話 2
電話を切ると、亜実のもとに私立探偵からメッセージが届いた。
添付された写真には、車の陰で貪り合う二人の姿が鮮明に写っていた。女の白く滑らかな手が男の首に絡みつき、月光の下でその白さが異様なほど際立っている。
亜実は胸の奥から込み上げる酸っぱいものを飲み込み、震える指で画像をスワイプし続けた。
詩乃は親しげに年彦の腕にすがりついており、その親密さは、まるで彼らこそが長年連れ添った夫婦であるかのようだった。
これまでの様々の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎり、耳の奥では不快な耳鳴りが止まらない。息をするたびに、肺の奥に鋭いガラス片が刺さるような鈍痛が走った。
しばらくして、彼女は親友の柏木寧々に電話をかけた。
「寧々、明日、例のフライトクラブに行く時間は取れる?」
「えっ?あんた、あんなに高所恐怖症だって嫌がってたじゃない」
亜実は自嘲気味に口角を上げた。「……お祝いしたいことがあってね。ちょっと、挑戦してみたくなったの」
「……分かったわ。じゃあ、明日の朝、現地でね」
電話を切ると、彼女はあえて年彦にメッセージを送った。
「あと一週間で私たちの結婚記念日ね。特別なプレゼントを用意しているわ」
その直後。
テーブルに置かれた年彦のタブレットが「ピコン」と音を立てた。
まるで魔が差したかのように近づいてみると、そこには年彦のLINEがログインされたままになっている。
「年彦さん、ホテルの予約は済ませておきました。安心して行ってきてください。結婚記念日の日は、俺がうまくごまかしておきますから」
亜実は痛む口元をわずかに引きつらせた。指先はかすかに震えている。
なるほど。彼は、自分と記念日を過ごすつもりなど最初からなかったのだ。
自分を徹底的に欺こうと必死になっていたのだ。――本当に、ご苦労なことだわ。
亜実は画面を消し、タブレットを無造作に放り投げると、バスルームへ向かった。
翌朝。
寝返りを打った瞬間、隣から伝わる温もりに触れ、彼女ははっと目を覚ました。
年彦はまだ半分眠ったまま彼女を抱き寄せ、かすれた声で言った。「亜実、まだ早いよ。もう少し寝よう」
彼女は鼻で小さく笑い、すっとベッドから抜け出す。
「昨夜は、いつ帰ってきたの?」
「……ん?昨夜の十一時には戻ったよ。君がぐっすり眠っていたから、起こさなかった」
彼の嘘は彼女の心にさざ波を立てたが、すぐにまた凪のように静まった。
心は、とうに痛みに麻痺している。
昨夜、彼女は午前三時まで眠れなかった。もし彼が帰ってきていたなら、気づかないはずがない。
「今日は用事があるから、先に出るわ」
彼女は冷ややかに言い放った。
フライトクラブに到着すると、寧々が満面の笑みで迎えてくれた。
「亜実、何かいいことでもあったの?」
亜実はふっと笑い、落ち着いた様子で言った。「離婚することにしたの」
寧々は雷に打たれたかのように、その場に立ち尽くした。
離婚?
彼女の印象では、亜実は年彦に対してとても寛容で、まるで彼にすべてを捧げているかのように見えていた。
それなのに、突然離婚だなんて――。
「亜実、彼に……何かされたの?」
亜実はソファに腰を下ろし、コーヒーをぐいっと一口飲んだ。
「ううん」
その言葉に、寧々はほっと胸をなで下ろした。
「浮気されただけよ」 亜実は続けて付け加えた。
「浮気?」
寧々は怒りで声を荒らげ、顔いっぱいに憤りを浮かべた。「あんなに尽くしてきたのに、浮気するなんて!最低のクズじゃない!」
亜実の寂しげな表情を見て、寧々はすぐに話題を変え、優しく慰めた。「亜実、落ち込まないで。そんな男、別れて正解よ」
「若くて綺麗で、仕事だって成功してるんだから。男なんていくらでも見つかるわ」
亜実の心がどれほど傷ついているか、寧々には痛いほど分かっていた。なにしろ彼は、彼女が少女の頃からずっと憧れてきた相手だったのだから。
しばらくして、亜実は顔を上げ、ふっと笑った。「悲しくなんかないわ。子供ができる前に、あんなクズの本性が分かって本当によかった!」
そう言うと、彼女はどこか不自然にまばたきをした。誰かに見られているような、そんな熱い視線を感じた気がしたのだ。
視線の先をたどると、漆黒の瞳とぶつかった。
その瞳の持ち主はソファに気怠げに腰掛けており、黒のレザージャケットが彼の大人の色気を引き立てている。
亜実は何度も深呼吸をし、ようやく我に返った。
有馬理玖!
