1

父の会社を救うため, 私は傲慢な夫・星野弘道との8年間の契約結婚に耐えてきた. 彼にとって私は感情のない「置物」で, 26回もの裏切りにも, ただ息を殺してきた.

しかし, 結婚8年目の夜, 彼は愛人を家に連れ込み, 私を事故に巻き込んだ. 頭から血を流す私を無視し, 彼は愛人だけを抱きしめ, こう言い放った.

「お前が運転を誤ったせいだ! 琴美に何かあったらどうする! 」

その冷酷な一言で, 私の心は完全に死んだ.

契約が終わりを告げる日, 私は離婚届と, 彼が亡き恋人の代替品である愛人に贈ったネックレスの本当のデザイナーが私であるという証拠を置いて, 彼の人生から完全に姿を消した.

第1章

広森千由紀 POV:

夫が新しい女を家に連れ込んだのは, 私たちの結婚生活が8年目を迎える, まさにその夜だった. 私にとって, それは彼が数えきれない裏切りを重ねてきた中でも, 最も冷酷な一撃だった.

私は星野弘道と5年間結婚していた. 少なくとも, 表面上はそうだった. その5年の間に, 彼は26回も私以外の女性と関係を持った. 私はその全てを, まるで空気のように扱ってきた. 気づかないふりをして, 感情を押し殺して.

けれど, 8年目の夜, その感情は初めて私の中で爆発しそうになった.

「あなた, 邪魔よ. そこに突っ立っていないで, さっさと退いてちょうだい. 」

声の主は, 柿沼琴美. 彼がここ数ヶ月, 愛人として囲っている若い女優だった. 彼女は私の家だというのに, 自分の家のように振る舞い, 私の目の前で彼の腕にぴったりと寄り添っていた.

私は何も言わず, ただその場に立ち尽くしていた. 体が, まるで重い鉛でできているかのようだった.

「聞こえなかったの? この耳, 飾りかしら? 」 琴美はそう言って, 私の肩にぐいとぶつかった. 故意に.

彼は, その光景を私の隣で, まるで観客のように見ていた. 何も言わず, ただ静かに. その沈黙が, 私をさらに深く突き刺した. 彼の無関心は, 琴美のどんな言葉よりも, 鋭い刃だった.

「あなたみたいな女, 邪魔なだけよ. この家から消えてくれたら, どれだけ清々するか. 」 琴美は勝ち誇ったように, 私の耳元で囁いた. その声には, 底意地の悪さが滲み出ていた.

私は, 息をすることさえ忘れていた.

その夜, 彼らは私の目の前で, リビングのソファで抱き合った. 琴美の嬌声が, 私の乾いた心臓を突き刺した. 私は, まるでそこにいないかのように, ただ静かに, その光景を見ていた.

翌朝, 弘道は食卓で, いつものように冷たい声で言った.

「千由紀, 今夜の夕食はいつもより豪華にしてくれ. 琴美の友人が来る. 」

私は, 皿に盛られたパンをゆっくりと見つめた. そのパンが, 彼の言葉と同じくらい冷たく感じられた.

「嫌よ. 」

私の声は, 私自身も驚くほどはっきりと, 彼の耳に届いた.

食卓が一瞬, 静寂に包まれた. 彼が, まるで初めて私を見たかのように, ゆっくりと顔を上げた. その目には, 驚きと, そして不快感がはっきりと見て取れた.

「何だと? 」

彼は信じられないという顔で, 私を見返した. 8年間, 私は彼のどんな要求にも「はい」と答えてきた. 彼の要望は, 私にとって絶対だった. それが, この契約結婚の条件だったから.

けれど, その契約は, あと数日で終わる. 自由へのカウントダウンは, もう始まっていた.

「嫌だと言ったのよ, 弘道さん. 」 私はもう一度, 今度は少しだけ声を上げて繰り返した.

彼の顔は, 怒りで染まり始めた.

「お前は, この家に来てから, 一度たりとも私の言葉に逆らったことはないだろう. 何を勘違いしている? 」 彼の声は, 低く, 威圧的だった. 「お前のような女に, 何かを拒否する権利があると思っているのか? 」

私は何も答えなかった. ただ, 彼の目を見つめ返した. その目には, もう何の感情も宿っていなかった.

