話 1
城西の古い通り。
小倉静流は街角に立ち、小さな庭がある2階建ての家を見つめていた。
小倉家は、ここにある!
そして、彼女が捨てられた場所でもある!
20年以上もの間、彼女は何度となく家の様子を夢に見てきたが、今日ようやく見つけることができた。
静流は家を見つめ、心の中に何年も秘めていた疑問が口から飛び出しそうになった。
ーーなぜだ?
なぜ実の親は自分を捨てたのか?
なぜ養父母に港都国の生き地獄へと売られるままにしたのか!
養父母は彼女を売る前、彼女の名前は静流で、誰からも必要とされない雑種だと言った。
絶対に生き抜いて、実の親を見つける。それが、港都国という人間界の煉獄で生き抜くための唯一の執念だった!
彼女が足を踏み出そうとした時だった。
「ドンッ!」
鈍い音が、横の薄汚い路地から聞こえてきた。
路地の奥で、本来なら背が高く姿勢が良いはずの男が地面にうずくまり、痩せこけた卑劣な男に足で強く踏みつけられていた。
「まだ自分が小倉家の誰も逆らえない坊ちゃんだとでも思ってんのか? 夢でも見てろ!」
「あのイカれた母親に薬を買ってやりたくないのか!」
彼は足を上げ、地面にいる男の手に力いっぱい踏み下ろした。
「ボキッ!」
骨が砕ける音がはっきりと聞こえた。
地面に丸くなっていた男は、押し殺したようなうめき声を上げ、体を激しく震わせた。
だがそれでも、彼は懐にある1つの包みを体で必死に守っていた。
静流の心臓がなぜか震え、次の瞬間、彼女は痩せた男の背後に現れた。
「バキッ――」
先ほどよりもさらに澄んだ骨が折れる音が響き渡った。
「ぎゃあああッ!」
男は悲鳴を上げた。足首に走った激痛で一瞬にしてバランスを崩し、地面に倒れ込んだ。
「死にたいの?」
静流は見下ろすように彼を見つめて冷たく言い放った。
男は痛みのあまり地面を転げ回りながら、汚い言葉で罵った。「クソビッチ、俺様を誰だと思ってやがる! 言っとくがな、お前はもう終わりだ……」
言葉が終わる前だった。
静流のつま先が、彼の折れた足首を的確に踏みつけていた。
「ああああああッ!」
極限の激痛で男の顔は一瞬にして涙と鼻水まみれになり、狂ったように土下座をして命乞いを始めた。
「姉貴!俺が悪かった!俺の目が節穴でした!どうかお許しを!」
「お願いします、もう二度としません!」
静流は無表情で彼を見つめ、言い放った。「失せろ」
男が慌てて這いずって逃げると、黒服の者が路地に入ってきた。黒服の者が声をかけた。
「ボス」
黒服の者は恭しく資料を差し出し、報告した。「小倉家について、そしてあの年、あなたが……行方不明になった真相について、すべて調べがつきました」
静流はファイルに目を通し、瞳をわずかに見開いた。
20年以上前、小倉家の3歳の末娘が家の前で遊んでいた時、人買いに誘拐された。
それ以来、かつては100年続いた名家も急激に没落していった。
母親である小倉瑠奈は、ショックに耐えきれず精神が完全に崩壊し、狂ってしまった。
父親は不治の病にかかり、長く治らずにいる。
長男で、かつて天才ピアニストだった小倉征十郎は、両親に薬を買うためにすべてを捨て、屈辱を味わいながら婿養子として資産家の家に入った。
次男で、かつて警察の誇りだった小倉漣は、罠にはめられ無実の罪で投獄された。
そして三男の小倉晴は、次兄の冤罪を晴らし、彼女を見つけるために、一人で地元の裏社会に飛び込んだ。しかしロクな出世もせず、誰からも踏みつけられる下っ端に成り下がった。
しかし、そんな極貧の家庭でありながら、毎年数千万円を絞り出し、末娘を探すという絶望的に望み薄い行為に注ぎ込んでいたのだ。
静流は震える手で資料をめくり終え、彼女を20年間支えてきた憎しみが、この瞬間に崩れ去った。
捨てられたでは……なかったんだ!
彼女を待っている人がいたのだ!
