話 2
真理穂 POV:
私の心臓は, もう何も感じなかった. 勇太の言葉も, 美咲の非難も, 佳織の偽りの涙も, 全てが遠いノイズのように聞こえた.
「私が精神がおかしいと? 」
私の声は, 氷のように冷たかった. 自分でも驚くほど, 感情がこもっていなかった.
「そうね. あなたたちが正常ならば, 私が異常なのでしょう」
私はそれ以上, 何も言わなかった.
私はゆっくりと, 椅子から立ち上がった. 体は重かったが, もう心に痛みはなかった.
勇太の傍らを通り過ぎようとした時, 彼が私の腕を掴んだ.
「どこへ行くつもりだ! こんなことをして, ただで済むと思っているのか! 」
彼の顔は, 怒りに燃えていた. だが, 私の心は, その炎に照らされることはなかった.
勇太は, 私のこの変貌に戸惑っているようだった.
彼は, 私が泣き叫び, 彼にすがりつくことを期待していたのだろう. いつものように, 彼の言葉に怯え, 震える私を.
「お姉ちゃん! 」
佳織の声が, 甲高く響いた.
彼女は, 勇太の手を振りほどいて, 私の背中を追いかけてきた.
彼女の顔には, 偽りの笑顔が浮かんでいた. それが, 一瞬にして, 冷たい脅しの表情へと変わるのを, 私は見逃さなかった.
「真理穂お姉ちゃん. そんなに簡単に逃げられると思わないで. この家のすべては, 勇太さんと私のものになるのよ」
彼女の声は, 耳元で囁くように小さかった. だが, その声には, 冷酷な勝利の響きが込められていた.
私はその声に, 何も答えなかった. 私の足は, 玄関へと向かっていた. 扉を開け, 私は外に出た. 冷たい風が私の顔を叩いたが, 何も感じなかった.
勇太の怒鳴り声が, 背後から聞こえた. 美咲の泣き声も, 義両親の非難する声も. だが, それらは壁の向こうの, 遠い世界のことのように思えた.
私はただ, 一歩ずつ, 藤原家から離れていった. 私の心は空っぽだった. 私の居場所は, もうここにはない.
数日後, 私はひっそりと, 北海道へ向かう準備をしていた.
最低限の荷物をまとめた. 私の心臓は, もう何も感じていなかった. 私の体は, 私のものではないかのようだった.
私が家を出てから, 勇太や美咲から連絡はなかった. 義両親からも, もちろん佳織からも.
それが, 私の求めていた「静けさ」なのかもしれない.
だが, その静けさは長くは続かなかった.
ある日, 勇太の音楽スタジオから連絡が入った. 佳織が, スタジオで転倒したというのだ.
私はすぐに, それが佳織の仕業だと分かった. 彼女は, 私を追い詰めるために, あらゆる手を使ってくるだろう.
電話越しの勇太の声は, 怒りに満ちていた.
「真理穂, お前, 佳織を突き飛ばしたのか! ? 」
彼の言葉は, 私の耳を劈いた. 私は何もしていない. それなのに, 彼は私を信じない.
「私は, 何もしていません」
私の声は, 小さく, か細かった. だが, 彼の耳には届かなかった.
「何を言うか! 佳織は, お前が嫉妬して突き飛ばしたと証言している! お前のせいで, 彼女の体に傷がついたんだぞ! 」
勇太は, 一方的に私を罵倒した. 彼の言葉は, まるで熱い灰を私の顔に投げつけるようだった.
義両親も, 勇太の言葉に同意した.
「真理穂さん, 本当にやってしまったの? そんなに佳織ちゃんが憎いの? 」
義母の声には, 悲しみと, そして深い軽蔑が混じっていた.
「自分の病気を偽って, 佳織ちゃんを陥れようとするなんて…あなたは本当に恐ろしい人だわ」
義父の言葉が, 私の胸を抉った.
美咲も, 勇太の横で, 私を睨みつけていた.
「お母さん, 意地悪! 佳織おばちゃんをいじめないで! 」
彼女の言葉は, 小さなナイフのように私の心臓を刺した. 私は, 自分の娘にまで, 敵と見なされているのだと知った.
