話 2
薄葉怜は言った。「海月ちゃん、私はあの湖畔の別荘が欲しいの。あなたは別のを選んでくれないかしら。あそこは、私と暁兄さんの新居にしたいの」
彼女は恥じらうように藤本暁の胸に顔をうずめた。「もう何年も前から予約してあるんだから」
暁は昔を思い出し、心を動かされたようだった。
それを聞いた水野海月は、低く笑った。
「何を笑っている?」
暁が訝しげに尋ねた。
この女も妙なものだ。ここまで言われて、まだ笑うとは。
怜は唇を尖らせ、暁の身体に寄りかかった。大きく開いたシャツの襟元から、白くきめ細やかな肌がのぞく。彼女が何気ない仕草で髪をかき上げると、案の定、暁の視線はそちらに引き寄せられた。 彼の手が伸び、彼女の肩を抱いた。
海月は冷ややかに言い放つ。「自分が馬鹿だったから笑っているの」
彼女は言うなり、暁が受け取った水の入ったグラスをひったくり、二人に向かってその中身を潑ね付けた。
頭からぬるま湯を浴びせられ、二人は信じられないといった表情を浮かべた。
暁は怒りを抑えきれずに叫んだ。 「水野海月、気でも狂ったか?!」
海月は立ち上がり、背筋をまっすぐに伸ばした。「藤本さんは金口玉言ですものね。くださるならいただくし、くださらないなら、それで結構ですわ」
怜は暁に甘やかされて育ったため、元来気性が激しい。普段か弱く虐げられているように見せているのは、男の庇護欲を掻き立てるための演技に過ぎなかった。
彼女は立ち上がると、海月を荒々しく突き飛ばした。「海月ちゃんなんて呼んであげたのは、こっちが譲ってあげたからよ。 自分の身分をわきまえなさいよ。 よくも私と暁兄さんにこんな真似ができたわね?」
くるりと向き直り、暁の胸にすがりつく。「暁兄さん、水野海月はあんまりだわ。ちゃんと思い知らせてやらなきゃ」
彼女は顔を上げ、可哀想な子猫のように暁を見つめた。「髪も服もびしょ濡れになっちゃった」
濡れた白いシャツが肌にぴったりと張り付き、しなやかな体の曲線を露わにしていた。
海月は落ち着き払って二人を眺めていた。まるで道化師の芝居でも見ているかのようだった。
「私も別荘や財産をくださいとお願いしたわけではありません。藤本さんは万貫の富をお持ちなのに、こんな些細なことを惜しむなんて。私にその価値がないということでしょう」
自嘲するような口調で、言葉自体は柔らかく攻撃性のないものだったが、暁はふと、目の前に立つこの女の纏う雰囲気ががらりと変わったように感じた。
彼は歯を食いしばり、顔の水を拭うと、薄葉怜に言った。「俺名義の別荘はまだたくさんある。今度また見て回って、気に入ったものがあれば、どれでも直接君の名義にしてやる」
しかし、怜はまだ海月への恨みを忘れていなかった。暁兄さん以外に自分をぞんざいに扱う女など許せない。ましてや、その相手が暁兄さんに好かれていない元妻だなど、もってのほかだった。
彼女は怒りのあまり、海月を指さして詰問した。「聞いているの。渡すの、渡さないの?」
海月はきっぱりと断った。「渡さない」
パァン――!
鋭い風切り音とともに、平手が海月の頬を激しく打ちつけた。
「いい気にならないで。あんたなんか、暁兄さんの寵愛がなければ、水野家に戻ったって虐げられるだけの人生じゃない!どこの馬の骨とも知れない成り上がりのくせに!」
暁の眼差しが一瞬暗くなったが、すぐに平静を取り戻し、淡々と言った。「怜、関係ない人間のために腹を立てるな」
海月は頬を押さえた。打たれた場所が火のように熱い。舌先でそっと触れると、微かな血の味がした。彼女は顔を上げ、怜を見つめる。「育ちの悪い人……」
怜は暁の胸に身を寄せ、得意げに言った。「私には暁兄さんがいるわ。あんたには何もない。あんたは飼い主に追い出された犬よ……きゃあ!水野海月!」
ガシャン!
