話 2
広森千由紀 POV:
「お前のような女に, 一体何ができる? 」
昨夜の弘道の言葉が, 耳の奥でこだましていた. 彼の傲慢な声は, 私をずっと縛り付けてきた鎖のようなものだった.
「まあ, 千由紀さんも, 今までちゃんと働いたことなんてないからね. 弘道さんみたいに, 会社のトップを張ってきた人とは違うわ. 」
琴美の声が, 弘道の言葉に重なった. 彼女は, 彼の亡き恋人によく似た顔で, 私を嘲笑っていた. その言葉は, 私の心を深くえぐった. けれど, 私はもう, それに反応することもなかった.
その時, 寝室のドアが開き, 琴美が姿を現した. 彼女は, 私の心をさらにもう一度, 踏みにじるような格好をしていた.
彼女が身につけていたのは, 弘道の亡き恋人が生前, 最も大切にしていたワンピースだった. それは, 彼の寝室の奥にある, 特別に温度管理されたクローゼットに厳重に保管されていたものだ. そのクローゼットは, 私が弘道と結婚して以来, 一度たりとも開かれたことはなかった.
「弘道さん, このワンピース, どうかしら? 似合う? 」
琴美は弘道に甘えた声で尋ねた. 彼女は, 私をちらりと見て, その目に挑発の色を浮かべた. 弘道は, 彼女の姿を見て, まるで亡き恋人と再会したかのように, 目を細めた.
私は, かつて, そのワンピースに触れようとしただけで, 彼にひどく叱責されたことを思い出した. 彼にとって, それは聖域であり, 私のような「置物」が触れることなど許されなかったのだ.
「ああ, とてもよく似合っている. 琴美が着ると, まるで彼女が生き返ったようだ. 」
彼の言葉は, まるで私という存在を完全に否定するかのように, 私の心に深く突き刺さった. しかし, 私はもう, それに慣れてしまった. 彼の目には, もう私など映っていないのだから.
「琴美が自由に身につけていい. この家のものは, 全て琴美のものだ. 」
弘道の言葉に, 琴美は満足そうに微笑んだ. そして, 私に向かって, 舌を突き出した. まるで, 子供じみた挑発だった.
私は, そんな琴美の姿を静かに見つめた. そして, 小さな声で, しかしはっきりと聞こえるように言った.
「とてもよくお似合いよ, 琴美さん. 」
私の言葉に, 琴美は一瞬, 驚いたような顔をした. 彼女は, 私が怒り狂うか, あるいは悲しみに暮れると思っていたのだろう. けれど, 私はもう, そんな感情とは無縁だった.
私はそのまま, 静かに自分の部屋へと戻った. もうすぐ, この家を出る日が来る. あと数日. その日を待つだけだった. 荷物をまとめる時間は, もうあまり残されていない.
考え事をしていると, 携帯電話が鳴った. 弘道からだった.
「千由紀, 琴美を学校まで送って行け. すぐにだ. 」
彼の声は, 命令口調だった. 私は, 一瞬, 拒否しようとした. 運転手はいる. 彼の秘書もいる. なぜ, 私が?
「弘道さん, 運転手さんもいますし, 秘書の方もいらっしゃるでしょう? 」
私の言葉に, 電話の向こうで弘道が舌打ちをする音が聞こえた.
「私が言っているんだ. いいから, さっさと準備しろ. ぐずぐずするな. 」
彼の声は, 怒りに震えていた. 私は, これ以上逆らうと, 彼が何を言い出すか分からないと思った. 今は, 波風を立てるべきではない.
「分かりました. 」
私はそう言って, 電話を切った. そして, 静かに身支度を始めた.
庭に出ると, 弘道と琴美が既に待っていた. 弘道は, 腕を組み, 私を睨みつけている. 琴美は, 得意げな顔で, 弘道の腕に絡みついていた.
「遅いぞ, 千由紀. お前はいつもそうだ. 私の時間を無駄にする. 」
弘道は私を叱責した. 琴美は, 私に向かって, にっこりと微笑んだ. まるで, 私をからかっているかのようだった.
「千由紀さん, ありがとう. 運転手さんより, 千由紀さんの方が安心できるわ. 」
琴美はそう言って, 私に甘えるように寄り添ってきた. 私は, その言葉が心の底から嫌悪感を抱かせたが, 表情には出さなかった.
車に乗り込むと, 弘道は琴美の頬にキスをした. 私の目の前で, 平然と. 私は, 無表情でハンドルを握った.
「弘道さんも, もう少し, 千由紀さんに優しくしてあげたらどう? ほら, 千由紀さん, 顔色が悪いわ. 」
琴美は, わざとらしく心配そうな顔で言った. その目には, 私を嘲笑する色が隠されていた.
