1

「亜実さん、ここ数日はゆっくり休んでください。土曜のインタビューは私が代わりに受けますから」

神谷亜実はアシスタントの声にゆっくりと振り返り、淡々とした口調で答えた。「大丈夫よ。疲れてなんていないわ」

ふと視線を上げたそのとき、少し先にあるジュエリーショップの店内に、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

先日、差出人不明の封筒が届いた。中に入っていたのは、見知らぬ女と肌を重ねる夫の生々しい写真――浮気の事実を否応なく突きつける一枚だった。すぐに私立探偵に依頼して相手の身元を調べさせたところ、小林詩乃という美容系インフルエンサーらしい。

亜実ははっと我に返った。「先に帰って。私は一人で少し見て回るから」

アシスタントを帰らせ、彼女は再び、少し離れた場所にあるジュエリーショップに視線を向けた。

パリッとスーツを着こなした男が、女の腰を引き寄せ、甘く蕩けるような笑みを浮かべていた。

女はわずかに首を仰ぎ、彼がエメラルドのネックレスを首に掛けるのを、素直に受け入れている。

二人は楽しげに言葉を交わし、まるで恋人同士のように寄り添っていた。

亜実は数秒間その光景を見つめ、やがてゆっくりと目を逸らした。

スーツ姿の男は、夫の周防年彦。そして、あの女は――。

見覚えのない顔だった。

けれど、探偵から聞かされた名前が、ふと脳裏に浮かぶ。小林詩乃。

亜実の目頭が熱くなり、心臓がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。そっと視線を落とし、唇を噛みしめたまま、その場に立ち尽くす。

十年……十年間、愛し続けてきた男だ。

それなのに今、亜実はまるで部外者のようにそこに立ち、あの二人の幸せをただ盗み見ているだけだった。

傍から見れば、今をときめく美容系インフルエンサー。 仕事も順調で、隣には惜しみなく愛情を注いでくれる男がいる。

誰が見ても、これ以上ないほどお似合いの二人だった。

そう思った瞬間、胸の奥の痛みがじわじわと広がり、骨の髄まで染み込んでいくようだった。

詩乃はごく普通の出身で、亜実ほどの上品さがあるわけでもない。せいぜい可憐で清楚な印象の女に過ぎない。

ただ――その瞳だけは、驚くほど美しかった。感情をまっすぐに映し出す、澄んだ瞳。

一体どうやって、あの優しかった夫の心を変えたのか。

亜実は今すぐ彼女の前に駆け寄り、そう問いただしたくてたまらなかった。

十年の絆を捨て去り、かつての誓いを裏切らせてまで、突然バズったインフルエンサーに夢中にさせた、その方法を。

気づけば、亜実の目尻から静かに涙が滲んでいた。

亜実が帰宅した頃には、すでに夜九時を回っていた。外では激しい雨が降り続いている。

ドアを開けた途端、玄関で待っていた男が慌てたように立ち上がった。

大きく力強い手が、やや強引に彼女の細い腰を引き寄せる。

年彦は雨に濡れた彼女の髪を見つめ、眉をひそめた。

「亜実、どこに行っていたんだ?こんな時間まで帰らないなんて」

「そうですよ、奥様。旦那様はあまりにご心配で、警察に連絡しようかとおっしゃるほどで……十回以上もお電話をかけていらしたんですよ」 使用人の佐藤富美が歩み寄りながら言った。

年彦は富美からタオルを受け取り、優しい手つきで亜実の髪を拭くと、そのまま冷えきった彼女の手を自分の手で包み込んだ。

「次はちゃんと電話に出てくれ。本当に心配したんだ」

彼に近づいたその瞬間、亜実は彼の体から漂う女性物の香水の匂いに気づいた。甘く、柔らかな香りだった。

彼女は一瞬で現実に引き戻された。

年彦のこの振る舞いは、すべて見せかけに過ぎない。彼はもう、彼女を愛してはいないのだ。

実のところ、写真が送られてきたとき、彼女はまだそれを信じようとはしなかった。

しかし、ショーウィンドウのガラス越しに、二人が並んで立ち、あんなにも楽しそうに笑い合っている姿を目の当たりにしたとき、彼女は自分がまるで、冷たい夜の闇の中から他人の幸せを覗き見ているだけの存在のように思えた。

