1

「離婚だ」

その一言とともに差し出された薄い紙切れ二枚が、四年の結婚生活に、あまりにも呆気なく死刑を宣告した。

秦文祢は、雪のように白い指で、離婚届に踊る男――黒岩一真の、竜が舞うがごとき署名をそっと、なぞった。 やがて顔を上げ、隠しきれない涙で潤んだ瞳で、夫をまっすぐに見据える。

「もう、やり直すことはできないのでしょうか」

声はか細く掠れていた。 家事を終えたばかりでこめかみに滲んだ汗はまだ乾ききらず、一縷の髪が分厚い黒縁眼鏡のフレームに張りついている。 その姿は、どこか野暮ったく、彼女を鈍重な女に見せていた。

今夜は帰る、と。 話がしたい、と。

その言葉だけを信じて、期待に胸を膨らませていたというのに。夜明け前から起き出して市場へ足を運び、腕によりをかけて料理をし、家中を埃一つなく磨き上げた。 息つく暇もなく働き続け、待ちわびていたのは――呼吸さえ止まるような、残酷な宣告だった。

「もとよりただの取引だったはずだ」一真は苛立たしげに指先で煙草を弾き、灰を落とす。 「それに、理紗がもうすぐ帰国する」

そういうことか。

宝木理紗。 黒岩一真にとって忘れえぬ恋人にして、手の届かぬ『白月光』。

文祢は舌先で上顎をぐっと押し上げ、四年前と寸分違わぬ敗北感が、苦い塊となって胸にこみ上げてくるのを感じた。 彼女はただ、うつむくしかなかった。 宝木理紗が現れさえすれば、一真は彼女のためにあらゆる利益と原則を投げ打つ。

四年前、無理やり自分と結婚させられたことも、この四年間、宝木理紗のために貞節を守り通したことも。

返事のない文祢に、一真はわずかに眉をひそめた。 目の前でうつむく、従順なだけの女。

その容姿に欠点はない。 白磁の肌、すっと通った鼻筋、薔薇色の唇には小さな珠が乗り、分厚い眼鏡の奥の瞳でさえ、ふとした瞬間に光を弾いてきらめく。

だが、いかんせん退屈なのだ。

木石のように感情の起伏が見えず、常に変わらぬ穏やかな口調、良妻賢母を地で行くような立ち居振る舞い。 まるで、底まで見通せる白湯のように、あまりに味気ない。

黒岩家の夫人としては申し分ない。 だが、黒岩一真の『女』としては、物足りない。

指に挟んだ煙草を灰皿に押し付け、一真は何気ない風を装って口を開いた。 「お前の以前の――」

言いかけて、言葉を切る。 無意識に文祢の表情を窺うが、女はうつむいたまま。 その姿が、なぜか一真の目には卑屈にへりくだっているように映った。彼は内心の苛立ちを隠すように言い方を変え、冷淡さの中に退屈を滲ませた声で続けた。

「お前の経歴では、再就職も難しいだろう。 公正証書に定める財産分与とは別に、ヴィラを三軒。 それから、あの限定モデルのフェラーリもくれてやる。 現金で、俺の個人口座から五千万を慰謝料として振り込もう」

当時、宝木理紗が海外へ渡った際、一真は愛のために彼女を追い、黒岩家の当主を激怒させた。 勘当寸前のところを、一真の実母が奇策を講じ、死をちらつかせて彼を連れ戻さなければ、黒岩家の跡継ぎは、女も家も失うところだった。

黒岩家での実権を取り戻すため、一真は祖父の言いなりになるしかなかった。 そうして結婚したのが、当時、刑務所から出たばかりだと噂された文祢だった。

この女に愛情はない。 だが、この四年間、黒岩家の夫人としての務めを実直に果たし、家に迷惑をかけることもなく、自分自身の世話もそつなくこなしてくれた。 その功を考えれば、相場より多めに金をくれてやるのも吝かではない。

