1

寧国の帝国都市にある王女の邸宅の一番高い楼閣の前で、ある女性が跪いていた。 まるで夜の寒さや、無情にも降り注ぐ霧雨にも感じなかったようで、ずっと跪いていた。

この女性はシルクのような黒髪を持って、とても美しかったが、その顔が青白くて、 目が虚ろだった。 産まれたばかりの男児を腕に抱き、 一つ一つの呼吸がまるでこの男児の最後の息のような浅い呼吸と、 顔を覆っている青あざを気に掛けていた。

「帰ってください、ユンシャン王女。 駙馬(ふば:皇帝の婿、王女の夫)はあなたに会わないと言っています」 楼閣の入り口を警護しているリアンシンは、 ユンシャンが幼い頃から信頼している女官だった。

ユンシャンの心が崩れ落ると同時にどす黒い雲に覆われていた空に雷が響き渡り雨が激しく降り始め、彼女とその周り一帯をずぶ濡れにした。 彼女は歯を食いしばり、マントを引き寄せ、 赤ん坊が濡れないように覆いかぶせた。 いつからだったろうか? 信頼する人がみな彼女を裏切り始めたのは、いつからだっただろう? ユンシャンは放心状態で考えていた。

おそらく涙は枯れてしまったのだろう。 彼女の顔には涙のあとも無く、 数えきれないほど身を切る様な思いをしてたが、今、これまでに感じた事も無いほどの苦痛を感じているのに、涙すら出なかった。

ユンシャンはリアンシンの前で三回、叩頭の礼をした。「リアンシン。あなたは長年私に仕えてくれましたが、 私はあなたをずっと大切にしていたでしょう。 だから、お願い。 私を駙馬に会わせてください。私はただ子供の為に医師を呼ぶように頼みたいだけなの。 この子も彼の子でしょう...」 彼女はかすれ声で懇願した。

「王女様、私に訴えられても何も出来ません。 駙馬は、誰も入れるなと命令されております...」 リアンシンは軒下に立ち、目の前で跪いている女性に言った。 王女様ってそんなもんだ。 彼女は冷ややかな笑みを浮かべていた。

ユンシャンは赤ん坊の冷たい手を自分の手で温め、 心の中では苦しみと怒りが頂点に達した。突然、彼女が立ち上がり、 リアンシンに向かって駆け出していった。 リアンシンは突然の事に驚き身構えたが、 勢いよく向かってきた王女の体当たりに耐えれず、 「ああ~」と叫び、倒れこんでしまった。 その間にユンシャンは楼閣のドアを開け、上階に駆け上がって行った。

「ああ、待て、待ちなさい。 上階へ行くことは許されていません!」 リアンシンは体の痛みに顔を顰め、 王女の後姿に向かって叫んだ。 「上に行って、何が出来るっていうの? 駙馬とホアジン王女があなたの子供の為に医師を呼ぶとでも思っているの?」

ユンシャンは階段を駆け上がり、 最後の踊り場に足を踏み入れた瞬間、ホアジンの喘ぐような声を耳にした。「はぁぁ」 「ああぁぁぁ… そこは触らないで… あああぁ… ジンラン…」

ユンシャンは眩暈がし、 手に力が入らず赤ん坊を落としてしまいそうになったが、 木製の手すりに寄りかかり自分を支えた。

やっとの事で落ち着きを取り戻し、最後の段を駆け上がって行き、 歯を食いしばって、肘からドアに体当たりした。

「誰だ?」 男のあえぎ声が石の壁にこだましており、 ユンシャンは、そこに裸で絡み合っている男女の姿を見て、思わず後ずさりした。

「出て行け!」 ユンシャンが戸口に立っているのを見て、モー・ジンランは激怒した。

ユンシャンは何か言おうと口を開いたが言葉にならず、 息を整えて囁くように話し始めた。「フアンエルの具合が悪いんです。 駙馬、お願いですから医師を連れて来てください」

「はぁ?」 ジンランは彼女が言った事を考えていたが、 彼女の懇願に耳を貸さず叱責しようとしていたその時、彼の下で横たわっている女性が彼の胸をふざけて愛撫し始め、 悪意のこもった笑みを浮かべ、話し始めた。 「ジンラン、妹が私たちを見ていたいのなら、見せてあげましょうよ。 椅子に縛り付けて、私たちが楽しんでいる所を見てもらえばいいわ」

