1

7年間, 婚約者である真弘のカフェを支え続けてきた. 彼の夢は, 私の夢でもあると信じていたから.

しかし, 彼は私を愛してはいなかった. 彼が愛していたのは, 後輩アルバイトの亜弥だった.

パティシエとしての私の夢そのものである, 祖母の大切なレシピノート. 彼はそれを亜弥に渡し, メディアには彼女の手柄として紹介させた.

彼に捧げた7年間は踏みにじられ, 私の心は完全に死んだ.

私はテーブルの上に, 静かに結婚指輪を置いた.

「真弘さん」

私は驚くほど冷静な声で言った.

「別れましょう」

第1章

新垣由紀子 POV:

その結婚指輪を, 私はテーブルの上に静かに置いた. 七年間, 私の左手の薬指を飾るはずだったそれは, 今日, ただの金属の輪として, 私たち二人の間に横たわっていた.

カフェは閉店後の静寂に包まれていた. 真弘はカウンターの奥で, いつものようにグラスを磨いていた.

カラン, カラン, と氷の音が響く.

私が指輪を置いたことに, 彼は気づかないふりをしているのか.

「真弘さん」私の声は, 驚くほど冷静だった. 「別れましょう」

グラスを磨く手が止まった. カラン, カラン, という規則的な音が途切れる. その瞬間, カフェ全体が息を潜めたようだった.

真弘はゆっくりと顔を上げた. その目は, 一瞬にして凍りついた湖面のように硬く, 私の言葉の意味を測りかねているようだった.

「今, なんて言った? 」彼の声は低く, 感情を押し殺しているのが分かった.

「婚約を解消したいんです. そして, この店も辞めます」私は言葉を続けた. 躊躇いはなかった. この七年間, 何度も飲み込んできた言葉だった.

彼はただ, 私を凝視していた. まるで私が, 今まで知らなかった別の生き物であるかのように. 彼の瞳の奥には, 困惑と, ほんの少しの侮蔑が混じっていた.

「冗談だろう? 」彼は鼻で笑った. 「お前が俺を捨てるなんて, ありえない」

「冗談じゃありません」私は首を横に振った. 私の心臓は, まるで深い海の底でゆっくりと拍動しているかのように, 静かに, しかし, 確かに脈打っていた.

窓の外はすっかり暗くなっていた. 店の灯りが, 夜の街にぼんやりと光を投げかけている. その光は, 私たちの間に広がる現実の冷たさを, より一層際立たせるようだった.

「どういうつもりだ, 由紀子」真弘はグラスを置き, ゆっくりとカウンターから出てきた. 「俺たちがどれだけ長く一緒にいたか, 忘れたのか? 」

「七年です」私は答えた. 「そして, その七年間, 私はずっと真弘さんの夢を支えてきました」

彼の眉がぴくりと動いた.

「俺の夢が, お前の夢でもあるだろう? 」彼は言った.

「そう思っていました」私は静かに答えた. 「でも, そうじゃなかった」

彼は私の手を取り, 指輪を置いた場所を示した.

「これを見ろ. 俺はお前との未来を考えていたんだ」彼の声には, まるで私が彼を裏切ったかのような響きがあった.

私は手を引いた. 彼の指先が, 私の肌に触れた瞬間に, まるで火傷したかのような熱さを感じた.

「未来, ですか」私はつぶやいた. その言葉は, 私自身の耳にも冷たく響いた. 「真弘さんの未来に, 私の場所はもうない」

彼は口を開きかけたが, 言葉は出なかった. その表情には, 苛立ちと, 微かな恐怖が浮かんでいた.

「言いたいことはそれだけか? 」彼はようやく言った. その声は, 苛立ちに満ちていた.

「はい」私は答えた.

「分かった」彼はため息をついた. 「勝手にしろ. どうせ, お前一人じゃ何もできない」

彼の言葉は, 私の心を傷つけることはなかった. むしろ, 私の決意を, より一層強固なものにした.