しばらくして、亜実はようやく重い口を開いた。「買い物に出ていたの。スマホの充電が切れちゃって」

年彦は優しく口元を緩め、振り返って富美に言った。「生姜湯を淹れてくれないか。黒糖を多めにして」

「それから、亜実の好きなものもいくつか用意してくれ。塩分と油は控えめで。最近ダイエット中なんだ」

富美が頷いてその場を離れると、広々としたリビングには二人だけが残された。

年彦は親しげに彼女の肩を抱き、優しい声で言った。「ごめん、怒らないでくれ。さっきは俺が焦りすぎた」

「俺が悪かった。この数日、本当に仕事が忙しくてさ。落ち着いたら、気分転換に旅行でも連れて行くよ」

亜実は顔を上げ、男の底知れぬ漆黒の瞳と視線を合わせた。まるで何かを見透かそうとしているかのようだった。

だが、見つめれば見つめるほど、目の前の男が見知らぬ他人のように思えてくる。

この男を、彼女は嘘偽りのない真心で十年間愛し続けてきた。しかし今日、彼女は思い知らされた――自分は彼のことを何一つ理解していなかったのだと。

「別に怒ってないよ。ただ家にこもりきりで退屈してただけ。気にしないで」

「じゃあ、明日は俺が一緒に買い物に行こう。バッグでも買ってやるよ」 年彦の言葉を聞いた瞬間、亜実は呼吸すら苦しくなり、痛む口元を無理やり引き上げた。

年彦は不思議そうに尋ねた。 「何を笑っているんだ?」

「こんなに優しい旦那様がいるんだもの。寝ていても笑って起きちゃうわ」

「もし何かあるなら、一人で抱え込まずに俺に話してくれ」 亜実は男の目を見つめ、静かに口を開いた。

「ええ、もちろん。私はあなたに隠し事なんてしないもの」

男は彼女の唇の端に軽くキスを落とし、口元の笑みをさらに深めた。

その笑顔は鋭い矢のように、すでに傷だらけの彼女の心を何度も射抜いた。

彼が視線を逸らした隙に、亜実はそっと指先で口元を拭った。そしてバッグから書類を取り出し、彼に差し出す。

「最近、郊外にいい土地を見つけたの。私にプレゼントしてくれない?贈与契約書にサインするだけでいいから」

年彦はそれを受け取ると、何も言わず余白にさっと署名を書き込んだ。そして書類を無造作にテーブルへ置き、どこか焦ったような様子で彼女の首筋にキスをしようとした。

亜実は二歩後ろへ下がり、思わず尋ねた。「中身、見ないの?」

「君が欲しいものなら何でもいい。わざわざ確認する必要なんてないさ」

彼女は書類に視線を落としたまま、自嘲気味に唇を歪めた。

そのとき、突然年彦のスマートフォンが鳴り響き、静寂を破った。

着信の名前を見た瞬間、彼の顔色が変わる。「亜実、仕事の電話だ。ちょっと出てくる」

亜実は黙って頷いた。

足早にベランダへ向かう彼の後ろ姿を、彼女はただ見送った。冴えわたる月光が、その肩に静かに降り注いでいた。

横から見える彼の口元には、わずかに弧を描く笑みが浮かび、その瞳には水のように柔らかな情が宿っている。

亜実は数秒間それを見つめたあと、テーブルの上の離婚協議書を手に取り、静かに二階へ上がった。

それは、年彦の浮気に気づいたときに用意したものだった。当初はまだ迷いもあった。

夜の静けさの中でふと、もし彼が正直に打ち明けてくれたなら、許してしまおうかとさえ思ったこともある。

だが今日――あの甘く優しい光景が、彼女の心の堰を完全に打ち砕いた。

自分を愛してもいない男が、偽善的な優しさを装って隣で眠る。そんな日々を、もう受け入れることはできなかった。

彼女は美しいギフトボックスを取り出し、その中に書類を収め、丁寧に蝶結びを作った。

これから贈る、最高のプレゼントだ。

「亜実、ちょっと急用ができて出かけないといけなくなった。夕食は一緒に食べられない」

申し訳なさそうな声を聞き、彼女はゆっくり振り返る。

彼女の視線は、彼のスマートフォンに釘付けになった。画面には、まだ通話中であることが表示されている。

このわずかな時間さえ、電話を切るのが惜しいというの?

