話 1
児童養護施設で十年。ようやく、本当の家族が私を見つけてくれた。
夢が叶ったんだと思った。
でも、すぐに自分の立場を思い知らされた。
私は、完璧な双子の妹、莉奈の生活費を稼ぐためのただの馬車馬。
そして妹は、両親が誇る、輝かしい自慢の娘。
私の人生で唯一の光は、恋人の蓮だけだった。
そんなある日、ケータリングのバイト先で、私は聞いてしまった。
私の両親と蓮の両親が、密談しているのを。
彼らは、蓮と莉奈を結婚させようと画策していた。
「あの子は訳ありで、傷物だから」と言いながら。
その数分後。
みんなの前で、蓮は片膝をつき、私の妹にプロポーズした。
歓声が沸き起こる中、私のスマホが震えた。
彼からのメッセージだった。
『ごめん。もう終わりだ』
家に帰って彼らを問い詰めると、あっさりと真実を認めた。
私を見つけ出したこと自体が間違いだった、と。
私は管理すべき恥さらしで、蓮を莉奈に与えたのはむしろ親切心からだ、と。
私を黙らせるため、妹は自ら階段から身を投げ、「突き落とされた!」と絶叫した。
父は私を殴りつけ、ゴミのように路上に放り出した。
打ち身だらけで歩道に倒れ込む私を、駆けつけた警察に「暴力的な加害者だ」と両親は告げた。
彼らは私を消し去りたかった。
でも、彼らはまだ知らない。
自分たちが、たった今、戦争を始めたのだということを。
第1章
迷子になった記憶は、ぼんやりと霞んでいる。
遊園地のまばゆい光と、けたたましい騒音の渦。
私は、四歳だった。
それから十年、児童養護施設での生活が私の全てだった。
いくつもの知らない家と、冷たい視線。
そして、彼らが私を見つけた。
私の、家族が。
高坂家。
最初の数ヶ月、私は薄氷を踏む思いで過ごした。
十年もの間、夢に見てきた愛情が欲しくてたまらなかった。
二つのバイトで稼いだお金は、一円残らず彼らに渡した。
そうすれば、彼らの心を買えるかもしれない、と期待して。
彼らはそれを「貢献」と呼んだ。
長年探し続けたことへの、私からの「恩返し」だと。
双子の妹、莉奈は「貢献」する必要なんてなかった。
彼女は、一度も迷子にならなかった、輝かしい自慢の娘。
都内の一流私大に通い、その未来は、私の薄暗い未来とは対照的に、どこまでも明るかった。
それでも、私の人生にも一つだけ、光があると思っていた。
蓮。私の恋人。
彼は優しかった。そう、思っていた。
私の手を握り、「過去なんて関係ない」と言ってくれた。
今夜、私は豪華なガーデンパーティーでケータリングのバイトをしていた。
蓮の知り合いだという、いかにもな旧家のパーティー。
育ちの良さそうな、完璧な歯並びの人間ばかり。
私の両親も、そこにいた。
蓮の両親と楽しそうに談笑し、何不自由ない郊外の成功者の絵に描いたような姿だった。
私は背景だった。
白と黒の制服に身を包み、シャンパングラスを補充して回る、ただの幽霊。
蓮と目が合わないか、必死で探した。
でも、彼は私を避けているようだった。
胸騒ぎが、胃をきりきりと締め付けた。
その時だった。
追加のグラスを取ろうと、手入れの行き届いた大きな生け垣の陰に隠れた瞬間、彼らの声が聞こえてきた。
母、明美の声。軽やかで、共犯者のような口調。
「蓮くんは本当に素晴らしいわ。野心家で。うちの莉奈にぴったり」
私は凍りついた。
重いグラスのトレーが、急に重さを失ったように感じた。
「少し、ためらってはいたようだがな」
父の声が、低く響いた。
「世間体を…気にしていた」
「ええ、もちろん」
蓮の母親、藤堂夫人が相槌を打つ。