私は何も言わず, 作業エプロンを外してカウンターに置いた. 祖母から受け継いだ, 大切なレシピノートだ. 真弘が勝手に店の看板商品として利用していた, あのノート.

私はそれを手に取った. 真弘は, 一瞬ぎょっとした顔をした.

「それは, 店のものだ」彼が言った.

「いいえ」私は答えた. 「これは, 私の祖母の形見です. 真弘さんに貸していただけ」

私は彼の挑戦的な視線を真っ直ぐに見つめ, 何も言わずにカフェのドアに向かった. ドアノブに手をかけた瞬間, 彼の声が背後から響いた.

「由紀子! 」

私は振り返らなかった.

「どこへ行くつもりだ? お前には, 俺しかいないだろう! 」彼の声には, 焦燥と, 私には理解できない, 彼なりの愛情が混じっていた.

私はドアを開けた. 冷たい夜風が, 私の頬を撫でた.

「私の行く道は, 私が決めます」そう言って, 私はカフェを後にした.

その夜, 私は真弘との七年間の関係を頭の中で整理していた. 全ては, 私が彼の才能を信じ, 彼の成功を願うあまり, 自分自身を犠牲にしてきた結果だった. 彼の店で働き, 私のパティシエとしての夢を後回しにし, 彼のワガママを受け入れてきた.

彼の口癖は, 「由紀子がいるから, 俺は安心して店を任せられる」だった. その言葉を, 私は愛の証だと信じていた. しかし, それは単なる利己的な利用だったのだと, 今ならわかる.

特に, 後輩のアルバイト, 黒木亜弥が入ってきてからの真弘は, まるで別人だった. 彼女を公私にわたって優遇し, 私の祖母から受け継いだ大切なレシピノートを, 断りもなく店の看板商品として利用し始めた. それが, 私の心を完全に壊した.

何度も諦めようとした. 何度も話し合おうとした. でも, 彼はいつも私をはぐらかし, 亜弥への偏愛を止めなかった. その度に, 私の心は少しずつ削り取られていった.

そして, ついに限界が来たのだ. 私の祖母のレシピノートが, 亜弥の名前でメディアに紹介された日, 私の心は完全に死んだ.

「由紀子さん」優しい声が聞こえた.

私はハッとして顔を上げた. そこには, 不動産コンサルタントの大谷慎和さんが立っていた. 彼は, 私がパティシエコンクールで知り合った, 数少ない理解者の一人だった.

「どうかされましたか? 顔色が優れませんよ」慎和さんは心配そうに私を見つめた.

私は彼に, 今日真弘と別れたことを話した. 慎和さんは, ただ黙って私の話を聞いてくれた. 彼の静かな存在が, 私の心を少しだけ穏やかにした.

「新しい道に進むのは, 勇気がいりますよね」慎和さんは言った. 「でも, 由紀子さんなら大丈夫です. 私は, 由紀子さんの才能を信じています」

その言葉が, 私の心に温かい光を灯した. 私が選んだ道は, 決して間違いではなかった.

しかし, その安堵も束の間だった.

翌日, 私は荷物をまとめるためにカフェに戻った. 真弘は店にはいなかった. 亜弥が, 私に意地の悪い視線を送ってくる.

「あら, 由紀子さん. もう来ないのかと思ったわ」亜弥はわざとらしい声で言った. 「真弘さん, 由紀子さんがいなくても全然平気そうだったわよ? むしろ, せいせいしたって言ってたわ」

私の手は, 一瞬止まった. しかし, 私はすぐに気を取り直した. 彼女の挑発に乗るつもりはなかった.

「そう」私は冷静に答えた. 「それはよかったわね」

亜弥は, 私の反応に拍子抜けしたようだった.