ジンランの口元に冷ややかな微笑みが浮かんだ。 彼はベッドを出てロープを手にし、 「フアンエルを机の上に置くんだ。 お前が見終わったら、医師を呼ぶ」とニヤついて言った。

ユンシャンはためらったが、 選択肢がないことを分かっており、無気力に頷いた。 この王女の邸宅では、誰も彼女を助けてくれる人はいなかった。 彼女は赤ん坊を机の上に置き、ベッドの脇にある椅子に座ると、 ジンランが彼女を椅子に縛り上げた。

彼がベッドに戻ると、裸体の女性が彼の腰に足を絡ませ、 つま先は彼の背中を優しく愛撫し始めると、 彼の目が欲望で燃え、彼女の中力強く押入って行くと、 彼女は快楽でうめき声をあげた。

その女性はユンシャンを見て、 魔性の微笑みを浮かべた。「見てよ、私の妹。 お姉さんがどうやって手と足で男に仕えるのかを教えてあげるわ」

ジンランは、さらに激しく突き進め続ける前に、叫びながら大笑いした。

その瞬間、男女の喘ぎ声が部屋中に響き渡り始めた。

ユンシャンは心が少しずつ刻まれていうように感じて呆然としており、 心に付けられていく傷の音が聞こえるかのようだった。

この男は私が選んだ夫なのに私を裏切り、ずっと尊敬していた王女でもある姉さえ、私の心を切り裂くように彼との色事に耽っているのだ。

線香一本が灰になる程の時間が過ぎていた。 ユンシャンはますます青白くなり目の輝きも無くなった机の上にいる 赤ん坊を見て、 不安でたまらなくなり、 涙を流し懇願した。「お願い。駙馬、お姉さん。 私の子供を救ってください。 お願いします、死にそうなんです...」

「うっとうしいな。 なぜそんなに騒ぐんだ?」 ジンランは彼女に向かって叫び、ベッドから飛び降りて、 彼女に歩み寄る途中で立ち止まり、机の上に置かれた赤ん坊を覗き込んだ。「死にそうだと? 死に掛けているのなら、 なぜここに連れて来たんだ?」

そう言い終えると、彼は赤ん坊を抱きかかえ、窓を開け外に投げ出した。

「だめ... いやぁぁぁぁぁ!」 ユンシャンはあまりのショックに椅子に縛り付けられている事も忘れて、 勢いよく立ち上がり窓に駆け寄ろうとしたが、 そのまま椅子ごと床に倒れてしまった。

「赤ちゃん... 私の赤ちゃん... あああぁぁぁぁ!」 床に倒れた衝撃で全身に痛みが走っていたが、彼女はその痛みにも動じず叫んでおり、 彼女の叫びを聞いた人たちはそのあまりに悲痛な叫びから、彼女の深い悲しみを感じられるほどだった。

足音が近づくのを聞き、ユンシャンは顔を上げた。 王女である姉が 剣を手に近づいて来ており、 姉に剣を顔に突き付けられた彼女は、深いため息を付いた。 「なんてこと! 私ったら、今日は一体どうしたのかしら? あなたの花のように美しく繊細な 顔に傷をつけたらどんな感じになるのか知りたいわ」

ユンシャンはとても動揺していた。 馬鹿にしたような目つきで見下しているホアジンに、彼女は嘆願した。  「私の顔に何をしても構わないわ。でも殺さないで」 彼女の声はカラスの声のようにかすれていた。

ホアジンが目を輝かせて剣を振り上げ、 剣先がユンシャンの顔を横切った瞬間、 彼女の顔に燃えるような痛みが走った。 その痛みと共に彼女の心には鎮めることの出来ない憎しみが芽生えたが、 赤ん坊の事を考え、 ここから逃げだすためにはどう脅したらいいのかを歯を食いしばり考えていた。

ホアジンはこの憂さ晴らしに飽きたらしく、「涙すら見せないのね。 つまらないわ!」と言い放ち、 ユンシャンを縛っていたロープを切り、ベッドに戻って行った。

酷い足の痛みにも関わらず、ユンシャンはドアに向かって走り出したが、 足を取られ、階段を転げ落ちて行った。 楼閣の下まで落ちて行った彼女は大けがをしているのにも構わず立ち上がり、外に駆け出した。

