1

海を渡る橋の上で

今まさに、二台の車が命を賭けて激しく追いすがっていた。まるで生きるか死ぬかのスリリングな映画のワンシーンのようだった。

安田真紗は、腹部を刺すような鋭い痛みに必死で耐えながら、ハンドルをぎゅっと握りしめた。そして、もう一度アクセルを思いきり踏み込む。

バックミラーに映る黒い車。――あの誘拐犯の車が、じわじわと彼女に追いついてきている。

すぐにも、ぶつけてこようとしているのがわかる。

三時間前、彼女と勝田成子は同時に誘拐された。安田真紗は全身全霊で逃げ道を切り開き、ようやく勝田を連れて脱出することができた。

だが予想に反し、相手は蛇のように執拗に彼女たちを追い詰めてくる。

助手席では勝田成子が恐怖に顔を強張らせていた。「真紗、もし私に何かあったら、宮新隼人は絶対に君を許さないから!」

安田真紗は氷のような視線を彼女に向ける。「黙って」

彼女はアクセルを踏み込みながら、頭の中で両車の距離を暗算していた。

「ドアを開けて、いつでも飛び降りられるようにして」

そう言いながら、自分の側のドアはすでに開けていた。

勝田は声を震わせた。「怖いよ……そんなの、無理……」

安田真紗の目が鋭く光る。「飛び降りなきゃ、死ぬだけよ!」

車はすでに橋の上にさしかかり、まもなくトンネルの入り口に入る。

「今よ、跳んで!」

そう言うなり、安田真紗はアクセルから足を離し、ためらうことなく車から飛び降りた。勝田成子もその指示に従う。

元々、極めて危険な場所だった。彼女たちの突然の行動に、後ろを追っていた車は反応しきれなかった。

「ドンッ!」

二台の車が、瞬時にして激しく衝突する。

安田真紗は地面を何度も転がり、ようやく止まった。

その身には、まるで全身の骨が砕けたかのような激痛が走っていた。

次の瞬間、車が突然爆発した。猛烈な火の波と衝撃が、再び安田真紗の体を吹き飛ばす。

彼女は胸元を必死に押さえ、喉に込み上げる鉄の味をどうにか抑え込んだ。

――そのとき、背後から突然、エンジン音が響く。

安田真紗は顔を上げ、その音の先を見た。希望と喜びが、その瞳にかすかに浮かぶ。

宮新隼人だった。

黒のスーツに身を包み、急ぎ足でこちらへ向かってくる。その顔には、彼女がこれまで一度も見たことのないほどの焦りが滲んでいた。

安田真紗は、よろめきながらも身を起こし、か細い声で言った。「…隼人…」

ふらつきながら、彼のもとへ歩み寄る。

――だが。

彼は彼女を一瞥すらせず、そのまま通り過ぎた。そして、勝田成子をしっかりと抱きしめた。

安田真紗の瞳孔がきゅっと縮まる。――やっぱり、こうなるのか。

心にざっくりと裂け目が入ったような痛みが走る。そこから冷たい風が容赦なく吹き抜けて、心まで凍えるようだった。

宮新隼人は、彼女の夫だったはずなのに――。

けれど、いつだって彼が最優先するのは、勝田成子なのだ。

彼女が命からがら助かったというのに、彼が駆け寄ったのは自分ではなく、勝田成子のほうだった。

宮新隼人の表情には、失ったものをようやく取り戻したような安堵と喜びがにじんでいた。そして、その目はただ一心に勝田成子を見つめている。

「成子、大丈夫か?」

勝田成子は涙で滲んだ瞳を震わせながら首を振り、か弱く彼の肩にもたれかかる。「…間に合ってよかった。もう少し遅れてたら、安田真紗に殺されてたかもしれない」

2

宮新隼人の鋭く険しい視線が、瞬時に安田真紗に突き刺さった。「誘拐は君の仕業か?」厳しい声が響く。

安田真紗は顔色を失い、信じられないといった様子で反論した。「二人とも誘拐されたのよ!私は命懸けであなたを助けたのに!」

――勝田成子は、最初から最後まで足を引っ張るだけの役立たずだった。

彼女を助け出すために無理をしたからこそ、こんなにも傷だらけになったのだ。