「ところで, 由紀子さん. そのレシピノート, 置いていったらどうかしら? 」亜弥は言った. 「真弘さん, あれをとても気に入ってるのよ. 看板商品にするって」

私は亜弥の顔を真っ直ぐに見た. 彼女の目は, 獲物を狙う獣のようにギラついていた.

「それはできません」私はきっぱりと言った. 「これは私のものです」

「由紀子さん, わかってないのね」亜弥は嘲笑った. 「真弘さんの店で働いていたから, 由紀子さんのレシピも価値があったのよ. 店を辞めたら, ただの古いノートだわ」

私の手が, レシピノートをぎゅっと握りしめた. 彼女の言葉は, 私の心を深く抉った.

その時, ドアが開く音がした. 真弘だった. 彼は私と亜弥を見て, 一瞬顔を曇らせた.

「由紀子, なぜここにいる? 」真弘の声は, 以前のような冷たさではなく, どこか動揺しているようだった.

「私物を引き取りに」私は答えた.

「由紀子さん, 真弘さんを困らせちゃダメよ」亜弥が真弘の腕に抱きついた. 「真弘さん, 由紀子さんがレシピノートを持って行こうとしてるの」

真弘は, 亜弥の言葉を聞いて, 私を鋭く睨んだ.

「由紀子, それは店のものだと言ったはずだ」彼の声には, 怒りが混じっていた.

私はレシピノートを抱きしめ, 真弘の目をまっすぐに見つめた.

「これは, 私の祖母のものです. 誰にも渡しません」

真弘は, 一歩私に近づいた. その目に, 私は以前のような支配欲を見た.

「由紀子, 俺が言えば, お前はいつも俺の言うことを聞いてきたじゃないか」彼の声は, まるで私を子供扱いするように響いた.

「もう, 聞きません」私はきっぱりと言った.

真弘は, 私の腕を掴もうとした. その時, 私の携帯電話が鳴った. 画面には「大谷慎和」の文字.

私は真弘の手を振り払い, 電話に出た.

「もしもし, 慎和さん? 」

真弘の顔が, さらに険しくなった.

「由紀子, 俺の話を聞け! 」真弘は苛立たしげに言った.

私は彼を無視し, 慎和さんと話し続けた. 慎和さんは, 私が新しい店を探していることを知っていて, いくつか物件の候補が見つかったと伝えてくれた. その言葉が, 私の心に希望の光を灯した.

「今から, お会いできますか? 」私は慎和さんに尋ねた.

真弘は, 私の言葉を聞いて, 顔色を変えた.

「由紀子, まさかそいつと…」彼の目に, 嫉妬の炎が燃え上がった.

私は電話を切り, 真弘をまっすぐに見つめた.

「私には, もう次の人生が始まっているんです」私は言った. 「真弘さんのような人に, 邪魔されたくない」

真弘は, 私の言葉に衝撃を受けたようだった. 彼の顔からは, 血の気が引いていた.

「由紀子…」彼の声は, 弱々しかった.

私は彼に背を向け, カフェのドアに向かった. 今度こそ, 振り返ることはなかった. 私の心は, 完全に自由になっていた.

だが, 私の背後から, 真弘の叫び声が聞こえた.

「由紀子! 俺は, お前を絶対に手放さない! 」

その言葉は, まるで呪いのように, 私の耳にまとわりついた.

2

新垣由紀子 POV:

私はカフェのドアを閉め, 真弘の叫び声を背後に残した. 冷たい夜風が私の頬を撫で, ようやく現実に戻ったような感覚に襲われた. 私の心臓はまだ高鳴っていたが, それは恐怖ではなく, 解放感からくるものだった.

その夜, 私は慎和さんと会うために, カフェから数ブロック離れた静かなバーに向かった. 慎和さんはすでに席に座っており, 私が到着すると, 優しく微笑んで迎えてくれた.

「由紀子さん, 大丈夫ですか? 」彼の声は, 真弘の怒鳴り声とは対照的に, 穏やかで心地よかった.

