話 1
三月の北央市は、立て続けに報じられたいくつかのニュースに揺れていた。
一つは、市随一の富豪である清水家の長男、清水晟暉が交通事故で下半身不随の身となったこと。
そしてもう一つは、その名門・清水家が、成り上がりの竹内家と縁談を結んだという報せ。
さらに、この縁談の当事者こそが、人々の憶測を掻き立てていた。
一方は、事故で未来を断たれ、下半身不随となった清水晟暉。
もう一方は、竹内家が「田舎に預けていた」という名の、忘れられた長女。
その頃、世間の噂の中心にいる竹内汐月は、まだ静かな田舎町にいた。
居間で静かに座っていると、携帯電話がメッセージの着信を告げた。
画面に目を落とせば、アシスタントからの連絡だった。
「先生、少々特殊な症例の患者様が、半年ほど前から先生の診察を心待ちにしておられます。 もしご都合がつけば、一度診てはいただけませんでしょうか?」
白く細い指が、ためらいなく電源ボタンを長押しし、画面の光を闇に沈めた。 うつむいた拍子に、その透き通るような瞳からふっと光が消え、言いようのない哀しみが影を落とした。
たとえ「鬼医の手」と称され、世界的な名医であろうと、それが何になるというのか。
自分は、たった一人の祖母さえ救えなかった。 メスを握る覚悟を決めた時には、祖母はもう待ってくれなかったのだ。
背後の寝室からは、両親の口論が漏れ聞こえてくる。 田舎の家の壁は、都会のそれよりずっと薄い。
「奈美!いい加減にしろ!母さんが亡くなって、葬式が終わったばかりなんだぞ。 もう帰るだなんて、騒ぐんじゃない!」
「泰輝!会社には仕事が山積みで、優桜の成人式も控えているのよ!死んだ人間より、生きている人間のことの方が大事でしょう! あの子を早く連れ帰って、都会の常識を叩き込まないと。あんな田舎娘が清水家に嫁いだら、竹内家の恥になるわ!」
「奈美、さっきから田舎娘、田舎娘と……あの子だってお前の腹を痛めた娘だろうが!」
「実の娘じゃなきゃ、わざわざこんな所まで迎えに来るもんですか」竹内奈美は鼻で嗤う。
“……”
母親の嘲笑に、汐月もまた唇の端を歪めて自嘲の息を漏らす。
――これが、血の繋がった実の両親。そんな両親との記憶を、汐月は静かにたどる。
もとはごく普通のサラリーマンだった両親は、裸一貫で事業を興し、一歩ずつ成功への階段を上ってきた。
事業の初期段階で子育てに割く時間などあるはずもなく、汐月は生後一ヶ月で祖母の元へ預けられた。
それでも、以前はまだ両親の愛情を感じられた。 多忙な合間を縫っては、気にかけてくれることもあった。
すべてが変わってしまったのは、いつからだったか。
事業が軌道に乗り、会社を設立し、そして汐月が七歳の時に妹が生まれた。
その日を境に、両親の関心は急速に汐月から離れていった。 一方で、竹内家の事業はうなぎ登りに拡大し、やがて名家と呼ばれるまでになった。
たまに母からかかってくる電話は、決まって妹がいかに家の「福の星」であるかの自慢話ばかり。 汐月の学業や健康を気遣う言葉は、一言もなかった。
まるで、幸運をもたらす娘が自分たちにはいるのだと、世間に知らしめるためだけの道具のように。
妹が三歳の時、一度だけ両親が帰省したことがある。
その時、父が祖母と汐月を北央市に引き取ろうと提案したが、母の浮かべる笑顔がひどく強張っていたのを、汐月は見ていた。
母が父に何を吹き込んだのかは知らない。 結局、父が二人を連れて行くことはなかった。
実家に戻った母は再び身ごもり、今度は弟が生まれた。
それ以来、あの夫婦の関心は完全に二人の子供へと注がれた。 仕送りこそ途絶えなかったが、十五年間、一度として顔を見せることはなかった。