愛馬を愛でるには、それ相応の対価を払う。 そういうことだ。

男の長い人差し指が、離婚届をトン、トンと叩く。 四年間、その指から一度も外されることのなかった結婚指輪の冷たい輝きが、文祢の目を射抜いた。

「考える時間は三日やる。 だが、長引かせるな。 俺の忍耐にも限度がある……」

「結構です」

一真の言葉を遮り、文祢はそばにあったペンをひったくるように手に取ると、署名欄に、流れるような筆跡で名を記した。

「自分の立場は弁えております。 本日中にこの家を出て行きますので、お二人のご迷惑になるようなことはいたしません」

一真は表情を変えずに頷いた。 「わかった」

認めなければなるまい。 今日のこの局面ですら、文祢は終始、品位と分別を失わなかった。 仕事以外のことで彼に心配をかけたことは一度もない。

公平に見て、黒岩家の夫人として、彼女はどこの名家の奥方と比べても、傑出した存在と言えた。

ただ、いかんせん、感情というものだけは、どうにもならない。

一真が離婚届を裏返し、何かを言いかけた、その時だった。 バン!と乱暴な音を立てて書斎のドアが開け放たれ、黒岩心温が遠慮のかけらもなく飛び込んできた。 「お兄ちゃん!今日、あの前科者を追い出すって本当!?だったら、あいつの限定フェラーリ、あたしにちょうだい!」

不意に振り返った文祢と目が合い、心温はあからさまに顔をしかめた。 一真は眉根を寄せる。

「何度言ったらわかる。 俺が書斎で話している時はノックをしろと。 行儀が悪い。 少しは淑女らしくしろ」

「わかってるってばー」心温は机に手をつき、甘えた声でねだる。 「それより早く車のキーをちょうだいよ!今日友達とドライブに行く約束してるんだから!」

この我儘な妹に、一真はいつも甘い。 彼は文祢に向かって顎をしゃくった。 「心温に渡してやれ」

文祢は伏せていた目を上げ、静かに言った。 「そのお車は、私にくださるとおっしゃったのでは?」

口調はあくまで穏やかだったが、その声には、一真が今まで感じたことのない、氷のような冷たさが宿っていた。

癇癪を起こした心温が、 ずかずかと文祢の前に進み出ると、 その肩を乱暴に突き飛ばした。 「あんたのとかあたしのとか、 何よそれ! この家の物はぜーんぶお兄ちゃんの物でしょ! あんたに何の関係があるわけ!? とっとと鍵を渡しなさいよ!」

黒岩家に嫁いで四年、この義妹には誠心誠意尽くしてきたつもりだった。

問題ばかり起こす心温は、何かあるとすぐに泣いて母親に助けを求める、絵に描いたようなお嬢様だ。

かつて聖域会の五番目の令嬢を怒らせ、当主の三男である藤原政丞に街で最も高いタワーの屋上に縛り付けられたことがある。 あの時、文祢が単身で藤原政丞と交渉しなければ、心温はタワーから突き落とされ、命はあっても半身不随になっていたかもしれない。

命の恩人であるはずの自分に返ってきたのは、「前科者」という蔑称だけだった。

「お断りします」

文祢はきっぱりと拒絶し、 一真に向き直った。 「この車は、 私が頂きます。 黒岩家の御曹司ともあろう方が、まさか車一台を惜しむなどということはございませんよね?」

相変わらず地味で従順な顔つき。 声さえか弱く、攻撃性の欠片もない。 だが一真は、目の前の女が、以前の誰にでもされるがままだった文祢とは、まるで別人であることに、はっと気づかされた。

彼は一瞬ためらい、冷たい声で心温に言った。 「スーパーカーなら車庫に十数台あるだろう。 好きなものを選べ」

だが、蝶よ花よと育てられ、藤原政丞を怒らせた一件を除けば、誰にも逆らわれたことのない心温の我儘が、ここで頭をもたげた。 ましてや、相手は前科持ちの女である。

彼女は怒りに顔を歪め、文祢を指さした。 「もう一度聞くわ。 渡すの、渡さないの?」

「お断り……」

パァン!