「おい, 千由紀! 聞いているのか! 」 彼は苛立ちを隠せない様子で, テーブルを叩いた.

私は, 彼の怒声に動じることなく, 静かに立ち上がった.

「弘道さん, 私にはもう行くべき場所があるのよ. 」

私の言葉は, まるで彼の存在を消し去るかのように, 静かに, しかし明確に響いた.

「この期に及んで, どこへ行くというんだ? 」 彼の鼻先が, まるで私を侮辱するかのように, ふっと持ち上がった. 「お前がこの星野家を出て, 一体何ができる? どこへ行ける? 」

私は彼の言葉に, 何の感情も抱かなかった. かつては傷ついただろうか. かつては, 彼の言葉一つで, 私の世界は崩れ落ちたはずだ. けれど, 今は違った. 私は, もうこの男の言葉に, 心を揺さぶられることはなかった.

「ふん, 答えられないか. 当然だ. 」 彼は吐き捨てるように言った. 「お前は私の庇護の下で, この8年間, 何の苦労もなく暮らしてきただけの存在. 世間知らずの箱入り娘に, 一体何ができる? 」

彼の言葉は, まるで私という存在を否定するかのように, 私の心に深く突き刺さった. しかし, 私の顔には, 何の感情も浮かんでいなかった. 私はただ, 静かに彼を見つめ返した.

「弘道さん, あなたは私を, ずっとそうやって見てきたのね. 」

私の声は, ひどく冷たかった. 彼は, その冷たさに一瞬怯んだように見えたが, すぐに持ち前の傲慢さでそれを打ち消した.

「何が言いたい? 」

「何も. 」 私は首を横に振った. 「もう, 何も言うことはないわ. 」

私の言葉に, 彼はさらに苛立ちを募らせた.

「おい! 千由紀! どこへ行くつもりだ! 」 彼は大声で私を呼び止めた.

私は振り返らず, ただ静かにその場を去ろうとした. その時, 琴美が寝室から現れた. 彼女は, 私の存在を無視するかのように, 弘道の隣に歩み寄った.

「弘道さん, どうしたの? 喧嘩でもした? 」 琴美は甘えた声で弘道に寄り添い, ちらりと私を睨んだ. その目は, 私の敗北を確信しているようだった.

「大したことじゃない. 世間知らずの女が, 少しばかり癇癪を起こしただけだ. 」 弘道はそう言って, 琴美の頭を撫でた.

琴美は, 私に向かって, 勝ち誇ったような笑みを浮かべた. その笑みは, 私の心に何の痛みも与えなかった. ただ, それが, 私の人生から消え去るべき, 最後の影であるかのように感じられただけだった.

「お前は, さっさと私の言うことを聞け. 」 弘道は最後に, 私に向かって命令した.

私は, 彼の言葉を無視して, 自分の部屋へと向かった. その背中に, 琴美の嗤い声が聞こえた.

「ねえ, 弘道さん. あの女, 本当に役立たずね. 私がいたら, 全部うまくいくのに. 」

「ああ, そうだな. 」 弘道はそう答えていた.

私は自室に戻り, 窓の外を眺めた. 外は, もうすっかり暗くなっていた. 私は, 一体どこへ行けばいいのだろう. この8年間, 私は彼の妻として, 彼の家の置物として生きてきた. 私には, 自分の人生はなかった.

「お前のような女に, 一体何ができる? 」

彼の言葉が, 私の中でこだました. 私は, 本当に何もできないのだろうか?

私がかつて, どれほどの情熱を秘めていたか, 彼は知る由もなかった. 宝飾デザイナーになるという夢. それは, 父の会社の経営危機によって, 私が弘道との結婚を受け入れることになった時, 捨て去った夢だった.

父の会社を救うため, 私はこの政略結婚を受け入れた. 弘道は, 私の父の会社に巨額の融資をしてくれた. その代わり, 私は彼の妻となり, 5年間, 彼の言うこと全てに従うという契約を交わした. 5年が過ぎた後も, 弘道は私を離そうとはしなかった. 私が彼の側で, 彼の母の介護をしていたから. 私は彼の家の, まるで優秀な家政婦だった.