祖母が逝かなければ、あの夫婦は自分たちに母親がおり、そしてもう一人娘がいたことすら、記憶の底に沈めたままだったのかもしれない。
*
祖母の葬儀を終えると、汐月は両親と共に北央市へ向かうことになった。
両親はしきりに北央市へ来るよう求め、その言葉はどこまでも懇切で、まるで心の底から娘を案じているかのようだった。
彼らの魂胆など、汐月にはお見通しだった。 北央市のニュースは、ネットで検索すればすぐに出てくるのだから。
北央市の邸宅に到着する直前、後部座席の汐月に奈美が声をかけた。
「汐月、いいこと?誰かに大学を聞かれたら、『景原市医科大の修士課程を修了して、これから研修医になるところです』と答えなさい」
奈美は、娘が碧山町という山間の田舎町で、小さな診療所の手伝いでもしているのだろうと高を括っていた。
大学にも行かずに、そこの医者から見よう見まねで医術を学んだ程度だろう、と。
祖母が何度か「汐月は医学の道に進んだ」と口にするのを聞いて、勝手にそう決めつけていたのだ。
景原市医科大学は、全国屈指の名門。 そう言わせるのも、ひとえに自分の面子のため。
竹内家の娘が田舎の医者見習いなどと知られれば、物笑いの種になる。 その言葉に、汐月は内心で鼻白んだ。
母、竹内奈美は見栄と虚飾の塊だ。 そして、娘のことなど何一つ理解しようとしない。
何を隠そう、その景原市医科大学から、一ヶ月前に学生への講演依頼が届いたばかりだというのに。
母親でありながら、娘の学業に一度も関心を示さず、病気で主要二科目を欠席し合計点が低かったというだけで、大学には到底受からないと決めつけた。
祖母が電話口で名門校合格の吉報を伝えようとしても、「仕事が忙しい」の一言で無下に電話を切った。
彼らが関心を示さないのなら、と祖母も汐月も、いつしか共有することを諦めてしまった。
汐月は母を一瞥し、冷ややかに答えた。 「私は、景原市医科大の学生ではありません」
その融通の利かない返答に、奈美は苛立ちを隠せない。 まるで木偶の坊だ。
もちろん、娘が景原市医科大の学生でないことくらい承知している。 本当にそうなら、嘘をつかせる必要もない。
大した能もないくせに意地っ張りで、口にするのも恥ずかしい。 それに引き換え、優桜は。
容姿こそこの姉には一歩譲るが、出来は比べ物にならない。
奈美が何か言おうと口を開きかけたが、前の席から泰輝の咳払いが聞こえ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
仕事の話はさておき、と奈美は掌中の珠である末娘に思いを馳せ、その声に甘い響きが混じる。
「そうそう、優桜は少し甘やかして育てたから、わがままなところがあるの。 あなたが姉さんとして譲ってあげてね。 あの子の機嫌を損ねたら、ご飯も食べなくなるんだから」
汐月は馬鹿馬鹿しいと思った。 もうすぐ十八にもなろうというのに、分別もつかないとは。 確かに、甘やかされすぎている。
言葉が終わるか終わらないかのうちに、車は豪奢な邸宅の門前に滑り込んだ。
汐月が先に車を降りる。
そこへ、制服姿の少女が駆け寄ってきた。 竹内優桜だ。
「パパ、ママ!やっと帰ってきたのね!」
汐月を見るなり、優桜の弾んだ声がふと途切れ、値踏みするような視線が注がれる。
汐月は、シンプルなオフホワイトのパーカーに淡い黄色のカジュアルパンツ、足元は白いスニーカーという出で立ちだった。
ごくありふれた服装だが、彼女の整いすぎた顔立ちと、透き通るような肌の白さが、清らかな気品を醸し出していた。
とても長い間、田舎で暮らしてきた人間には見えない。