それなのに、命を救った恩に感謝するどころか、勝田成子はまさかの裏切りを見せた。

涙で顔を濡らしながら、勝田成子は歯ぎしりして叫んだ。「それがあなたの苦肉の策だったのよ!あなたは誘拐犯とグルだった!あの人、全部私に話してくれたんだから!」

勝田成子が卑劣な女だということは分かっていた。けれど、ここまで平然と嘘をつくとは思わなかった。

いや、むしろ誘拐犯自体が、勝田成子の差し金なのではないか――そんな疑念さえ浮かぶ。

だって、暴力を受け続けたのはいつも自分だけだった。勝田成子には一切手を出さなかったのだから。

安田真紗は、胸の奥で怒りを必死に押し殺しながら、勝田成子を冷ややかな目で見つめた。

その瞳の鋭さは、まるで空を裂く刃のようだった。

「今日、君が吐いた嘘――その一つひとつに、必ず代償を払わせる」

「安田真紗!」

宮新隼人は一瞬の迷いもなく勝田成子の前に立ちふさがり、その声には憎しみがにじんでいた。

「ここまで卑劣だったとは……俺は、こんな女を妻に迎えたとは!戻ったらきっちり決着をつける!」

そう言い捨てると、彼はすぐさま勝田成子を抱きかかえ、その場を後にした。

安田真紗はその場に呆然と立ち尽くしていた。宮新隼人の目に宿るあからさまな憎悪を見た瞬間、全身に走る痛みなど、心の痛みのほんの一かけらにも及ばなかった。

彼女は、まるで一瞬で自分を弁解する力を失ってしまったかのようだった。

なぜなら――宮新隼人は、自分の言葉なんて、最初から信じる気などないから。

勝田成子がほんの少し哀しげな声を出せば、それだけで。彼女がひとつ、意味ありげな視線を送れば、それだけで。

宮新隼人は、迷うことなくその隣に立つ。

安田真紗の身体はこわばったまま、宮新隼人が勝田成子を抱き上げ、傍に停められた車へと駆けていく姿をただ見つめていた。

勝田成子は彼の腕の中に甘えるように身を預けながらも、そのくせ、こちらへと挑発的な、勝ち誇った視線を投げかけてきた。

――今は、六月のはずなのに。

それでも安田真紗は、骨まで凍りつくような寒さを感じていた。

昔、宮新隼人が事故に遭ったとき――彼を車の中から必死に背負って助け出したのは、誰でもない安田真紗だった。

その後、彼女は意識を失って倒れ、次に目を覚ましたときには――すでに勝田成子が、自分のした「命の恩人」の功績を横取りしていた。

どれだけ彼女が真実を訴えても、宮新隼人は頑なに信じなかった。彼にとって恩人はあくまで勝田成子。それどころか、彼女がそれを否定することで、かえって「勝田成子の功績を奪おうとする卑劣な女」と決めつけられたのだ。

…本当は最初からわかっていた。宮新隼人が好意を寄せているのは、勝田成子だということ。この結婚も、ただの政略結婚にすぎないということが。

結婚してからの三年間、妻という立場でありながら、愛情どころか、最低限の敬意すら与えられたことはなかった。

その理由は――結婚前夜に起きた、あの出来事。勝田成子に陥れられ、見知らぬ男と一緒にいたと誤解させられたこと。たとえ肉体関係はなかったとしても、宮新隼人の目には、彼女はすでに「穢れた女」だった。

その日からずっと――

彼女の人生は、まるで地獄だった。

安田雄降が薬物使用の疑いで逮捕され、更生施設に送られた。 安田氏が混乱に陥ったとき、立ち上がって会社を引き継いだのは宮新隼人だった。

安田真紗の母は、夫の不倫が原因で早くに病に伏し、この世を去った。彼女は父をずっと憎んでいた。その転落は自業自得だとさえ思っていた。

だからこそ、真紗は感謝していた。あの苦境の中で手を差し伸べ、安田グループを守ってくれた宮新隼人に。

だが、後になって知ってしまったのだ――

父の事件は、すべて宮新隼人の復讐の一環だったということを。そして安田グループは、その混乱に乗じて彼に乗っ取られていたということを。すべては、綿密に仕組まれた陰謀だったのだ。