私は, 彼の亡き恋人の影を追いかける彼の姿を, ずっと見てきた. 彼は, 私を一度も愛してくれなかった. 私を, ただの代理品としてさえ見てくれなかった.

彼は, 私を「置物」のように扱った. 感情も, 才能も, 全てを見過ごした. 私が宝飾デザインの夢を諦めず, 密かに才能を磨き続けていたことなど, 知る由もなかっただろう. 平山幸恵という, 世界的に有名なジュエリーデザイナーの友人が, 私の才能を見抜き, 私を力強く支えてくれたことも.

そして, 琴美. 彼女は, 彼の亡き恋人に瓜二つだった. だから彼は, 琴美を愛人として家に連れ込んだのだ. 彼女は, 弘道にとって, 亡き恋人の代替品でしかなかった.

「私には, もう行くべき場所があるのよ. 」

私の言葉は, 嘘ではなかった. 私は, この8年間, 来るべき日のために, 密かに準備を進めてきた. もうすぐ, この契約は終わりを迎える. 私に与えられた猶予は, あとわずかだ. 私は, もう二度と, 彼の言葉に心を砕かれることはないだろう.

「弘道さん, あなたは私を, ずっとそうやって見てきたのね. 」

私の言葉を, 彼は理解できなかっただろう. 彼が理解できるのは, 彼自身の感情だけだ.

私の携帯電話が震えた. 画面には, 彼からの着信が表示されていた. 私は, その電話に出ることはなかった.

「千由紀! どこだ! まさか, 本当に家を出たのか! 」

彼の声が, 電話の向こうから聞こえてくるようだった. しかし, 私にはもう, 彼の言葉は届かない. 私は, もうこの家にはいない. 私の心は, この場所から, もう遠く離れていた.

私は, 静かに立ち上がり, リビングのドアを開けた. まだ, 彼と琴美の話し声が聞こえる. けれど, その声は, もう私には関係のない雑音だった.

私は, もう一度, 彼の電話が鳴るのを感じた. けれど, 私はその電話を, もう手に取ることはなかった.

「私の行くべき場所は, 東京ではない. この国ではない. 私の行くべき場所は, もっと, ずっと遠い場所よ. 」

私は静かに, バッグを手に取った. そこには, 私の全ての過去と, 未来への希望が詰まっていた.

私は, もう歩き出していた.

2

広森千由紀 POV:

「お前のような女に, 一体何ができる? 」

昨夜の弘道の言葉が, 耳の奥でこだましていた. 彼の傲慢な声は, 私をずっと縛り付けてきた鎖のようなものだった.

「まあ, 千由紀さんも, 今までちゃんと働いたことなんてないからね. 弘道さんみたいに, 会社のトップを張ってきた人とは違うわ. 」

琴美の声が, 弘道の言葉に重なった. 彼女は, 彼の亡き恋人によく似た顔で, 私を嘲笑っていた. その言葉は, 私の心を深くえぐった. けれど, 私はもう, それに反応することもなかった.

その時, 寝室のドアが開き, 琴美が姿を現した. 彼女は, 私の心をさらにもう一度, 踏みにじるような格好をしていた.

彼女が身につけていたのは, 弘道の亡き恋人が生前, 最も大切にしていたワンピースだった. それは, 彼の寝室の奥にある, 特別に温度管理されたクローゼットに厳重に保管されていたものだ. そのクローゼットは, 私が弘道と結婚して以来, 一度たりとも開かれたことはなかった.

「弘道さん, このワンピース, どうかしら? 似合う? 」

琴美は弘道に甘えた声で尋ねた. 彼女は, 私をちらりと見て, その目に挑発の色を浮かべた. 弘道は, 彼女の姿を見て, まるで亡き恋人と再会したかのように, 目を細めた.

私は, かつて, そのワンピースに触れようとしただけで, 彼にひどく叱責されたことを思い出した. 彼にとって, それは聖域であり, 私のような「置物」が触れることなど許されなかったのだ.

「ああ, とてもよく似合っている. 琴美が着ると, まるで彼女が生き返ったようだ. 」

彼の言葉は, まるで私という存在を完全に否定するかのように, 私の心に深く突き刺さった. しかし, 私はもう, それに慣れてしまった. 彼の目には, もう私など映っていないのだから.