この人が、竹内汐月。 自分と同じ父母から生まれながら、一度も共に暮らしたことのない姉。
北央市で常に「お嬢様」として蝶よ花よと育てられてきた優桜の胸に。
汐月の突然の帰宅は、名状しがたい不快感を広げた。
「まあ、優桜!心配したじゃないの。 こんな薄着で飛び出してきて、風邪をひくわよ」
優桜が薄いTシャツ一枚しか着ていないのを見て、奈美は見るなり慌てて自分の上衣を脱ぎ、その肩にかけてやる。
優桜は嬉しそうに母の腕にじゃれついた。 「えへへ、ママ、全然寒くないよ」
母と娘が睦まじく笑いさざめきながら家に入っていく。
その光景に、初めてこの家を訪れた長女の存在など、とうに意識の外だった。
その途中、優桜が一度だけ振り返り、意味ありげな視線を汐月に投げかけた。
泰輝もまた愛娘の姿に顔をほころばせ、つい口を滑らせて汐月に紹介する。
「あれがお前の妹の優桜だ。 とても優秀でな、大学入試の成績も良かった。 もう景原市医科大学の合格通知も受け取っているんだ……」
話 2
そこまで話して、ふと記憶が蘇る。 数年前、母親との電話で、竹内汐月が大学に進まなかったのだと、一度だけ愚痴るように言われた気がする。 そして、深い溜め息の後にこう続いた。
「あんたも優桜みたいに出来が良かったら、お母さんも鼻が高かったのにね」
その言葉に、汐月は答えなかった。 答える代わりに、自嘲めいた笑みすら浮かんだ、妹の優桜のことならば些細な癖の一つひとつまで鮮明に記憶しているというのに、実の娘である自分に対しては。
大学進学という人生の岐路さえろくに知ろうともせず、ただ妹より劣る存在だと断じている。
-
竹内家のすべてが、汐月にはまるでよその家のように映った、ここも自分の家であるはずなのに、その門をくぐるのは今日が初めてだった。
母の奈美は、汐月をあてがわれた部屋へ案内すると、心配を装うような笑みを貼り付けて言った。 「何か気に入らないことがあったら、遠慮なくお母さんに言うのよ、いい?」
汐月は静かに頷き、波ひとつない平坦な口調で応じる。 「ありがとうございます、お母さん」
「もう、この子ったら。 水臭いわよ。 私、あなたの母親でしょう?遠慮なんていらないのに」
奈美が一通り言い終えてもまだその場を動こうとしないのを見て、汐月は問いかけた。 「他に何か?」
竹内奈美と竹内泰輝は長年苦労の末、ある好機を掴んでようやく富裕層の末席に名を連ねた。
しかし、名家の社交界において、彼らは所詮成り上がりと見なされ、侮りの視線に晒されることも少なくなかった。
一方、清水家は、その歴史、人脈、財力のいずれにおいても、北央市で揺るぎない地位を築く正真正銘の名門である。
その清水家から持ち込まれた縁談だ。 奈美がこの千載一遇の好機を逃すはずがなかった。
目を閉じずとも、清水家との縁組がもたらす利は火を見るより明らかだった。
ただ、相手の清水晟暉は、すでに不自由な身体になってしまっている。 手元で蝶よ花よと育ててきた下の娘を嫁がせるには忍びなく、そこで思い出したのが、田舎に置き去りにしてきた長女の存在だった。
しかし、長女の澄み切った瞳を正面から見つめていると、奈美の胸にも微かな罪悪感が疼いた。
幼い頃から手元で育ててやらなかったことへの後ろめたさは本物だったが、そこに母親としての愛情が欠けているのもまた、紛れもない事実だった。
だが、奈美はすぐに考えを切り替える。 竹内汐月は田舎育ちで、ろくに学歴もなく、碧山町という小さな町で医者をしているに過ぎない。 そんな娘が、清水家のような雲の上の家に嫁げるのだ。 たとえ清水晟暉が不自由な身であろうと、使い切れぬほどの富と栄華が約束される。
