話 2
晟真は顔を覆い、その冷たい表情に驚愕の色が浮かんだ。
「明里、正気か!」彼の荒々しい声が響き渡る。
だが、彼に残されたのは、明里の去っていく背中だけだった。
明里は寝室を後にし、涙を浮かべながら長い廊下を歩き、やがて突き当たりにたどり着いた。
そこは彼女にとって、藤原邸での名ばかりの部屋だった。藤原夫人・明里としての部屋ではなく、あくまで藤原家の女執事・曽根明里に与えられた部屋にすぎない。
狭く、薄暗く、陽の光も届かない。
まるで、彼女と晟真の関係そのもののような部屋だった。
彼女は黙ったままスーツケースを取り出し、クローゼットの服を一枚一枚詰めていく。
ただ、クローゼットの中にあった二つのギフトボックスだけは、ベッドの上に置いた。
結婚して三年、晟真が彼女に贈り物をしたのは、たった二度だけだった。
一度目は彼女の誕生日だ。深夜、晟真は胃痛を訴える和花に呼び出され、出て行った。翌朝戻ってきた際、彼女にネックレスを贈った。
もう一度は、彼女が熱を出した時だった。晟真は和花の卒業式に出席し、その償いとして一対のイヤリングを贈った。
二つの贈り物はいずれも、和花を優先し、彼女を顧みなかったことへの埋め合わせにすぎなかった。
そこに、心からの想いなどなかった。
晟真が本当に愛しているのは和花だ。彼女はとっくに悟るべきだったのだ。
明里は無理やり、記憶の渦から抜け出した。
荷造りを終えると、明里はその二つのギフトボックスを深く見つめ、そして振り返ることなく部屋を出た。
疲労が、明里の本来美しかった顔から、ほんのりと色を奪っていた。
俯いたまま、彼女の目元はまだ赤く染まっていた。
その時、刺々しい女の声が響いた。その言葉には、あからさまな軽蔑の色が濃く滲んでいた。「お姉様、晟真お兄様の家の使用人は、どうしてこんなに礼儀知らずなの?未来の奥様に会っても、挨拶すらしないなんて!」
明里が顔を上げると、視界に飛び込んできたのは――最も顔を合わせたくない相手、園宮和花だった。 そして、その妹である園宮珠乃も。
和花と珠乃の二人が身に纏っているのはシャネルのスーツで、アクセサリーはカルティエで固められていた。
晟真は口癖のように「彼女たちは継母に虐げられている」と言っていたが、明里は微塵も信じていなかった。
和花は彼女と視線を合わせると、清純な顔に困ったような笑みを浮かべた。「珠乃、彼女は使用人じゃなくて……女執事よ」
和花は、明里と晟真の関係を知っていながら、あえてそれを口にしなかった。
それは明らかに挑発だった。
珠乃は、さらに軽蔑の色を深めた。「執事と使用人に、何か違いでもあるの?結局は同じ下人じゃない!」
明里はスーツケースの取っ手を握る手に、無意識のうちに力を込めていた。爪が掌に食い込む。
「ねえ!さっさと私たちの荷物を運びなさいよ。そんなに気が利かないと、晟真お兄様に言いつけて、クビにしてもらうから!」
明里は深く息を吸い込んだ。なぜだかわからないが、呼吸するたびに胸が痛んだ。
けれど、和花の前でだけは、決して弱い姿を見せたくなかった。
彼女は震える声を必死に抑えながら言った。「私はもう、藤原家の執事ではありません」
和花の清らかな顔立ちに、嘲りの色が滲んだ。
彼女はゆっくりと明里に近づき、得意げに口元を吊り上げる。
「曽根さん、私は気にしないわ。たとえ私が藤原夫人になったとしても、あなたが女執事でいることには反対しないもの。だってあなた、この三年間、立派に下働きをしてきたのでしょう?」
明里の心に、針で刺されたような痛みが走った。
この三年もの間、和花が妹という立場で藤原家を訪れるたびに、明里が晟真の妻であると知っていながら、明里を下働きのように扱い、跪かせて床掃除までさせたことさえあった。
