話 1
婚約者の康太と私は、一年間の約束を交わしていた。
私が共同設立した会社で、正体を隠して新人プログラマーとして働く。
その間に、CEOである彼が私たちの帝国を築き上げる、と。
その約束は、彼が私の人生をめちゃくちゃにした女に謝罪しろと命じた日に、終わりを告げた。
事件が起きたのは、会社にとって最も重要な投資家向けプレゼンの真っ最中だった。
康太はビデオ通話の向こうから、彼の「特別なお客様」である樹里のために、私が公衆の面前で恥をかくよう要求したのだ。
樹里に熱いコーヒーをかけられて火傷を負わされても、彼女が何のお咎めも受けなかった、まさにその後のことだった。
彼は彼女を選んだ。
みんなの前で。
会社の理念よりも、社員の尊厳よりも、そして婚約者である私よりも、あの性悪な女を選んだのだ。
画面越しの彼の目は、私に服従を求めていた。
「樹里さんに謝れ。今すぐ」
私は一歩前に進み、火傷を負った手をカメラに見せつけ、私自身の「電話」をかけた。
「お父様」
私の声は、危険なほど静かだった。
「パートナーシップを解消する時が来たようです」
第1章
玲奈 POV:
婚約者との一年間の約束は、ごくシンプルなものだった。
私が私たちの会社で正体を隠して働き、CEOである彼が帝国を築き上げる。
その約束は、彼が、会社にとって最も重要な投資家へのプレゼンの最中に、CEOである彼が、新人プログラマーである私に、私の人生をめちゃくちゃにした女に謝罪しろと命じた日に、終わりを告げた。
それが結末。
でも、終わりの始まりは、ある火曜日のことだった。
私が「ビショップ・イノベーションズ」の新人プログラマーとして出社した、初日のこと。
私は、洗練されたミニマルなデザインのエントランスホールに立っていた。
磨き上げられたクロムとガラス張りの空間で、私の使い古したリュックサックだけがひどく場違いに見える。
人事部の迎えを待つ私は、自分が共同設立した会社で、その他大勢の匿名の新人として扱われていた。
この潜入計画は、会社の文化を現場の視点から理解したいという、純粋で、少し甘い考えから生まれたものだった。
「一年だけ」
私は婚約者であり、会社の表の顔でありCEOである康太にそう言った。
「一年間、私を会社の中で幽霊にさせて。社員たちが本当に何を考えているのか、彼らがどんな毎日を送っているのかを知りたいの。私たちは、象牙の塔の中から健全な会社なんて作れない」
彼は笑って、私にキスをして、同意してくれた。
「僕の聡明な、潜入中の共同設立者のためなら何でも」
その記憶は温かく、まるで遠い昔のことのように感じられた。
ほんの数ヶ月前のことなのに。
エントランスホールの静寂が、突然の喧騒に破られた。
ガラスの自動ドアがドラマチックな音を立てて開き、一人の女性が嵐のように入ってきた。
彼女は全身をハイブランドで固め、隠しきれない傲慢さを振りまいている。
顔の半分を覆う大きなサングラス。
ヒールの靴音は、大理石の床に怒りのリズムを刻んでいた。
彼女は受付カウンターにまっすぐ進むと、プラチナカードを叩きつけた。
乾いた音が響き、受付の女性がびくりと肩を震わせる。
「アメリカーノをブラックで」
彼女の声には侮蔑が滲んでいた。
まるで、こんなありふれた注文を口にすること自体が信じられない、とでも言いたげに。
「それから、康太さんに私が来たと伝えて」
受付の若い女性は、怯えた大きな瞳でどもりながら答えた。
「お客様、申し訳ありませんが、こちらはオフィスでして、カフェでは…。それに、ビショップ社長は会議中でして…」
女は鼻で笑った。
サングラスを鼻先にずらし、軽蔑に満ちた冷たい瞳を覗かせる。
「私が誰だか分かってる?」
彼女は答えを待たなかった。
完璧に手入れされた指で、自分の顔を指差す。
「樹里。如月樹里よ。聞いたことない?そう。ならいいわ。とにかくコーヒーを持ってきて。今すぐ。それと、休憩室に置いてあるあの不味いインスタントの粉なんか絶対に使わないで。挽きたての豆で淹れてちょうだい。5分以内によ」
私はそのドラマの静かな目撃者として、ただじっと立っていた。
印刷されたばかりでまだ温かい社員ハンドブックには、会社の行動規範がはっきりと記されている。
プロ意識、敬意、誠実さ。
如月樹里は、ここに現れてわずか30秒で、そのすべてを踏みにじっていた。
私は表情を変えず、リラックスした姿勢を保った。
私の役割は観察することであり、介入することではない。