「はい, ありがとうございます」私は慎和さんの向かいに座った. 「色々と, 話がついてきました」

慎和さんは, 私が真弘と決別したことを察したようだった. 彼は何も言わず, ただ静かに私の話に耳を傾けてくれた. 彼の存在が, 私の心をゆっくりと癒していくようだった.

私たちは, 新しい店について話し始めた. 慎和さんは, すでにいくつか物件の候補をリストアップしてくれていた. 彼のプロフェッショナルな姿勢と, 私の夢に対する真摯なサポートに, 私は深く感謝した.

「由紀子さんなら, きっと素晴らしいお店を作れます」慎和さんは言った. 「私も, 全力でお手伝いします」

彼の言葉は, 私の心を温かく包み込んだ. 真弘に「お前一人じゃ何もできない」と言われたばかりだったから, 慎和さんの言葉は, 私にとって何よりも心強いものだった.

その日から, 私は新しい人生を歩み始めた. 真弘のカフェを辞め, 自分の夢に向かって突き進む決意をした. 毎日, 慎和さんと物件を見て回り, 内装のイメージを膨らませた. 疲労感はあったが, それは充実感に満ちたものだった.

ある日, 私は新しい店のコンセプトを考えるために, 過去のレシピノートを開いていた. 祖母の温かい文字と, そこに記された数々のレシピ. それは私にとって, 単なる料理の記録ではなく, 家族の愛情と歴史が詰まった宝物だった.

「由紀子さん, お疲れ様です」

突然, 背後から声が聞こえた. 振り返ると, そこには亜弥が立っていた. 彼女は, 以前私が勤めていたカフェの制服を着ていた. なぜここに?

「亜弥さん, なぜここに? 」私は驚いて尋ねた.

「あら, 由紀子さん. 私がここにいるのが, 気に入らない? 」亜弥は, ニヤリと笑った. 「真弘さん, 由紀子さんがいなくなってから, 私にもっと頼ってくれるようになったのよ. だから, 私も彼のために頑張らないと」

私の心臓が, ドクンと跳ねた. 彼女の言葉は, 私の心を抉るようだった.

「それはよかったですね」私は努めて冷静に答えた.

「そうね, 本当に良かったわ」亜弥は, 私のレシピノートに目を向けた. 「それにしても, 由紀子さんがいなくなって, 真弘さんの店は大変みたいよ. 特に, 由紀子さんの作ってたケーキがないから, お客さんが減ったって」

彼女の言葉は, 私を挑発しているのが明らかだった. 私は以前の私なら, きっと感情的になっていただろう. しかし, 今の私は違った.

「そう. それは残念ね」私は静かに答えた. 「でも, もう私には関係のないことよ」

亜弥は, 私の反応に拍子抜けしたようだった. 彼女は, 私の冷静さに苛立ちを覚えているようだった.

「由紀子さん, 強がってるだけじゃないの? 」亜弥は言った. 「真弘さんのこと, まだ未練があるんじゃない? 」

その言葉が, 私の逆鱗に触れた.

「未練なんて, ありません」私はきっぱりと言った. 私の声には, 私の意志が込められていた.

亜弥は, 私の言葉に一瞬怯んだようだった. しかし, すぐに持ち前の強気な態度に戻った.

「そうね, 未練なんてあるはずないわよね」亜弥は嘲笑った. 「だって, 真弘さんはもう私のものだもの」

私は, 亜弥の言葉に何も言えなかった. 私の心は, 冷たい氷で覆われたようだった.

「由紀子さん, 真弘さんから聞いたんだけど, 由紀子さん, 随分と前から真弘さんに独立して自分の店を持ちたいって言ってたんだって? 」亜弥は言った. 「でも, 真弘さんはそれをずっと先延ばしにしてたんでしょ? 私がいるから, 由紀子さんがいなくても困らないって, 言ってたわ」

亜弥の言葉は, 私の過去の痛みを呼び起こした. 私がどれだけ真弘に自分の夢を語り, 彼に独立を応援してくれることを願っていたか. しかし, 彼はいつも「今はまだ早い」とか「もう少し俺の店を大きくしてから」と言って, 私の夢を後回しにしてきた.

