話 1
夫は私が彼を愛していると信じているが, 彼は亡き恋人の「器」に過ぎない.
息子が誘拐された時, 彼は電話の向こうで冷酷に笑った.
「俺の種じゃないガキを助ける義理はない」
貧しいヴァイオリニストだった彼を, 私は財力で「天才」に仕立て上げた.
彼はそれを自分の実力だと過信し, 若い女と浮気をして私を裏切っていた.
だが, 彼が亡き恋人の形見である「青いダイヤ」を売りに出した瞬間, 五年前の事故死の真相を悟った.
彼ら親子が, 私の最愛の人を殺したのだ.
息子を見殺しにし, 勝ち誇る彼に, 私は静かに微笑んで最後の罠を仕掛けた.
「ねえ, 知ってる? 」
「あなたが殺そうとしたその子は, あなたが一生勝てない『本物』の息子よ」
全てを奪い尽くす, 私の復讐が始まる.
第1章
夫と結婚して五年, 世間ではおしどり夫婦と称される私たちだが, 今日, 私は彼が私を愛していると信じているのは, この世界で彼だけだという残酷な真実を突きつけられた.
結婚して五年が経った.
長い年月だった.
世間では, 私たちは模範的な夫婦として知られている.
私は彼を深く愛し, 支えていると誰もが信じている.
彼の成功は, 私の献身的な愛の証だと, 皆が噂する.
彼のキャリアのためなら, 私は惜しみなく財力と権力を注ぎ込んできた.
有名指揮者に頭を下げ, 最高の楽器を用意し, 最高の舞台を整えた.
彼の名前がクラシック界で輝くよう, あらゆる手段を講じた.
大庭アーツの代表理事として, 私は彼の背後で全てを操っていた.
栗田健司, 「遅咲きの天才ヴァイオリニスト」.
その虚像は, 私が作り上げたものだ.
彼は, 私が心から彼を愛していると信じている.
その無邪気なまでの確信が, 私には滑稽に見える.
健司は家では私を「晴菜, 愛してるよ」と甘く呼ぶ.
しかし, その裏で, 彼は堂々と若い女を囲っていた.
その事実に, 私の心は少しも揺れなかった.
一度, 彼の不注意で聞かされたことがある.
「あんな女, 金と権力だけだ. 俺を縛りつけることしか考えてない」.
震える声で女にそう囁く彼の声は, 私の耳には届いていた.
私は何も言わなかった.
何も見ていないふりをした.
彼は私の「器」に過ぎないのだから.
牧田夢歌菜.
彼の隣にいるその若いチェリストだ.
健司と同じく, 亡き有賀疾風の面影をどこか宿している.
もし疾風が生きていたら, 健司など足元にも及ばない.
彼は真の天才だった.
今頃, 世界中の舞台で喝采を浴びていただろう.
夢歌菜は, 最近オーケストラに入団したばかりの新人だ.
まだ23歳.
健司の富と名声に惹かれているのが手に取るようにわかる.
長くウェーブのかかった髪.
健司の隣で笑う, 飾らない笑顔.
若さと美貌を武器に, 健司に取り入っている.
「夢歌菜さんって, 理事の若い頃に少し似ていらっしゃいますね」と秘書が言ったことがある.
すぐに「でも, 理事の方がずっとお聡明です」と付け加えた.
秘書は私の聡明さを称賛したが, 私はその言葉に何の感情も抱かなかった.
健司は, 夢歌菜の若さと無邪気さに完全に魅了されていた.
彼の目は, 私には向けられない輝きを放っていた.
世間は健司のことを「愛妻家の貴公子」と呼ぶ.
誰も彼が私を裏切っているとは夢にも思わないだろう.
その虚像は, 私が彼に与えた最高の贈り物だった.
健司はかつて, 自信のない凡庸なヴァイオリニストだった.
貧しい出自に悩み, チャンスを求めてさまよっていた.
私の手によって, 彼はようやく自信という名の翼を手に入れたのだ.
まるで, 泥の中から引き上げられた醜いアヒルの子が, 白鳥になったかのように.
だが, その白鳥は, 本物ではない.