「お客様、私は受付を離れることができませんし、給湯室には…」
受付の女性が、震える声で再び説明しようとした。
「じゃあ、できる人を探しなさいよ」
樹里は吐き捨てるように言った。
彼女はエントランスホールを見渡し、その氷のような視線が私に突き刺さった。
私の何の変哲もないジーンズ、シンプルなセーター、特徴のないリュック。
彼女の目には、私が取るに足らない、ただの雑用係に映ったのだろう。
彼女は私に向かってずかずかと歩いてきた。
高級な香水の匂いが、息苦しいほどに立ち込める。
「あなた。ここで働いてるの?」
私は冷静に彼女の視線を受け止めた。
「はい。今日から入社しました」
「ちょうどいいわ」
彼女は残酷な笑みを唇に浮かべた。
「なら、まだ役立たずになる方法は覚えてないでしょうね。私のコーヒー、取ってきて。アメリカーノのブラック。挽きたての豆で。あと4分よ」
最初の衝動は、燃え上がるような怒りだった。
私はこの会社の共同設立者だ。
父の金庫に厳重に保管されている、非公開の会社設立書類には、私の名前が記されている。
しかし、私の公の身分は、新人プログラマーの「田中玲奈」。
そして、新人プログラマーは、CEOの…「お客様」に口答えなどしない。
だから、私は息を吸った。
「承知いたしました」
私は穏やかで丁寧な声で言った。
「できる限りのことはいたします」
私の丁寧な態度は、反抗されるよりも彼女を苛立たせたようだった。
彼女は目を細める。
「『できる限りのこと』じゃなくて、私のコーヒーを持ってくるのよ。そんな、のんびりした牛みたいな顔で私を見ないで。ただ頷いて、さっさと行きなさい」
彼女は、化粧の下の毛穴まで見えるほど近くにいた。
この場所を自分のものだと思っている彼女は、私を威嚇し、支配しようとしていた。
「一体、どこの部署がこんな人を雇ってるのかしら」
彼女はエントランスホール全体に聞こえるように呟いた。
彼女は私の実用的で履き心地のいい靴を一瞥し、それから見せつけるように自分の天を突くようなルブタンのヒールに視線を落とす。
「明らかに基準が下がってるわね」
彼女はさらに顔を近づけ、毒を含んだ声で囁いた。
「持ってきたら、私のことは『如月様』と呼びなさい。分かった?」
私が返事をする前に、廊下から一人の男性が慌てて駆けつけてきた。
彼の顔は恐怖で青ざめている。
開発部門の責任者、マークさん。
私の新しい上司だ。
「如月様!大変申し訳ございません」
彼はほとんどお辞儀をするような勢いで言った。
「こんなに早くお越しになるとは存じ上げず…」
彼は私に怯えたような視線を送った。
「新人の不行き届き、お許しください。彼女はまだ、ここのルールを分かっておりません」
樹里は彼を一瞥もせず、興味なさそうに手を振った。
「とにかく、早く覚えさせなさい。すぐにね」
彼女は彼を押し退け、康太の役員室へと続く廊下に消えていった。
マークさんは長く震える息を吐き、私に向き直った。
彼の表情には、同情と恐怖が入り混じっている。
「いいか、田中さん。彼女は如月樹里さんだ。彼女は…特別な存在なんだ」
「特別、ですか?」
私は尋ねた。
嫌な予感はしていたけれど。
「彼女は康太さんのゲストだ。常にここにいる」
彼は声を潜めた。
「何年も前に、彼の妹さんの命を救ったんだ。骨髄移植でね。康太さんは彼女に一生の恩義を感じている。だから、彼女は欲しいものは何でも手に入れる。たった一言の不満で、ここで働く人間のキャリアを終わらせることもできる。だから…彼女には関わるな。謝って、言うことを聞いて、とにかく目立たないようにするんだ」
私は頷いた。
頭の中が混乱していた。
如月樹里。
「命の恩人」。
康太はもちろん、彼女について話してくれたことがある。
でも、彼が語ったのは、英雄的で、自己犠牲的な女性だった。
こんな残酷で、自己中心的な怪物ではなかった。
そして、彼女が私たちの社員を恐怖に陥れるフリーパスを持っているなんて、一言も聞いていない。
冷たい不安の塊が、胃の中に生まれた。
本当の会社設立書類には、二人の共同設立者の名前が記されている。
ビショップ・康太と、ショウ・玲奈。
田中ではない。
ショウ。
シリコンバレーの巨人、ショウ・デイビッド。
私の父だ。
康太は、樹里が「奥様」気取りで振る舞うべき人間ではないことを知っているはずだ。
その立場にいるのは、私なのだから。
この会社は、彼のものであると同時に、私のものなのだ。
なぜ彼は、こんなことを許しているの?