「そうね, 彼はそう言っていたわ」私は静かに答えた. 「でも, もうそんなことはどうでもいいことよ」

亜弥は, 私の反応に満足したようだった. 彼女は, 勝ち誇ったような笑顔を浮かべていた.

「由紀子さん, あなたのことなんて, 真弘さんはもう眼中にないのよ. 私がいれば, それで十分なの」亜弥は, 私に背を向けた. 「じゃあ, 私は真弘さんのところに戻るわ. 由紀子さんみたいに, 邪魔をするような真似はしないから」

亜弥は, そう言って去っていった. 私は, 彼女の背中を見送りながら, 心の中でつぶやいた.

(邪魔をするような真似, か…)

彼女は, 私がどれだけ真弘の夢を支え, どれだけ犠牲にしてきたかを知らない.

真弘との関係は, 亜弥が私たちの生活に入り込んできてから, 大きく変わってしまった. 私が真弘に独立したいと打ち明けたプロポーズの日, 彼は「結婚したら, 俺の店と由紀子の店, 二つを成功させよう」と甘い言葉を囁いた. しかし, その約束は, 一度も果たされることはなかった.

むしろ, 亜弥が店に入ってきてから, 彼は私との時間を削り, 亜弥を優先するようになった. 私が企画した新商品のアイデアも, いつも亜弥が横取りし, それが真弘の店で売られるようになった.

ある日, 真弘と私は, 二人で旅行に出かける予定だった. それは, 私がずっと楽しみにしていた, 私たちの七周年記念の旅行だった. 真弘は, 珍しく「由紀子との時間を大切にしたい」と言ってくれた.

しかし, その出発の直前, 亜弥から真弘に電話がかかってきた. 彼女は「体調が悪いから, 一人で店番ができない」と訴えた. 真弘は, 一瞬の躊躇もなく, 旅行のキャンセルを告げた.

「由紀子, すまない. 亜弥が困っているんだ」彼の声は, まるでそれが当然であるかのように響いた.

私は, 何も言えなかった. 私の心は, その時すでに凍りついていた.

「大丈夫よ, 真弘さん. 亜弥さんのことを優先してあげて」私は微笑んだ. その笑顔は, 私自身の心に深い傷を負わせた.

その夜, 私は一人で部屋にいた. 真弘は, 亜弥の看病のために, 店に泊まり込んだ. 私の心は, 深い絶望の淵に沈んでいた.

「もう, 無理だ」私は心の中でつぶやいた.

私は, 真弘への愛情を, その日の夜に完全に手放した. もはや, 彼を愛する気持ちは残っていなかった. 残っていたのは, 深い失望と, 私自身への怒りだけだった.

「由紀子さん? 」

慎和さんの声で, 私は過去の回想から引き戻された. 彼は, 私が深く考え込んでいることに気づいたようだった.

「大丈夫ですか? 」彼は心配そうに私を見つめた.

「はい」私は微笑んだ. 「大丈夫です. 少し, 昔のことを思い出していました」

私は, 慎和さんに亜弥が来たこと, そして彼女が言ったことを話した. 慎和さんは, 静かに私の話を聞き, 頷いた.

「由紀子さん, あのカフェのことはもう忘れてください」慎和さんは言った. 「由紀子さんには, もっと素晴らしい未来が待っています」

彼の言葉は, 私の心を温かく包み込んだ. 私は, 彼の優しさに感謝した.

「ありがとうございます, 慎和さん」私は言った. 「私, もう迷いません. 自分の夢に向かって, 全力で進みます」

慎和さんは, 私の言葉に満足そうに微笑んだ.