その時、ずっと地面に伏せていた男が、這いつくばるようにして立ち上がった。
血まみれの顔にあり、もはや光を失っていた彼の目が、静流の容姿をはっきりと見た瞬間、呆然と見開かれた。
次の瞬間、彼はよろめきながら静流に向かって突進してきた。そして叫んだ。
「妹!」
「妹……なのか!? 妹よ、俺は兄ちゃんだ!」
静流は呆然と呟いた。「お兄ちゃん?」
晴は慌てて頷き、震える声で言った。「俺、俺はお前の兄ちゃんだ。俺たち、ずっとお前を探してたんだ!やっと帰ってきたんだな!」
話 2
小倉晴は静流が信じないと思ったのか、襟元から懐中時計を引っ張り出した。
中には、ほとんど見えなくなりかけている古い写真が入っていた。
「妹よ、見ろ!これは俺たちの家族写真だ!」
写真には、優しげな顔立ちの女性が、可愛らしい小さな女の子を抱きかかえ、レンズに向かってとびきりの笑顔を向けていた。
そして、その女性の顔は…… 鏡で見る自分と、7、8割方似ていた。
同じ卵型の顔立ち、笑うと口元に同じように浅いえくぼができる。
静流は心臓が止まるかと思った。
無理もない。
彼が一目で自分だと気づいたのも当然だ。
これが本当に彼女の家族なのだ!
「20年前、お前は家の前で人買いに連れ去られたんだ!」
「家族全員、狂ったように探し回った!」
「母さんは……母さんはお前を想うあまり精神を病んでしまって、毎日お前の好きだった人形を抱きしめながら、何度も何度も『静』って呼んでるんだ……」
彼は手を伸ばし、静流の服の裾に触れようとしたが、空中でピタリと止めた。
「妹、兄ちゃんと一緒に家に帰ろう」
晴の声は、すがるような響きを帯びていた。
「母さんは重い病気を患ってる。母さんは……ずっとお前の帰りを待ってたんだ」
「わかった!」
道中、晴はどうやって帰ってこられたのかと妹に問い詰めた。
静流は、翠川国と港都国の政府が協力して行っている行方不明者捜索プロジェクトに登録し、運良く発見されたのだと簡単に説明した。
さっきの黒服の男は、彼女を送り届けてくれた役人だということにしておいた。
彼女は今の自分の身分を言いたくないわけではなかった。
ただ、あの凄惨な過去や、今は裏社会の頂点に立っているという事実を、家族にどう切り出せばいいのか分からなかった。
家族を怯えさせてしまうのが怖かったのだ。
妹が港都国に売られたと知り、晴の大きな体は激しく震え、その目には後悔と自責の念が溢れていた。
もしあの年、自分が母親と一緒に妹をちゃんと見ていれば…… 妹はあんな辛い思いをせずに済んだのに!
これからは、命に代えても絶対に妹を守り抜く!
二度と少しの苦しみも味わわせはしない!
彼は道中、ずっと彼女の手を強く握りしめていた。
ギーッ――
ドアを開けた途端、髪を振り乱した狂女が勢いよく飛び出してきた。その腕には、薄汚れた人形が強く抱きしめられていた。
「私の娘が帰ってきたの?! 私の静が帰ってきたの ?!」
彼女の視線が静流の顔に触れた瞬間、うつろだった目に驚くほどの光が宿った。
「静……私の静…… 本当に帰ってきたのね!」
瑠奈は静流を強く抱きしめて叫んだ。
静流の体は一瞬で強張った。
ーーこれが、私の母親?
彼女を探すために狂ってしまった母親。
静流は瑠奈を抱きしめ返し、涙を堪えて言った。「ただいま!」
彼女は帰ってきたのだ!
これからは、小倉家を誰にもいじめさせはしない!
ドンッ!
派手なシルクのネグリジェを着て、手首に翡翠のバングルをつけた少女が、家の中から見下すような表情で立っていた。
「へえ、やっと本物を見つけてきたの?」
「よかったわ。10年以上も身代わりをやらされてきたけど、これでやっとおさらばね!」
小倉結衣は静流を不快そうに上から下まで見定めて吐き捨てた。
「はいはいはい、玄関で感動の親子の再会ごっこはもうやめてくれない?気持ち悪いのよ。 さっさと入ってきて。私が荷物をまとめて出て行く邪魔しないでよね!」
晴の顔色は一瞬で青ざめ、声を荒げた。「結衣、どこへ行くつもりだ?!この家はお前を10年以上も育ててきた。いつお前を冷遇したって言うんだ!」
「出て行くって決まってるでしょ?」
結衣は甲高い声で笑い出した。
「じゃなきゃ、あんたみたいな役立たずと一緒に残って、イカれた母親と病人の父親の世話をしろって言うの? 私のこれからの人生、あんたたちみたいな足手まといに引きずり下ろされる覚えはないわ」
晴は怒りで全身を震わせて怒鳴った。「黙れ!」
結衣はさらに傲慢に笑い飛ばした。「あははは、図星か?いいわよ、家族水入らずで仲良くすればいいじゃない! こんな貧乏くさいボロ家、今日から私には一切関係ないから!」
そう言い残し、彼女は背を向けて家の中へ入っていった。
横で見ていた静流は、すぐに状況を理解した。
この家で10年以上も甘やかされて育った恩知らずが、家が落ちぶれたのを見て、残りの財産を巻き上げて別の金づるを見つけようとしているのだ。
すぐに、結衣が重そうなスーツケースを引きずって出てきた。
静流は彼女の前に立ちはだかって言った。「何、小倉家の血を吸い尽くしたから、もう出て行く気? この寄生虫!」
結衣は金切り声を上げた。「何ふざけたこと言ってんのよ? どきなさい!邪魔だよ!」
静流は彼女の手からスーツケースをひったくった。
同時に、もう片方の手で結衣の手首にあった翡翠のバングルと首のネックレスをすべてむしり取った。
ーー散々甘い汁を吸ってきた泥棒め!