これは、娘の未来を思っての最善の選択なのだ、と。
「汐月、今夜はゆっくり休みなさい。 夜、お母さんが会わせたい人がいるから」
誰に、とは言わなかったが、汐月には分かっていた。 清水晟暉に決まっている。
インターネットで、彼が交通事故で身体が不自由になったという記事を目にしていた。
笑うべきか、悲しむべきか、もはや感情の振り子も動かない。 結局のところ、所謂『親』というものに期待を抱くべきではなかったのだ。
親に愛されなかった子供の心に宿るのは、どうしようもない無念と、静かな諦観だけだ。
「はい」汐月は頷いた。
その頷きは、奈美のためではない。 すべては清水晟暉のためだった。
彼が今、どうしているのか――ただ、それだけが気にかかっていた。
汐月が素直に従うのを見て、奈美は少し満足したように口元を緩めた。 「いい子ね。 じゃあ、ゆっくり休んで。 お母さんはもう行くわ」
去り際に、彼女は言い忘れていたとばかりに付け加えた。 「夜、その方に会う時、覚えておいてね。 大学のことを聞かれたら、景原市医科大の修士課程だって言うのよ。 どうせバレないわ。お母さんが何とかするから」
奈美が去った後、汐月はベッドに身を横たえ、そっと手を持ち上げた。 意思に反して、その右手が微かに震えているのが分かった。
もう、六日が経っていた。
メスを握りしめ、祖母を救えなかったあの瞬間から、この手の震えは止まっていない。
外科医にとって、メスを握る手が震えることは、死刑宣告に等しい。
思考の奔流に疲弊したのか、汐月はいつしか、昏く不気味な夢の底へと沈んでいった。
一方、竹内優桜はソファに寝そべり、スマートフォンの画面を眺めていた。 グループチャットで皆が「お姉さんって美人なの?」と尋ねるのを見て、優桜の心は苛立ちにさざめいた。
美人どころの話ではない。
竹内汐月は地味な服装に身を包んでいたが、その顔立ちは冷たく整い、嫌でも人の目を惹きつける華があった。
肌も、長年田舎にいたとは思えぬほど、病的なまでに白い。
竹内汐月と比べれば、自分の容姿など、せいぜい『清純で可愛らしい』という枠を出ない。
質問の嵐に、優桜は複雑な感情を抱え、気分が晴れないまま、指は無意識にこう打ち込んでいた。 「普通。 ブスではないけど」
すぐに露見する嘘だと頭では分かっていながらも、そう打ち明けずにはいられなかった。
清水家が竹内家と縁談を結ぶという話は、すでに北央市の上流階級に知れ渡っていた。
遊び人たちは、かつて天の寵児ともてはやされた清水晟暉が、一体どんな女を娶るのかと好奇の目で見ていた。
竹内優桜が「ブスじゃない」と表現したのを見て、一同は沈黙した。
「ブスじゃない」という表現が、暗に『決して美人ではない』ことを示唆していると、誰もが察したのだ。
清水晟暉も、つくづく気の毒なことだ。
その遊び人たちのグループには、清水晟暉の実弟である清水涼平もいた。
彼は忌々しげに顔を歪めスマートフォンを握りしめると、「くそっ」と吐き捨て、母親を振り返った。
「母さん、兄貴は足が不自由なだけだろ……何もあんな女と結婚させることないじゃないか。 竹内優桜が言ってたぜ、姉貴は超ブスだって」
その言葉に、清水夫人の胸に深い悲しみが広がった。 彼女とて、愛する息子に良き伴侶を、と願わないわけではない。
だが、息子は足だけでなく、男としても大きな問題を抱えていた。 清水家の当主の妻として、これ以上清水家にとって不都合な噂が広まるのを、座して見ているわけにはいかない。
だからこそ、最も扱いやすい竹内家の長女を選ばざるを得なかったのだ。