乾いた音が響き、風を切るような平手打ちが、文祢の右頬で炸裂した。

「調子に乗らないでよ、このドブスが!あたしに逆らうなんて、身の程を知りなさい!あたしの靴を舐める価値もないくせに!」

一瞬、一真の目つきが鋭くなったが、すぐに興味を失ったように元に戻り、ただ淡々と言った。 「心温、言葉が過ぎるぞ」

文祢は打たれた頬を押さえ、心温を睨みつけた。 「……本当に、お躾のなっていないお嬢様ね」

心温は勝ち誇ったように、顎をしゃくって文祢を挑発する。

「それがどうしたって言うのよ……きゃっ!」

その瞬間、文祢が動いた。 振り返りざま、窓辺にあった花瓶をひっつかむと、中の花や水ごと、心温の頭上からぶちまけた。

「――ならば、ご両親に代わって、私が躾をしてさしあげますわ」

2

「秦文祢、このキチガイ女!」

黒岩心温の甲高い叫びが、背中に突き刺さる。 けれど文祢は一度も振り返ることなく、書斎を後にした。

部屋を出た途端、スマートフォンの通知が軽快に鳴った。

深見伊織: 「ねえ姉さん、 今夜マジでバー 『緋朱』 に来ないの? 結婚は出家じゃないんだから、 黒岩一真のあのアホのために昔の仲間まで捨てることないでしょ。 お願いだからさ、 今夜あんたが来ないとkrisにスマホ爆破されるって!」

秦文祢:「ええ、あなたの言う通り」

深見伊織:「?」

秦文祢:「離婚したわ。 今日から、俗世に帰還する」

一秒の静寂の後、チャット画面は瞬く間に「!」で埋め尽くされ、伊織の興奮が画面越しに伝わってくるようだった。

「十分だなんて言わないで! 女帝がその領地へお戻りになるのだ、この私が八分で恭しくお迎えに上がりますとも!」

書斎のドアが 「バン!」 と乱暴に閉められるまで、 心温は目の前で起きたことが信じられずに呆然としていた。 やがて我に返ると、 憤然として一真に詰め寄る。 「お兄ちゃん、 あの女が私をいじめるのを黙って見てるだけなの? ダメよ、 早くあいつを引きずり戻してぶん殴って! 私もあいつの顔に水をぶっかけてやるんだから……」

「もういい加減にしろ!」

一真の冷たい声が、彼女の言葉を遮った。 「自分の今の姿をよく見てみろ。 名家の品格が欠片でもあるのか? お前は黒岩家の娘だぞ、そこらの口汚い女とは違う!」

兄からこれほど厳しく叱られたことのない心温は、驚きのあまり瞬時に言葉を失った。

しばらく黙って一真が仕事をするのを見つめていたが、やがておずおずと口を開いた。 「あの、お兄ちゃん。 車が運転できないなら、せめて今夜の歓迎パーティー、一緒に連れて行ってくれませんか? 理紗お姉さんにもずっと会ってないし、会いたいんです!」

一真はうんざりしたように手を振った。 「好きにしろ。 仕事の邪魔だ」

それが許可の合図だと悟ると、心温はたちまち機嫌を直し、意気揚々と書斎を出て行った。

静まり返った部屋で、パソコンの画面だけが煌々と光り、一真の虚ろな瞳を映し出す。 なぜだろう、どれだけ思考を仕事に向けようとしても、文祢が花瓶を逆さに心温の頭上へぶちまけた光景が、焼き付いたように脳裏をちらつく。

自分は、この妻のことを、本当は何も知らなかったのではないか。 そんな奇妙な感覚に、一真は囚われていた。

深見伊織は昔から有言実行の女だ。 十分と言いながら、きっかり八分後にはGクラスを乗りつけ、飛び出すように車から降り立つと、屋敷から出てきた文祢に高らかに口笛を吹いた。

