかった」
「君が疲れてるのも知ってる. 落ち着いたら, 二人で旅行でも行こうか. それから, ずっと欲しがってたあのアンティークのティーセット, 買ってあげるよ」
彼の言葉は, まるで上質な毛布のように, 私を包み込もうとした. でも, その毛布の下には, 鋭いナイフが隠されていることを, もう知ってしまった.
「光矢さん, あの... 」私が何か言おうとすると, 電話の向こうで雅の声がした. 「コウヤ! 何してるの? 早く来てよ! 」
光矢は, 一瞬だけ沈黙した. そして, 雅に苛立ったような低い声で何かを言った後, すぐに電話の私に向かって, 甘い声色に戻した.
「ごめんね, 桃香. 雅がね, ちょっと酔っ払ってて. 早く帰るからね. 愛してるよ, 桃香」
通話終了ボタンを押す指が, 震えた. 携帯から聞こえるのは, 虚しい「プー, プー」という, 切断音だけだった.
私の世界は, 静寂と共に終わった.
話 2
携帯を床に放り投げ, 私はその場に崩れ落ちた. 浴室の床は冷たく, 私の体温を吸い取っていく. シャワーのザーザーという音が, 嵐の海のように私を包み込んだ. 遠くから聞こえる, 楽しそうな笑い声. それは, 私を嘲笑っているかのようだった.
愛. 未来. 家族. 数分前まで私の心を占めていた, 温かい感情の全てが, 突如として毒に変わった. 光矢の甘い言葉も, 優しい眼差しも, 全てが偽りだった. 私を愛していたわけではない. ただ, 私を利用していただけ. 母を殺した犯人を守るために, 私と結婚した. 私は, 彼にとっての道具だったのだ.
まるで, 体中の血液が沸騰したかのように, 熱いものが喉まで込み上げてきた. 胃の奥からこみ上げてくる吐き気に, 私は口元を強く押さえた. 何もかもが, 汚らわしい. 彼の嘘で塗り固められた世界で, 私の赤ちゃんが生まれてくるなんて.
ふいに, 携帯が鳴った. 雅からのメッセージだ. 彼女のアイコンは, 光矢とのツーショット. 海外の高級リゾート地で, 二人寄り添って笑っている写真だった. 光矢は, 私には「緊急で病院に呼ばれた」と言っていたのに.
雅のメッセージには, 光矢が私に送ったものと全く同じ言葉が書かれていた. 「桃香は何も知らない. 私は彼にとって, ただの操り人形. でも, それももう終わりよ. 私の赤ちゃんが生まれる前に, この地獄のような結婚から解放してあげる」.
雅は, 私の妊娠を知っていた. そして, 光矢も. 彼らは, 私と私の赤ちゃんを, 最初から排除するつもりだったのだ.
携帯を握りしめた私の手が, 震えが止まらない. 私は, 彼らの計画の一部だった. 愛なんて, 存在しなかった. ただひたすらに, 利用され, 裏切られた.
私の心の中の, 最後の希望の光が, 潰えるのを感じた. もう, 全てが終わりだ.
私は立ち上がり, 鏡に映る自分を見た. 憔悴しきった顔. 虚ろな瞳. このままでは, 私は壊れてしまう. 彼らの望むように, 悲劇のヒロインとして朽ちていくなんて, 絶対に嫌だ.
私は, この地獄のような場所から, 逃げ出さなければならない.
私はすぐにインターネットで, 海外への渡航手続きについて調べた. パスポートの取得, ビザの手続き. 時間がかかるものばかりだった.
私の頭に, 最悪の選択肢が浮かんだ. このお腹の子を, 産むべきではない. 彼らの血が混じった命を, 彼らの嘘と欺瞞に満ちた世界に生み落とすなんて. 私は, 私自身も, この子も, 救わなければならない.
私はすぐに, 産婦人科に電話をかけた. 人工妊娠中絶の予約. 声が震えて, うまく話せない. それでも, 私は必死に言葉を紡いだ.
電話を切った後, 私はそっとお腹に手を当てた. まだ, 小さな命. ごめんなさい. お母さんは, あなたを愛してる. でも, こんな世界にあなたを連れてくることはできない.
その夜, 私は街頭の大型ビジョンに映るニュースを見た. 光矢と雅が, 満面の笑みで手を取り合っている映像が流れていた. 二人は, 世間から「理想のカップル」として称賛されていた. 私の存在は, どこにもなかった.
私は, 光矢の世界で, 最初から存在しない人間だったのだ. 胃の奥が熱くなり, 吐き気で体がぐらつく. それでも, 私はなんとか踏みとどまった. 吐き出しても, 汚いものが消えるわけじゃない.
私は, もう彼らの世界に, 一切の未練も執着もない. ただ, この地獄から, 逃げ出すことだけを考えていた.
