1

「離婚しよう」

たった二枚の紙が、四年に及ぶ結婚生活に静かに死刑宣告を下した。

榛名文祢の雪のように白く繊細な指が、男の達筆な署名の上をそっとなぞる。顔を上げて黒岩一真を見つめたとき、その瞳には消しきれない涙の光が浮かんでいた。

「…もう、やり直す余地もないの?」

声はかすれていた。さっきまで家事をしていたせいで、こめかみに浮かんだ汗はまだ引かず、重たげな黒縁眼鏡にくっついている。その姿はどこか冴えず、ぎこちない印象さえ与えた。

彼が「今夜帰る」と言ったから。彼が「話がしたい」と言ったから——

胸を高鳴らせて、夜明けとともに目を覚ました。自分で食材を買いに出て、料理をして、家じゅうをぴかぴかに磨き上げた。暇もなく働いた末に返ってきたのは、息の詰まるような一言だった。

「もともとこれは、取引だったんだ」黒岩一真は煙草の灰を無造作に払うと、うんざりしたように続けた。「それに、理紗がもうすぐ戻ってくる」

なるほど、そういうことか。

宝木理紗――黒岩一真にとっての忘れられないあの人、憧れのあの人。

舌先が上顎を押し上げる。あの敗北感が、四年前と寸分違わず胸を締めつけた。榛名文祢はうなだれたまま、ぼんやりと気づく。宝木理紗さえ現れれば、黒岩一真は彼女のために、どんな利益も、どんな信念すらもあっさりと捨ててしまうのだ。

あのとき、仕方なく自分と結婚したのも、そしてその後の四年間、ひたすら彼女のために貞潔を守り続けたのも――すべては、宝木理紗のため。

返事がいつまで経っても返ってこない。黒岩一真は眉をひそめ、目の前で伏し目がちに大人しく佇むその女性を静かに見つめた。

榛名文祢の容姿には、非の打ちどころがなかった。白玉のように透き通った肌、品のある高い鼻筋、薔薇の花びらのように柔らかな唇には、小さなリップピアスのような艶が添えられている。黒縁の眼鏡の奥に隠されたその瞳でさえ、光の反射次第で、きらめく星のような輝きを放つことがあった。

けれど――つまらなかった。いや、退屈を通り越して、もはや木石のごとく。

変わることのない優しい口調。何年経っても変わらぬ「良き妻」としてのふるまい。淡白で、味気なくて、まるで見通せてしまう白湯のように。

黒岩家の妻としては申し分ない。だが――彼の「女」としては、決してふさわしくなかった。

指に挟んだ煙草を灰皿に押しつけ、黒岩一真は投げやりな口調で言った。「お前、以前…」

言いかけて、ふと視線を落とす。榛名文祢は変わらずうつむいたまま。その様子に、どこか拗ねたような、許しを乞うような空気が漂っていた。

黒岩一真は言葉を切り替え、まるで興味を失ったかのような冷めた声で続けた。「お前の経歴を考えると、今後の就職も難しいだろう。だから公証済みの財産とは別に、別荘を三軒譲る。あの限定モデルのフェラーリもやる。現金は、俺個人の口座から10億円、補償として振り込む」

かつて、宝木理紗が海外へ旅立ったとき――黒岩一真は、その後を追って遥か彼方へと飛んだ。黒岩家の当主は激怒し、家族の名を汚したとして勘当すら口にした。もしあのとき、黒岩一真の母・美代子が機転を利かせ、命を賭してまで彼を連れ戻さなかったなら、黒岩家の正統なる長男にして嫡男は、恋も地位もすべて失っていたことだろう。

2

家の権力を取り戻すため、黒岩一真は渋々ながら祖父の命に従い、当時“刑務所帰り”と噂されていた榛名文祢と結婚するしかなかった。

この女に情はない。だが、この四年間、ひたむきに尽くし、分をわきまえ、黒岩家に一切の迷惑もかけず、何より身の回りの世話も悪くはなかった。それだけの働きを思えば、多少の金を多めに与えてやるくらい、黒岩一真としても惜しくはなかった。

まるで――気まぐれに馬を飼うのと同じことだった。楽しみのためには、相応の代償を払う。それだけの話。

男の長い人差し指が、契約書の一枚を静かに叩く。その指に四年間、一度たりとも外されたことのない、特別な意味を持つ指輪が光り――榛名文祢の目を、鋭く刺し貫いた。

「三日やる。考えるならその間にしろ。ただし、あまり引き延ばすなよ。俺の我慢は、そう長くは続かない」

「…必要ないわ」

榛名文祢は隣に置かれた黒のペンを手に取ると、ためらいも見せず、署名欄にしなやかな筆致で名前を書きつけた。風を切るような、鋭く、美しい一筆だった。

「自分の立場はわきまえてるわ。今日中に出ていくから、あなたたちの邪魔はしない」

黒岩一真は、なんの感情も見せずにうなずいた。「…OK」

たしかに認めざるを得ない――ここまで関係が冷え切った今でも、榛名文祢は相変わらず品位を失わず、察しがよく、彼の足を引っぱるような真似を一切しなかった。

正直に言えば、「黒岩家の妻」としての彼女は、名家の令嬢たちの中でも際立っていた。

けれど――感情だけは、どうしても理屈では動かせない。

黒岩一真が契約書をひっくり返し、口を開こうとしたその瞬間――「バンッ!」と扉が乱暴に押し開けられた。「兄さん!あの労働改造女と別れるって聞いたけど、あの限定フェラーリ、私にちょうだいよ!運転したい~!」