彼女の子供は、 頭から血を流し、 静かに横たわっており、 地面に滴り落ちた血は、降りしきる雨に素早く洗い流されていった。 ユンシャンは赤ん坊を優しく抱きかかえ、話しかけた。 「大丈夫。 大丈夫よ。 私の可愛いフアンエルは元気よ。 ママが太医(たいい:皇帝に仕える医者)の所に連れていってあげるわ。 ほら、見て。 今からあそこに連れて行ってあげるわ。 私の可愛いフアンエルはきっと元気になるわ...」 赤ん坊を抱きかかえた彼女は、大急ぎで中庭から駆け出して行った。

「本当に太医に会いに行くつもりなのか?」 窓際に立っていたジンランは、心配そうにユンシャンが立ち去るのを見ていた。

柔らかく暖かい体が彼に寄りかかって来た。 「心配しないで、ジンラン。 あなたはすでに王女の邸宅を支配下に置いているのよ。そうでしょ? 彼女は去ることができないわ。 皇宮(こうぐう:皇帝、皇后、未成年の王女、皇子および彼らに仕える人などが住んでいる場所)に入る事が出来ても父上は皇宮にはいないから、彼女は助けを乞えるのは皇后しかないのよ。 それに、皇后は私の母であり、 彼女の母親ではないわ」

ジンランは振り返り、彼女を抱きかかえ、 ベッドに運んだ。

「あはは…」 ホアジンがなまめかしい口調で言った。「ジンラン、あなたって悪い人ね...」

「皇后様、ユンシャン王女が血まみれで、 尋ねて来ています…」 女官が慌てて内室に駆け込んできた時、その優美な貴族の女性は銅鏡の前に座り、かんざしを選んでいた。

皇后は、不可解な表情で聞いた。「ジンガー(ホアジンの愛称)が、ユンシャンを邸宅で軟禁していると言っていなかったの?

どうしたら、私の宮殿にやって来ることが出来るのかしら?」

皇后が話していると、ユンシャンのすすり泣く声が聞こえてきた。 「母上、母上、フアンエルを救ってください。 お願いします。フアンエルを助けてください」

皇后が声の聞こえてくる方を振り向くと、ずぶ濡れになった女性が部屋に駆け込んでくるのが見え、 その顔には骨が見えるほどの、 酷く深い傷があった。 その女性はマントを剥ぎ取り、すでに息を引き取っている赤ん坊を見せた。 その赤ん坊から流れ落ちる血が辺り一面に広がって行った。

皇后はユンシャンを不満そうに見つめた。 「何を救いたいの? その赤ん坊はもう手遅れよ」

「いや、母上。 フアンエルは生きています。 お願いですから、彼を救ってください。 母上、フアンエルを救うために太医を呼んでください。お願いです」 彼女は、皇后の前で跪き、叩頭し始めた。

皇后は、ドアの所で待っている女官に合図をした。 「シュシン、太医を呼びに行って。 そして、他の誰かにユンシャン王女にお酒を持ってくるように言ってください。 体を温めた方がいいわ」

その女官は急いで立ち去って行き、 お酒を手にすぐ戻って来た。 皇后はこの若い王女に優しく話しかけた。「さぁ、座って、ユンシャン。 太医を呼びに人を送ったから。 先にお酒を飲んで、体を温めなさい。 フアンエルの看病をしなければならないでしょう。 体調を崩したら大変な事になるわよ」

ユンシャンは頷きながら座り、 独り言を言っていた。「そうだわ。 体調を壊してはいけないわ。 私が病気になったら、フアンエルの面倒を見る人がいなくなるわ。誰も助けて…」 そう言うと、血まみれの手で、お酒が入っているグラスを持ち、 顔を上げてその液体を飲み干した。

皇后は恐ろしい笑みを浮かべていた。「いい子だわ。 私が一番嫌いなのはね、私の褄梧宮(チーウーグー)を汚す人々なのよ。 死んだ子供をここに連れてくるなんて… なんと縁起が悪いでしょう…」