「でも、説得しましたの。莉奈さんは、私たちがずっと望んでいたお嫁さんですもの。洗練されていて、良いご家庭の出で」
私の、家族。
でも、彼らが話しているのは、私のことではなかった。
「結菜さんのことは?」
蓮の父親が、少し心配そうな声で尋ねた。
明美は、氷が砕けるような音で笑った。
「ああ、結菜のことはご心配なく。あの子は…その、苦労の多い人生でしたから。きっと理解しますわ。藤堂家のようなお家柄には、とても釣り合いませんし。施設育ちの、あの重い過去ではね」
「それが最善だ」
父が、最終宣告のように言った。
「蓮くんも、莉奈が正しい選択だと分かっている。自分の未来を確かなものにするために、必要なことをしているだけだ」
世界が、ぐらりと傾いた。
息が喉に詰まる。
動けなかった。
ただ、彼らが私の代わりを用意する、その詳細を詰めていくのを聞いていることしかできなかった。
数分後、音楽が静かになった。
蓮がマイクを手に、パティオの中央へ歩み出る。
彼が浮かべたのは、魅力的で、計算され尽くした笑顔。
今ならわかる。その笑顔は、完全に空っぽだった。
私の両親は、彼の隣で満面の笑みを浮かべている。
莉奈が、彼のそばへ滑るように歩み寄る。
パーティーの光を浴びて、彼女のドレスがきらめいた。
私とそっくりな顔。
でも、完璧で、傷ひとつない。
「莉奈」
蓮が始めた。その声はマイクで会場中に響き渡る。
彼は、片膝をついた。
「結婚してくれないか?」
会場にどよめきが走り、やがて拍手の波が押し寄せた。
私は生け垣の陰で、麻痺したように立ち尽くす。
百人の笑顔の見知らぬ人々の前で、私の人生が崩れ落ちていくのを、ただ見ていた。
手が、制御不能に震え始めた。
トレーが滑り落ちる。
石畳の上で、ガラスが砕け散った。
その音は、祝福の歓声にかき消された。
誰も、気づかない。
みんなが莉奈を、蓮を、完璧なカップルを祝福していた。
私の両親は、蓮の両親と抱き合っている。
莉奈が手を差し出すと、巨大なダイヤモンドが光を捉えた。
ポケットの中で、スマホが震えた。
蓮からのメッセージ。
『ごめん、結菜。もう終わりだ。両親も、これが最善だって』
それだけ。
たった十数文字で、私たちの歴史を消し去るつもりらしい。
私は背を向け、走り出した。
どこへ向かっているのかもわからない。
ただ、走った。
あの笑い声から、彼らの完璧に作り上げられた世界から、逃げるように。
白と黒の制服が、まるで檻のように感じられた。
何時間も経って、ようやく私はあの家に戻った。
彼らの、家に。
鍵が、錠前を引っ掻く。
リビングは暗かったが、キッチンから楽しそうな声が聞こえてきた。
彼らが、廊下に出てくる。
シャンパンと勝利で、顔を上気させて。
「あら、いたの」
明美が言った。その笑顔は、目の奥まで届いていない。
「一番盛り上がるところ、見逃したのね」
莉奈はいない。
きっと、新しい婚約者とまだお祝いしているのだろう。
私は、彼らの幸せそうな顔を見た。
裏切りは、あまりにも完璧で、あまりにも無造作だった。
「私のお金、返して」
かろうじて、囁くような声で言った。
父の笑顔が消えた。
「なんだと?」
「今まであなたたちに渡したお金、全部。莉奈の学費。あの子の車。この家のために払った分も」
私の声は、次第に強くなった。
「全部、返して」
明美は鼻で笑った。
「馬鹿なこと言わないで、結菜。あれは、この家族へのあなたの貢献でしょ」
「家族って何?」
私は、乾いた笑いを漏らした。
「もっと出来のいいモデルのために、私を売り払うのが家族?」
「大げさなことを言うな」
父が一歩、前に出た。