「大人のすることに、子供が口出しするものではありません」彼女は息子を突き放すように、わざと冷たく言い放った。
涼平は怒りで顔を赤くしたが。
清水夫人はその感情を気にかける余裕もなく、落ち着いた足取りで二階へと上がっていった。
先ほど、竹内奈美から「今夜、二人の子供を会わせたい」というメッセージが届いていたのだ。
息子の部屋のドアを開けると、光を拒むように閉ざされた室内に、清水夫人は平静を装って歩みを進め、窓辺のカーテンを一気に開け放った。
眩い光が流れ込み、部屋の澱んだ闇を追い払う。
ベッドには、一人の男が横たわっていた。 その漆黒の瞳は古井戸のように深く、静かな横顔に浮かぶ端正な顔立ちは、冷たく鋭い攻撃性を孕んでいた。
彼は眠ってはいなかった。
清水夫人は単刀直入に切り出した。 「お見合いをセッティングしたわ。 今夜、私と一緒に先方へ会いに行きます。 あなたに拒否権はありません」
「拒否権がないなら、見合いなど不要だろう。 さっさと籍を入れればいい」
感情の温度を一切感じさせない声で、晟暉は言い放った。
息子に対して、清水夫人は尽きせぬ心痛と共に、言葉にできない微かな恨みも抱いていた。
世間の誰も知らないことだが、あの交通事故は息子の健康だけでなく、夫の命さえも奪い去っていたのだ。
息子がこの様な状態である以上、夫の死を公表するわけにはいかない。 さもなければ、会社を支える多くの者たちが動揺するだろう。
「反対しないのなら結構です。 ですが、礼儀として、一度は顔を合わせなさい」
清水夫人が去った後、晟暉は再び深い闇に沈んだかのようだった。 漆黒の瞳に、苦痛と自嘲の色が浮かぶ。
もし自分がいなければ、父は死なずに済んだのだ。
汐月が夕暮れ時に目を覚ますと、優桜が呼びに来ていた。
どのような本心からか、優桜はわざとらしい祝福の言葉を口にした。 「お姉ちゃん、もうすぐ清水家に嫁ぐんだね。 おめでとう。 清水家といえば、北央市でもトップクラスの名門ですものね」
汐月は今年で二十五歳。 長年、酸いも甘いも経験してきた。 優桜のその言葉に隠された浅はかな棘を、彼女は瞬時に見抜いていた。
妹が自分を疎ましく思っているのは、一目で分かった。
彼女はただ黙って布団を畳みながら、優桜が次にどんな言葉を紡ぐのかを静かに待っていた。
話 3
君には不釣り合いだ案の定、汐月が黙り込んでいるのを見て、竹内優桜は再び口を開いた。「でもね、清水家は名家だけど、清水晟暉はもう廃人同然じゃない。 噂じゃ、下半身不随の人って、そっちの方も不能らしいよ。 お姉ちゃん、私、本当にお姉ちゃんにそんなところに嫁いでほしくないの。 それじゃ生き地獄も同然じゃない?」
心配するふりをしているが、その瞳の奥には、汐月が自分より良い暮らしをすることへの嫉妬が透けて見える。
たとえ清水晟暉の体に問題があったとしても、彼はかつて自分が焦がれた相手なのだ。
それに、もし本当に清水家に嫁ぐことになれば、汐月が自分を凌ぐことになる。
竹内汐月は妹の浅はかな魂胆を見抜き、冷ややかに言い放った。 「私のことが嫌いでも構わないわ。 心配するふりなんてしなくていい。 だって……」
そこまで言うと、汐月はふっと言葉を切り、優桜が驚愕に目を見開くのを一瞥してから、言葉を継いだ。 「私もあんたのことが嫌いだから」
竹内優桜は、姉がここまで直接的に自分の偽善を暴くとは想定していなかったのだろう。 戸惑いの表情を浮かべ、咄嗟に言葉を返せずにいた。
竹内汐月が部屋を出ていく背中を見送り、ようやく我に返った優桜は、悔しげに床を踏み鳴らし、吐き捨てるように言った。 「何よ、偉そうに。 本当に失礼なんだから。 やっぱり田舎育ちの卑しい出ね」