初めて健司を見つけたのは, 大学の新人演奏会の打ち上げ会場だった.
人混みの中で, 彼は不器用にグラスを傾けていた.
私は獲物を見定めたハンターのように, 静かに彼に近づいた.
「有賀家をご存知ですか? 」と私は彼に尋ねた.
彼はきょとんとした顔で首を傾げた.
「あそこのご長男に, あなたがそっくりでね」.
私はあえて, 疾風が既にこの世にいないことを示唆した.
「もし, あの家の遺産に興味があるなら, 私が力になれるかもしれない」.
私は彼の目を見据えて言った.
彼の瞳に, 一瞬だけ欲望の光が宿ったのを, 私は見逃さなかった.
健司は少しの間躊躇した.
だが, すぐに「お願いします」と力強く答えた.
私たちの「関係」は, その日から始まったのだ.
それは, 愛ではなかった.
ただの取引だった.
しかし, 彼は私に, 本物の愛を演じ続けた.
一時は, 私自身も彼の熱烈な愛情表現に惑わされかけたことがある.
本当に私を愛しているのかと, 心が揺れる瞬間さえあった.
牧田夢歌菜が現れるまでは.
彼女の存在が, 健司の愛が偽りであったことを, はっきりと私に突きつけた.
話 2
夢歌菜がオーケストラに入団し, 健司の目に初めて宿ったあの輝きは, 忘れもしない.
それは, 私が疾風と初めて出会った時の, あの透明な光と酷似していた.
その一瞬, 私は目の前の健司の顔が, 疾風の顔と重なって見えた.
私は一瞬, 息をするのを忘れた.
脳裏をよぎる, 疾風との出会い.
彼の瞳にも, 健司と同じ, いや, それ以上の情熱の輝きがあった.
彼にとって, 夢歌菜はまさに一目惚れなのだろう.
私の心は, 冷え切っていた.
夢歌菜が会社に入ってから, 健司の口から彼女の名前が出ない日はなくなった.
食卓で, 車の中で, 寝室でさえ.
「牧田さんて, 本当に聡明だよね」.
彼は私の隣で, 夢歌菜を褒め続けた.
「晴菜も若い頃はあんな感じだったのかな? 」.
彼は私をちらりと見て, にこにこと尋ねた.
その言葉に含まれる, 若さへの渇望と, 私への失望を, 私は見抜いていた.
「もう少し早く晴菜に出会えてたら, もっと違った人生だったろうな」.
彼は夢見るような目で, そう呟いた.
私の顔に, 感情は一切浮かばなかった.
ただ静かに, 彼のその愚かな笑顔を見つめていた.
健司は私の視線に気づくと, 少し気まずそうに笑顔を引っ込めた.
それ以来, 彼は私に夢歌菜の名前を出すのをやめた.
それは, 彼が夢歌菜への興味を失ったからではない.
むしろ, 私たちの関係をより深く, 秘密裏に進めるための, 彼なりの配慮だった.
私の知らないところで, 健司と夢歌菜の関係は, より親密さを増していった.
健司は家にいる時も, どこか心ここにあらず, といった様子だった.
食事中も, うわの空.
食事を摂る手が, 時折止まる.
息子, 翔の宿題を見てやる時も, 頻繁に携帯をチェックし, 席を立つ.
「すぐ戻るから, 待っててね」.
彼はそう言って, 部屋を出て行ったきり, なかなか戻ってこなかった.
翔は五歳になる, 愛らしい男の子だ.
健司は戸籍上の父親だが, 血の繋がりはない.
健司が翔のそばにつかない時, 彼は夢歌菜が抱える問題を解決するために動いていた.
ある日, 彼の携帯が鳴った.
健司は慌てて画面を伏せたが, 私が見ていないとわかると, すぐに通話ボタンを押した.
「ああ, うん, わかった. それは俺に任せろ」.
彼の声は, いつになく優しかった.
私が「誰と話していたの? 」と尋ねると.
彼はすぐに顔色を変え, 「ああ, 仕事の取引先だよ」とそっけなく答えた.
私は何も知らないふりをして, 「そう」とだけ返した.