「祝・姉さん、シャバへのお帰り!」

文祢が反応する間もなく、伊織は抱えていたシャンパンボトルのコルクを親指で弾き飛ばす。 威勢よく飛び出したコルクに続き、勢いよく噴き出した泡が、あっという間に文祢の上半身をシャンパンの飛沫に濡らした。

「禊のゆず湯は間に合わなかったから、代わりにロゼで厄払いよ。 悪くないでしょう?」

文祢は「ちっ」と軽く舌打ちし、バッグを後部座席に放り込む。 すると伊織が車のキーを目の前に突きつけてきた。 「カスタムしたGクラスよ。 乗りたくない? 四年間もご無沙汰なんでしょ。 どうぞ」

文祢はその手を軽く払い、長い脚を助手席に滑り込ませた。 「そういう気分じゃない」

伊織はにやりと口角を上げ、アクセルを踏み込むと猛然と屋敷を飛び出した。 隠す気もない嘲笑を声に滲ませて言う。 「で、白状なさいよ。 あんたのその救いようのない恋愛脳を叩き直したのは、一体何?」

文祢は片手を首の後ろに回す。 車窓を流れていく光が、過去の四年間との決別を告げているようだった。

「宝木理紗が、帰ってきたの」

伊織はそれを聞いて、堪えきれないといったふうに笑い出した。「あんたと黒岩一真って、本当にお似合いよね。 揃いも揃って、ろくでもない相手に執着する意地っ張り。 時々あんたたち、DNA鑑定でもしたくなるわ。 なんで二人してそんなガラクタ拾いに人生賭けてるのよ」

耳元で伊織がまくし立てているが、文祢の意識は少しだけ宙を彷徨っていた。

文祢にとって、宝木理紗の記憶はほとんどない。 優しくて、物分かりがよく、思いやりに満ちている。 それが、文祢の中にある理紗のすべて。 そして、その偶像をなぞるために、丸四年という歳月を費やしたのだ。

あの人の、指通りのよさそうな黒髪のストレートを、品のある装いを、穏やかな物腰を。 そのすべてを、文祢は懸命に真似たのだ。 すべては、あの人の視線を一瞬でも自分に引き留めたくて。

だが、偽物は所詮、偽物に過ぎない。

文祢は気怠げに、力の抜けた声で言った。 「ムショ帰りの女なんて、誰も好きになってくれないでしょ」

伊織は天を仰いで大袈裟に白目を剥いた。 「まだその話? あんたのあのイカれた義妹が、聖心会での全寮制訓練を『ムショ入り』だってデマを流さなきゃ、黒岩一真の奴がどの面下げてあんたに偉そうな口を利けたって言うのよ!」

「あ、そうだ。 離婚して暇になったでしょ、来週の東海夜虹レース、行かない?」

「行かない」

文祢は肘をついて頬杖をついた。 「動きたくない」

伊織は訝しげに彼女を窺う。 「あんた、まさかまだ失恋を引きずってるわけ?」

文祢は答えなかった。 だがその急に翳った表情から、伊織は自分の推測が的を射ていることを瞬時に悟った。

歯がゆさに何か罵倒しかけたが、 ふと、 悪戯っぽく瞳を輝かせた。 「 『宵闇の月』 も来るらしいわよ! 当時、 レース界に彗星の如く現れた、 あんたと唯一張り合えた好敵手。 あいつのマスク、 剥がしたくないの?」

東海夜虹レース。 それは、富裕層や名家の人間だけが集う、大規模なアンダーグラウンド・レース。 参加者は皆、自ら改造したマシンを駆り、高い技術を競い合う。 スリルと隣り合わせのレースは、一歩間違えば命の危険さえある。