私は, 何も言わなかった. ただ, 前を向いて運転を続けた. 琴美は, 私の沈黙に飽きたのか, 今度は弘道との馴れ初めを話し始めた. 彼女の声が, 私の耳元で, まるで毒蛇の囁きのように聞こえた.
「弘道さんって, 本当に冷たいわよね. 千由紀さんのこと, 一度も愛したことないんでしょ? 」
琴美の言葉は, 私の心を深く抉った. けれど, 私はもう, それに傷つくこともなかった. ただ, 早くこの時間が終わってほしいと願うだけだった.
その時だった.
対向車線から, 猛スピードでトラックが突っ込んできた. 私の視界が, 一瞬で真っ白になった.
「あぶない! 」
私は反射的にハンドルを切り, ブレーキを踏んだ. 体が, シートベルトに締め付けられる. タイヤが悲鳴を上げ, 車体が大きく横滑りした.
しかし, 避けきれない.
衝撃が, 全身を襲った. 体が, まるで宙に舞い上がったかのように感じられた. 視界が真っ暗になり, 意識が遠のきそうになった.
「きゃあ! 」
琴美の悲鳴が, 耳元で聞こえた.
私は, かろうじて意識を保っていた. 頭の中で, 何かが割れるような音がした. 体が, ひどく痛んだ.
「琴美さん! 」
私は, かろうじて声を絞り出した. 助手席の琴美は, シートベルトで体が固定されている. 顔は真っ青で, 震えていた. けれど, 外傷はないように見えた.
「大丈夫? どこか痛いところは? 」
私は, 痛む体を引きずるように, 琴美に手を伸ばした. 彼女は, 私の手を見て, 怯えるように身を縮めた.
「ち, 千由紀さん... ! 」
彼女は, 私の顔を見て, 絶叫した. 私は, 自分の顔に触れた. べったりと, 温かい液体がついていた. 血だ.
頭から, 血が流れている. けれど, 不思議と痛みは感じなかった. ただ, 体が鉛のように重く, 動かすことができなかった.
幸いにも, 事故現場はすぐに発見された. 救急車と警察が駆けつけ, 私たちは車から運び出された. 私は, ストレッチャーに乗せられながら, 琴美の様子を確認した.
彼女は, 幸いにも軽い擦り傷で済んだようだ. けれど, 私は違った. 救急隊員が, 私の腕を見て, 深刻な顔をしているのが見えた.
「右腕の開放骨折, 頭部外傷の疑いがあります. すぐに手術が必要です. 」
救急隊員の声が, 私の耳に届いた. 私は, 意識が朦朧としながらも, 琴美が大丈夫だったことに安堵した.
病院に着くと, 弘道が駆けつけてきた. 彼の顔は, 怒りと, そして少しの恐怖で歪んでいた.
「琴美! 大丈夫か! 」
彼は, 私のストレッチャーを無視して, 琴美の元へと駆け寄った. 琴美は, 彼の腕に抱きつき, 泣きじゃくった.
「弘道さん! 怖かったわ! もう死ぬかと思った! 」
彼女は, まるで私が故意に事故を起こしたかのように, 彼に縋り付いた. 弘道は, 琴美を抱きしめながら, 私を睨みつけた.
「千由紀! お前, 一体何をしているんだ! 運転を誤ったのか! 」
彼の言葉は, 私の心を深く突き刺した. 私は, 彼に何も言えなかった. ただ, その場に横たわっているだけだった.
「琴美, 大丈夫だ. 私がついている. すぐに精密検査を受けさせよう. 最高の医師を呼ぶ. 」
弘道は, 私を完全に無視して, 琴美を抱きかかえるようにして, 診察室へと連れて行った. 私は, ただ, その場に横たわっているだけだった.
無力感. それが, 私の心の全てを支配していた.
「奥様, 奥様もすぐに手術の準備をしますからね. 」
看護師の声が, 遠くから聞こえてきた. 私は, もう何も考えることができなかった. ただ, 早く全てが終わってほしいと願うだけだった.
「弘道様, 琴美様のご心配ですね. 本当に, 奥様はいつもお二人のために尽くしていらっしゃいましたのに. 」
私は, 廊下で囁く看護師たちの声を聞いた. 彼らは, 弘道が琴美にどれほど尽くしているかを, 羨ましそうに話していた.
「まあ, 琴美様は本当に可愛らしいからね. あんなに素敵な方なら, 弘道様も夢中になるわ. 」
「ええ, それに, 奥様はいつも無表情で, まるで置物みたいだもの. 弘道様も, きっと琴美様の方が好きなのよ. 」
看護師たちの声が, 私の耳に突き刺さった. 私は, 何も言えなかった. 彼らの言葉は, 全て真実だったから.