黒岩心温が遠慮なく部屋に飛び込むと、勢いそのままに叫んだ。​​振り返った榛名文祢と真正面から視線がぶつかると、心温はわざとらしく大きく目を剥き、軽蔑を隠そうともしない。

黒岩一真は眉間に皺を寄せた。「何度言ったらわかる。書斎で話してるときはノックしてから入れ。行儀もなにもあったもんじゃない。お前、本当に名家の娘らしさの欠片もないな」

心温は机に手をつき、子どものように身を乗り出して甘える。「わかったってば〜!だから早く鍵ちょうだいよ。今日、友達とドライブの約束してるんだからっ!」

昔から、わがままな妹には甘くて仕方ない黒岩一真は、顎で榛名文祢を指し示した。「心温に渡してやってくれ」

榛名文祢はまぶたを伏せ、静かに返した。「でも――この車、私のものになるって…言ったでしょう?」

声色はいつもと同じ、穏やかで柔らか。けれどその奥に、黒岩一真はどこかよそよそしい冷たさを感じ取って、眉をわずかにひそめた。

「は?何言ってんのよ!」短気な黒岩心温が声を荒げ、ずかずかと歩み寄ると、いきなり榛名文祢の肩を乱暴に押した。「『あなたの』でも『わたしの』でもないでしょ?ここは全部、兄さんの家なんだから!あんたに決める権利なんてないのよ! さっさと鍵を渡しなさいよ!」

3

黒岩家に嫁いでからの年月――榛名文祢は、黒岩心温に対してできる限りの誠意を尽くしてきたつもりだった。

トラブルを起こすのが得意で、いざ事が起これば「お母さま〜!」と泣きつくばかりの、絵に描いたような箱入り娘。それが心温だった。

かつて聖域会の五女に喧嘩を売り、結果としてその当主――三男・藤堂政丞に捕らえられ、市内で最も高いタワーに拘束された。もしもあのとき、自分がたったひとりで藤堂政丞と交渉に向かわなければ、心温はとうに塔の上から突き落とされ、今頃この世にいなかっただろう。

それでも、今の自分に向けられる言葉は「労働改造犯」ただそれだけだった。

「渡さないわ」

榛名文祢は迷いなく答え、まっすぐに黒岩一真を見据える。「この車は私がもらうって、あなたが言ったはずよね?『黒岩様』ともあろうお方が、たった一台の車を惜しむなんて――まさか、そんなことないでしょう?」

その顔立ちは相変わらず淡々としていて、物腰も穏やか。話す声にさえ、これまでと変わらない柔らかさしかない――なのに。黒岩一真は、目の前に立つこの女が、もはや以前のように黙って踏みにじられる榛名文祢ではないと、はっきりと悟った。

ひと呼吸おいて、彼は低く冷ややかな声で妹に告げた。「家には十数台のスーパーカーがある。欲しいなら、俺のガレージから好きなのを選べ」

けれど黒岩心温の意地はそう簡単に折れない。子どもの頃から箱入りで、何ひとつ我慢させられたことがなかった。藤堂政丞に痛い目を見せられた一件を除けば、誰も彼女に逆らわなかった。ましてや今、目の前にいるのは――かつて服役歴まで囁かれた女。その女に「いいえ」と言われた。

カッとなって、心温は手を振り上げ、榛名文祢に指を突きつける。「もう一度聞くわ。鍵、渡すの?渡さないの?」

「わたしは、渡さ――」

バチンッ!

乾いた音が部屋に響いた。振り抜かれた掌が、風を切って榛名文祢の頬に叩きつけられる。右の頬が、赤く腫れ始めていた。

「いい気になってんじゃないわよ、このクズが。私に楯突くなんて百年早いのよ!靴の紐ひとつ結ぶ価値もないくせに!」

一瞬、黒岩一真の目に鋭い光が走ったが、すぐにいつもの無感情な表情へと戻る。「心温、言葉には気をつけろ」

それだけ、淡々と口にした。頬を押さえながら、榛名文祢は静かに顔を上げ、横目で心温を見やった。「どうやら…本当に、ろくな教育を受けてこなかったのね」

その一言に、心温はますます得意げになり、顎をしゃくって見下ろすように挑発してくる。

「で?それがどうしたってのよ…ああっ!」

次の瞬間――榛名文祢の手が、窓辺の花瓶を素早く掴んだ。中に生けられていた花もろとも、水がなみなみと入ったそのままの状態で――容赦なく黒岩心温の頭めがけて叩きつけた。​

「だったら…あなた親の代わりに、私がしつけてあげる」

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離婚したら、元夫が知らなかった私が目を覚ました

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