どうして彼がここに?
さっきの寧々との会話……聞かれてないわよね?
彼女は気まずくなり、顔を手で隠しながら小声で寧々に言った。「寧々、行きましょう。別のクラブにするわ」
寧々は事情が分からず、不思議そうに首をかしげる。「え?ここのクラブ、すごくいいのよ。オーナー自身がパイロットで、しかもすっごくイケメンらしいわ!」
今この瞬間、亜実は穴があったら入りたい気分だった。
指の隙間から恐る恐る覗いてみると、ソファに男の姿はすでになかった。
周囲を見回し、振り向いた瞬間――男の胸にぶつかり、思わず痛みに息を呑む。
「俺を探してるのか?」
亜実ははっとして、気まずそうに笑った。「どうしてここに?」
「俺のクラブだぞ。俺がいて何かおかしいか?」
「高所恐怖症のくせに遊びに来るなんて。空の上で恥でもかきたいのか?」
亜実は言葉に詰まった。そういえば以前、彼がフライトクラブを開いたと言っていたのを思い出した。
ただ、彼女はこの分野に興味がなく、深く聞かなかっただけだ。
まさか今日、こんな形で出くわすことになるとは思ってもみなかった。
彼女は少し苛立った口調で言う。「あなたには関係ないでしょ。私はお金を払って遊びに来たの。まさか客を追い返すつもり?」
「もちろん歓迎するさ。今日は俺が乗せてやるよ」
理玖は彼女に断る隙も与えず、それだけ言うと背を向けた。
「亜実、あの人、どうしてあんなにキツい言い方するの? 前に見た時は誰に対しても冷たくて、ほとんど喋らなかったのに」
「変な人なのよ。放っておいて」
二人はクラブのフライトスーツに着替え、それぞれ別のヘリコプターに乗り込んだ。
理玖は頬杖をつき、余裕たっぷりの表情で彼女を見る。「怖くないのか?」
「ビビってお漏らしでもしたら、ヘリ一台弁償してもらう。それか……君自身をくれ?」
「くだらないこと言ってないで、さっさと飛ばして」 亜実は呆れたように唇を尖らせた。
「年彦と喧嘩でもしたのか?」
男はドアを閉め、不意にそう尋ねた。
何気ない素振りを装ってはいるが、視線の端はしっかり彼女を捉えている。知らぬ間に両手を強く握りしめながら、彼女が肯定する言葉を密かに待っていた。
話 3
「あなたが一番望んでいることじゃないの?」
学生時代、彼ら三人は友人同士だった。しかし、彼女が年彦と付き合い始めてからというもの、理玖の態度は一変した。
彼女が年彦と結婚した際には、さらに多くの皮肉を浴びせられたものだ。
「最初から合わないって言っただろ。お前が勝手に痛い目を見に行ったんだ」
「人生まだまだこれからだってのに、年彦がなんでよりによって、お前みたいなひねくれた女に執着しなきゃいけないんだ?」
この数年、彼のトゲのある物言いには随分と慣れているつもりだったが、まさかここへ来てさらに記録を更新してくるとは思わなかった。
亜実は彼を睨みつけた。「誰がひねくれた女よ」
理玖は口角を上げて笑い、それ以上は何も言わなかった。
なぜか急に、彼のご機嫌が良くなったようだ。
キャビン内が沈黙に包まれる。微かな無重力感に、亜実は思わず拳を握りしめ、掌にはじわりと汗が滲んできた。
ヘリコプターは急上昇と急降下を繰り返し、ジェットコースター以上のスリルがある。
亜実はとうとう耐えきれずに悲鳴を上げ、その合間に彼への悪態をいくつか挟んだ。
「理玖、わざとやってるでしょ!」
男は速度を落とし、少ししゃがれた声で言った。
「もう離婚を切り出したのか?」