「琴美が自由に身につけていい. この家のものは, 全て琴美のものだ. 」

弘道の言葉に, 琴美は満足そうに微笑んだ. そして, 私に向かって, 舌を突き出した. まるで, 子供じみた挑発だった.

私は, そんな琴美の姿を静かに見つめた. そして, 小さな声で, しかしはっきりと聞こえるように言った.

「とてもよくお似合いよ, 琴美さん. 」

私の言葉に, 琴美は一瞬, 驚いたような顔をした. 彼女は, 私が怒り狂うか, あるいは悲しみに暮れると思っていたのだろう. けれど, 私はもう, そんな感情とは無縁だった.

私はそのまま, 静かに自分の部屋へと戻った. もうすぐ, この家を出る日が来る. あと数日. その日を待つだけだった. 荷物をまとめる時間は, もうあまり残されていない.

考え事をしていると, 携帯電話が鳴った. 弘道からだった.

「千由紀, 琴美を学校まで送って行け. すぐにだ. 」

彼の声は, 命令口調だった. 私は, 一瞬, 拒否しようとした. 運転手はいる. 彼の秘書もいる. なぜ, 私が?

「弘道さん, 運転手さんもいますし, 秘書の方もいらっしゃるでしょう? 」

私の言葉に, 電話の向こうで弘道が舌打ちをする音が聞こえた.

「私が言っているんだ. いいから, さっさと準備しろ. ぐずぐずするな. 」

彼の声は, 怒りに震えていた. 私は, これ以上逆らうと, 彼が何を言い出すか分からないと思った. 今は, 波風を立てるべきではない.

「分かりました. 」

私はそう言って, 電話を切った. そして, 静かに身支度を始めた.

庭に出ると, 弘道と琴美が既に待っていた. 弘道は, 腕を組み, 私を睨みつけている. 琴美は, 得意げな顔で, 弘道の腕に絡みついていた.

「遅いぞ, 千由紀. お前はいつもそうだ. 私の時間を無駄にする. 」

弘道は私を叱責した. 琴美は, 私に向かって, にっこりと微笑んだ. まるで, 私をからかっているかのようだった.

「千由紀さん, ありがとう. 運転手さんより, 千由紀さんの方が安心できるわ. 」

琴美はそう言って, 私に甘えるように寄り添ってきた. 私は, その言葉が心の底から嫌悪感を抱かせたが, 表情には出さなかった.

車に乗り込むと, 弘道は琴美の頬にキスをした. 私の目の前で, 平然と. 私は, 無表情でハンドルを握った.

「弘道さんも, もう少し, 千由紀さんに優しくしてあげたらどう? ほら, 千由紀さん, 顔色が悪いわ. 」

琴美は, わざとらしく心配そうな顔で言った. その目には, 私を嘲笑する色が隠されていた.

私は, 何も言わなかった. ただ, 前を向いて運転を続けた. 琴美は, 私の沈黙に飽きたのか, 今度は弘道との馴れ初めを話し始めた. 彼女の声が, 私の耳元で, まるで毒蛇の囁きのように聞こえた.

「弘道さんって, 本当に冷たいわよね. 千由紀さんのこと, 一度も愛したことないんでしょ? 」

琴美の言葉は, 私の心を深く抉った. けれど, 私はもう, それに傷つくこともなかった. ただ, 早くこの時間が終わってほしいと願うだけだった.

その時だった.

対向車線から, 猛スピードでトラックが突っ込んできた. 私の視界が, 一瞬で真っ白になった.

「あぶない! 」

私は反射的にハンドルを切り, ブレーキを踏んだ. 体が, シートベルトに締め付けられる. タイヤが悲鳴を上げ, 車体が大きく横滑りした.

しかし, 避けきれない.

衝撃が, 全身を襲った. 体が, まるで宙に舞い上がったかのように感じられた. 視界が真っ暗になり, 意識が遠のきそうになった.

「きゃあ! 」

琴美の悲鳴が, 耳元で聞こえた.

私は, かろうじて意識を保っていた. 頭の中で, 何かが割れるような音がした. 体が, ひどく痛んだ.

