話 1
神崎凪は、人事部長のデスクに退職届を置いた。その真っ白な紙の縁を、しわ一つないのを確かめるように、指先でそっと撫でた。
人事部長は口を開きかけ、何か言いかけたものの、結局はため息をつくだけだった。「本当に惜しいよ、神崎さん。本当に辞めるのかい?」
「はい。決めました」 凪は微笑み、目尻をやわらかな弧にした。「これからは、家族のためにもう少し時間を取りたいと思います」
会社のビルを出ると、陽光が滝のように降り注いだ。
凪は目を細め、バッグからサングラスを取り出してかけた。
まるで狙ったかのようにスマホが震えた。不動産仲介の岡田からのメッセージだ。 「神崎様、この間ご覧いただいた一戸建ての件ですが、オーナー様が値下げに同意されました。本日午後、内見いただけますでしょうか?」
メッセージに目を通した凪の口元が、思わず緩んだ。
郊外にあるあのかわいらしい一戸建てに、彼女はずっと憧れてきた。
そこは都心の喧騒から遠く離れていて、彼女と藤川蓮の関係も、少しは良い方向に向かうかもしれないと思ったからだ。
そう思った瞬間、指が無意識に自分の下腹を撫でた。
結婚して2年になるのに、蓮は一度も彼女に触れたことがなかった。
最初は仕事が忙しすぎるせいだと思っていたけれど、次第に、自分に魅力がないからではないかと疑うようになっていた。
先月の健康診断で、先生に遠回しに夫婦生活について問われて、ようやく何かを変えようと腹をくくった。
その一戸建ては写真で見るより、ずっと美しい。
前の持ち主は年配の夫婦で、庭にはバラがびっしり植えられている。甘ったるい花の香りが、空気いっぱいに漂っている。
凪はリビングの中央に立った。床まで届く大きな窓から陽が差し込み、彼女の影を長く引き伸ばした。
「ここにしよう」 その声には、迷いのない決意が宿った。
不動産仲介の岡田は目を輝かせた。「よかったです!すぐ契約書の準備をいたします。 ちなみに、藤川様にもご一緒にご署名いただきますか?」
凪は静かに首を横に振った。「いいえ。彼は仕事が立て込んでいて……。 私が先に署名します。必要書類の署名は、後日あらためて彼にもしてもらいます」
「承知しました。では明日、運転免許証と、婚姻届受理証明書の写しををご持参ください。お手続きに必要ですので」
帰り道、凪は蓮にメッセージを送った。「仕事、辞めたの。あと、気に入った小さな一戸建てがあって……。買うことにした」
蓮からの返信は、驚くほど早かった。「急だね。 でも、凪が嬉しいならそれでいい。 今夜は早めに帰るよ。お祝いしよう」
凪はスマホの画面をじっと見つめ、胸の奥から温かいものが込み上げてくるのを感じた。
周りが何と言おうと、蓮はいつだって凪に優しく、気遣いを忘れなかった。
凪の好きな料理は一品残らず覚えていて、生理のときには湯たんぽと黒糖生姜水まで用意してくれる。
記念日には必ず、心を込めて選んだプレゼントを贈ってくれる。
ただ一点、決して彼女に触れようとしないことを除けば、彼は完璧な夫なのだ。
翌日の午前、凪は念入りに身支度を整え、不動産仲介の事務所へ向かった。
彼女はわざわざ、淡いピンクがかった白のワンピースを選んだ。蓮が「それが一番似合う」と言ってくれた色だ。
「藤川奥様、どうぞお掛けください」岡田は愛想よく彼女を迎えた。「ただいま契約書をお持ちします」
凪は微笑みながら書類袋を差し出した。「これは私と藤川蓮の婚姻届受理証明書の写しです」
岡田は書類を受け取り、パソコンでしばらく操作したが、眉間のしわがじわじわと深くなってきた。 「おかしいな……システム上、お二人の婚姻登録情報が見当たりません」
凪の笑みが、顔の上で固まった。「……どういうことですか?」
「システムの不具合かもしれません」 岡田はそう言って慰めた。「一度、ご本人が市役所で照会してみてください。たまにこういうこともあるので」