そんな非日常の舞台だからこそ、主催者は粋な計らいを設けていた。 参加者全員に、仮面の着用を義務付けるのだ。 ここでは素性を問われず、ただ勝敗のみがすべて。 対戦相手を指名し、相手が応じれば、勝者はその場で相手の仮面を剥がす権利が与えられる。 仮面を剥がされること。

それは、東海夜虹レースからの永久追放を意味していた。

文祢の瞳が、微かに煌めいた。 そして、すっと身を起こす。 「いいわ。 行ってみる」

彼女は俯いて自分の服の裾を引いた。 「その前に、着替えたい」

伊織は良妻賢母を体現したようなその装いを一瞥し、唇を尖らせた。 「また尼さんみたいな格好に着替える気? あんたがそんな格好でバーに行ったら、あたしが堅気の娘を攫ってきたって勘違いされるじゃない!」

文祢は片眉をくいと上げた。 「誰がまだ、そんな格好するなんて言った?」

三十分後、バー「緋朱」。

二階フロアでは様々な人々が行き交い、グラスを傾けていたが、誰もが思わず、隅のボックス席に腰掛ける一人の女性に目を奪われていた。

燃えるような真紅の、裾を大胆にカットしたロングドレス。 その姿は、まるで香港映画から抜け出してきたい前世紀のポスターガールのようだった。

「あんたがそんな鮮やかな色を着るの、どれだけぶりよ!」伊織が感嘆の声を漏らす。 「抜群のスタイルしてるくせに、毎日スーツだの所帯じみた地味なワンピースだのばっかり。 黒岩家で事務員でもやってんのかと思ったわ」

文祢は俯いて微笑むだけで、何も答えなかった。

結婚したばかりの頃、彼女も早起きして化粧をし、念入りに選んだドレスを身に纏ったことがあった。 しかし、階下に降りた途端、姑の黒岩美代子に「派手だ」「はしたない」と罵倒された。 女は良妻賢母であるべきで、そんな格好で家事ができるのかと。 そして、一真はただ、冷めた目でこちらを見るだけで、何も言わずにその言葉を肯定していた。

だが、今はもうどうでもいい。 黒岩家という名の檻から解き放たれた今、彼女は好きな服を自由に着ることができるのだから。

話していると、突然、伊織のスマホが鳴った。 彼女はさっと顔色を変え、文祢にスマホを振りながら言う。 「ごめん、ちょっと電話出てくる」

伊織が席を立った直後、文祢は先ほど手の甲についてしまった酒の染みを拭き取ろうとしていた。 その時、ぬっと伸びてきた脂ぎった大きな手が、彼女の肩を無遠慮に掴んだ。

「お嬢ちゃん、一人? よかったら俺たちと飲まない?」

3

バー緋朱の重厚な扉を開けると、黒岩一真を出迎えたのは喧騒と紫煙だった。 奥のボックス席では、宝木理紗とその友人たちが、まるで主役の到着を待ちわびていたかのように一斉にこちらを向いた。

「理紗姉さん、会いたかったー!」

弾かれたように駆け寄った黒岩心温が、宝木理紗の身体にじゃれつくように抱きついた。

理紗はそんな心温の頭を優しく撫で、「もう、相変わらず甘えん坊さんね」と慈しむように微笑んだ。

彼女はふと顔を上げ、向かいに座る表情の硬い男――一真へと視線を流し、わざとらしくため息をついてみせた。 「でも、こうして私の帰りを心待ちにしてくれていたのは、心温ちゃんだけみたいね」

心温はぱっと身体を起こすと、兄を援護するように声を張り上げた。 「そんなことないよ!お兄ちゃんだって、理紗姉さんにずっと会いたがってたんだから。 姉さんが帰ってくるって聞いて、すぐにあの女と離婚したくらいなんだからね!」

その言葉に、周りの友人たちが「ひゅーひゅー」と囃し立てる。 理紗は「もう、心温ちゃんたら」と口では言いながらも、その口元に浮かんだ笑みは隠しきれていなかった。

幾夜も夢に見た光景のはずだった。 焦がれ続けた女性が、今、目の前に座り、期待に満ちた眼差しを向けている。 それなのに、一真の胸に渦巻くのは歓喜ではなく、正体のわからない居心地の悪さだった。