私はその疑問を心の奥に押し込めた。
私は観察するためにここにいる。
これは、私の最初のテストに過ぎない。
会社の文化、そして康太のリーダーシップを試すための。
いいわ。
彼がどう導くのか、見せてもらいましょう。
そして、如月様がどこまでやる気なのかも。
話 2
玲奈 POV:
エントランスホールでの一件は、ほんの前菜に過ぎなかった。
屈辱のメインディッシュは、その一時間後、社内電話を通じて私のデスクに直接届けられた。
開発環境のセットアップをしようとしていた時、オフィスのかすかなざわめきを切り裂くように、内線電話がけたたましく鳴った。
私は受話器を取る。
「田中です」
「もう10分も経ってるわよ」
電話の向こうの声は、悪意に満ちていた。
樹里だ。
康太のオフィスから私の内線番号を聞き出したに違いない。
「私のコーヒーはまだ?」
私はゆっくりと、落ち着いて息を吸った。
「申し訳ありません、如月様。給湯室のコーヒーメーカーはカプセル式で、挽きたての豆には対応しておりませんでした。他に社員が使えるマシンがないか、今確認しております」
「カプセル?」
彼女は心底侮辱されたような声を出した。
「冗談でしょ?ここは時価総額1000億の会社よ、安物のビジネスホテルじゃないの。ちゃんとしたアメリカーノが必要なの。エスプレッソを2ショット、その上からお湯を注ぐのよ。逆じゃないわ、分かる?クレマを壊さないように。それと、セラミックのマグカップに入れて。会社のロゴが入った、あの醜い紙コップは絶対に嫌」
その要求の細かさは、異常だった。
彼女はただコーヒーを求めているのではない。
忠誠心を試すためのテストを作り上げていた。
「今すぐ欲しいの」
彼女は声を低くして付け加えた。
「私を待たせないで」
「承知いたしました」
私は、彼女がさらなる馬鹿げた要求を付け加える前に、電話を切った。
私は役員フロア専用の、本来なら私が立ち入るべきではない高級なキッチンへと向かった。
エレベーターが階を一つ上がるごとに鳴る音が、プレッシャーを増幅させていく。
コーヒーマシンは銀色に輝く怪物で、複雑で威圧的だった。
豆を挽く方法を理解するだけで、丸3分もかかってしまった。
エスプレッソが抽出されるのを待っていると、ポケットのスマートフォンが震えた。
康太からのメッセージだった。
『大丈夫?樹里が少しイライラしてるみたいだけど』
私はその文字を睨みつけ、喉の奥で苦い笑いが込み上げた。
少しイライラしてる?
彼女は戦争を仕掛けているのに、彼はまるで彼女が少し機嫌を損ねただけのように振る舞っている。
返信する前に、廊下から聞こえるデスクの電話が再び鳴り始めた。
その音は狂ったように、執拗に響いていた。
私はエスプレッソの最後の一滴が落ちるのを見届けると、マグカップを掴んで急いで戻った。
熱いセラミックが、私の手を温めていた。
開発チームの全員が、私を見ていた。
電話は、かなり長い間鳴り続けていたようだ。
私が受話器を取った瞬間、樹里の声が金切り声に変わった。
「どこに行ってたのよ!あなた、無能なの?私が頼んだのは簡単なコーヒーよ、コロンビアまで飛んで豆を摘んでこいなんて言ってないわ!」
「マシンの起動に少し時間がかかりまして」
私は、無理やり平静を装った、張り詰めた声で言った。
「コーヒーは、今お持ちします」
「少し?少しですって?」
彼女は絶叫した。
「私の気分が台無しよ!私の体質がどれだけデリケートか分かってるの?時間が経ちすぎて、酸味が全部おかしくなってるに決まってるわ!もし焦げた味がしたら、あなたの部署全体の責任にするから!」
彼女はスピーカーフォンにしていた。
誰もが、彼女の常軌を逸した暴言を聞いていた。
同僚たちの顔には、同情、嫌悪、そして恐怖が入り混じっている。
これが彼らの日常なのだ。
この有害で、理不尽な女が、彼らの生活を支配している。
私は、この馬鹿げた状況に対する盾として、プロ意識を保とうと努めた。
「ご安心ください、如月様。ほんの数秒前に入れたものです。すぐにお持ちします」
私は電話を切り、マグカップを手に役員フロアへと向かった。