大柄な男。その体格を、威圧するために使う。
「お前はもともと、蓮くんには不釣り合いだった。むしろ、感謝されるべきだぞ」
「感謝?」
私は、毒を吐くようにその言葉を繰り返した。
「私を、めちゃくちゃにしておいて?」
「あなたは見つかった時から、すでに傷物だったじゃない」
明美の声は、鋭く、残酷だった。
「家を与えてやった。家名も与えてやった。感謝すべきよ」
「感謝?何に?あなたたちの馬車馬でいられたことに?莉奈が毎年新しい家具を揃えてもらう間、私が物置みたいな一番小さい部屋で寝てたことに?」
「莉奈はそれに値するのよ!」
明美が甲高い声を上げた。
「あの子は、私たちの誇り。あなたは、過ちを思い出させる、忌々しい存在」
「私を失ったっていう、過ち?」
「お前を見つけ出した、という過ちだ」
父が、平坦な声で言った。
その言葉は、どんな暴力よりも深く私を傷つけた。
心の奥底では、彼らも私を愛してくれているはずだ、と。
ただ…欠点があるだけなんだ、と。
そんな希望にしがみついていた。
でも、ここに愛なんてなかった。
あったのは、ただの恨みと、計算だけ。
施設を出るとき、ソーシャルワーカーが言っていたことを思い出した。
警察の記録によると、私の捜索は二年で打ち切られていた。
彼らは、前を向いていた。
新しい人生を、完璧な一人娘との、完璧な人生を始めていた。
十年後に私が見つかったのは、彼らにとって処理すべき、ただの厄介事でしかなかった。
私が彼らを夢見て過ごした年月、彼らは私を忘れて過ごしていた。
何年も燻っていた怒りが、ついに沸点に達した。
熱く、全てを浄化する炎が、私の哀れな希望の最後の一片まで焼き尽くしていく。
「あなたたち、私を探してなんかいなかった」
怒りで震える声で、私は言った。
「二年で、探すのをやめた」
明美の顔が、青ざめた。
「誰からそんなことを…?」
「どうでもいいでしょ」
私は、狂ったような、壊れた笑い声を上げた。
「知ってる。あなたたちは、私を腐らせるために置き去りにした」
「最善を尽くしたのよ」
明美は、演技を捨てた。
その顔は、冷たい怒りの仮面に変わっていた。
「莉奈には、普通の生活が必要だった。行方不明の姉の影なんて、あの子の人生に必要ないの」
「だから、私の人生をあの子にあげたのね」
私は囁いた。
「私の恋人も」
「あの子の方が、彼にはふさわしい」
父は、まるでビジネスの取引のように、淡々と言い放った。
「それが、この家の格を上げる。お前も、妹のために喜ぶべきだ」
喜べ、と。
彼らは、私に喜んでほしいらしい。
私は、私の血を分けたこの二人を見た。
彼らは、私の親じゃない。
私の、所有者だ。
そして、たった今、私を売り払った。
話 2
「出ていく」
その言葉は、口の中で確かな重みを持っていた。
「そして、私のものを全て取り返す」
「あなたに何があるっていうの!」
明美が金切り声を上げた。整った顔が、憎悪に歪む。
「あなたが持ってるもの全部、私たちのおかげでしょうが!この家の屋根も、食べる物も!」
「私が買った食べ物でしょ」
私は、危険なほど静かな声で訂正した。
「莉奈が『経験のため』とか言って、おしゃれな事務所でインターンしてる間、私が二つのバイトで稼いだお金でね」
「妹のことをそんな風に言うんじゃない!」
父が怒鳴り、私に一歩近づいた。
指を私の顔に突きつける。
「莉奈には品格がある。未来もある。お前にあるのは、そのひねくれた根性と、人を不快にさせる過去だけだ」
「あなたが恥じてる過去、ってことよね」
私は言い返した。
彼は私の腕を掴んだ。指が肌に食い込む。