明里は決して、黙って理不尽を受け入れる性格ではなかった。
だが、晟真に訴えたその時、彼はいつも、こう言うのだった。「明里、和花はまだ子供なんだ。お前より二つも年下じゃないか。妹だと思って、大目に見てやってくれないか」 「あの子は心優しくて、誰にも悪意なんてないんだ」
目元を赤く染めながら、明里はじっと和花を見つめた。言葉を発しようとした、その瞬間――和花が身をかがめ、彼女の耳元で囁いた。「悔しい?死にたくなるほど惨め?あなたがあれほど愛した男は、私のためにあなたをあっさり捨てたのよ」
彼女はさらに、二度も笑いさえした。「晟真お兄様は、私のものになる運命なのよ。二年経ったら離婚?そんなの本気で信じてたの?その頃には、きっと子どもが生まれて、『パパ』って呼んでる頃よ」
明里は、和花の狙いが自分の感情を煽ることだと理解していた。だからこそ必死に平静を保ち、凛としたまなざしで彼女を見返した。
「和花、自分が継母に虐げられていたって嘘で、晟真と結婚したこと、いつまでも隠し通せると思ってるの?そんな結婚、どこまで持つかしら」
その言葉に、和花の表情が一変した。「……あんた!」
明里はスーツケースを引き、藤原邸を後にしようとした。
彼女は気づかなかった。階段の上から、大きな人影が降りてくるのを。
だが、和花はそれを見逃さなかった。
彼女は明里の手を掴むと、思い切り自分も後ろへ引きずり込んだ。
明里が何が起きたのかもわからぬうちに、和花の身体は床に崩れ落ちていた。
珠乃は、姉の転倒に悲鳴を上げた。「この下賤な使用人!お姉様に何てことを!」
和花は腹部を押さえながら、目に涙を浮かべた。「曽根さん、私はただ、あなたが藤原邸を出たら行く宛てがないんじゃないかと思って、執事を続けてほしいとお願いしただけなのに……どうして私を突き飛ばしたの!」
明里は、彼女が何を企んでいるのか理解できなかった。ただ唇を引き結び、「私は何も……」とかすかに呟いた。
だがその声は、冷たく鋭いひと声によって遮られた。
「明里、和花に何をした!」
話 3
晟真は冷たい表情を浮かべたまましゃがみ込み、和花の顔を覗き込んだ。その声には、優しさが滲んでいた。
「和花、大丈夫か?」
傍らにいた珠乃は、明里を嫌悪の目で睨みながら、畳み掛けるように言った。「晟真お兄様、この使用人は本当にひどいのよ。藤原家の未来の女主人を突き飛ばすなんて」 「お姉様に嫉妬して、わざと突き飛ばしたのよ。本当に性格悪いわ!」
和花はか弱げに晟真を見上げ、いかにも無垢そうに言った。「晟真、曽根さんのことは責めないで。彼女……きっと、気分が優れないだけよ。同じ女として、分かるわ」
晟真は心を痛めながら言った。「和花、君は優しすぎるよ」
彼は和花の腰に手を回して抱き上げると、明里に冷たい視線を向けた。「明里、君には心底がっかりだ」 そう言い残すと、和花を抱いたまま、後ろも振り返らずに階段を上っていった。
明里は説明しようとしたが、晟真の冷酷さを思い出し、喉に湿った綿を詰められたようで、どうしても声が出なかった。
一方、珠乃は明里を憎悪に満ちた目で睨みつけていた。
「この泥棒猫!」
明里は珠乃の罵声を聞き、ただ呆然と立ち尽くした。
やがて我に返った明里は、珠乃に向かって皮肉めいた笑みを浮かべた。
「珠乃さん、お姉様に聞いてみたら?本当に家庭を壊した『泥棒猫』が誰かって」
彼女はスーツケースを引き、黙ったまま藤原邸を後にした。背後から珠乃がどれほど酷い言葉を浴びせても、二度と振り返ることはなかった。
夏の夜、激しい雨が降っていた。
明里はひとり、雨の中を歩いていた。涙と雨が頬を伝い混ざり合っても、それを拭おうとはしなかった。