私は, 弘道に愛されたことなど, 一度もなかった. ただの契約. ただの置物. それが, 私の8年間だった.
話 3
広森千由紀 POV:
「置物みたい... 」
看護師たちの囁きが, 手術室へと向かう私の耳から離れなかった. 私は本当に, この8年間, 感情のない置物として生きてきたのだろうか. この結婚が, 私に何か幸福をもたらしたことなど, 一度もなかった.
手術室の白い天井が, 私を空虚な空間へと引きずり込んでいくようだった.
手術直前, 弘道と琴美が病室に現れた. 彼らは, 私のベッドサイドに立った. 弘道は, 憔悴した顔で私を見下ろしていた.
「千由紀, 体の具合はどうだ? 酷い怪我だと聞いたが. 」
彼の声には, 僅かな心配の色が混じっていた. けれど, それは, 私への心配ではなかった. 彼の家族の顔としての, 形式的な言葉だった.
「お前が運転を誤ったせいで, 琴美まで危険な目に遭ったんだぞ. もし琴美に何かあったら, どうするつもりだった? 」
彼の言葉は, 私への非難だった. 私は, 何も言えなかった. ただ, 彼の目を見つめ返すだけだった.
「でも, 弘道さん, 私, 無事でよかったわ. 本当に, 奇跡よ. 」
琴美は, 彼の腕に抱きつきながら, 甘えた声で言った. その顔は, まるで私を責めているかのように, 弘道に寄り添っていた.
「ああ, 琴美が無事で, 本当に良かった. 」 弘道は琴美の頭を優しく撫でた. 「今夜は, 君を連れて最高のレストランに行こう. 美味しいものを食べて, 元気を出してくれ. 」
彼の言葉は, 私の心を深く突き刺した. 彼は, 私の目の前で, 琴美とのデートの約束をしたのだ. 私は, ただ, その光景を静かに見ていた.
その時, 医師が病室に入ってきた.
「奥様, 手術の準備が整いました. そろそろ手術室へ. 」
医師の声が, 私を現実へと引き戻した. 弘道は, 私に一瞥もくれず, 琴美の顔を見つめていた.
「弘道さん, 私, 寂しいわ. 一人で大丈夫かしら? 」 琴美は, わざとらしく不安そうな顔で弘道に尋ねた.
「大丈夫だ, 琴美. 君は私が守る. 千由紀は, 今は休ませておけ. 」
弘道はそう言って, 琴美の手を握りしめた. 彼の視線は, 最後まで私に向けられることはなかった.
手術は無事に終わった. 私は, 病室のベッドで目を覚ました. 右腕には, ギプスが巻かれている. 頭も, 包帯でぐるぐる巻きだ.
「奥様, ご家族にご連絡しましょうか? 」
看護師が, 私の顔を覗き込んだ. 私は, 一瞬, 迷った. けれど, 私の脳裏に浮かんだのは, 弘道の冷たい顔と, 琴美の勝ち誇った笑みだった.
「いいえ, 必要ありません. 」
私の声は, ひどく冷たかった. 看護師は, 少し驚いたような顔をしたが, 何も言わなかった.
私は, 自分で手配した看護師に, 身の回りの世話をしてもらうことにした. 弘道は, 私の病室に一度も顔を見せなかった. 彼と琴美は, 毎日, 楽しそうに外出していた. 琴美は, 毎日, 弘道との親密な写真を私に送りつけてきた. 温泉旅行, 高級レストラン, 遊園地. どれもこれも, 私が知らない彼らの姿だった.
私は, その写真を見ても, 何も感じなかった. ただ, 早くこの生活から抜け出したいと願うだけだった.
病室で, 私はひたすら作業に取り組んだ. 幸いにも, 右手ではなく左手に怪我を負ったため, デザインのスケッチは可能だった. 私は, 以前から幸恵と一緒に取り組んでいた, 新しいジュエリーデザインのプロジェクトに没頭した.
幸恵は, 私の唯一の理解者だった. 彼女は, 世界的に有名なジュエリーデザイナーで, 私の才能を誰よりも早く見抜いてくれた. 私が弘道と結婚する前, 私は彼女の元で修行していた.
「千由紀, あなたの才能は, こんな場所で埋もれていいものじゃない. いつか, 私の元で, 一緒に世界を驚かせましょう. 」
幸恵は, いつもそう言って, 私を励ましてくれた. 私が弘道との結婚生活に苦しんでいる間も, 彼女は私に寄り添い, 私が密かにデザインを続ける手助けをしてくれた.