彼の野心が満たされた後は、安田真紗に対する嫌悪はあからさまになった。二人で暮らすはずの家にも滅多に帰らず、顔を合わせるたびに彼女を傷つけ、辱めた。

胸を突くような記憶の数々が、洪水のように押し寄せる。

もう、耐えられなかった。安田真紗の体が限界に、そして血を吐き、視界は闇に呑まれていった――。

3

病院の特別個室――

安田真紗はベッドに横たわり、いまだ意識が戻らぬままだった。

そのすぐそばには、黒のオーダースーツを着た男性が車椅子に座っている。

男の年は二十七。整った薄い唇と端正な横顔は、まるで神が彫ったかのように完璧で、その佇まいには凍てつくような冷たさと、近寄りがたい気品が漂っていた。

「中村会長……下半身の麻痺は、残念ながら改善の兆しがなく……むしろ、悪化しております」

奥田院長は、言葉を選びながら、震えるように首を振った。 「このままでは完全に動かなくなるのも時間の問題かと。完治を望むなら……「闇無き」しか、道はないでしょうな」

中村陽――中村グループの会長にして、中村家の現当主。

中村家は由緒ある名家であり、その根は深く、謎の家族。

そして、その家を率いる中村陽こそ、琴口市で最も注目を集める存在、誰もが一目置く男だ。

正統な嫡孫として生まれた彼は、わずか六歳にして、単独で国際犯罪組織のファイアウォールを突破。たった10分で数千億規模の不正資金を回収し、犯罪の温床を一掃してみせた。

十歳で国家の新エネルギー分野において次々と特許を取得し、中村家が市場を独占する礎を築いた。

十五歳では、父と共にグローバル市場の拡大に尽力し、かつて没落寸前だった旧家を、世界の権力者すら警戒する巨大財閥へと押し上げた。

そんな無敵ともいえる男が、三年前のある事故で下半身不随となり、残りの人生を車椅子と共に生きることになるとは――誰が予想できただろうか。

そして今、差し迫った事態が――……

中村陽はうっすらと目を上げた。「今の俺の状態で、子どもを作ることなんて、できるのか?」

祖母は重い病に冒されており、もう長くはないかもしれない。彼女の唯一の願いは、曾孫の顔を見ることだった。

「えっ……?」

奥田院長の顔色がさっと変わった。

……

安田真紗は、橋の上でどれほどの時間を横たわっていたのか分からなかった。救急車に運ばれたのがいつだったのかも、全然知らなかった。

ただ、ぼんやりとした意識のなかで――

彼女は、冷ややかで疎ましげな深い瞳を見た気がした。

とても見覚えがあるように感じたのに、誰なのかは分からない。

だが次の瞬間、その目が突然、宮新隼人の嫌悪と軽蔑に満ちた顔に変わった――!

「安田真紗、死ねばいいのに!なんでまだ生きてるんだよ!」

「おまえが死ねば、成子とやっと一緒になれるんだ。おまえなんか、邪魔なだけなんだよ、さっさと死ね!」

――ダメだ!

もしここで死んでしまったら、それこそあの下劣な男女の思うつぼじゃないか!

母の一生の苦労で築き上げた財産も、これまで積み重ねてきた研究成果も――すべてが宮新隼人のものになるなんて!

絶対に許せない。

そんなの、嫌……!

安田真紗は、ぱちりと目を見開いた。目に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。

鼻をつく強い消毒薬の匂いが一気に押し寄せ、胃が激しくうねる。思わずお腹を押さえ、えずくように身体を折り曲げる。

――けれど、今回は。

彼女はかすかに、安堵していた。生きていることが、ただ、それだけで嬉しかった。

「目が覚めたか?」

低くくぐもった声が、耳元にふわりと届く。

その瞬間、真紗の細い身体がびくりと震えた。背中には、冷たい汗が一気に噴き出していた。

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復讐の契りと、車椅子の君

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