どれほど歩いただろうか。気がつくと、明里は古びた団地の前に立っていた。
そこは、両親が裕福になる前に住んでいた場所だった。
回り回って、結局、彼女はまたこの場所に戻ってきたのだった。
眠れぬ夜を過ごした翌朝、明里の電話が鳴った。
親友の陸田月奈からだった。
「あああ!明里、早くニュースを見て!あのクズ男と泥棒猫、本当に恥知らずすぎる!」
明里の手が、無意識に震えた。
彼女はニュースを開いた。画面に大きく映し出されたタイトルが、目に飛び込んでくる。
「#藤原グループ社長・藤原晟真、デザイナー園宮和花にプロポーズ。夜空に咲く豪華絢爛な花火」
プロポーズ……。
まだ離婚届も出していないのに、晟真はそんなにも待ちきれなかったのだろうか。
明里は、プロポーズの報道画像を開いた。
だが、二人の愛の瞬間よりも、彼女の目に映ったのは――夜空に咲いた花火だった。
彼女の胸は、鈍く痛み続けていた。
あの眩い花火が、空にいくつもの美しい軌跡を描いている。
あれは、彼女が自分たちの結婚式のためにデザインした花火だったのだ……。
それなのに、晟真はその花火を、別の女に捧げた。
彼にとって、彼女はもう、どうでもいい存在だったのだ。
月奈は怒り心頭だった。「明里、藤原夫人はあなたのはずじゃない!来月、結婚式であなたのことを公表するって言ってたのに、どうして急に園宮和花に変わってるのよ!?」
「存在を公表する」という言葉を聞き、明里は涙を堪えきれずに流し、その声も震えていた。
「月奈、私、晟真と離婚することにした」
月奈は完全にブチギレた。「離婚!?晟真が、園宮和花とかいう泥棒猫のために、あなたに離婚を迫ったのね!あいつら、兄妹って呼び合ってたけど、とっくに寝てたに決まってるわ!」
明里は唇を噛みしめて答えた。「……わからない」
彼女は本当に分からなかったな。晟真と和花が、どこまで関係が進んでいたのか……。
「もう知りたくもないの。月奈、晟真と離婚したら、私は本当の『曽根明里』になるわ。明里の夢は、つまらない日常や、男に縋ることじゃなくて――」
「ねえ明里、海浜市最大の花火デザインコンテストが始まるわ!出よう?私、エントリーしてあげるから!」 「あなたみたいな天才デザイナーが、晟真のところで家政婦みたいなことやってるなんて、才能の無駄遣いよ!離婚するんだから、夢を追いかけるべきよ!」
月奈は必死に説得を続けた。大切な親友が、たった一人の男のせいで夢を諦めるなんて、見たくなかった。
「わかった」明里は迷いなく、そう返事をした。
今度は、月奈が驚く番だった。
「明里……今、OKしてくれたの?本当!?」
「うん」明里は静かに頷いた。
月奈は力強く頷いた。「やったわ、明里!あなたが最高の花火デザイナーになったら、藤原晟真っていうクズ男、後悔させてやろう!」
二人は朝から夕方まで話し込んだ。そのほとんどは、月奈が一方的に晟真を「クズ男」だと罵る内容だった。
「あのクズ男、いつか必ず天罰が下るわ……」
夜が明ける頃、明里はやはり我慢できず、再びニュースのページを開いてしまった。
ニュースの下に並ぶコメントの言葉が、彼女の心に突き刺さる。
「藤原社長と園宮和花、美男美女でまさにお似合い」
「藤原晟真、 イケメンでお金持ちでロマンチストとか、もう前世で銀河系を救ったレベル」
「園宮和花が羨ましすぎる……こんなに愛されて」
……
明里の涙が、スマートフォンの画面に落ちた。
その時、明里のスマホに1通のメッセージが届いた。送り主は――藤原晟真。
「明里、もう騒ぐな。明日、市役所に離婚届を出しに行くぞ。手切れ金として100億やる」
明里は、スマホの画面についた涙を拭い、一言だけ文字を打ち込んだ。
「わかった」