何か言わなければ、と一真が口を開きかけた、その時。 隣の友人が肘で突き、下卑た声で囁いた。

「おい、黒岩。 あれ、お前の嫁さんじゃねえか?」

弾かれたように振り返った一真の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。 ゆったりと波打つ髪、挑発的なほど深紅のリップ。 ウエストを大胆に絞った真紅のロングドレスは、しなやかな腰のラインを際立たせ、アシンメトリーな裾からのぞく脚は、息をのむほどに美しい。 そこにいたのは、一真の知る秦文祢とはまるで別人の、妖艶な魅力を振りまく女だった。

文祢は、頭の大きな腹の出た男と、その取り巻きらしき若者たちに囲まれ、あからさまに顔をしかめている。

「あれ、久松んとこの次男坊、久松辰巳じゃねえか。 札付きのワルで有名だぜ。 あいつに目をつけられたらやべえぞ」

「いやいや、案外、本人も満更じゃなかったりしてな。 まともな女が、亭主と別れた途端にあんな派手な格好でバーに来るかよ。どう見たって男漁りだろ!」

「つーか、黒岩の嫁ってあんなナイスバディだったんだな。 いつも地味な格好してるから、てっきり寸胴かと……」

心温までもが、嘲るように唇を歪めた。 「当たり前でしょ。 あんな尻軽みたいな格好、男を誘ってるのと一緒よ。 お兄ちゃんに捨てられた“お古”なんだから、必死に次の相手を探さないとね!」

下卑た笑い声がボックス席に響く。 その瞬間、一真の中で何かがぷつりと切れた。 腹の底から突き上げてくる、自分でも制御できない怒り。 「黙れ!」

地を這うような低い声が響き渡ると、騒がしかったテーブルは水を打ったように静まり返った。

氷のような眼差しで妹を射抜き、一真は吐き捨てるように言った。「これ以上、品のない口を利くなら、ウィンザー学府にでもどこへでもとっとと戻れ。 くだらん連中と夜遊びにうつつを抜かしている場合か」

兄の剣幕に怯え、心温の目がみるみるうちに潤んでいく。 その時、隣にいた理紗がそっと一真の手に自分の手を重ねた。 一真が振り向くと、彼女は諭すように、それでいてどこか甘えるような声で言った。 「一真、心温ちゃんはまだ子供よ。そんなにきつく叱ってあげないで」

一呼吸置き、理紗は視線を少し離れた文祢へと移す。 「……やっぱり、私のせいなのね。 私が帰ってこなければ、文祢さんもあんな……自暴自棄な真似はしなかったでしょうに」

「違う」一真の眼差しに、冷たい光が宿る。「あいつが勝手に身を持ち崩しただけだ。 誰も何も強制していない」

その言葉を証明するかのように、文祢は絡みついてきた久松辰巳の脂ぎった手を、肩をひねって乱暴に振り払った。 「失せろ!」

大勢の手下の前で面子を潰され、辰巳の目に凶暴な光が宿った。 一歩踏み込むと、無理やり文祢の細い腰を抱き寄せ、紫がかった分厚い唇をねじ曲げて彼女の顔に近づける。 「つれないこと言うなよ。 ほら、俺がたっぷり可愛がってやるからよぉ!」

豚のような顔が醜く歪み、突き出された唇が肌に触れようとした、その刹那。 文祢は、氷のように冷たい笑みを浮かべた。

ガシャン!――けたたましい破壊音。

彼女はすぐ側のテーブルからビール瓶をひったくると、躊躇なく辰巳の頭頂部へ振り下ろしていた。

バーの喧騒を切り裂く音。 辰巳は砕けたガラスと血にまみれた頭を抱え、豚の断末魔のような悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。