結衣は奪い返そうと飛びかかった。「何するのよ!この狂人!返しなさいよ!」
静流が少し身をかわすだけで、結衣は空振りし、無様に地面に倒れ込んだ。
パキッ。
スーツケースの鍵は、静流の片手で造作もなく握り潰された
中身がバラバラと地面に転げ落ちた。
金ピカのブレスレット、ダイヤが散りばめられたネックレス、それに最高級の翡翠のペンダントがいくつか…… おそらくこれが小倉家に残された最後の金目のものだろう。
結衣は、小倉家に少しの逃げ道も残す気がないのだ!
結衣は目を真っ赤に血走らせ、地面のものをかき集めながら叫んだ。「これは全部私のものよ!私のよ!このアマ、返せ!全部返せ!」
これらのものがなければ、瑠奈や小倉翼の薬代はどうやって捻出するというのか。
今日、路地で晴が殴られながらも薬を守ろうとしていたことを思い出し、静流の怒りは頂点に達した。
次の瞬間、彼女は足を振り上げ、マーチンブーツのつま先を、結衣の腹部に力いっぱい叩き込んだ。
「ぎゃあああッ!」
結衣は凄絶な絶叫を上げ、庭の泥土の上に激しく吹き飛ばされた。
静流は見下ろし、氷のように冷たい声で言い放った。
「失せろ」
「もう二度とその顔を見せるな。次見つけたら、その度に半殺しにしてやる!」
結衣はもがきながら地面から這い上がり、怨念のこもった目で静流を睨みつけた。
「いいわ!上等よ!あんたたち、覚えてなさいよ!」
彼女は地面に落ちている金銀財宝を指差し、悪意に満ちた笑みを浮かべた。
「そのガラクタは、私が情けをかけて、あんたの今にも死にそうな病人の父親の棺桶代に恵んであげるわ!」
彼女は言葉を区切り、再び静流に目を向けて、意地悪く笑いながら言い放った。
「ああ、そうそう。親愛なる『妹』の小倉静流ちゃん」
「とってもおめでたいことを教え忘れてたわ」
「あんたにはね、婚約者がいるのよ」
「赤羽家の長男で、性病持ちの遊び人で、使い物にならなくなったって噂のあのクズよ!」
話 3
「ゲホッ、ゴホッ――」
結衣の言う「病弱な親父」こと、翼がドアの枠に寄りかかり、無理をして出てきた。
「君は……静流、なのか?」
静流を見る彼の目には、大切に思う気持ちと、痛ましいほどの愛情が隠されていた。
静流の心は、何かにそっとぶつかられたような気がした。
これが、血の繋がりの力なのだろうか?
「……はい」
肯定の返事を聞いた途端、翼の目から涙があふれ出した。
「よく帰ってきた……私の愛しい娘よ、よく帰ってきた……」
混乱に乗じて家の中に入っていた小倉瑠奈が、古い木箱を抱えて出てきた。
「静、見て。全部あなたへの……」
静流が視線を落とすと、木箱の中には様々なものがきれいに畳まれて入っていた。
色褪せるまで洗われたピンクのワンピース、手編みのセーターが数着、そして少し古臭いデザインだが新品のヘアピン。
小倉晴が目を赤くして、傍らで静かに説明した。「お前が誘拐されてから、父さんや母さん、俺たちが毎年誕生日に用意していたプレゼントだ」
「3歳の時から数えて、1つも欠けてない」
「今、やっとお前の手に渡せる」
静流はゆっくりと手を伸ばし、指先でピンクのワンピースにそっと触れた。
ごわついた布の感触が、彼女の心の奥底にある最も固い部分を瞬時に打ち抜いた。
そうか。
自分は、誰にも必要とされていない子供じゃなかったんだ。
ずっと、想われていたんだ!