汐月の足は、まだ扉の外で止まっていた。 妹の罵りを耳にした彼女は、静かに一歩下がり、振り返って優桜と視線を交わした。
「あなたのお父さんもお母さんも田舎育ちだけど、その理屈だと、二人も卑しいってことになるわね。 本人たちにそう伝えてもいい?」
竹内優桜は呆然と姉を見つめた。 その氷のように冷たい瞳に見据えられ、まるで心の奥底まで全てを見透かされているようだった。
竹内優桜の中で、竹内汐月への嫌悪がさらに増していく。
しかし、今回は何も言い返せず、怒りに満ちた表情で部屋を飛び出していった。
妹が階下へ駆け下りていくと、間もなく、母の奈美が上がってきた。
奈美の顔は険しく、明らかに不機嫌だった。
竹内汐月は、竹内優桜が告げ口をしたのだと察した。 おそらく、姉である自分が彼女をいじめたとでも泣きついたのだろう。
「あなた、優桜に何を言ったの?」
奈美は詰問する口調で娘に尋ねた。 その声には不満が滲んでいる。 来たばかりで妹を泣かせるとは、この長女がこれほど腹黒いとは思いもしなかった。
問答無用で決めつけるような物言いに、汐月は内心で舌打ちをした。
彼女は唇の端を皮肉っぽく吊り上げる。 「あの子、お母さんには何て言ったの?」
「今、私が聞いているのよ!」
逆に問い返されたことで、奈美の苛立ちは一気に募った。 やはり田舎で長年暮らしたせいで、すっかり常識知らずになってしまった。 礼儀も何もない。
「あの子が言ったのよ、私が田舎育ちの卑しい人間だって。 だから教えてあげたの。 お母さんもお父さんも田舎育ちだから、あの子の理屈だと、二人も卑しい人間になるってね」
「でたらめ言わないで!優桜がそんな失礼なこと言うわけないでしょ」 竹内奈美は怒りにわなないた。 「妹を泣かせた挙句、嘘までつくようになったの?大したもんだわ、竹内汐月。 ずいぶん偉くなったものね」
竹内汐月は馬鹿馬鹿しくなった。 しつこく問い詰めてきたのはそちらなのに、答えてやれば信じようともしない。
どうせ、自分が聞きたい答えしか求めていないのだろう。
竹内汐月は、決してやられっぱなしでいるような人間ではない。 人を怒らせる才能にかけては一流だった。
竹内奈美が信じようとしないのを見て、彼女は言い放った。 「私が嘘つきだと思うなら、それでいいわ。 どうせお母さんは優桜のことしか信じないんだから。 でも謝る気なんて毛頭ない。私が気に入らないなら、今すぐ田舎に帰るわよ。清水晟暉には優桜を嫁がせればいいじゃない」
彼女は竹内奈美の目的を知り抜いた上で、その言葉で容赦なく相手の口を封じにかかった。
「あなた!」
案の定、竹内奈美は激昂した。 しかし、竹内汐月を北央市に連れ戻した目的を思い出し、腹の底からこみ上げる怒りをどうにか抑え込んだ。
同じ腹を痛めた娘なのに、どうしてこれほどまでに違うのか、彼女には理解できなかった。
優桜は優秀で気配りもでき、いつも甘えるように話しかけてくるので、聞いているだけで心が和む。
一方、竹内汐月は出来が悪く、融通も利かず、嘘つきだ。 やはり、手元で育てなかったせいで情が湧かないのだろう。
「支度して。 これから人に会いに行くわよ。 それと、その服も着替えなさい。 佐々木さんに服を持ってこさせるから」
竹内汐月が北央市に来ることを承諾したのは、この過度に偏愛する両親のためでは決してなかった。
ニュースでその名を見た瞬間、竹内汐月は清水晟暉が誰であるかを悟っていたのだ。
彼女は孔雀のように着飾ることに興味はなかった。
だから、階下へ降りた時も、自分の服を着たままでいた。