「この恩知らずが。俺たちがどれだけしてやったと思ってる」
「離して」
「父親に敬意を払え」
明美が、悪意に満ちた目で私を睨みつけ、吐き捨てた。
「見つけた場所に、置いてくればよかったわ」
その言葉は、もうほとんど心に響かなかった。
麻痺していた。
まるで、他人が誰かの悪口を言っているのを聞いているようだった。
「あなたたちが大事なのは、お金と地位」
私は、母の顔から父の顔へと視線を移しながら言った。
「それだけ。家族なんてどうでもいい。大事なのは、世間体だけ」
私は父の手から腕を振りほどき、玄関ホールに置かれた大きな、装飾的な花瓶に向き直った。
藤堂家からの贈り物。
彼らの新しい同盟の証。
考えるより先に、腕を振り抜いた。
花瓶が床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
その音は、解放感に満ちていた。
明美は、まるで自分が殴られたかのように悲鳴を上げた。
「あれは有名な作家物の花瓶よ!いくらしたと思ってるの!」
「莉奈の結納金でいくらでも買えるでしょ」
皮肉をたっぷり込めて、私は言った。
父の顔は、怒りで紫色になっていた。
私を殴ろうと、手を振り上げる。
私は身じろぎもしなかった。
ただ、挑戦的に彼を睨み返した。
その時、玄関のドアが開いた。
莉奈が、夢見るような笑顔で入ってきた。
まるで、宙に浮いているかのようだった。
「お母さん?お父さん?今の音、何?」
彼女は、目を丸くして、無邪気に尋ねた。
一瞬で、両親の表情が変わった。
怒りは消え去り、甘やかすような心配顔になる。
「ああ、ハニー、気にしないで」
明美は、彼女のそばに駆け寄り、ドレスを気にしながら猫なで声で言った。
「ちょっとした事故よ」
「楽しかったかい?」
父の声は、今や優しく、父親らしいものになっていた。
「蓮くんは、ちゃんと家まで送ってくれたかな?」
「完璧だった」
莉奈はため息をつき、ダイヤモンドが光の下で輝くように手をかざした。
「本当に、完璧。もう式場の話も出てるの。これも、いただいたわ」
彼女は、ベルベットの箱を母に手渡した。
明美がそれを開ける。
中には、真珠のネックレスが入っていた。
「まあ、莉奈!なんて綺麗なの!」
明美は大げさに喜んだ。
「あなたは、これら全てにふさわしいわ。本当に、私たちの誇りよ」
莉奈は、ようやく花瓶の残骸の中に立つ私に気づいたようだった。
彼女の笑顔が、ほとんど気づかないほど微かに引きつった。
「結菜?どうしてここにいるの?バイトだと思ってた」
「そうよ」
明美は、私に毒々しい視線を送りながら言った。
「そして今、またいつものヒステリーを起こしてるの」
「ああ、結菜」
莉奈の声は、偽りの同情に満ちていた。
彼女は、心配そうな顔で私に近づいてくる。
「どうしたの?すごく、辛そうよ」
彼女が私の腕に触れようとしたので、私は身を引いた。
「触らないで」
歯を食いしばって言った。
莉奈の目に、みるみる涙が溜まっていく。
「わからない。私のこと、喜んでくれると思ってた。蓮が…蓮が、あなたに話したって言ってたから」
「テキストメッセージでね」
私は、平坦に言った。
「そんな…」
莉奈は、口に手を当てて囁いた。
「そんなはずじゃなかったのに。彼、ちゃんとあなたと話すつもりだったのよ。すごく罪悪感を感じてるって言ってた。あなたたち二人は、もう合わないんだって。それに…あなたの過去は、彼の家族には受け入れられないって。心配してたの…ほら…あなたの、精神的な安定性のこと」
完璧に選ばれた言葉。
その一つ一つが、鋭く、計算された刃だった。