しかし、彼女の方が早かった。
廊下で私を待ち構えていた彼女は、腕を組み、顔は暗雲に覆われていた。
彼女は一言も発さず、私の手からマグカップをひったくった。
熱いコーヒーが縁から溢れ、私の肌を焼いた。
私は鋭い痛みに、思わず声を上げた。
反射的に手を引く。
「不器用な間抜け!」
彼女は罵った。
奪い取ったのは彼女の方なのに。
彼女は芝居がかったように一口飲むと、心底嫌悪に満ちた顔をした。
「ぬるいわ。それにエスプレッソも焦げてる。最低」
彼女は、すでに赤く腫れ上がっている私の手を見下ろした。
そこには心配のかけらもなく、ただ軽蔑だけがあった。
「見てみなさいよ」
彼女は嘲笑した。
「簡単な配達も、自分を傷つけずにできないなんて。康太さんに言っておくわ。あなたみたいな人間は、ここで働くべきじゃない。会社の負債よ」
痛みは鋭く、脈打つ炎のようだったが、胸の中で燃え上がった怒りはそれ以上に熱かった。
私は指を握りしめた。
本能が、彼女のその smug な、残酷な表情を顔から消し去れと叫んでいた。
私は一歩前に出た。
顎が痛むほど、歯を食いしばっていた。
「田中さん、やめろ!」
突然、マネージャーのマークさんが現れた。
彼は私の腕を掴み、恐怖に目を見開いている。
彼は私を物理的に引き戻し、私と樹里の間に割って入った。
「如月様、誠に、誠に申し訳ございません」
彼はなだめるような声で言った。
「彼女は新人なのです。二度とこのようなことはございません。どうか、お許しください」
彼はほとんど懇願していた。
見るに堪えない光景だった。
彼は私に向き直り、腕を掴む力を強め、切迫した低い声で囁いた。
「やめておけ、田中さん。頼むから、やめてくれ。彼女は君をクビにするぞ。俺たち全員をクビにするんだ」
彼は最後の言葉を強調した。
私の反抗が、全員に影響を及ぼすという、厳しい現実を突きつけて。
樹里は、マークさんの怯えた顔と、私の怒りに満ちた顔を見比べ、ゆっくりと勝利の笑みを浮かべた。
彼女は勝ったのだ。
彼女は自分の優位性を主張し、部署の全員がそれを目撃した。
「いいわ」
彼女は、見下したような声で言った。
「あなたがそこまで言うならね、マークさん」
彼女は、先ほど飲めないと断言したコーヒーを、ゆっくりと一口飲んだ。
「ちょうど考えていたの」
彼女は、そこに集まった、囚われの身の開発者たちに向かって宣言した。
「この場所、少し息苦しいわね。ちょっと見学でもしようかしら。下々の者たちがどう働いているのか。まずは社員食堂からね。ランチの選択肢が、ひどくお粗末だと聞いているわ」
私の血の気が引いた。
社員食堂は、何百人もの従業員に食事を提供する大規模な施設だ。
厳格な衛生管理と安全規則がある場所。
樹里のような予測不能な人間が、深刻な損害を与えかねない場所だった。
「如月様」
私は低く、鋼のような声で言った。
「社員食堂は、調理担当者以外の立ち入りは制限されています」
マークさんの手が再び私の腕を掴んだ。
黙ってくれという、静かで必死の懇願だった。
「あら、そうなの?」
樹里は完璧な眉を吊り上げた。
「心配しないで。康太さんは気にしないわ。だって」
彼女は、私の目をまっすぐに見つめて付け加えた。
「彼と私は…とても親しい間柄だから。彼は私に、何でも話してくれるの」
その言葉に含まれた意味が、ねっとりとした脅威のように、その場に漂った。
彼女はただのCEOの友人ではない。
それ以上の存在として、自分を位置づけていた。
「彼女は明日にも、君の名前を解雇者リストに載せることができるんだ」
マークさんが私の耳元で必死に囁いた。
「ただ、君の顔が気に入らないというだけで。彼女に逆らうな。勝てないんだ」
私は樹里を見つめ返した。
頭の中では、あの約束がよぎっていた。
康太と私が交わした約束。
私たちは、敬意と誠実さの上に会社を築くはずだった。
私が見ているのは、残酷で気まぐれな女王が君臨する、恐怖に基づいた王国だった。
樹里は、ガラスが割れるような音で笑った。
「どうしたの、新人プログラマーさん?猫に舌でも取られちゃった?」