海月はテーブルの上の花瓶を掴み、そのまま投げつけた。磁器はソファの横のタイルに叩きつけられ、砕け散る音がことさら甲高く響いた。
「犬の鳴き真似が上手なら、もっと鳴いてみたらどう?」
彼女は一歩前に出ると、怜の髪を掴んで無理やり顔を上げさせ、力の限り平手で打ち返した。
怜は絶叫した。「暁兄さん!!」
暁は怒りを必死にこらえた。今日の海月の振る舞いは、彼の我慢の限界を何度も踏み越えていた。
海月は手を放し、数歩後ろに下がると、晴れ晴れとした口調で言った。「お二人の邪魔はいたしません。末永くお幸せに。子宝にも恵まれますように。どうぞ、永遠に二人で縛り合っていてください」
彼女は怜の泣き声が響く中、藤本家を後にした。
玄関のドアが轟音を立てて閉まっても、怜の怒りは収まらなかった。彼女は暁に泣きながら訴える。「暁兄さん、見てよ、あの女!私たちに水をかけるし、私を叩くし……捕まえてちゃんとしつけてやらなきゃ……」
「もうやめろ」
暁は指で眉間を押さえた。「もう離婚したんだ。これ以上ごたごたするのはやめにしよう。怜、君が望むものはすべて与える。だから、もう騒ぐのはやめてくれないか?」
怜は唇を尖らせて暁の胸に寄り添った。「だって、水野海月の暁兄さんに対する態度が気に入らないんだもの。あの子、一番聞き分けがいいって話じゃなかったの? 全然そんなことないじゃない。見てよ、すごく怖かったわ」
その言葉を聞いて、暁は先ほどの光景を思い出した。グラスを掴んで二人に水を浴びせかけた姿、怜に平手打ちを食らわせたときの激しい形相。あんな彼女は見たことがなかった。自分は、妻の本当の姿を、これまで一度も見たことがなかったのかもしれない……
彼の中の海月の印象は、ただ「従順」という一言に尽きた。
海月が屋敷の庭に足を踏み出すと、門の前に黒いセダンが停まっていた。運転手が恭しく言う。「奥様、大奥様がお呼びです」
行く当てもなかった海月は、その言葉を聞いてためらうことなく車に乗り込んだ。
車はほどなくしてある邸宅の前に静かに停まった。ここは藤本家の旧邸で、暁の祖父母が住んでいる。
「奥様……」
執事は憔悴しきった様子の彼女に声をかけ、中へと案内した。
道すがら、彼は何度か何かを言いかけたが、結局口を閉ざした。
「大奥様が、奥様のことを気にかけていらっしゃいました。ずいぶん顔を見せてくれない、と。夕食までまだ時間がありますから、ゆっくりお話でもしてさしあげてください」
海月は目を伏せたまま、返事をしなかった。
今日、大奥様が自分を呼んだのは、おそらく離婚を思いとどまらせるためだろう。
広大な邸宅は、普段は老夫婦二人しか住んでおらず、静まり返っている。彼女が中に入ると、ソファに腰かけていた老婦人がすぐに気づき、親しげに手招きした。「海月ちゃん、こっちへ来てお座りなさい」
海月は気持ちを切り替え、笑顔を作ってその隣に腰を下ろした。
藤本圭子は海月の手を取って言った。「薄情な子だねえ、こんなに長くおばあちゃんの顔も見に来ないで。暁とはどうだい、うまくいっているのかい?」
探りをいれているのだろうか。 薄葉怜が帰国したという話が、この老婦人の耳に入らないはずがない。
彼女は淡々と答えた。「藤本暁に、私が藤本夫人の座に居座っていると言われました。たった今、離婚届にサインをして、薄葉怜のためにその席を空けてきたところです」
圭子は冷たく鼻を鳴らした。「薄葉怜が何だっていうんだい。 あの子のせいで、暁は交通事故に遭ったというのに。どの面を下げて戻ってきて、暁にまた付きまとうのかね。 海月ちゃん、心配しなくていい。おばあちゃんは絶対にあなたの味方だから。だから、暁と離婚するのは考え直してくれないかい?」
その必死な様子に、海月の胸は少し痛んだ。
しかし、藤本暁という男は、二年もの間尽くしても、その心を温めることはできなかった。
「離婚したですって? 結構なことじゃない!」
遅れてやってきた藤本朝美が、皮肉っぽく言い放った。彼女は高価な服をまとい、腰を揺らしながら婀娜っぽく歩いてくる。その様は実に艶やかだった。
圭子は彼女のその姿を見て、腹の虫が収まらないといった様子で叱りつけた。「歩くならまっすぐ歩きなさい。腰をくねらせて尻を突き出すような歩き方をして。 はしたない」