凪の鼓動がふいに早まった。漠然とした不吉な予感が胸の奥でじわじわと広がっていく。
凪はどうにか平静を保ち、「分かりました。今すぐ行ってきます」と言った。
話 2
市役所の婚姻登記窓口の職員は眼鏡を押し上げ、結婚証のコピーを何度も裏返して確認した。
「お客様、ご提出いただいたこちらの証明書は偽造であることが確認されました。当方のシステムには、お客様と藤川蓮様の婚姻登記記録が一切ございません」
神崎凪は一瞬、息が詰まった。耳の奥でキーンと音が鳴り、周りの声が遠のいていくようだ。
彼女は口を開いても声が出ない。唇だけが空しく動いた。 「そんな……あり得ない……」やっと絞り出した声は、かすれてほとんど聞こえなかった。「私たちは二年前、ここで結婚したはずです……この市役所で……」
職員は職業的な同情の色を浮かべた。「資料室でもう一度お調べしますが……結果は変わりません。 もし騙された可能性があるのでしたら、警察に通報されることをお勧めします」
凪は機械のように頷き、突き返された偽の結婚証のコピーを受け取った。
紙の端に指先が触れた瞬間、自分の手が震えていることに気づいた。
2年間、大切にしてきた結婚証が、今はひどくよそよそしく、歪んだものに見えた。 名前も受付印も、すべてが見事な偽物しか映らなかった。
市役所の玄関を出た凪は、階段の上で立ち尽くした。目の前がくらりと揺れた。
彼女は頭の中を整理しなければならなかった。静かな場所で、落ち着いて考える時間が必要だ。
近くのカフェに入り、アイスアメリカーノを一杯頼んだ。
コーヒーの苦みが口の中に広がった。けれど、それ以上に胸の奥が苦く感じられた。
その時、スマホの画面が光った。蓮からのメッセージだ。「凪、夕飯何がいい? 仕事帰りに買って帰る」
凪はそのありふれた文面を見つめ、胸の奥がひやりとした。次の瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
凪は深く息を吸い込み、返信した。「ううん、いい。私が作るから」
すぐ蓮から返信が来た。「分かった。仕事終わったらすぐ帰るね」
凪はもう返信しなかった。
彼女は時計に目をやった。今は午後3時半だ。
彼女は蓮の会社へと足を向けることにした――彼に、思いもよらぬ“一撃”を贈るため。
蓮のIT企業は、街の東側にあるオフィスビルの一角にあった。
凪は以前、よく彼に昼食を届けていた。そのため受付の女性は彼女の顔を覚えており、にこやかに頷くだけでオフィスフロアへ通してくれた。
28階で降り、凪は迷いなく蓮のオフィスへ向かった。
廊下の角を曲がろうとした、その時。休憩エリアから、聞き慣れた蓮の声が漏れてきた。
「……俺だって迷ってるよ。でもさ、分かるだろ。美月のこと、まだ諦めきれない」
凪の足が、ふいに止まった。まるで誰かにピタッと一時停止ボタンを押されたみたいだ。
彼女は息を殺して数歩後ずさり、太い柱の陰に身を潜めた。
「じゃあ、どうすんだ?」一人の男が追う。
蓮の親友、伊藤純一の声だ。
「凪と付き合いながら、美月と結婚するってことか? 蓮、それはフェアじゃない」
目の前がぐらりと揺れ、凪は壁に手をつかなければ立っていられなかった。
美月?
結婚?
一つ一つの言葉が研ぎ澄まされた刃となって、寸分違わず彼女の心臓を突き刺した。
「分かってる。フェアじゃない」蓮はため息をついた。「でも当時、美月が仕事のために俺と別れて海外へ行ったとき、俺は……気が狂いそうだった。 そのあと凪に出会って……彼女があまりにも美月に似ていたから、俺はようやく息を吹き返した気がした」
凪は、血の味がするまで強く下唇を噛んだ。
(私が、加瀬美月に似ている? まさか、私はただの身代わりだったの?)