話 3
私はその夜, 光矢が帰宅するのを, 死んだように待っていた. 彼の足音が聞こえるたびに心臓が跳ね上がったが, すぐにそれは鈍い痛みに変わる. ドアが開く音. 光矢の声. 「桃香, ただいま」.
リビングに入ってきた光矢は, 私を見るなり, 少し驚いたような顔をした. そして, すぐにその表情を, いつもの優しい夫の顔に変えた.
「どうしたんだい, まだ起きてたのか. 疲れてるだろうに」彼は私の隣に歩み寄り, 手を伸ばしてきた.
私はその手を, 条件反射のように避けた. 彼の体温が, 私の肌に触れるのが, ひどく嫌だった.
「雅は... どこにいるの? 」私の声は, ひどくかすれていた.
光矢の動きが, 一瞬止まった. 彼はすぐに平静を取り戻し, 少し困ったように眉を下げた.
「雅のことか. 彼女は郊外の別荘にいるよ. 少し情緒が不安定でね. ピアニストとしての大事な指を守るためにも, しばらく静かな環境で休ませてあげないと」
彼は, 私にそう説明しながら, 再び手を伸ばしてきた.
「桃香も疲れてるだろう. 休んだ方がいい. 雅のことは, 僕がなんとかするから」
私は, 彼の言葉の意味を考えた. 雅の指. 彼女の情緒. そして, 私の疲労. まるで, 私が何かを責めているかのような, 彼の言い方.
「雅が, なぜ, 私たちの別荘にいるの? 」私の声は, 震えていた.
光矢は, まるで私の質問が理解できないかのように, 目を瞬かせた.
「君と僕の家よ. 私たちが, 一緒に家具を選んで, 壁の色を決めて, 未来を語り合った, この家. なぜ, この家に... 」
彼の顔に, 不快そうな表情が浮かんだ. すぐにそれは, 少し失望したような, 冷たい眼差しに変わった.
「桃香, 君も大人だろう. 雅は僕の大事な幼馴染だ. 困っている者を助けるのは当然だと思わないか? 」彼は, まるで私が嫉妬深い女であるかのように, 私を非難した.
私は, 彼の言葉に反論する気力もなかった. 私の心臓は, もう何も感じない. ただ, 全身が冷え切っている.
光矢は, 私を嫌悪している. それが, 彼の瞳にありありと映っていた. 私の感情は, 彼にとって, ただの面倒な「嫉妬」でしかないのだ.
夜が更け, 光矢はシャワーを浴びて寝室に戻ってきた. 彼は私の背後から, そっと抱きしめようと腕を伸ばした.
その時, 彼の携帯がピカリと光った. 画面には「雅」の文字.
光矢は, 私の体を離し, すぐに携帯を手に取った. 彼は寝室のドアを開け, 廊下に出ていった. 私には聞こえないように, 声を潜めて話していたが, 雅を心配する優しい声が, ドアの隙間から漏れてくる.
数分後, 光矢は寝室に戻ってきた. 彼は私の額に, そっとキスをした.
「ごめん, 桃香. 雅がね, どうしても僕に話したいことがあるみたいで. 少し出てくるよ. ゆっくり寝ててね」
彼の足音が, 遠ざかっていく. そして, ドアが閉まる音と共に, 私の心は再び, 深い闇に沈んでいった.
私は暗闇の中で目を開け, 天井を見つめた. 額に残る彼のキスが, まるで汚れた烙印のように, 熱く, 不快だった.
私にとって, 彼は全てだった. でも, 彼にとって, 私は何だったのだろう. 彼が命をかけて守ろうとしているのは, 雅だった. 彼の愛の全ては, 雅に注がれていた. 私は, ただのおまけ. いや, それ以下だ.
私は静かにベッドから起き上がった. 足元に置いてあったスーツケースを引っ張り出す. 彼のくれた高価な服や宝石には, 一切手をつけなかった. 私が大切にしていた, わずかな私物だけを, スーツケースに詰めていく.
スーツケースをクローゼットの奥に隠し, 私はベッドの端に座って, 夜が明けるのを待った. 光矢は, 結局, 朝まで帰ってこなかった.
朝一番で, 私は光矢の書斎へと向かった. 彼の書斎の鍵は, いつも決まった場所に隠してあった. 私は震える手で鍵を開け, 書斎の奥にある彼の金庫を探した.
金庫の扉は, 指紋認証と暗証番号でロックされていた. 暗証番号は, 私たちの結婚記念日だ. 私はその番号を打ち込んだ. カチリ, と, 軽快な音を立てて金庫の扉が開いた. 私の心臓が, 耳元で激しく脈打つ.
中には, 予想通りのものが収められていた.