「琴美さん! 」

私は, かろうじて声を絞り出した. 助手席の琴美は, シートベルトで体が固定されている. 顔は真っ青で, 震えていた. けれど, 外傷はないように見えた.

「大丈夫? どこか痛いところは? 」

私は, 痛む体を引きずるように, 琴美に手を伸ばした. 彼女は, 私の手を見て, 怯えるように身を縮めた.

「ち, 千由紀さん... ! 」

彼女は, 私の顔を見て, 絶叫した. 私は, 自分の顔に触れた. べったりと, 温かい液体がついていた. 血だ.

頭から, 血が流れている. けれど, 不思議と痛みは感じなかった. ただ, 体が鉛のように重く, 動かすことができなかった.

幸いにも, 事故現場はすぐに発見された. 救急車と警察が駆けつけ, 私たちは車から運び出された. 私は, ストレッチャーに乗せられながら, 琴美の様子を確認した.

彼女は, 幸いにも軽い擦り傷で済んだようだ. けれど, 私は違った. 救急隊員が, 私の腕を見て, 深刻な顔をしているのが見えた.

「右腕の開放骨折, 頭部外傷の疑いがあります. すぐに手術が必要です. 」

救急隊員の声が, 私の耳に届いた. 私は, 意識が朦朧としながらも, 琴美が大丈夫だったことに安堵した.

病院に着くと, 弘道が駆けつけてきた. 彼の顔は, 怒りと, そして少しの恐怖で歪んでいた.

「琴美! 大丈夫か! 」

彼は, 私のストレッチャーを無視して, 琴美の元へと駆け寄った. 琴美は, 彼の腕に抱きつき, 泣きじゃくった.

「弘道さん! 怖かったわ! もう死ぬかと思った! 」

彼女は, まるで私が故意に事故を起こしたかのように, 彼に縋り付いた. 弘道は, 琴美を抱きしめながら, 私を睨みつけた.

「千由紀! お前, 一体何をしているんだ! 運転を誤ったのか! 」

彼の言葉は, 私の心を深く突き刺した. 私は, 彼に何も言えなかった. ただ, その場に横たわっているだけだった.

「琴美, 大丈夫だ. 私がついている. すぐに精密検査を受けさせよう. 最高の医師を呼ぶ. 」

弘道は, 私を完全に無視して, 琴美を抱きかかえるようにして, 診察室へと連れて行った. 私は, ただ, その場に横たわっているだけだった.

無力感. それが, 私の心の全てを支配していた.

「奥様, 奥様もすぐに手術の準備をしますからね. 」

看護師の声が, 遠くから聞こえてきた. 私は, もう何も考えることができなかった. ただ, 早く全てが終わってほしいと願うだけだった.

「弘道様, 琴美様のご心配ですね. 本当に, 奥様はいつもお二人のために尽くしていらっしゃいましたのに. 」

私は, 廊下で囁く看護師たちの声を聞いた. 彼らは, 弘道が琴美にどれほど尽くしているかを, 羨ましそうに話していた.

「まあ, 琴美様は本当に可愛らしいからね. あんなに素敵な方なら, 弘道様も夢中になるわ. 」

「ええ, それに, 奥様はいつも無表情で, まるで置物みたいだもの. 弘道様も, きっと琴美様の方が好きなのよ. 」

看護師たちの声が, 私の耳に突き刺さった. 私は, 何も言えなかった. 彼らの言葉は, 全て真実だったから.

私は, 弘道に愛されたことなど, 一度もなかった. ただの契約. ただの置物. それが, 私の8年間だった.

3

広森千由紀 POV:

「置物みたい... 」

看護師たちの囁きが, 手術室へと向かう私の耳から離れなかった. 私は本当に, この8年間, 感情のない置物として生きてきたのだろうか. この結婚が, 私に何か幸福をもたらしたことなど, 一度もなかった.

手術室の白い天井が, 私を空虚な空間へと引きずり込んでいくようだった.

手術直前, 弘道と琴美が病室に現れた. 彼らは, 私のベッドサイドに立った. 弘道は, 憔悴した顔で私を見下ろしていた.