私の居場所は, もうどこにもなかった. 家族は, 完全に佳織の味方だった. 私の言葉は, 誰にも届かない. 私の存在は, 彼らにとって, 忌まわしいものとなっていた.
私は, 完全に孤立した. 私の体は, 冷たい檻の中に閉じ込められたかのようだった. 私の心臓は, もう動くのをやめたかった.
話 3
真理穂 POV:
私は, 藤原家からの連絡を完全に断った. 私の電話は, まるで石のように沈黙していた. 私の心も, 同じように沈黙していた.
北海道の山小屋への引っ越しは, 予定通りに進められた. 田中さんが手配してくれた引っ越し業者だけが, 私の唯一の話し相手だった. 彼らは, 私の病状を知り, 静かに作業をしてくれた.
山小屋の窓から見える景色は, どこまでも白かった. 雪が, 全てを覆い尽くしていた. 私の心の中も, 雪のように真っ白で, 何もなかった.
だが, この静かな日々も, 長くは続かなかった. 佳織は, 私の存在を, 完全に消し去ろうとしていた.
私が家を出てから数週間後, 勇太が自宅に帰ってきた. 彼は, 私がいなくなったことに, 何の感情も示さなかった. それどころか, 彼は佳織と私の部屋で, 新しい生活を始めていた.
私の服や持ち物は, 全てクローゼットから消えていた. 代わりに, 佳織の色鮮やかな服が, ハンガーにかかっていた. 私の愛用していたピアノの上には, 佳織が描いたという絵が飾られていた.
美咲は, 佳織に完全に懐いていた. 彼女は, 私がいなくても, 何の寂しさも感じていないようだった. 佳織が, 美咲に新しいおもちゃを与え, 甘いお菓子を与え, 派手な服を着せていた. 美咲の笑顔は, 私に向けられていた時よりも, ずっと明るく見えた.
義両親も, 佳織を可愛がった. 佳織は, 毎日のように義両親の家を訪れ, 手料理を振る舞い, 義母の肩を揉み, 義父の話し相手になった. 彼女は, 私が決してできなかったことを, 全てやってのけた.
私が病で苦しんでいる間, 彼らは誰も, 私のことなど気にかけなかった.
私の体は, 日ごとに衰弱していった. 食事は喉を通らず, 夜は眠れなかった. 痛みは, 日に日に増していった.
私は, 誰にも頼ることができなかった. 病院に行く気力も, もう残っていなかった.
「真理穂, お前は本当に精神がおかしいんじゃないのか? 」
勇太の言葉が, 頭の中で何度も繰り返された. 彼らは, 私の病気を「芝居」だと断じた. 私の苦しみを, 「気を引くための嘘」だと見なした.
私は, あの日の医師の冷たい声と, 勇太の冷たい言葉が, 私の人生を二つに切り裂いたように感じた.
私は, 山小屋の暖炉の火を見つめていた. 炎は, 私の心と同じように, 静かに燃え尽きようとしていた.
私は, 死を恐れていなかった. ただ, 誰にも看取られることなく, 一人で消えていくことに, わずかな寂しさを感じた.
だが, それすらも, 私の心から消え去ろうとしていた.
ある日, 私は勇太から一本の電話を受け取った. それは, 驚くべきことだった.
「真理穂, 今週末, 音楽業界のパーティーがある」
彼の声は, 冷たかった. まるで, 事務的な連絡のようだった.
「お前も来い」
私は耳を疑った. 私を追い出し, 存在を否定した彼が, なぜ今になって私を呼ぶのか.
「なぜ, 私が…」
私が言葉を続ける前に, 勇太は私の言葉を遮った.
「佳織が, お前の復帰の場を設けてやれ, と言ってくれたんだ」
佳織の名前を聞いた瞬間, 私の心臓が冷たくなった. これは, 彼女の新たな策略に違いない.
「お前も, 元作曲家として, 業界に顔を出しておけ」
彼の言葉には, 何の温かみもなかった. ただ, 世間体を気にする, 彼の傲慢さだけが感じられた.
私の手は, 震えていた. 痛みは, もう限界に達していた. 私は, ピアノの鍵盤を叩くことなど, 到底できない.
これが, 私にとっての, 最後の公の場になるだろう. 私は, そう悟った.
だが, 私は断ることができなかった. 逃げることなど, もうできなかった.