「静流……ゲホッ!私たちの宝物……」
翼が胸を押さえ、ガクッと腰を折ったかと思うと、突然大量の血を吐き出した。
だが、その顔には一抹の満足げな笑みが浮かんでいた。
「静流……死ぬ前に……もう一度お前に会えて、本当によかった……」
晴は崩れ落ちそうになる父親を抱きとめ、もう片方の手で慌ててスマホを取り出した。「救急車を呼ぶ!父さん、持ちこたえてくれ! まだ家族全員揃ってないだろ!兄貴たちもまだ帰ってきてないんだぞ!」
静流は手を伸ばし、床に広がる血溜まりに指先を浸した。
鼻先に近づけて、軽く匂いを嗅ぐ。
乱心散だ!
潜伏期間が数十年にも及ぶ慢性毒薬。一度発作が起きれば、3日以内に神でさえ救えなくなる。
翼の様子からして、明らかにこれが最後の一日だ。
一体誰が、こんな悪辣な手段を使い、10年もの歳月をかけて小倉家を陥れようとしたのか!?
深く考えている暇はない。静流の目に冷たい光が走った。
彼女は翼を床に寝かせると、腰のあたりを指でなぞった。瞬時に1本のメスが手に現れる。
晴は思わず止めに入ろうとした。「妹っ!な、何をしているんだ!」
「救うのだ。信じてくれ、絶対に死なせない」
やっと見つけた家族を、目の前で死なせるわけにはいかない!
静流は片膝をつき、メスで的確に翼の胸元の服を切り裂いた。
刃は稲妻のように急所を避け、安定した正確さと鋭さで皮膚と組織を切り開き、すでに衰弱した心臓を露出させた。
続いて、彼女は素早く心臓周辺の重要なツボにメスと銀の針を突き刺した。
数カ所から黒い血が滲み出た。
毒の血が排出されるにつれ、翼の荒い呼吸が次第に落ち着いてきた。
静流は針とメスをしまい、翼を横抱きにすると、最も清潔な寝室へとまっすぐ向かった。
この間、わずか1分足らず。
晴はその場に立ち尽くし、驚愕の眼差しを向けていた。
今のはなんだ?
死者蘇生か!?
楓州で一番の専門医たちでさえ父は助からないと言っていたのに、妹は……。
20年も生き別れた妹が、たった1本の小刀で父親を救い出したのだ!
彼女は……一体何者なんだ?
晴は声を震わせて言った。「妹よ、お前……すごすぎるだろ」
静流は翼をベッドに寝かせると、振り返って彼を見た。その瞳には疲労の色が滲んでいる。
「お兄ちゃん、ベッド。私、休まないと」
「あ、うん!」晴は慌てて彼女を綺麗に整えられた寝室へ案内した。「妹よ、ここは俺たちがお前のためにずっと空けておいた部屋だ。毎日掃除してたんだぞ」
「ゆっくり休め、俺はこの信じられないような吉報を、兄貴たちに知らせてくる!あいつらも知ったら、絶対にめちゃくちゃ喜ぶでしょうね!」
静流は、ドアのところで瑠奈が自分を見つめているのに気づき、手招きした。「お母さん、こっち来て。一緒に寝よ!」
***
琴平市の最高級プライベートクラブのVIPルーム。
赤羽吉影は薄暗い片隅に座っていた。彼が纏うオーラは、氷のように冷たい。
露出の多い服を着た女が、勇気を振り絞ってすり寄ってきた。「赤羽様、お1人じゃ寂しいでしょ? 私と一緒に一杯どう?」
「失せろ」
親友の宇都宮陽斗がからかうように言った。「おいおい吉影、美女にはもう少し優しくできないのか? なんだ、会ったこともない婚約者の小倉静流のために、本当に操を立ててるのかよ?」
その名前を聞いて、吉影は心底うんざりした。
「明日には婚約破棄してやる」
陽斗は眉をひそめた。「マジで破棄する気か? 爺ちゃんの顔に泥を塗ることになるぞ」
「俺の婚約だ。あの人に口出しされる筋合いはない」
吉影はソファに深く寄りかかり、無意識に心臓のあたりを指先でなぞった。
そこには、傷跡がある。
3年前、港都国の国境。彼は敵対組織に包囲され、数発の銃弾を浴び、あの廃倉庫で死ぬのだと思っていた。
意識が遠のく中、1本のメスを持った女が、彼を死の淵から引き戻してくれた。
力を振り絞って、ようやく彼女の顔を見た。
目を覚ますと、彼女はすでに跡形もなく消え去っていた。
この3年、赤羽家の全力を注ぎ、港都国をひっくり返す勢いで探したが、彼を救い、彼の心を奪ったあの女は見つからなかった。
(小倉家との婚約だと?)
(さっさと片付けなければならない。)
(俺の女は、あいつしかいない!)