彼女は踵を返し、 smug な勝利感に腰を揺らしながら歩き出した。
「今日はどんな残飯が提供されてるのか、見せてもらいましょうか」
彼女はエレベーターに向かった。
後には、呆然とした沈黙と、焦げたエスプレッソのかすかで苦い香りが残された。
「あなたをクビにしてやるわ」
彼女は肩越しに叫んだ。
私に向けられた、最後の、別れの一撃だった。
「約束する」
話 3
玲奈 POV:
樹里は、まるで邪悪な女神が人間の饗宴に降臨したかのように、社員食堂に乗り込んできた。
陽気な昼食時のおしゃべりは静まり、皆の視線が、温かい料理が並ぶカウンターへと向かう彼女の傲慢な姿を追っていた。
彼女は、丁寧に盛り付けられた料理の数々を、心底嫌悪に満ちた表情で見渡した。
「これは何?」
彼女はカウンターの向こうにいるシェフに尋ね、長くて赤い爪でローストチキンをつついた。
「これ、オーガニックなの?」
シェフは、優しい目をした恰幅の良い男性で、制服には「オースティン」と刺繍されていた。
彼はプロとして冷静に対応した。
「地元産でございます、お客様。とても新鮮ですよ」
樹里は鼻で笑った。
彼女は、とんでもなく高価なバーキンの中から、宝石がちりばめられた小さな容器を取り出した。
「結構よ。私は自分のを持ってきたから」
彼女が容器を開けると、中には黒く輝く魚の卵のようなものが入っていた。
キャビアだ。
「こんなもの…食べられるわけないじゃない」
彼女は、何百人もの従業員のために用意された料理に、見下すような視線を送りながら言った。
「でも、今日は気前がいいから。分けてあげるわ」
誰かが反応する前に、彼女はビュッフェ台に置かれた大きなパスタサラダのボウルに、キャビアの容器を丸ごとぶちまけようとした。
「お客様、おやめください!」
オースティンは驚くほどの速さで動き、彼女を制止するように、ボウルの上にしっかりと手を置いた。
彼の声は穏やかだったが、岩のように揺るぎなかった。
「そのようなことは、おやめください」
「なんですって?」
樹里の声が甲高くなった。
「会社の規則です。衛生管理上の規定で」
オースティンははっきりと述べた。
「外部からの食品、特にアレルギーを引き起こす可能性のあるものを、一般の料理に混ぜることはできません。重度の魚アレルギーを持つ従業員がいるかもしれません。これは、重大なリスクです」
彼は正しかった。
それは食品サービスにおける第一のルールだ。
私が会社の運営マニュアルに書き加えるのを手伝ったルールだった。
樹里は、まるでこれから潰そうとしている虫でも見るかのように、彼を見つめた。
「これがいくらするか、分かってるの?」
彼女はキャビアの容器を振りながら、嘲笑した。
「このちょっとしたおやつが、あなたの週給よりも価値があるのよ。私が、あなたの哀れなサラダを格上げしてあげようっていうの」
「お客様、申し訳ありませんが、料理の列から離れていただけますか」
オースティンの口調は、揺るぎなかった。
彼は、彼女の傲慢さの嵐に対して、冷静なプロ意識の柱として立っていた。
「あなたが私に指図するな」
彼女は、拒絶されたことに怒りを爆発させ、顔を歪めて罵った。
彼女は引き下がるどころか、信じられないほど無謀な行動に出た。
スマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルを押したのだ。
一秒後、康太の顔が画面に現れた。
背景は見間違えようもなかった。
街を一望できる、メインの会議室だ。
彼はプレゼンの真っ最中だった。
今後5年間の資金を確保できるかもしれない、アペックス・ベンチャーズへのプレゼンだ。
「康太さん、あなた」
樹里の声は、瞬時に傷ついた子供のような声に変わった。
「みんな、私にすごく意地悪なの」
康太の表情は、最初は集中して真剣だったが、甘やかすような心配の色に変わった。
「樹里?どうしたんだ?今、大事な話の最中なんだが」
「分かってるわ、邪魔して本当にごめんなさい」
彼女は、毅然としたシェフと、社員食堂に広がる不穏な空気が見えるように、スマートフォンの角度を調整した。