「千由紀, あなた, 星野家に来てから, もう8年にもなるの? あなたの人生, あの男に8年間も無駄にされたのね. 」
幸恵は, 私の怪我を知って, すぐに病院に駆けつけてくれた. 彼女は, 私の手を握りしめ, 涙を流した.
「いいえ, 幸恵. 無駄ではなかったわ. 」私は首を横に振った. 「あの8年間がなければ, 私は今の私にはなれなかった. 家族のために犠牲になったあの経験が, 私を強くしたのよ. 」
私の言葉に, 幸恵は複雑な表情を浮かべた.
「でも, あなたの夢は? 」
「夢は, まだ終わってないわ. むしろ, これからが本番よ. 」
私はそう言って, 微笑んだ.
私の契約は, もうすぐ終わる. そして, 私は自由になる. もう二度と, 弘道の冷たい視線に怯えることも, 琴美の挑発に耐えることもない.
私は, 私の夢を叶えるために, この病院を出る.
退院当日, 弘道から電話がかかってきた.
「千由紀, お前, 退院するのか? なぜ私に連絡しなかった? 」
彼の声は, 苛立ちに満ちていた. 私は, 彼に連絡する義務などない.
「弘道さん, 私はもう, あなたの妻ではありません. もうすぐ, あの家を出るでしょう. 」
私の言葉に, 電話の向こうで弘道が舌打ちをする音が聞こえた.
「何を言っているんだ. お前は私の妻だ. それに, 最近, 家の中が散らかり放題だ. 琴美は何もできない. お前がいないと, 何も回らないんだ. 」
彼の言葉は, 私をまるで家政婦のように扱っていた. 私は, 彼の言葉に, 何も感じなかった.
「お前は, 今すぐ家に帰ってこい. 私の書斎にある書類を整理しろ. 琴美は, 私の大切な書類に触れることさえできない. 」
彼は, 私に命令した. 私は, 一瞬, 拒否しようとした. けれど, すぐに思い直した.
「弘道さん, 今, 看護師さんが退院の手続きに来てくれたわ. 失礼します. 」
私はそう言って, 電話を切った. 弘道の怒鳴り声が, まだ耳の奥でこだましていた.
幸恵が, 私のベッドサイドに立っていた. 彼女は, 私の手を握りしめ, 微笑んだ.
「さあ, 千由紀. 新しい人生を始めましょう. 」
私は, 幸恵の言葉に頷いた. 私たちは, 病院の出口へと向かった.
「千由紀, 本当に, もう自由になったのね. 」
幸恵の声は, 私の心を温かく包み込んだ.
「ええ, 幸恵. もう, 全て終わったわ. 」
私は, そう答えた. そして, 離婚届を提出することを心に誓った.
「おめでとう, 千由紀! お祝いだ! 」
幸恵は, 私の手を握りしめ, 歓声を上げた.
「どこか, 美味しいものでも食べに行きましょうか? 」
「ええ, そうね. 」
私は, 幸恵の提案に頷いた.
その瞬間, 私の携帯電話が再び鳴った. 弘道からだった. 私は, その電話を無視した. 幸恵は, 私の顔を見て, 心配そうに尋ねた.
「まだ, あの人と繋がってるの? 」
私は, 幸恵に全てを話したことがなかった. 私の心の中に, 彼への感情がまだ残っているのかと, 幸恵は心配しているのだろう.
私は, 携帯電話を机の上に置いた. 彼の電話は, まだ鳴り続けている. しかし, 私の心は, もう何の感情も抱いていなかった.
「幸恵, もう終わったのよ. 私たちの世界は, もう違うの. 」
私は, そう言って, 静かに微笑んだ. 幸恵は, 私の言葉に頷き, 私の肩を抱いた.
私たちは, 病院を出て, 幸恵が手配してくれた迎えの車に乗り込んだ. 車は, 私がずっと行きたかった, 小さなレストランへと向かった.
私は, テーブルに運ばれてきた料理を見て, 思わず涙が溢れた. それは, 私が弘道と結婚する前, 幸恵とよく通っていたレストランの, 思い出の料理だった.
「千由紀, どうしたの? そんなに美味しい? 」
幸恵が, 私の顔を覗き込んだ. 私は, 何も言わなかった. ただ, 涙を流しながら, 料理を食べ続けた.
私が, 弘道と結婚して以来, 彼の家では, 私が食べることのできる料理は限られていた. 彼の家族は, 伝統を重んじ, 特定の食材しか口にしなかった. 私が好きな庶民的な料理は, 全て禁止されていた.