面子を潰された朝美は、気まずそうに顔をこわばらせたが、姑の隣に座る女に視線を移すと、冷たく鼻で笑った。
「そもそも、暁の許嫁に決まっていたのは水野家の長女、水野雫だったはず。それが、みっともなく男と密通して子供まで孕んだものだから、代わりに次女を嫁がせてきた。まったく、京市に長年いるけれど、水野家にもう一人娘がいたなんて聞いたこともなかったわ。どこの馬の骨とも知れない成り上がりが、有無を言わさず藤本家の若奥様の座に二年ものさばって。この二年間、贅沢三昧はもう十分楽しんだでしょう?」
話 3
水野海月は藤本圭子の手を握り、まるで藤本朝美の言葉が聞こえないかのように、笑みをたたえて言った。「おばあ様、少し咳き込んでいらっしゃるのでは? 後で厨房で梨のスープを作ってきますわ。それを飲めば少しは楽になりますから」
圭子はこの素直で聞き分けの良い孫嫁がことのほか好きで、優しく言った。「ありがとう、海月ちゃん。年を取ると、体の不調が増えてね。あなたが気にかけてくれなければ、この老婆のことなど誰も気にも留めてくれないだろう」
無視された藤本朝美は顔を青くして言った。「離婚協議書にサインした以上、もう猫をかぶるのはやめたらどう?おばあ様に取り入れば、まだ藤本家の若奥様でいられるとでも思っているの?」
海月が口を開く前に、圭子が割って入った。「海月は藤本家に嫁いでからずっと、真面目に務めを果たしてくれていた。病床にいた暁の面倒をどれだけよく見ていたか、あなたは見ていなかったの? 暁だけでなく、あなたや私に対しても、どこか至らない点があったかしら? どうなの?二年間も世話をさせておいて、手のひらを返すなんてことができるの?」
「お義母様!水野海月なんて、水野家がどこからか拾ってきた素性の知れない子でしょう。なぜあんな子の肩を持つんですか?」
朝美は海月を鋭く睨みつけた。「私が何か間違ったことを言いました? あんな素性の知れない娘が、藤本家の若奥様である資格なんてどこにあるんですか? そもそも、お義母様とお義父様が庇って無理やり嫁がせなければ、私がこの家の門をくぐらせることは絶対にありませんでした。藤本家の富を享受しているのだから、暁や私たちに尽くすのは当たり前でしょう? それに、嫁いで二年、お腹には何の音沙汰もない。後継ぎも産めない女なんて誰が欲しがります? 暁が離婚を決めたのも、それが理由でしょう」
圭子の顔が険しくなった。「何を言うんだ、お前は」
朝美は思わず首をすくめたが、それでも強気に言い張った。「事実を言ったまでです。まあ、産まれなくて幸いでしたわ。離婚の時に面倒が増えるだけですから。あんな母親から産まれたところで、ろくな子どもにならないでしょうし」
あまりにひどい言葉に、圭子は顔をしかめ、海月の手を握りしめて言った。「海月、姑の言うことなんて気にしてはだめ。あの人は口が悪いだけだから。おばあちゃんの言うことを聞いて、意地を張らないでくれるかい? 私にとって藤本家の孫嫁は、あなただけ。私とおじいちゃんがいる限り、暁の態度なんて心配しなくていい。あなたたち二人が、仲良く暮らしてくれるのが一番なんだから」
朝美は目を丸くし、憎々しげに言った。「お義母様、水野海月はいったいどんな魔術を使ったんです? お義母様もお義父様も、ずっとあの子を庇ってばかり…… 水野海月!あなたと暁の未来はもうないの。物分かりがいいなら、とっとと出ていきなさい」
海月が圭子を見上げると、その瞳は潤んでいた。
圭子は冷静に言った。「海月の素性がどうであろうと、お前には関係ない。言ったはずだ、海月は私が守る人間だと。これ以上ここでわめくなら、お前が出ていきなさい!」
この厳しい言葉に、朝美の顔は赤くなったり青くなったりし、悔しげに唇を噛んで黙り込んだ。
圭子は海月に向き直り、尋ねた。「海月、あなたはどう思っているんだい?」
海月は顔を上げ、涙が頬を伝った。彼女は声を詰まらせながら言った。「おばあ様、今日、私は見てしまったんです……薄葉怜と暁さんが、私たちの結婚ベッドで戯れているのを。そして暁さんの態度を見て、悟りました。この結婚を続ける意味はないのだと」