亜実は皮肉げに唇を歪め、彼を見上げた。

彼女の声には、どこまでも優しい響きが滲んでいる。「大丈夫よ。お仕事なら行ってきて。私のことは気にしないで」

年彦は彼女の物分かりのよさに胸を打たれたのか、わずかな罪悪感を滲ませながらスマートフォンをタップし、電話を切った。

「亜実、本当にごめん。帰りにプレゼントを買ってくるよ」

年彦は数歩近づき、手を伸ばして彼女を抱き寄せようとしたが、腕は空を切った。

亜実は身を翻してドレッサーへ向かい、何事もない顔でピアスを外した。

「早く行って。待たせたら悪いわ」

男はそれ以上何も言わず、足早に背を向けて立ち去った。

亜実は鏡越しに彼の口元の笑みを見つめ、胸の奥にチクチクとした痛みを感じた。

あれほど綻びだらけだったのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。

鏡の中の自分を見つめる。血の気を失った白い顔には、どんな感情の揺れも浮かんでいない。

離婚協議書には、すでに署名がある。あとは離婚届に署名させるだけだ。

しかし年彦のあの様子では、両方を手に入れ、このまま関係を続けようとしているに違いない。あの男が自ら離婚届にサインするはずがなかった。

だが残念ながら、彼は自分を買いかぶり、彼女を見くびっていた。

彼を責めるつもりはない。男というものは、結局みな同じだ。

どれほど愛していようと、行き着く先は同じ。

年彦が二股をかけるというのなら、自分だって新しい世界を追い求めればいい。

男がいなければ生きていけないわけではないのだから。

亜実は静かに立ち上がり、荷物をまとめると弁護士に電話をかけた。

「井上先生、離婚協議書にサインをもらいました」

「神谷さん、周防社長が離婚届にもサインすると、確信を持てますか?」

亜実は冷たく笑った。「その心配はいりません。私に考えがあります」

年彦には弱点がある。だからこそ、扱いやすい。

「承知いたしました。 神谷さん、少し早いですが、自由の身になられることをお祝い申し上げます」

2

電話を切ると、亜実のもとに私立探偵からメッセージが届いた。

添付された写真には、車の陰で貪り合う二人の姿が鮮明に写っていた。女の白く滑らかな手が男の首に絡みつき、月光の下でその白さが異様なほど際立っている。

亜実は胸の奥から込み上げる酸っぱいものを飲み込み、震える指で画像をスワイプし続けた。

詩乃は親しげに年彦の腕にすがりついており、その親密さは、まるで彼らこそが長年連れ添った夫婦であるかのようだった。

これまでの様々の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎり、耳の奥では不快な耳鳴りが止まらない。息をするたびに、肺の奥に鋭いガラス片が刺さるような鈍痛が走った。

しばらくして、彼女は親友の柏木寧々に電話をかけた。

「寧々、明日、例のフライトクラブに行く時間は取れる?」

「えっ?あんた、あんなに高所恐怖症だって嫌がってたじゃない」

亜実は自嘲気味に口角を上げた。「……お祝いしたいことがあってね。ちょっと、挑戦してみたくなったの」

「……分かったわ。じゃあ、明日の朝、現地でね」

電話を切ると、彼女はあえて年彦にメッセージを送った。

「あと一週間で私たちの結婚記念日ね。特別なプレゼントを用意しているわ」

その直後。

テーブルに置かれた年彦のタブレットが「ピコン」と音を立てた。

まるで魔が差したかのように近づいてみると、そこには年彦のLINEがログインされたままになっている。

「年彦さん、ホテルの予約は済ませておきました。安心して行ってきてください。結婚記念日の日は、俺がうまくごまかしておきますから」

亜実は痛む口元をわずかに引きつらせた。指先はかすかに震えている。

なるほど。彼は、自分と記念日を過ごすつもりなど最初からなかったのだ。

自分を徹底的に欺こうと必死になっていたのだ。――本当に、ご苦労なことだわ。

亜実は画面を消し、タブレットを無造作に放り投げると、バスルームへ向かった。

翌朝。

寝返りを打った瞬間、隣から伝わる温もりに触れ、彼女ははっと目を覚ました。

年彦はまだ半分眠ったまま彼女を抱き寄せ、かすれた声で言った。「亜実、まだ早いよ。もう少し寝よう」

彼女は鼻で小さく笑い、すっとベッドから抜け出す。

「昨夜は、いつ帰ってきたの?」

「……ん?昨夜の十一時には戻ったよ。君がぐっすり眠っていたから、起こさなかった」

彼の嘘は彼女の心にさざ波を立てたが、すぐにまた凪のように静まった。

心は、とうに痛みに麻痺している。

昨夜、彼女は午前三時まで眠れなかった。もし彼が帰ってきていたなら、気づかないはずがない。

「今日は用事があるから、先に出るわ」

彼女は冷ややかに言い放った。

フライトクラブに到着すると、寧々が満面の笑みで迎えてくれた。

「亜実、何かいいことでもあったの?」

亜実はふっと笑い、落ち着いた様子で言った。「離婚することにしたの」

寧々は雷に打たれたかのように、その場に立ち尽くした。

離婚?