話 3
「でも、そこからなんだ……」藤川蓮の声がふっと落ち、かすかな揺らぎが滲んだ。「凪は美月とは違う。 もっと優しくて、もっと俺に寄りかかってくる。……それに、美月よりも俺のことを愛してる」
伊藤純一は冷たく鼻を鳴らした。「だから何だ。罪悪感もなく騙せたって?」
「騙してなんかいない!」蓮の声が鋭く跳ね上がり、すぐに沈んだ。「本気で彼女を好きなんだ。ただ……」
「ただ、何だよ?」
「ただ、美月のことを……どうしても忘れられない」 蓮の言葉には、どうしようもない葛藤が絡みついた。「美月は初恋なんだ。帰国してから向こうから会いに来て……俺、拒めなかった。でも凪も失いたくない」
「それで結婚証明書を偽造して、正式な夫婦だって思い込ませたわけか?」 純一の声には露骨な皮肉が滲んだ。「蓮、お前は本当に、分かりやすいほどクズだな」
蓮は数秒黙り込み、再び口を開いた時には、声に自嘲めいた笑いが混じった。「そうだよ、俺は欲張りなんだ。 美月の燃えるような情熱も欲しいし、凪の柔らかさも欲しい……。 二人がもし、争わずに穏やかに共存できたら、どれだけ素晴らしいだろうって、そんなことまで考えたんだ……」
「夢でも見てるのか?」 純一が遮った。「凪が、お前が二股してるって知ったら、許すと思うか?」
「知るわけない」 今度は蓮が遮った。「凪は単純で、俺を疑ったことがない。俺が美月といちゃついてる時に電話をかけてきても、何も気づかないんだ……」
その一言は、最後の重い一撃のように神崎凪の心を叩き潰した。
凪は踵を返し、音もなくエレベーターへ向かった。踏み出すたびに足元は綿のように頼りなく、ふわりと浮いて力が入らない。
なんて滑稽なんだろう。二年も愛した男が、ここまで救いようのないクズだったなんて。
……
凪は、自分がどうやって家まで戻ってきたのか覚えていなかった。
彼女は機械のように鍵を開け、機械のようにスリッパに履き替え、機械のようにキッチンへ入り、夕食の支度を始めた。
6時30分、ドアの鍵が回る音がした。
蓮が、いつもと変わらぬ様子で帰ってきた。その手には、みずみずしい百合の花束が抱えられていた。
「ただいま」 彼は微笑みながら凪に歩み寄り、その額に柔らかなキスをした。
凪は花束を受け取り、無理やり口角を上げた。
蓮は彼女の異変に気づいた様子もなく、勝手にスーツの上着を脱ぎながら言った。「何作った?いい匂いだな」
「あなたの好きなスペアリブよ」 凪は背を向けて花を花瓶に挿し、蓮に表情を見せないようにした。
食事の間ずっと、凪は蓮の一挙一動を観察していた。
彼のスマホがずっと手元に置かれ、画面が伏せられていることに気づいた。
それに蓮は、ときどきスマホへ視線をやった。まるで、何かの連絡を待っているみたいだ。
「少し、頭が痛いの」 食事を済ませた後、凪は不意に切り出した。「二階から薬を取ってきてくれる? ベッドサイドの引き出しにあるの」
蓮はすぐ立ち上がった。「もちろん。座ってて、動くなよ」
蓮の足音が階段の上で消えた瞬間、凪は素早く彼のスマホを手に取った。
画面がパッと明るくなり、パスワード入力を促された。
自分の誕生日や、二人の結婚記念日を試してみたが、どれも弾かれた。
三回目を試そうとしたその瞬間、通知が弾けるように表示された。「蓮、いい知らせ。私、妊娠した」
凪の指が、宙で固まった。
画面の文字は鋭い刃のように、まっすぐ凪の心臓へ突き刺さった。
凪はそのメッセージを見つめたまま、蓮が階段を下りてくる足音を聞いて、ようやく我に返って慌ててスマホを置いた。
「あったよ」 蓮は錠剤と水を持って歩み寄った。「顔色がひどいな。早めに休んだほうがいい?」
凪は錠剤を受け取り、飲み込んだふりをした。「大丈夫。 それより、会社で何かあったの? さっきからずっとスマホを気にしていたから」
蓮の表情が一瞬こわばったが、すぐに何事もなかったように戻った。「ああ、そうなんだ。プロジェクトでちょっと問題が出てさ。もう一度会社に戻らないといけないんだ」
「行ってきて。仕事が大事でしょ」凪は微笑んでみせたが、心の中では血がにじんでいた。
蓮は慌ただしく上着を羽織り、出ていく前に忘れず凪の頬へキスを落とした。「待たないで、先に寝て」
ドアが閉まった瞬間、凪の笑みは消えた。
目にたまっていた涙が溢れそうになり、彼女は上を向いて深呼吸した。それを落とすまいとするのは、彼女の最後の意地だ。
しばらく心を鎮めてから、凪はスマホを手に取った。そして、もう二年近く連絡していなかった番号に電話をかけた。
「父さん……私、家に戻って政略結婚する。そう決めた」