圭子の顔から血の気が引いた。顔の皺が震える。「そうか……暁が、お前にすまないことをしたんだね」
彼女は海月の両手を強く握った。「この二年間、苦労をかけたね」
海月は答えず、リビングは束の間の静寂に包まれた。
次の瞬間、朝美の甲高い声がリビングに響き渡った。「あの女狐、薄葉怜が帰ってきたですって? お義母様、私はこれで失礼します。あの女に思い知らせてやらなければ気が済みません」
彼女は慌ただしくバッグを掴むとリビングを飛び出し、瞬く間に姿を消した。
海月は涙を拭い、吹っ切れたように笑った。「おばあ様、私は大丈夫です」
圭子はため息をついた。「そういうことなら、もう何も言うまい。海月、これから暇ができたら、いつでもこのおばあちゃんの顔を見に来ておくれ。この老婆と話をしてくれるだけで、私は満足だから」
そう言ううちに、彼女の瞳は潤んでいた。彼女は海月という孫嫁が、本当に好きだったのだ。もしあの日、海月が嫁いでこなければ、暁は今も目覚めていなかったかもしれない。
海月は圭子の涙を拭い、これまでの年月、すべての人々の態度を思い返しながら、優しく言った。「はい、必ず。おばあ様、お元気で。厨房に梨のスープを作るよう、忘れずにお申し付けください」
彼女はきっぱりと背を向け、歩き去った。その瞳に宿る決意を、圭子は見逃さなかった。
圭子は目元に残る涙をそっと拭い、執事に命じた。「明日の昼、暁たちを全員、旧邸に呼び戻しなさい」
「かしこまりました」と執事は応えた。
海月が藤本家の旧邸を出ると、藤本家の運転手が車を寄せてきた。
「奥様、どちらへ向かいますか?」
運転手の口調は依然として恭しく、彼女を藤本家の女主人として扱っていた。
しかし、今日を境に、藤本家の女主人は彼女ではなくなる。
彼女は俯き、スマートフォンを開くと、一件のメッセージがポップアップした。
米田舞:【月の女神様、今夜、夜魅にお出ましになるご予定は? あの薄葉怜が帰ってきたらしくて、藤本暁のバカが今夜、あいつのために歓迎パーティを開くんですって。結構な人数が集まるみたいだから、私たちも行って、あのバカ男女の度肝を抜いてやりましょうよ】
水野海月:【行く!】
米田舞:【?】
水野海月:【離婚したの。今、独り身】
チャット画面が一秒沈黙し、次の瞬間には感嘆符で埋め尽くされた。米田舞の興奮ぶりが手に取るようにわかる。
米田舞:【月の女神様、今どこにいるの? すぐ迎えに行くから!十数えたら着く!】
海月は思わず笑ってしまい、位置情報を送ると、運転手に告げた。「光悦ビルまでお願いします」
光悦ビルは、京市でも有名な高級ショッピングモールで、世界中のハイブランドが集結している。
海月が姿を見せると、すぐに誰かが出迎えた。
「Umi、来てくれたのね。デザイン画を届けに来てくれたのかしら?」
豪華なメイクアップルームには、オートクチュールの華麗なドレスが無数に掛けられ、ドレスにあしらわれたダイヤモンドが照明を浴びて細かくきらめいていた。
A国のオートクチュールデザイナー、エリカが芝居がかった口調で近づき、海月の腕を取った。「ああ、あなたのその姿を見るたびに胸が痛むわ。その美しい顔をどうして隠すの?あなたは最も美しい花。もっと自由に、華やかに咲き誇るべきよ」
海月は瞬きをして言った。「ええ、エリカ、あなたの言う通りね。私を変えてくれる?」
エリカはさらに説得を続けようとしていたが、海月の言葉に虚を突かれた。「Umi、あなた、変わる気になったの? なんてこと!私を選んだのは、あなたの人生で最も正しい選択よ」
彼はデザイン画のことなどそっちのけで海月を化粧椅子に座らせ、言い含めた。「Umi、あなたはここに座っているだけでいいわ。まったく新しいあなたに生まれ変わらせてあげるから」
彼は彼女の着ている服や手入れされていない髪を見て、メイクブラシを手に取り、やる気に満ちあふれていた。
舞が到着した時、海月はまだメイクの途中だった。
舞はエリカとは顔なじみで、挨拶を交わすと隣の化粧椅子に座り、興味深そうに言った。
「月の女神様の正式なご帰還、お祝い申し上げます。あなたの熱狂的ファン、米田舞、ただいま馳せ参じました。いつでもご命令を」