ユンシャンは驚き、 皇后の突然の口調の変化に混乱した。 何が起っているのかに気付く間もなく、突然、彼女の腹に激痛が走った。 それは立っていられないほど、鋭い痛みだった。

「皇后、 薬がよく効いているようですね」 横から聞こえてくるその柔らかな声に ユンシャンはショックを受けた。 その聞き覚えがある声は 皇后に仕えているシュシンの声だと分かったのだ。

「母上…」 ユンシャンは絶望的な表情をした。「母上…なぜ?」

「私はあなたの母親ではないわ。 あなたの母親は随分と前に亡くなっているのよ」 皇后のその言葉はとても冷ややかで、ユンシャンを恐怖に陥れた。 「あなたを苦しませたかったから、殺すつもりはなかったのよ。 しかし、あなたはこの褄梧宮を汚してしまった。残念だわ」

ユンシャンは皇后の言葉を聞き、狂ったように笑い始めた。 腹部の強烈な痛みにも関わらず、彼女は呻くように話し始めた。 「確かに私は、世界で最も愚かな女だわ。 私はあなたと、ホアジン、そしてモー・ジンランを信用していたけど、 信頼していた人たちに、まさかこのように扱われるとは思ってもみなかったわ。 あなたはなんて邪悪なのでしょう...」 そして彼女は苦笑いした。 「私、ニン・ユンシャンは死んでもあなたを許さない。 決してあなたを許すことはしない」

彼女は血を吐き出し、床に倒れこんだ。「もし来世があるのなら、必ずあなた達を見つけ出すわ。 必ず復讐してやる。復讐を…」 彼女は息絶えるまで、しっかりと赤ん坊を抱きかかえていた。

女官がユンシャンの呼吸を確認し、 息をしていないことを確かめ、言った。「死んでおります、皇后」

皇后は高らかに笑いながら銅鏡を見て、 不死鳥のかんざしを手にして髪に挿し、 鏡に写し出された不死鳥のかんざしを見た。 「死んだのね。 彼女の死体は西の森に運んで、 犬の餌にでもしておしまい…」

2

寧国の皇宮の庭園を歩いていた二人は、日差しの強い朝日を浴び汗だくになっていた。 その日はこの夏一番の暑さで、 二人は影が掛かった軒下で、一休みすることにした。

シンプルな黒のドレスを着た女官は心配そうな様子で話した。「王女さまはどうされてしまったのかしら? 起床してからずっと落ち着かない様子なんです。 ぼんやりとして鏡を見つめて座りっぱなしで、ほとんど話しもしないんですの。 それに毎晩悪夢にうなされていて… まだあの事故のことを怖がっているのかしら?」

宦官は注意深く当たりを見回し、前かがみになって女官の耳にささやいた。「リアンシン、私は王女さまは憑りつかれたんだと思うんだが。 この皇宮に来る前に、私の妹の息子があんな感じになったのを、 見たことがあるんだ。 川で溺れていた甥が 助け出された後、様子がおかしくなってな。 そして、人を送って道教の僧侶を招くと、 甥に何か邪悪なものが憑りついていると言われた。 僧侶が悪魔払いをしたら、 甥はすぐに回復したんだ。 お前、どう思う...? 道教の僧侶を招いたほうがいい?」

リアンシンは不可解な様子だった。「ほんとに? 皇后さまは王女さまに起った事で自分を責めて、 みずから皇帝さまに罰を求め、丸三日、褄梧宮から外出禁止になったのよ。 あなたの言うことが本当なら、悪魔払いはとても重要だわ。 皇后さまに報告して、許可を求めましょう」

宦官は頷いたが、 すこし間を置いて続けた。「皇后さまは王女さまの産みの親でないのに、 よく王女さまの面倒を見ているなんて。なんと情け深いお方だろう。 王女さまは腕白すぎるから、あんな怪我をしたんだよ。 なのに、皇后さまはご自分で責任を取られた。 とても素晴らしいお方だね」

宦官とリアンシンが話していると、誰かが近づいてくる気配を感じて振り返ると、 ピンク色のドレスを着た少女が裸足で庭を歩いているのを見た。

ユンシャン王女だった。

宦官は急いで挨拶をした。「王女さま」

ユンシャンは軽くうなずき、庭にいる他の宦官を軽く見てから、 宮殿に戻って行った。 彼女は二人の会話を全て聞いていたのだ。 素晴らしいですって? 彼女は口をすぼめて嘲笑しており、 その顔つきは、無邪気で可愛らしい顔には釣り合わない冷酷な微笑みだった。