その時, 私の携帯電話が鳴った. 画面には「真弘」の文字.

私は, 一瞬ためらった. しかし, 私はもう, 彼に振り回される自分ではなかった. 私は電話を無視した.

慎和さんは, 私の行動を静かに見守っていた.

「由紀子さん, 何かあったら, いつでも私を頼ってください」慎和さんは言った. 「私は, 由紀子さんの味方です」

彼の言葉は, 私の心を強くした. 私は, もう一人ではなかった.

しかし, 真弘は諦めていなかった. 彼は, 何度も私に電話をかけてきた. 私は, 全ての電話を無視し続けた.

そして, 数日後.

私が新しい物件を見ていると, 突然, 真弘が私の前に現れた. 彼は, 私の携帯電話に電話をかけ続けているようだった.

「由紀子, なぜ電話に出ない! 」彼の声は, 苛立ちと焦燥に満ちていた.

私は, 彼を無視し, 物件の担当者と話し続けた.

「由紀子, 俺の話を聞け! 」真弘は私の腕を掴んだ. 「俺は, お前がいないとダメなんだ! 」

私は, 彼の言葉に背筋が凍りついた. 彼の言葉は, 私への愛情ではなく, 私への依存を表していた.

「もう, 私を放っておいてください」私は冷たく言った. 「あなたには, 亜弥さんがいるでしょう? 」

真弘は, 私の言葉に一瞬ひるんだ. しかし, すぐに彼は反論した.

「亜弥は, お前とは違う! 」彼は言った. 「亜弥は, 俺の言うことを聞く. だが, お前は…」

私は, 彼の言葉を聞いて, 心の中で嘲笑った. 彼は, 私を愛していたのではなく, 私をコントロールしたかっただけなのだ.

「私は, あなたの所有物ではありません」私はきっぱりと言った. 「そして, もうあなたの元には戻りません」

真弘は, 私の言葉に絶望したようだった. 彼の顔からは, 血の気が引いていた.

「由紀子, 俺を許してくれ! 」彼は言った. 「俺が悪かった. だから, もう一度…」

その時, 慎和さんが私の隣に現れた. 彼は, 真弘の行動を見て, 冷静に言った.

「藤代さん, 彼女を困らせるのはやめてください」慎和さんの声は, 静かだが, 強い意志が込められていた.

真弘は, 慎和さんを見て, 一瞬怯んだようだった.

「お前は, なんだ? 」真弘は, 慎和さんを睨みつけた.

「私は, 新垣さんのビジネスパートナーです」慎和さんは言った. 「そして, 彼女の夢を応援する人間です」

真弘は, 慎和さんの言葉に, 怒りを露わにした.

「由紀子, まさかこいつと…」彼の目に, 嫉妬の炎が燃え上がった.

私は, 真弘の言葉に何も言わなかった. 私はただ, 慎和さんの隣に立った.

真弘は, 私の行動を見て, 絶望の表情を浮かべた. 彼は, 私を失ったことを, その時ようやく理解したようだった.

「由紀子…」彼の声は, もはや私を呼び止める力を持っていなかった.

私は, 真弘に背を向け, 慎和さんと共にその場を去った. 私の心は, もう彼に囚われることはなかった.

その夜, 慎和さんと私は新しい店の契約を結んだ. 私の夢が, ついに現実になる.

3

新垣由紀子 POV:

新しい店舗の契約を終えた後も, 私は気を抜くことなく, 開店準備に没頭した. 毎日, 朝から晩まで, 内装のデザイン, 厨房設備の選定, メニュー開発, そして何よりも大切な, 祖母のレシピノートの再構築に時間を費やした.

私は, 真弘の店で使われていたレシピノートを, 私の新しい店のために, より洗練されたものにする必要があった. それは, 祖母の想いを引き継ぎつつも, 私自身の感性を加える作業だった.