翔の誕生日が近づいていた.
「パパ, 誕生日には一緒に遊んでくれる? 」と翔が健司に尋ねた.
健司は翔の頭を撫で, 「もちろんだよ. パパ, 仕事が忙しいけど, 必ず時間を作るよ」と優しい声で答えた.
彼はいつもそう言う.
健司は翔のために, 必ず時間を作ると約束した.
その約束が, 私には虚しく響いた.
話 3
健司の車が, 玄関を出て行くのを, 私は窓から見ていた.
彼の姿が見えなくなると, 翔が小さな体で私の足にしがみつき, 寂しそうに顔を埋めた.
彼の肩が, かすかに震えているのがわかった.
その小さな背中を見つめながら, 私の心の中で, 久しく蓋をしていた記憶が, 再びよみがえる.
もし疾風が生きていたら, 翔はこんな悲しい顔をする必要はなかっただろう.
疾風は, どんな時も翔のそばにいてくれたはずだ.
その思いが, 私を締め付けた.
秘書が持ってきた写真が, デスクの上に置かれた.
それは, 健司と夢歌菜が, ホテルの一室で抱き合っている姿だった.
あまりにも生々しい写真.
私の心は, 何一つ揺れなかった.
「理事, どうされますか」.
秘書の声が, 静かに響いた.
私はしばらく考え, そして答えた.
「全ての家族資産を, 翔に譲渡する手続きを進めて」.
健司が夢歌菜と関係を持つこと自体は, 私にとってはどうでもいいことだった.
ただの遊びなら, いくらでも黙認する.
しかし, 私には決して許せないことが一つだけあった.
「私生児だけは, 絶対に許さない」.
私の声は, ひどく冷たかった.
健司の血を分けた子供など, この世に生まれる価値もない.
あの男と同じように, 穢れた存在だ.
それから一ヶ月, 何も変わらない日々が続いた.
健司は約束通り, 翔を遊園地に連れて行った.
私は彼らの後ろを, 少し離れて歩いていた.
健全な家族の姿を装って.
その時, 健司が突然立ち止まった.
視線の先に, 夢歌菜がいた.
彼女は姪を連れて, 私と健司と同じ遊園地にいる.
健司は笑顔で夢歌菜に手を振った.
夢歌菜は, 健司の隣に私がいることに気づくと, 一瞬顔をこわばらせた.
しかし, すぐに営業用の笑顔を貼り付けた.
最初は, 健司の愛人である夢歌菜が, 私の前で挑発するような真似はしないだろう, と思っていた.
しかし, 遊園地で三度も鉢合わせした後, 私の考えは変わった.
彼女は, 私と健司の目の前で, 健司に甘えるような視線を送り続けている.
この刺激を, 楽しんでいる.
やはり, この女は愚かだ.
私は完璧な笑顔を浮かべ, 夢歌菜に声をかけた.
「もしよかったら, ご一緒にいかがですか? 」.
夢歌菜は一瞬躊躇したが, 「まあ, いいんですか? 私, 遊園地なんて久しぶりで」と, 嬉しそうに答えた.
その瞳には, 健司への依存と, 私への敵意が入り混じっていた.
健司の顔から, さっきまでの笑顔が消え失せていた.
私は何も言わず, わずかに口角を上げただけで, 彼の様子を観察した.
夢歌菜の姪が「アイスクリーム食べたい! 」と騒ぎ出した.
健司はすぐに「僕が買ってこようか」と立ち上がった.
彼は夢歌菜のために, 家族との時間を犠牲にすることに何の躊躇もなかった.
健司がアイスクリームを買いに行くと, 私は夢歌菜と二人, パラソルの下で座った.
「健司さんって, 本当に優しいですね. 他人の子供にもあんなに親切にしてくれるなんて」.
夢歌菜は健司の優しさを自慢げに語った.
私はサングラス越しに, 彼女の愚かな顔を見つめた.
「健司はね, 可哀想な人には放っておけない性分なの」.
私の言葉に, 夢歌菜の顔が硬直した.
健司がアイスクリームを手に, こちらに駆け寄ってくる姿が, 私にはひどく滑稽に見えた.