ユンシャンは再び鏡の前に立ち、 鏡に映っている自分を観察しており、 八歳から九歳くらいのあどけない顔の少女が、見つめ返していた。

彼女は自分の手で、そっと右頬にふれた。 王女でもある姉、ホアジンにつけられた深い頬の傷の事を覚えているのだ。 皇后の実の娘であり、彼女はその美しさと魅力で名を知られていた。

ホアジンはとある将軍と結婚したが、 彼は戦争で亡くなってしまったので、 彼女を哀れんで、自分の邸宅に連れて来たのだが、 まさか、彼女が自分の夫と浮気するとは思ってもみなかったのだ。 ユンシャンは、大好きであった姉と夫に椅子に縛り付けられ、彼らの情事を見せつけられたことも覚えていた。

さらに、ユンシャンが生涯を掛けて愛し、信じた夫に、目の前で赤ん坊を投げ捨てられたのだ。

幼かった子供。 彼女のたった一人の最愛の子供... 罪のない子供のことを考えると、ユンシャンは心が張り裂けるような気持ちになった。

例え、姉と夫に残酷で不当に扱われていても、それ以上に、尊敬し、実の母のように思っていた皇后に裏切られたことを受け入れるのがとても辛かった。

ユンシャンは、辛い思い出に押し潰されてしまいそうなのを堪え、自分自身を取り戻すために目を閉じ、 これらの辛い思いは隠し通さなければいけない、と思っていた。

どんなに頑張っても、魂が肉体を去った、あの寒い雨の夜に誓った復讐のことを考えずにはいられなかった。 母親によって毒殺され、姉に傷つけられ、そして夫と女官に裏切られた。 それはユンシャンにとって耐えがたい以上のことだったが、 しかし、まさか自分が幼い頃の自分に生き返り、復讐を果たすことになるとは思ってもみなかった。 全てのことが非現実的で、まるで夢を見ているかのようで、 目を開けたその時から何もせず、この夢から覚める時を待っているだけだった。 しかし、時が経つにつれ今起こっていることは、子供の頃起こったことと全く同じであると彼女は気づき始めていた。

人生をやり直すチャンスを得たのだろうか?

ユンシャンは、子供の頃の自分が木から落ち、数日意識を失っていたことを、今でもはっきりと覚えている。 目が覚めた時、彼女は皇后は自分に罪を着せ、皇帝に適切な罰を与えるように頼んだと、耳にしたのだ。 皇后はユンシャンの産みの親では無かったが、彼女が望む以上に守ってくれていたので、 その事故の後、彼女はとても感謝し、皇后との絆を深めていき、 母親として受け入れ、言われたことは何でもした。

ユンシャンは前世で起った全ての出来事を思い出し、皇后は最初から全てのことを支配していたのだと気づいた。 彼女の実の母は皇帝とは幼馴染で、のちにジン妃(妃とは皇帝に仕える女性で皇后に次ぐ位にあるもの)の称号を得たのだが、 しかし、なせだか彼女は皇帝を怒らせ、冷宮(皇帝の寵愛を失ったり罪を犯した后妃が軟禁される場所)に追放されたので、 ユンシャンは被後見人として皇后に引き取られたのだ。

皇后はユンシャンを熱愛し、 ユンシャンを甘やかし、彼女が欲するものは全て与えた。 その結果、彼女は誇り高く傲慢になり、常に問題を起こしていたので、 皇帝でさえ我慢の限度に達し、成人式の直後に彼女が選んだ男性と結婚させたのだ。 彼女は愛する男性といつまでも幸せに暮らせると思っていたが、 義母は彼女が王女であるにも関わらず、彼女のこと嫌っていて、 いつも彼女の粗探しをしており、やむを得ず彼女は目立たないように振る舞うことにするしかなかった。