「由紀子さん, またこんな時間までですか? 」

閉店後のカフェで, 私が試作を続けていると, 同僚の佐藤さんが声をかけてくれた. 佐藤さんは, 真弘のカフェで共に働いてきた仲間で, 私が独立すると聞いて, すぐに「由紀子さんの夢を応援したい」と言って, 私の店に来てくれた数少ない友人だ.

「ええ, もう少しで完成しそうなんです」私は微笑んだ.

佐藤さんは, 温かいコーヒーを私に差し出してくれた.

「無理しすぎないでくださいね. 由紀子さんが倒れたら, 元も子もないですから」

彼の優しさが, 私の心にじわりと染み渡った.

「ありがとう, 佐藤さん」私はコーヒーを受け取った.

「そういえば, 由紀子さん, 知ってます? 」佐藤さんは言った. 「藤代さんのカフェ, 最近ちょっと大変みたいですよ」

私の心臓が, ドクンと跳ねた. 佐藤さんは, 真弘のカフェの現状を知っているようだった. 私は, 彼の言葉に耳を傾けた.

「なんでも, 最近, 看板商品のケーキの味が落ちたって, お客さんからの苦情が増えてるみたいで」佐藤さんは言った. 「それに, 黒木さんも, なんだか元気がなくて…」

私の心臓は, さらに強く脈打った. 看板商品のケーキ. それは, 私が祖母のレシピノートを使って開発したものだ. 私が去った後, 亜弥がそれを再現しようとしているのだろうか.

私は, 佐藤さんの言葉を聞いて, 心の中でつぶやいた.

(自業自得よ)

私は, 佐藤さんの言葉に何も言わず, コーヒーを口にした.

その日の夜, 私は自宅で休憩していた. SNSを開くと, 目に飛び込んできたのは, 真弘と亜弥のツーショット写真だった.

場所は, 私が真弘と初めてデートした, 思い出のレストラン. 真弘は, 亜弥の肩を抱き, 以前私に見せていたのと同じ, 甘い笑顔を浮かべていた.

亜弥の投稿には, 「真弘さんと素敵なディナー. これからも二人で頑張ります! 」というメッセージが添えられていた.

私の心臓が, ズキリと痛んだ. それは, もう彼への愛情からくる痛みではなかった. それは, 過去の私が味わった, 裏切りの痛みだった.

その写真を見た瞬間, 私の体に冷たい電流が走った. 胃の奥からこみ上げてくる吐き気に, 私は思わず口元を覆った.

その日は, 偶然にも, 私が真弘にプロポーズされた日と同じ日付だった. 彼が私に永遠を誓い, 一緒に夢を追いかけると約束した日. その同じ日に, 彼は別の女性と, 私との思い出の場所で, 親密な時間を過ごしていたのだ.

私は, スマホを床に投げつけた. スマホは, 無残な音を立てて砕け散った.

私の目から, 涙が溢れ出した. それは, もう彼への未練からくる涙ではなかった. それは, 私自身の愚かさに対する, 悔し涙だった.

私は部屋を見回した. 真弘との思い出の品は, ほとんど残っていなかった. しかし, 一つだけ, 彼の写真立てが残されていた.

私は, その写真立てを手に取った. 真弘と私が, 満面の笑みで写っている. 私たちの未来が, 明るく輝いていると信じていた頃の写真だ.

私は, その写真立てを握りしめ, そのままゴミ箱に投げ入れた. ガシャン, と音を立てて, ガラスが割れる音が響いた.

その音は, 私の心の中で, 過去との完全に決別を告げる, 終止符の音だった.

私は, 大きく息を吐いた. 私の心は, 驚くほど穏やかになっていた. 私は, もう彼に囚われることはなかった.

その夜, 私はぐっすりと眠った. 翌朝, 私は出かける準備をしていた. 新しい店の開店準備は, 着々と進んでいた.

その時, 私の携帯電話が鳴った. 画面には, 実家の母の名前が表示されていた.