「でも、あなたのところの社員が…私をいじめるの。この男の人」
彼女はスマートフォンをオースティンに向けた。
「私にランチを食べさせてくれないの。私を怒鳴りつけてるのよ」
オースティンは一度も声を荒らげていない。
「何だって?」
康太は眉をひそめた。
「彼に電話を代わってくれ」
樹里の唇が、勝利の笑みに歪んだ。
彼女はオースティンにスマートフォンを差し出す。
「CEOが、あなたとお話したいそうよ」
オースティンは、無表情でスマートフォンを受け取った。
康太の声が聞こえてきた。
もはや温かくも甘やかすようでもなく、冷たく鋭い声だった。
「一体何をしているんだ?」
康太の声が、小さなスピーカーから響いた。
「彼女の好きなようにさせてやれ。分かったか?」
オースティンの顎が引き締まった。
「社長、失礼ながら申し上げます。これは衛生管理規定の違反です。重大な安全上のリスクとなります」
「衛生管理規定なんてどうでもいい!」
康太の声は、苛立ちで大きくなった。
「私が気にしているのは、樹里が幸せかどうかだ。今すぐ彼女に謝って、彼女が望むものを何でも与えろ。分かったな?」
社員食堂全体が静まり返り、この公開処刑を見守っていた。
従業員たちは、トレーを手にしたまま凍りつき、その顔には恐怖と不信が入り混じっていた。
スマートフォンは樹里の手に戻された。
彼女は、喜びで震えているようだった。
「分かったでしょ?」
彼女はオースティンに囁いた。
そして、彼女はスマートフォンのカメラを反転させ、静かに見守る従業員たちの顔をゆっくりと映し出し、最後に私に焦点を合わせた。
私は、火傷を負った手がまだズキズキと痛む中、この事態の結末を見届けるために、彼女の後を追ってきていた。
「康太さん、みんな私をじっと見てるの!みんな、彼の味方なのよ!」
彼女は、喉に詰まったような偽りの嗚咽を漏らしながら叫んだ。
「みんな、私のことが嫌いみたい。エントランスにいた、自分で火傷した女の子もここにいるわ。きっと、彼女が首謀者よ!」
小さな画面に映し出された康太の顔が、硬くなった。
彼はもはや、ただ苛立っているだけではなかった。
激怒していた。
この騒ぎが、彼の大事な瞬間を邪魔していることに。
彼の権威が、疑問視されていることに。
そして、私がそこにいることに。
画面が揺れ、樹里は意図的にスマートフォンを傾け、会議テーブルの向こうに座るスーツ姿の男たちを一瞬映し出した。
投資家たちだ。
彼は、会社の未来を握る人々の目の前で、自分の社員たちを、生中継で辱めている。
すべては、あの性悪な女をなだめるために。
裏切りは、物理的な打撃のように、私の肺から空気を奪った。
これはもはや、こぼれたコーヒーやキャビアの問題ではない。
彼のリーダーシップにおける根本的な欠陥、会社全体を飲み込みかねないほどの、巨大な盲点の問題だった。
「もういい」
康太の声は氷のようだった。
彼はスマートフォンのスピーカーを通して、社員食堂全体に語りかけた。
「お前たち全員、如月様に謝罪しろ。今すぐだ。一列に並んで、彼女を不快にさせたことを謝るんだ」
彼はカメラをまっすぐに見つめ、その視線は私の目を捉えた。
「お前。新人プログラマー。お前から始めろ。樹里さんに謝れ。今すぐ」
世界が、ゆっくりと動いているように感じられた。
冷蔵庫の低い唸り、遠くでフォークが落ちる音、耳の中で脈打つ血の音。
彼は、彼の会社の共同設立者であり、婚約者である私に、この女のために公衆の面前で恥をかくよう命じている。
彼は、この瞬間、すべてを捨てて彼女を選んだ。
社員たちの尊厳を。
会社の理念を。
そして、私を。
約束は破られた。
私たちが共に築くはずだった会社の夢は、粉々に砕け散った。
私は一歩前に進み、スマートフォンのカメラの中心に立った。
赤く腫れ上がり、すでに水ぶくれができ始めている手を掲げた。
痛みは、胸に開いた大きな傷に比べれば、鈍く遠い疼きに過ぎなかった。
私が口を開いた時、その声は危険なほど静かだった。
「康太さん」
私は、彼のデジタルな姿に視線を固定したまま言った。
「本気?本当に、心の底から、それが私に出したい命令なの?」