「千由紀, 体の具合はどうだ? 酷い怪我だと聞いたが. 」

彼の声には, 僅かな心配の色が混じっていた. けれど, それは, 私への心配ではなかった. 彼の家族の顔としての, 形式的な言葉だった.

「お前が運転を誤ったせいで, 琴美まで危険な目に遭ったんだぞ. もし琴美に何かあったら, どうするつもりだった? 」

彼の言葉は, 私への非難だった. 私は, 何も言えなかった. ただ, 彼の目を見つめ返すだけだった.

「でも, 弘道さん, 私, 無事でよかったわ. 本当に, 奇跡よ. 」

琴美は, 彼の腕に抱きつきながら, 甘えた声で言った. その顔は, まるで私を責めているかのように, 弘道に寄り添っていた.

「ああ, 琴美が無事で, 本当に良かった. 」 弘道は琴美の頭を優しく撫でた. 「今夜は, 君を連れて最高のレストランに行こう. 美味しいものを食べて, 元気を出してくれ. 」

彼の言葉は, 私の心を深く突き刺した. 彼は, 私の目の前で, 琴美とのデートの約束をしたのだ. 私は, ただ, その光景を静かに見ていた.

その時, 医師が病室に入ってきた.

「奥様, 手術の準備が整いました. そろそろ手術室へ. 」

医師の声が, 私を現実へと引き戻した. 弘道は, 私に一瞥もくれず, 琴美の顔を見つめていた.

「弘道さん, 私, 寂しいわ. 一人で大丈夫かしら? 」 琴美は, わざとらしく不安そうな顔で弘道に尋ねた.

「大丈夫だ, 琴美. 君は私が守る. 千由紀は, 今は休ませておけ. 」

弘道はそう言って, 琴美の手を握りしめた. 彼の視線は, 最後まで私に向けられることはなかった.

手術は無事に終わった. 私は, 病室のベッドで目を覚ました. 右腕には, ギプスが巻かれている. 頭も, 包帯でぐるぐる巻きだ.

「奥様, ご家族にご連絡しましょうか? 」

看護師が, 私の顔を覗き込んだ. 私は, 一瞬, 迷った. けれど, 私の脳裏に浮かんだのは, 弘道の冷たい顔と, 琴美の勝ち誇った笑みだった.

「いいえ, 必要ありません. 」

私の声は, ひどく冷たかった. 看護師は, 少し驚いたような顔をしたが, 何も言わなかった.

私は, 自分で手配した看護師に, 身の回りの世話をしてもらうことにした. 弘道は, 私の病室に一度も顔を見せなかった. 彼と琴美は, 毎日, 楽しそうに外出していた. 琴美は, 毎日, 弘道との親密な写真を私に送りつけてきた. 温泉旅行, 高級レストラン, 遊園地. どれもこれも, 私が知らない彼らの姿だった.

私は, その写真を見ても, 何も感じなかった. ただ, 早くこの生活から抜け出したいと願うだけだった.

病室で, 私はひたすら作業に取り組んだ. 幸いにも, 右手ではなく左手に怪我を負ったため, デザインのスケッチは可能だった. 私は, 以前から幸恵と一緒に取り組んでいた, 新しいジュエリーデザインのプロジェクトに没頭した.

幸恵は, 私の唯一の理解者だった. 彼女は, 世界的に有名なジュエリーデザイナーで, 私の才能を誰よりも早く見抜いてくれた. 私が弘道と結婚する前, 私は彼女の元で修行していた.

「千由紀, あなたの才能は, こんな場所で埋もれていいものじゃない. いつか, 私の元で, 一緒に世界を驚かせましょう. 」

幸恵は, いつもそう言って, 私を励ましてくれた. 私が弘道との結婚生活に苦しんでいる間も, 彼女は私に寄り添い, 私が密かにデザインを続ける手助けをしてくれた.

「千由紀, あなた, 星野家に来てから, もう8年にもなるの? あなたの人生, あの男に8年間も無駄にされたのね. 」

幸恵は, 私の怪我を知って, すぐに病院に駆けつけてくれた. 彼女は, 私の手を握りしめ, 涙を流した.