「もしもし, お母さん? 」私は少し緊張しながら電話に出た.

「由紀子! どういうことなの! 」母の声は, 怒りに満ちていた. 「真弘くんと別れたって, 本当なの? ! 」

私は, 母の言葉に驚いた. なぜ母がこのことを知っているのか.

「ええ, 本当よ」私は冷静に答えた.

「何を勝手なことを言ってるの! 」母の声は, さらにヒートアップした. 「真弘くんは, あんなにいい人なのに! 由紀子のことを, ずっと前から支えてくれていたでしょう? ! 」

母の言葉は, 私の心を抉った. 彼女は, 真弘の表向きの顔しか知らない. 私がどれだけ彼に傷つけられてきたか, 彼女は知らないのだ.

「お母さん, もう終わったことなの」私は言った. 「私には, 私自身の人生があるから」

「ふざけないで! 」母は叫んだ. 「由紀子, あなた, もういい歳なのよ! 真弘くんみたいな, 安定した相手は, もう二度と現れないわよ! 」

母の言葉は, 私をまるで価値のないもののように扱った. 私は, 彼女の言葉に深い絶望を感じた.

「お母さん, もういい加減にして」私は言った. 「私の人生は, 私が決めることよ」

「由紀子! 」母は, まだ何かを言おうとしていた.

私は, 静かに電話を切った. 私の手は, 微かに震えていた.

私は, 携帯電話を握りしめ, ベランダに出た. 夜風が, 私の頬を冷たく撫でた.

(私は, どこへ向かっているのだろう? )

私の心は, 不安と孤独感に包まれていた. 真弘との別れ, そして母からの非難. 私は, まるで一人で荒野をさまよっているかのようだった.

その時, 私の携帯電話が再び鳴った. 今度は, 慎和さんからだった.

私は, 一瞬ためらった. しかし, 私は電話に出た. 慎和さんの声は, 私の心に安堵をもたらした.

「もしもし, 慎和さん? 」

「由紀子さん, 今, お時間よろしいでしょうか? 」慎和さんの声は, 少しだけ急いでいるようだった. 「新しい物件の件で, 少しお話したいことがあります」

私の心臓が, ドクンと跳ねた. 新しい物件. それは, 私の夢への一歩だ.

「はい, 大丈夫です」私は答えた. 「今から, どちらへ向かえばいいですか? 」

「実は, 由紀子さんの夢にぴったりの物件が見つかりました」慎和さんの声は, 興奮に満ちていた. 「場所は, 由紀子さんがずっと憧れていた, あの商店街の一角です」

私の心臓が, さらに強く脈打った. 私がずっと憧れていた商店街. そこは, 私がパティシエを目指すきっかけとなった, 祖母のケーキ屋があった場所だ.

「本当ですか! ? 」私は思わず叫んだ.

「はい」慎和さんは言った. 「しかも, オーナーさんも, 由紀子さんにぜひ, と言ってくださっています」

私の目から, 熱いものがこみ上げてきた. それは, 喜びの涙だった.

「慎和さん, ありがとうございます! 」私は言った. 「私, 頑張ります! 絶対に, 素晴らしいお店を作ってみせます! 」

「はい, 由紀子さんならできます」慎和さんは言った. 「由紀子さんの才能を, 世界中の人に知ってもらいましょう」

私は, 慎和さんの言葉に, 思わず笑みがこぼれた. 私の心は, 希望に満ち溢れていた.

電話を切った後, 私は空を見上げた. 満月が, 優しく私を見守っているようだった.

(私は, もう一人じゃない)

私の心は, そうつぶやいた. 私は, 自分の才能を信じ, 私の夢を応援してくれる人たちがいる. 私は, もう誰かに依存することはない. 私は, 私自身の力で, 私の人生を切り開いていく.

私は, もう振り返ることはない.

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彼を捨てて掴んだ、甘い未来

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