彼女は、新しい婚約者の言葉を引用し、両親がすでに私の背中に突き立てたナイフを、さらに深くねじ込んでいる。
「彼が、そう言ったの?」
私は、空虚な声で尋ねた。
それが嘘で、両親のための演技であることはわかっていた。
でも、心のどこかで、それを聞く必要があった。
「あなたのことは大切だけど、こんなに…壊れてる人とは未来を築けないって」
莉奈は、ワニの涙で声を震わせながら続けた。
「あなたの問題を、受け止められる誰かを見つけるべきだって」
痛みは、物理的なものだった。
胸を押しつぶす、重い塊。
私は双子の妹、完璧なコピーを見て、そこに怪物を見た。
歪んだ、苦い笑みが、私の唇に広がった。
「すごいわね。本当に、すごい」
「何のことかわからない」
彼女は、すすり泣いた。
「もういい、結菜!」
父が吠えた。
「お前の妹の、人生で一番幸せな夜を台無しにするな!」
「その通りよ」
明美は、莉奈の髪を撫でながら言った。
「結菜は、ただ嫉妬してるだけ。あなたが幸せなのが、我慢ならないのよ。あの子が戻ってきてから、私たちは一生懸命育ててきたけど、十年のダメージは消せないわ」
「じゃあ…じゃあ、二人で彼と付き合うのはどうかな」
莉奈が、真剣さを装って、目を大きく見開いて言った。
「私、シェアしても構わない。だって、姉妹だもの。みんなが幸せなら、それでいいの」
そのあまりの厚かましさ、信じがたいほどの、侮辱的な偽善に、息を呑んだ。
私は彼女を見つめ、それから、まるでそれが合理的な提案であるかのように頷いている両親を見た。
笑いが、生々しく、狂ったように、私の喉から迸った。
話 3
涙が頬を伝うまで、私は笑い続けた。
あまりにも馬鹿げていた。
彼をシェアする。
まるでおもちゃみたいに。
そして彼女は、私に順番を譲ってやる心優しい姉のつもりらしい。
「信じられない」
ようやく息をつき、目を拭いながら言った。
「本当に」
莉奈は、まるで平手打ちされたかのように身をすくめた。
「ただ、助けようと…」
「違う」
私の声は、冷たくなった。
「あなたは、人生ずっと『助けて』きた。私がここに来たばかりの頃を覚えてる。あなたは、私に古着を『あげて』、それから友達に私のセンスが悪いって言いふらした。宿題を『手伝って』、それから私の良い成績を自分の手柄にした。あなたが私のためにしたことで、あなた自身がもっと得をしなかったことなんて、一度もなかった」
「なんてひどいことを言うの!」
明美は、莉奈を庇うように抱きしめながら叫んだ。
「事実よ」
私は、彼らに背を向けた。
「もう終わり。荷物をまとめて、出ていく」
「出ていく?」
莉奈の声は、パニックで鋭くなった。
涙は、一瞬で消えていた。
「出ていっちゃダメよ!来月の家のローン、誰が払うのよ!」
その問いは、生々しく、利己的に、宙に浮いていた。
それが、彼女が本当に気にしている唯一のことだった。
私の痛みじゃない。裏切りでもない。
金だ。
「金持ちの婚約者ができたんでしょ」
階段に向かって歩きながら、私は肩越しに言った。
「彼に払わせればいい」
「そこに戻れ!」
父が怒鳴った。
「妹に謝るまで、どこにも行かせん!」
私は彼を無視し、階段を上り始めた。
私の部屋は廊下の突き当たり。
かつて物置だった、狭くて窮屈な空間。
わずかな持ち物をまとめるのに、時間はかからないだろう。
階段の最上段にたどり着いた時、母の声が、突然柔らかく、懇願するように、私を呼び止めた。
「結菜、お願い、待って」
私は立ち止まったが、振り返らなかった。
「こんなことしないで」
明美の声は震えていた。