「クソがッ!このアマ、よくも……!」

文祢は割れた瓶の首をまるでナイフのように握りしめ、悠然と立ち上がる。 その切っ先を辰巳に向け、蔑むように冷笑した。 「もう一度、その汚い手で私に触れてみなさい。 今度こそ再起不能にしてあげるわ」

辰巳は床に蹲ったまま、憎悪に顔を歪めて歯ぎしりした。 「てめえ、俺を誰だか分かってんのか!久松グループの社長は俺の兄貴だぞ。 俺の一言で、お前みたいな女一人、この明央区から消すことなんざ朝飯前なんだよ!」

文祢はカラン、と割れた瓶を床に投げ捨てると、傍らに置いていたエルメスのバーキンを手に取り、無言で中を探り始めた。

その様子を、辰巳は自分の家名に怯えたのだと勘違いし、途端に勢いづく。 「これで済むと思うなよ、アマ!傷害罪だ、慰謝料で全財産ふんだくってやる!これから病院で精密検査を受けて、警察にいる叔父貴に電話一本入れりゃ、てめえは豚箱で臭い飯を食うことになるんだよ!」

「お兄ちゃん、 何するの!?」

辰巳の罵声が続く中、 一真がすっくと立ち上がった。 心温が驚いて、とっさにその袖を掴む。 「まさか、 あの女を助けに行くつもりじゃないでしょうね?」

一真は冷たくその手を振り払った。 「まだ離婚は成立していない。 戸籍上、あいつは今も俺の妻だ。 秦文祢を侮辱することは、この黒岩家を侮辱することに等しい」

「でも、あいつが黒岩の嫁だって、ここにいる誰も知らないじゃない!お兄ちゃんが出ていかなければ、どんな目に遭ったって自業自得よ……!」

なおも食い下がる心温だったが、 兄の剃刀のような鋭い視線に射すくめられ、ぐっと言葉を飲み込んだ。

その時、理紗がすっと立ち上がった。 「私が行ってみるわ。 久松のお兄様とは、以前お仕事でご一緒したことがあるの。 私の顔を立てて、弟さんも文祢さんにあんまり無茶はしないはずよ」

断ろうとする一真の腕をそっと掴み、理紗は慈愛に満ちた瞳で囁く。 「あなたの問題は、私の問題でもあるのよ、一真」だが、理紗が歩き出すより早く、事態は誰もが予想しない方向へ転がった。

文祢がバーキンから取り出したのは、分厚いドル札の束。 次の瞬間、彼女はその札束を、辰巳の顔面めがけて叩きつけた。

「バサッ!」

という乾いた音と共に、万緑の紙片が宙を舞う。

それはまるで緑色の吹雪のように、バーの空間を埋め尽くした。 舞い散る紙幣の雨の中、真紅のドレスを纏った女は、床に這いつくばる男を見下ろし、この世のものとは思えぬほど妖艶に微笑んだ。

「その怪我の慰謝料、これで足りるかしら?」

屈辱に顔を真っ赤にした辰巳が、背後の手下たちに金切り声を上げた。 「あの女を捕まえろ!殺せ、八つ裂きにしてやる!まだそんな口がきけるか、思い知らせてやれ!」

手下たちが一斉に飛びかかろうとした、その時。 凛、と張りのある女の声が、その場の空気を凍らせた。 「殺すって、誰を?この深見伊織の目の前で、あたしのダチに指一本でも触れられるってんなら、ぜひ拝見したいもんだね」

辰巳の顔から、さっと血の気が引いた。 いつの間にか文祢の隣には、肩に担いだ野球バットがやけに様になる女――深見伊織が立っていた。 伊織は、まるで屠殺される前の豚でも見るかのような目で辰巳を見つめ、にっこりと笑う。

「あんたの兄貴ですら、あたしを『姐さん』って呼ぶんだよ。 どの口が、あたしのダチに吠えてんだ、あぁ?」

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離婚後、傅夫人の真実の姿が完全に暴かれた。

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