ユンシャンはまたあざ笑っていた。 たとえこのことが夢だったとしても、二度と同じ間違いを繰り返さず、 彼らの借りを少しずつ返してもらおうと心に誓ったのだ。

「ユンシャン、ユンシャン...」 外から澄んだ声が聞こえると、 召使いが他の誰かに挨拶をしているような気がした。「おはようございます。ホアジン王女」

あまりの驚きに、ユンシャンは思わず椅子から立ち上がったが、ドレッサーに足をぶつけてしまい、 その上に置いてあった小物が床に落ちた声に我に返って、自分が過剰反応してしまったことに気づいた。 今起こっていることを理解するのに数日かかったが、それでも彼女はホアジン王女を目にした時は落ち着いていることができなかった。

「愛しい妹…」 紫のドレスを着た少女が走りこんできて、ユンシャンの前で立ち止まり、 彼女の手を取って上から下まで見回し、心配そうに聞いた。「気分は良くなった? まだ完全に回復していないのに、 裸足でいてはいけないわ。 今日はかなり暑いけど、裸足でいるのはよくないわ」 そして彼女は後ろに立っている女官に指示を出した。「リアンシン、これがあなたの主人を世話するやり方なの? すぐに、妹に靴を持ってきなさい」

ユンシャンはホアジンが部屋に入って来た瞬間から彼女のことを観察していた。 彼女は小さな女の子だったが、ユンシャンが覚えている彼女のままで、 とても愛らしく、 この先、残酷な心を持つ女性になるとは思えないほどで、 人は見かけだけでは判断できないことに気付いていた。

リアンシンが靴を取りに行こうとしていると、ユンシャンはホアジンの手を振りほどき、寝室へ歩いて行き、 目を大きく見開いたまま、ベッドに寝転んだ。

寝室の外からかすかにホアジンの困惑した声が聞こえてきた。「どうしたの? ユンシャンはまだ気分が悪いの?」

そして、リアンシンがホアジンの問いに答えているのが聞こえてきた。「よくわかりません。 ユンシャン王女は目が覚めた時からこのような状態だったんです。 一人すっとそこに座っていて、ほとんど話もしないんです。 先ほどアンと話していたんですが、もしかしたら王女は憑依されているのかもしれません。 皇后さまにご報告して、悪魔払いをするためにいい道教の僧侶を探そうかと思っているんです」

ホアジンは同意する前、何かを考えていた。「すぐに母上と話をします...」

そして、また静かになった。 ホアジンが去って行ったようだ。 ユンシャンは目を閉じ、自分を取り戻してしっかりしようとしており、 復讐したいのなら落ち着いて、気をしっかりさせないと、と考えていたのだ。

ただ一つの問題は、ここにいる女官や宦官たちは皆、皇后によって集められた者ばかりで、 誰一人信用できる者がいなかったのだ。 ユンシャンは自分の側に付いてくれる人なしでは、切り抜けていけないことはわかっていた。

誰が彼女を助けてくれるだろう?

3

草木も眠る丑三つ時、黒いマントにくるまれた小柄な人物が静かにニンシャン殿(ユンシャンの住む宮殿)のドアを押し開け、急ぎ足で外に駆けて行った。

その人物は中庭の端を忍び足で進み、中庭の離れた場所にある建物のドアをノックした。 しばらしくて、疲れた様子の声が聞こえてきた。「今行きます。 どなたですか?」

きしんだ音を立てながらドアが開き、灰色の服を着た年老いた女官が顔を出し、 マント姿の人物はマントのフードを取り、老婆を見上げた。

「ユンシャン王女? なぜこの時間にここにいらっしゃったのですか?」 老婆は彼女を引き入れる前に周りを見渡した。

ドアの隙間からみえるその部屋は寒々としており、 庭には井戸と木しかなかったが、きれいに整えられていた。 彼女は前世ではここに来たことはなく、 泣きたい気分になっていた。

彼女が中庭にあるその小さな建物を見ると、薄暗いランプの光が中から漏れており、 「まだ寝てないの?」と老婆に聞いた。

老婆はユンシャンが入って来てから彼女を観察しており、 優しい声で答えた。

「食べ物がなくなったんです。 主人は、御膳房(ごぜんぼう:皇帝の食事を用意する場所)で働く宦官たちと食べ物と引き換えるために、徹夜で服を作らないと、とおっしゃったんです」