亜実は唇を固く結び、答える気配を見せなかった。
何しろ彼と年彦は親友同士だ。裏で告げ口されないとも限らない。
再びキャビンに沈黙が落ちたかと思うと、ヘリが急加速し、彼女は思わず声を上げた。
「切り出したのか?」
悪戯が成功して満足げな隣の男を恨めしそうに睨みつけ、彼女は仕方なく口を開いた。
「彼にはまだ言ってないわ」
その言葉を聞いて、男の表情がわずかに冷たくなったように感じた。
「でも、離婚協議書にはもうサインした」 亜実は落ち着いた声で言った。
その声が波紋を広げ、男の瞳の奥に一瞬だけ喜びの光が閃いたが、それはすぐに消え去った。
「亜実、お前は俺が思っていたよりずっと決断力があるな」
それは貶しているようでもあり、褒めているようでもあった。
亜実は乾いた笑いを漏らし、質問には答えずにはぐらかした。「少し速度を落として。景色が見たいの」
空からの景色は想像以上に美しく、慣れてくると無重力感も消えていった。
「そいつの浮気相手の名前は?」
理玖がふいに口を開き、静寂を破った。
亜実は眉をひそめた。「なんでそんなこと聞くの?横取りでもする気?」
「考えすぎだ。年彦がそこまで骨抜きにされるなんて、お前よりよっぽどいい女なのか見てみたいだけさ」 彼は皮肉たっぷりに言いながらも、その視線はどこか熱を帯びて彼女に注がれている。
亜実は思わず彼に冷ややかな一瞥を投げ、心の中で毒づいた。
理玖は、彼女が年彦と付き合い始めた頃からずっとこうだった。事情を知らない人が見たら、親友を奪われて拗ねているかのように見えるだろう。
彼女の知る限り、彼はゲイではないはずだ。それなのに、どうして二人の関係のこととなると、いつもこんなにトゲがあるのだろう?
「黙ってないと死ぬ病気なの?」
「私がブスだって言いたいわけ?」
「理玖、もし目を治すお金がないなら言いなさいよ。元同級生で、今はかろうじて友達ってよしみで、援助してあげるから」
その言葉に理玖は吹き出し、首をこちらに向けて面白そうに彼女を見つめた。
「年彦は、お前が他人の前でこんなに強気だって知ってるのか? どうしてお前は、俺の前と年彦の前でこうも違うんだ?」
この何年もの間、亜実は年彦の前でずっと優しくて善良で、気が利く妻を演じてきた。だからこそ、彼はあんなにも安心して外でその辺の女を囲っていられるのだ。
彼女を馬鹿にして、手のひらの上で転がしているつもりなのだろう。
「あなただって同じでしょ。他人の前ではクールでストイックなフリをしてるじゃない」
亜実はそう言って唇を軽く噛んだが、頭の中にはまだ彼の言葉が響いている。
そうだ。もし年彦が彼女の本来の性格を知っていたら、あんなに愛してくれただろうか?
彼が愛していたのは、ただの扱いやすい都合のいい女に過ぎなかったのだ。
「弁護士は見つけたのか?」
「離婚訴訟に強い弁護士を知ってる。紹介しようか?」
理玖の静かな声が耳元で響いた。どこか探りを入れるような響きが混じっている。
「年彦にバラされても怖くないの?」亜実は横目で彼を見て聞いた。
「せっかく助けてやろうってのに。いらないならいいさ」
理玖の声は淡々としていて、何の感情も読み取れなかった。
突然の親切な申し出に、亜実は少し戸惑った。
「理玖、時々本当に分からなくなるわ。あなた、本当に年彦のこと親友だと思ってる?」
親友の結婚をこれほど必死になって壊そうとする人間を、彼女は初めて見た。