彼女の印象では、亜実は年彦に対してとても寛容で、まるで彼にすべてを捧げているかのように見えていた。

それなのに、突然離婚だなんて――。

「亜実、彼に……何かされたの?」

亜実はソファに腰を下ろし、コーヒーをぐいっと一口飲んだ。

「ううん」

その言葉に、寧々はほっと胸をなで下ろした。

「浮気されただけよ」 亜実は続けて付け加えた。

「浮気?」

寧々は怒りで声を荒らげ、顔いっぱいに憤りを浮かべた。「あんなに尽くしてきたのに、浮気するなんて!最低のクズじゃない!」

亜実の寂しげな表情を見て、寧々はすぐに話題を変え、優しく慰めた。「亜実、落ち込まないで。そんな男、別れて正解よ」

「若くて綺麗で、仕事だって成功してるんだから。男なんていくらでも見つかるわ」

亜実の心がどれほど傷ついているか、寧々には痛いほど分かっていた。なにしろ彼は、彼女が少女の頃からずっと憧れてきた相手だったのだから。

しばらくして、亜実は顔を上げ、ふっと笑った。「悲しくなんかないわ。子供ができる前に、あんなクズの本性が分かって本当によかった!」

そう言うと、彼女はどこか不自然にまばたきをした。誰かに見られているような、そんな熱い視線を感じた気がしたのだ。

視線の先をたどると、漆黒の瞳とぶつかった。

その瞳の持ち主はソファに気怠げに腰掛けており、黒のレザージャケットが彼の大人の色気を引き立てている。

亜実は何度も深呼吸をし、ようやく我に返った。

有馬理玖!

どうして彼がここに?

さっきの寧々との会話……聞かれてないわよね?