階下で待っていた竹内奈美は、その姿を見てあからさまに不満そうな顔をした。 「どうして着替えていないの?」
「着替えたくないから」竹内汐月は気だるげに答えた。
「あなた……」
竹内奈美は、この長女が自分が思っていたほど従順で扱いやすい人間ではないことに、今更ながら気づかされた。
しかし、当面の急務は、彼女と清水晟暉の結婚をまとめることだ。
「もういいわ。 着替えたくないならそのままで行きましょう……」
-
富裕層グループのチャットで、清水涼平は竹内優桜に問いかけ続けた。
「竹内優桜、君のお姉さんは何の仕事をしてるんだ?」
同じグループチャットにいるとはいえ、竹内優桜の身分では、普段、清水家の御曹司と個人的に連絡を取ることなど夢のまた夢だった。
清水涼平自ら話しかけてきたのを見て、竹内優桜の心は一瞬にして舞い上がった。
清水涼平をないがしろにしまいと、彼女は非常に積極的に返信した。
「母から聞いた話だと、姉は田舎の小さな町で医者をしているそうです」
医者?
医者なら、兄の世話もよりよくできるだろう。 清水涼平は、彼女が醜いという事実をどうにか呑み込もうとした。
竹内奈美は、竹内汐月が景原市医科大学の修士課程を卒業したと吹聴していた。
竹内優桜は、自分が血のにじむような努力で手に入れた景原市医科大学合格という栄誉を。
姉にいとも簡単に横取りされたくはなかったのだ。
己の思惑を胸に、竹内優桜はさりげないふりを装って情報を漏らした。 「でも、姉はセンター試験も受けていないし、大学にも行っていないんです。 たぶん、田舎の先生に手習いで教わっただけだと思います」
「何?大学にも行っていないのか?」
途端に、汐月の「医者」という肩書きに、胡散臭さがまとわりつき始めた。
清水涼平は不快で、腹立たしかった。
兄はハーバード大学を卒業した秀才だ。 醜い女と結婚させられるだけでも我慢ならないのに、教養すらない人間だとは……。
結局、我慢できず、清水涼平は兄にショートメッセージを送った。
「兄さん、あの竹内汐月と結婚するのはやめてくれ。 彼女は兄さんには釣り合わない。 妹から聞いたけど、大学も出てないそうだ。 ブスなだけじゃなく、無教養なんて……」
清水晟暉は、すでに香雅レストランの個室で待っていた。
そこは静謐で優美な個室だったが。
清水晟暉も清水夫人も、窓外の景色に目をやる気にはなれなかった。
清水夫人にとって、この見合いはただの取引に過ぎない。
清水晟暉にとって、それは自らの無能さを証明するための宴でしかなかった。
携帯電話の通知音が鳴り、清水晟暉は弟から送られてきたメッセージに目を通す。
その端正な顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
清水夫人もまた、清水涼平からのメッセージを目にしていた。
彼女は目を伏せ、言った。 「晟暉、お母さんを恨まないで。 お母さんには、他にどうしようもなかったの」
息子が結婚し、密かに養子を迎えて実子と偽れば、彼に関する悪評は自然と消え去るだろう。
清水晟暉の唇に、自嘲の笑みが浮かぶ。
恨む資格など、自分にはない。
父を死なせたのは、この自分なのだから。
しかし、清水晟暉は清水涼平に一言だけ返信を送った。
「礼儀をわきまえろ」
それを見た清水涼平は、腹の虫が収まらなかった。
こんな時だというのに、まだ礼儀に気をつけろだと。 兄貴は一体、要点を分かっているのか!
一方、竹内汐月と竹内奈美はすでに香雅レストランに到着していた。
汐月は背が高く足が長い。 フラットシューズを履いているにもかかわらず、ハイヒールを履いた奈美は、早足になっても、娘の歩みに追いつくのがやっとだった。