「私たちは、ただカッとなってただけ。あんなこと、本気で言ったんじゃないの。お父さんは、ただ…莉奈のことを心配しすぎてるだけなのよ」
私は黙っていた。
いつもの手口だ。
爆発の後に続く、甘く、巧みな謝罪。
これまで、それで百回はうまくいってきた。
「愛してるのよ、結菜」
その嘘は、薄っぺらく、擦り切れて聞こえた。
「あなたがいなくなって、私たちは途方に暮れた。何年も、あなたを探し続けたの。また私たちを捨てないで。そんなことされたら、私は死んでしまうわ」
その演技は、ほとんど説得力があった。
でも今夜、私はカーテンの裏側を見てしまった。
「あなたは言ったわね。十年もの間、私を探すためにお金を全部使ったから、一度も旅行に行かなかったって」
私は、平坦な声で言った。
「私が行方不明なのに、自分たちだけ楽しむなんて考えられなかったって」
「そうよ、その通りよ」
彼女は、熱心に言った。
「毎日が、地獄だったわ」
私は、ゆっくりと振り返った。
「おかしいわね。先月、屋根裏の古い箱を整理してたら、アルバムを見つけたの。2005年のハワイ旅行の写真でいっぱいだった。2008年のバハマクルーズ。2011年の北海道でのスキー旅行。二人とも、すごく…地獄を味わってる顔には見えなかったけど」
明美の顔が凍りついた。
血の気が引いていく。
父は目をそらし、顎の筋肉がぴくりと動いた。
「嘘つき」
私は、ただそう言った。
「全部、嘘だったのね」
「あなたは、わかってない…」
明美は、口ごもった。
「ああ、今は完璧にわかってる」
私は言った。
「私は、あなたたちが嘆き悲しんだ行方不明の娘じゃなかった。解決済みの、恥ずかしい問題だった。そして、私が再び現れた時、私は新しい問題になった。収入源であり、都合のいいスケープゴート」
「なんて口の利き方だ!」
父が、再び顔を赤くして怒鳴った。
「俺たちは、お前にセカンドチャンスを与えてやったんだぞ!」
「違う」
私は、首を振った。
「あなたたちは、莉奈にセカンドチャンスを与えた。私を犠牲にして」
「結菜、お願い」
莉奈が、何かをねだる時に使う、あの甘ったるい、懇願するような声で言った。
「こんなことしないで。お母さんもお父さんも、ストレスが溜まってるだけなの。私の結婚式のことを考えて!あなたがいなかったら、藤堂家の人たちが色々聞いてくるわ。格好がつかないじゃない」
いつだって、どう見えるか、だ。
「私の恋人を盗む前に、それを考えるべきだったわね」
私は、再び背を向けた。
「私のお金を取り返して、私の人生を取り戻す」
その時、母が泣き始めた。
私を打ちのめすために計算された、大げさで、芝居がかったすすり泣き。
「自分の娘に、こんなことを言われるなんて!何年も苦しんできたのに!私は、悲しみのあまり死にかけたのよ!」
この話は、千回は聞いた。
嘆き悲しむ母親の物語。
かつては、私も彼女と一緒に泣き、その手を握り、もう二度と離れないと約束した。
今夜、私は何も感じなかった。
私の同情の井戸は、干上がってしまった。
「私は、あなたたちに何の借りもない」
私の声は、硬かった。
「私の借金は、完済済み。私は十年、あなたたちが想像もできないようなことを乗り越えて、生き抜いてきた。ここに来て、あなたたちのために働いた。私の痛みで、あなたたちの快適な生活を支えた。これで、おあいこよ」
私は、彼ら三人を見た。
嘘と強欲でできた、完璧で、惨めな小さな絵画。
「私は、この家族の一員じゃない」
その悟りは、奇妙な安らぎとともに、私の中にすとんと落ちた。
「私はただ、請求書を払う幽霊」