ユンシャンはそれ以上何も聞かず、 建物の中の別の部屋に入って行った。

部屋の中では、若い女性が石油ランプの光に照らされ刺繍をしていた。 彼女は青緑色の無地の服を着ていたが、それでも非常に美しく見えた。 ドアが開くと、彼女は顔を上げずに低い声で聞いた。「チェンさん、こんな夜遅くに誰が来たの?」

ユンシャンは悲しみを堪えきれず、 ひざまずき、ささやいた。 「お母さま... 本当にごめんなさい。 ごめんなさい...」

前世では、皇后に気に入られていたユンシャンは 皇帝からの好意をなくして冷宮に閉じ込められたジン妃、彼女の産みの親のことを嫌っていて、 誰もジン妃の名前を口に出すことは許されなかったのだ。 ユンシャンは母親について聞かれると、誇らしげに「王室の血を引いている この私の母は皇后さまよ。 あの汚い血が流れているジン妃が、私の本当の母親であるはずがないわ!」と言い張っていたのだ。

(冷宮:れいぐう、皇帝の寵愛を失ったり罪を犯した后妃が軟禁される場所 )

だが今になって、批判は剣よりも人を傷つけるということがどんなことかに気付いていた。

刺繍をしていたその女性はユンシャンの声を聞き、驚いて顔を上げたが、 そこにいる若い王女を見てぼんやりとしていた。 そして急に立ち上がった。「ユンシャン! ユンシャンでしょう?」

ユンシャンは微笑みながらうなずいた。 彼女は子供の頃から母親とは離れて暮らしており、 母親がわからなかったのも無理はなかった。

ユンシャンが話し始めようとすると、ジン妃は手を差し伸べ立たせてあげた。 そして、この幼い王女が裸足でいるのを見て、驚いた。「こんな夜遅くに、どうやってニンシャン殿から抜け出してきたの? それに、靴を履いていないじゃない。 体を冷やして風邪でも引いたらどうするの?」

ユンシャンはうなだれて、 目に涙を浮かべていた。 自分がどんなに母親の事を悪く思っても、ジン妃は娘である自分を愛してくれているのだ。 彼女は、ジンランが窓から投げ捨てた、あの赤ん坊のことを考えずにはいられなかった。 赤ん坊はまだ生後六か月だったのに… 彼女の頬に涙が流れ続けた。

ジン妃はユンシャンの涙を見て気がきでなく、 急いで幼い王女の涙を拭いた。「なぜ泣いているの? あの人達があなたになにかしたの? でも、皇后はあなたを自分の娘のように良くしてくれていると聞いてるわ」

ユンシャンは歯を食いしばりながら話し始めた。「いや、お母さま、あの人達は酷い人たちよ。 あの人達の愛情と態度は見せかけだけで、 目的を達成するための手段なの。 私を甘やかして、高慢で嫌な女の子のレッテルを張っただけなの。 私に琴棋書画は退屈だと言ったので、習うのを止めたの。 私に優しくするふりをして、ただ役立たずにしているだけなのよ。 皇后は、私を見張る為に自分で私の世話をする宦官や女官を選んで、 皇后がどんなに寛大で徳の高い人かを毎日のように話してきて、私に彼女の悪い所を見せないようにしているわ。 それにホアジン王女の先生がどんな罰を与えるのかも… もし私が行儀よくしていれば皇后が褒めてくれて、いい子にしていたご褒美に、私が気に入らない使用人を叩きのめしたり、殺したり、なんでも好きなことをしていいって言うの。 私をずっと守ってくれるって言うんだけど。 お母さま、私はまだいい子だと思う? 私、もう八歳だけど、読み書きや楽器を弾くことができないの。 でもホアジン王女は、もう帝都では才能を良く知られているのよ。

(琴棋書画:きんきしょが、古代中国では、女性は音楽、チェス、書道、絵画を習得する必要があった )

ジン妃は長い時間考え込み、ため息をついた。「それはすべて私のせいだわ」

彼女が話し続けようとした時、起床時間を知らせる鐘の音が聞こえ、 ユンシャンは急いで立ち上がった。「お母さま、もう行かなくちゃ。 今日はただ顔を見に来ただけなの。 数日前、木から落ちてしばらく気を失っていたの。 目が覚めてからは、わざと毎晩悪夢を見るふりをして嘘を付いて宦官と女官を近づけないようにしてたし、 宦官と女官が近づいてくると、悪態をついたわ。 やっと、最近彼らが夜間私に近づいて来なくなったから、 会いに来る機会が出来たのよ。 でも、もうあの人達が起きる時間だわ。もう行かないと。 お母さま。私のせいで罰せられるようなことはしたくないの」 そう言うと、彼女は急いでドアの方へ向かった。