「いいえ, 幸恵. 無駄ではなかったわ. 」私は首を横に振った. 「あの8年間がなければ, 私は今の私にはなれなかった. 家族のために犠牲になったあの経験が, 私を強くしたのよ. 」

私の言葉に, 幸恵は複雑な表情を浮かべた.

「でも, あなたの夢は? 」

「夢は, まだ終わってないわ. むしろ, これからが本番よ. 」

私はそう言って, 微笑んだ.

私の契約は, もうすぐ終わる. そして, 私は自由になる. もう二度と, 弘道の冷たい視線に怯えることも, 琴美の挑発に耐えることもない.

私は, 私の夢を叶えるために, この病院を出る.

退院当日, 弘道から電話がかかってきた.

「千由紀, お前, 退院するのか? なぜ私に連絡しなかった? 」

彼の声は, 苛立ちに満ちていた. 私は, 彼に連絡する義務などない.

「弘道さん, 私はもう, あなたの妻ではありません. もうすぐ, あの家を出るでしょう. 」

私の言葉に, 電話の向こうで弘道が舌打ちをする音が聞こえた.

「何を言っているんだ. お前は私の妻だ. それに, 最近, 家の中が散らかり放題だ. 琴美は何もできない. お前がいないと, 何も回らないんだ. 」

彼の言葉は, 私をまるで家政婦のように扱っていた. 私は, 彼の言葉に, 何も感じなかった.

「お前は, 今すぐ家に帰ってこい. 私の書斎にある書類を整理しろ. 琴美は, 私の大切な書類に触れることさえできない. 」

彼は, 私に命令した. 私は, 一瞬, 拒否しようとした. けれど, すぐに思い直した.

「弘道さん, 今, 看護師さんが退院の手続きに来てくれたわ. 失礼します. 」

私はそう言って, 電話を切った. 弘道の怒鳴り声が, まだ耳の奥でこだましていた.

幸恵が, 私のベッドサイドに立っていた. 彼女は, 私の手を握りしめ, 微笑んだ.

「さあ, 千由紀. 新しい人生を始めましょう. 」

私は, 幸恵の言葉に頷いた. 私たちは, 病院の出口へと向かった.

「千由紀, 本当に, もう自由になったのね. 」

幸恵の声は, 私の心を温かく包み込んだ.

「ええ, 幸恵. もう, 全て終わったわ. 」

私は, そう答えた. そして, 離婚届を提出することを心に誓った.

「おめでとう, 千由紀! お祝いだ! 」

幸恵は, 私の手を握りしめ, 歓声を上げた.

「どこか, 美味しいものでも食べに行きましょうか? 」

「ええ, そうね. 」

私は, 幸恵の提案に頷いた.

その瞬間, 私の携帯電話が再び鳴った. 弘道からだった. 私は, その電話を無視した. 幸恵は, 私の顔を見て, 心配そうに尋ねた.

「まだ, あの人と繋がってるの? 」

私は, 幸恵に全てを話したことがなかった. 私の心の中に, 彼への感情がまだ残っているのかと, 幸恵は心配しているのだろう.

私は, 携帯電話を机の上に置いた. 彼の電話は, まだ鳴り続けている. しかし, 私の心は, もう何の感情も抱いていなかった.

「幸恵, もう終わったのよ. 私たちの世界は, もう違うの. 」

私は, そう言って, 静かに微笑んだ. 幸恵は, 私の言葉に頷き, 私の肩を抱いた.

私たちは, 病院を出て, 幸恵が手配してくれた迎えの車に乗り込んだ. 車は, 私がずっと行きたかった, 小さなレストランへと向かった.

私は, テーブルに運ばれてきた料理を見て, 思わず涙が溢れた. それは, 私が弘道と結婚する前, 幸恵とよく通っていたレストランの, 思い出の料理だった.

「千由紀, どうしたの? そんなに美味しい? 」

幸恵が, 私の顔を覗き込んだ. 私は, 何も言わなかった. ただ, 涙を流しながら, 料理を食べ続けた.

私が, 弘道と結婚して以来, 彼の家では, 私が食べることのできる料理は限られていた. 彼の家族は, 伝統を重んじ, 特定の食材しか口にしなかった. 私が好きな庶民的な料理は, 全て禁止されていた.

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貴方の愛は、もう私には遅すぎた

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