彼女は気まずくなり、顔を手で隠しながら小声で寧々に言った。「寧々、行きましょう。別のクラブにするわ」

寧々は事情が分からず、不思議そうに首をかしげる。「え?ここのクラブ、すごくいいのよ。オーナー自身がパイロットで、しかもすっごくイケメンらしいわ!」

今この瞬間、亜実は穴があったら入りたい気分だった。

指の隙間から恐る恐る覗いてみると、ソファに男の姿はすでになかった。

周囲を見回し、振り向いた瞬間――男の胸にぶつかり、思わず痛みに息を呑む。

「俺を探してるのか?」

亜実ははっとして、気まずそうに笑った。「どうしてここに?」

「俺のクラブだぞ。俺がいて何かおかしいか?」

「高所恐怖症のくせに遊びに来るなんて。空の上で恥でもかきたいのか?」

亜実は言葉に詰まった。そういえば以前、彼がフライトクラブを開いたと言っていたのを思い出した。

ただ、彼女はこの分野に興味がなく、深く聞かなかっただけだ。

まさか今日、こんな形で出くわすことになるとは思ってもみなかった。

彼女は少し苛立った口調で言う。「あなたには関係ないでしょ。私はお金を払って遊びに来たの。まさか客を追い返すつもり?」

「もちろん歓迎するさ。今日は俺が乗せてやるよ」

理玖は彼女に断る隙も与えず、それだけ言うと背を向けた。

「亜実、あの人、どうしてあんなにキツい言い方するの? 前に見た時は誰に対しても冷たくて、ほとんど喋らなかったのに」

「変な人なのよ。放っておいて」

二人はクラブのフライトスーツに着替え、それぞれ別のヘリコプターに乗り込んだ。

理玖は頬杖をつき、余裕たっぷりの表情で彼女を見る。「怖くないのか?」

「ビビってお漏らしでもしたら、ヘリ一台弁償してもらう。それか……君自身をくれ?」

「くだらないこと言ってないで、さっさと飛ばして」 亜実は呆れたように唇を尖らせた。

「年彦と喧嘩でもしたのか?」

男はドアを閉め、不意にそう尋ねた。

何気ない素振りを装ってはいるが、視線の端はしっかり彼女を捉えている。知らぬ間に両手を強く握りしめながら、彼女が肯定する言葉を密かに待っていた。

3

「あなたが一番望んでいることじゃないの?」

学生時代、彼ら三人は友人同士だった。しかし、彼女が年彦と付き合い始めてからというもの、理玖の態度は一変した。

彼女が年彦と結婚した際には、さらに多くの皮肉を浴びせられたものだ。

「最初から合わないって言っただろ。お前が勝手に痛い目を見に行ったんだ」

「人生まだまだこれからだってのに、年彦がなんでよりによって、お前みたいなひねくれた女に執着しなきゃいけないんだ?」

この数年、彼のトゲのある物言いには随分と慣れているつもりだったが、まさかここへ来てさらに記録を更新してくるとは思わなかった。

亜実は彼を睨みつけた。「誰がひねくれた女よ」

理玖は口角を上げて笑い、それ以上は何も言わなかった。

なぜか急に、彼のご機嫌が良くなったようだ。

キャビン内が沈黙に包まれる。微かな無重力感に、亜実は思わず拳を握りしめ、掌にはじわりと汗が滲んできた。

ヘリコプターは急上昇と急降下を繰り返し、ジェットコースター以上のスリルがある。

亜実はとうとう耐えきれずに悲鳴を上げ、その合間に彼への悪態をいくつか挟んだ。

「理玖、わざとやってるでしょ!」

男は速度を落とし、少ししゃがれた声で言った。

「もう離婚を切り出したのか?」

亜実は唇を固く結び、答える気配を見せなかった。

何しろ彼と年彦は親友同士だ。裏で告げ口されないとも限らない。

再びキャビンに沈黙が落ちたかと思うと、ヘリが急加速し、彼女は思わず声を上げた。

「切り出したのか?」

悪戯が成功して満足げな隣の男を恨めしそうに睨みつけ、彼女は仕方なく口を開いた。

「彼にはまだ言ってないわ」

その言葉を聞いて、男の表情がわずかに冷たくなったように感じた。

「でも、離婚協議書にはもうサインした」 亜実は落ち着いた声で言った。

その声が波紋を広げ、男の瞳の奥に一瞬だけ喜びの光が閃いたが、それはすぐに消え去った。

「亜実、お前は俺が思っていたよりずっと決断力があるな」

それは貶しているようでもあり、褒めているようでもあった。

亜実は乾いた笑いを漏らし、質問には答えずにはぐらかした。「少し速度を落として。景色が見たいの」

空からの景色は想像以上に美しく、慣れてくると無重力感も消えていった。

「そいつの浮気相手の名前は?」

理玖がふいに口を開き、静寂を破った。

亜実は眉をひそめた。「なんでそんなこと聞くの?横取りでもする気?」

「考えすぎだ。年彦がそこまで骨抜きにされるなんて、お前よりよっぽどいい女なのか見てみたいだけさ」 彼は皮肉たっぷりに言いながらも、その視線はどこか熱を帯びて彼女に注がれている。

亜実は思わず彼に冷ややかな一瞥を投げ、心の中で毒づいた。

理玖は、彼女が年彦と付き合い始めた頃からずっとこうだった。事情を知らない人が見たら、親友を奪われて拗ねているかのように見えるだろう。

彼女の知る限り、彼はゲイではないはずだ。それなのに、どうして二人の関係のこととなると、いつもこんなにトゲがあるのだろう?

「黙ってないと死ぬ病気なの?」

「私がブスだって言いたいわけ?」

「理玖、もし目を治すお金がないなら言いなさいよ。元同級生で、今はかろうじて友達ってよしみで、援助してあげるから」

その言葉に理玖は吹き出し、首をこちらに向けて面白そうに彼女を見つめた。

「年彦は、お前が他人の前でこんなに強気だって知ってるのか? どうしてお前は、俺の前と年彦の前でこうも違うんだ?」

この何年もの間、亜実は年彦の前でずっと優しくて善良で、気が利く妻を演じてきた。だからこそ、彼はあんなにも安心して外でその辺の女を囲っていられるのだ。

彼女を馬鹿にして、手のひらの上で転がしているつもりなのだろう。

「あなただって同じでしょ。他人の前ではクールでストイックなフリをしてるじゃない」

亜実はそう言って唇を軽く噛んだが、頭の中にはまだ彼の言葉が響いている。

そうだ。もし年彦が彼女の本来の性格を知っていたら、あんなに愛してくれただろうか?

彼が愛していたのは、ただの扱いやすい都合のいい女に過ぎなかったのだ。

「弁護士は見つけたのか?」

「離婚訴訟に強い弁護士を知ってる。紹介しようか?」

理玖の静かな声が耳元で響いた。どこか探りを入れるような響きが混じっている。

「年彦にバラされても怖くないの?」亜実は横目で彼を見て聞いた。

「せっかく助けてやろうってのに。いらないならいいさ」

理玖の声は淡々としていて、何の感情も読み取れなかった。

突然の親切な申し出に、亜実は少し戸惑った。

「理玖、時々本当に分からなくなるわ。あなた、本当に年彦のこと親友だと思ってる?」

親友の結婚をこれほど必死になって壊そうとする人間を、彼女は初めて見た。

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夫の親友に、略奪される。

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