「ユンシャン。 ユンシャン...」 ユンシャンは母親の呼びかけに振り返り、 手首から金のブレスレットを取り外してジン妃に手渡した。「お母さま、私、急いで出て来たからなにも用意してなかったの。 このブレスレットを食べ物と交換できるわ。 皇宮の使用人たちはみんな貪欲で無情よ。 苦労しているみたいだけど… また機会を見つけて会いに来るわ!」 そう言い終えると、彼女はフードをかぶって、暗闇の中へ消えて行った。

ジン妃は腰掛けに座り、ユンシャンが立ち去るのを見ていたが、 それから長い時間、黙りこんでいた。

チェンが尋ねた。「主人、王女はなぜ訪ねて来たのでしょうか?」

ジン妃はため息をつき、涙を浮かべ顔を上げた。「チェンさん、私はとてもわがままなの? 当時、皇帝が新しい女を後宮(こうきゅう:皇后や妃などが住む宮中奥向きの宮殿の総称)に連れてくるのが嫌だし、 彼が他の女性と恋に落ちるのも見たくなかったから、 ここに隠れる事にしたの。無知だったわ。 私は、辛い年月から逃げていたと思っていたの。 でも、人からの危害から身を守ることすらできない、自分の血が流れている幼いユンシャンのことを忘れてしまって…」

チェンは静かに聞いていたが、話し始めた。「主人、後宮はたえず不道徳で危険な場所ですわ。 あなたは子供の頃から無意味な論争を嫌ってきました。なので、あんな醜い場所から身を引いたのは正しかったと思いますわ。 王女のことは、明日、守ってくれそうな人を探します。 主人は、この場所に来る前に、多くの人を親切に扱ってきましたから、 きっとあなたを助けてくれる人がいるはずです。 誰か王女の側に付けた方がいいに決まっています」

ジン妃は上の空でうなずいた。

誰にも見られずにニンシャン殿にこっそり帰って来たユンシャンは、安堵のため息をついたが、 門の所で立ち止まり、突然湧いて来た思いに顔をひそめた。 産みの母親についてなにも知らず、今まで見たことも聞いたこともなかったのだ。 覚えているのは、前世では彼女が重病になり、成人式の前に亡くなったことだけで、 彼女に会いに行ったことで、運命が変わるかどうかはわからなかったが、 そのことは大きな問題ではなく、 どれだけ母親との時間があるかわからないが、時間が許す限り彼女をいたわろうと心に決めていた。

(成人式:古代中国では、女性は十五歳になると、かんざしを使用して髪を結いあげ成人したことを表す )

自分の部屋に戻ると、ユンシャンは黒マントを大きな箱にしまってから、ベッドに座り、 なにかいいアイデアがないか考えていた。 何か思い立ったように意気込み、内ホールへ裸足のまま駆け出して行くと、目を細め、石油ランプを睨みつけた。 そして、彼女は手を振り上げ思い切りそのランプをカーペットの上に押し倒した。 それから急いで自分の部屋に戻ってベッドの中でうずくまり、寝たふりをした。

「ニンシャン殿が火事だ! ニンシャン殿が火事だぞ!」 人々の叫び声が鳴り響いた。 そしてまもなく、ニンシャン殿内は大混乱になった。 「急いで! 王女はまだ部屋の中にいるの!!」という叫び声が上がった。 「王女を見つけるんだ!」

ユンシャンはベッドから起き上がり、 部屋のドアの所にたち、微笑んで炎を見ていた。

彼女は、自分は過去世では後悔を残して死んでいったと思っていた。 しかし、自分は生まれ変わったのだ。 神にこのようなチャンスを与えられ、二度と誰にも支配されるような生き方はしないと心に誓った。 あの二人の女性は力と富に取りつかれたのではなかったか? 彼女たちの手の内にあるものを、これから少しずつ奪っていくつもりだった。

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~八歳の王女~不死鳥のごとく甦る

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