2

冷たい床の上で, 私は夜明けまで座っていた. 旅館の従業員たちが, 萌紗が持ってきた大量の荷物を離れに運んでいる音が遠くから聞こえてきた. 新しい女将の座を狙う女と, その子ども. 竜一と義両親の言い分は, 私をまるで不妊の悪女であるかのように仕立て上げていた.

部屋の襖が開く音がし, 私は顔を上げた. 番頭の田中さんが, 心配そうに私を見ていた.

「亮美様, 夜通し起きていらしたのですか? 」彼の声は, 優しさに満ちていた.

私は首を横に振った. 疲労は感じていたが, それ以上に, 心の中の怒りが私を突き動かしていた.

田中さんは, 広間に続く襖に目をやった. 「奥様が, 萌紗さんに離れから出ていってほしいと懇願していましたよ. 亮美様が可哀想だと. 」

私は, 田中さんの言葉に鼻で笑った. 「まさか. 義母は, 萌紗の腹の子を土屋の跡取りにしようと企んでいる. 私を追い出すために, 芝居を打っているだけでしょう. 」

田中さんは, 私の言葉に頷いた. 「私も, そう思います. ただ, 萌紗さんが…」田中さんは, 言葉を選んでいるようだった.

「萌紗さんが, どうしました? 」私の心臓が, 嫌な予感でざわめいた.

「萌紗さん, 奥様に, 『亮美様は, 子供ができないから, 跡取りは私が産むしかない. 亮美様は, 女として欠陥がある』と, 言ったそうです. 」田中さんの顔は, 怒りで歪んでいた.

私の顔から, 血の気が引いた. 全身が, 怒りで震え始めた. 私は, 田中さんの腕を掴んだ. 「本当ですか? 萌紗が, そう言ったのですか? 」

田中さんは, 私の目を見た. 「はい. 奥様は, 怒って萌紗さんに出ていってほしいと懇願していました. しかし, 萌紗さんは…『私は, お子様を授かった身. そんな私を追い出すなんて, 土屋家に何かあったらどうするんですか? 』と, 言ったそうです. 」

私の脳裏に, 萌紗の笑顔が焼き付いた. あの女は, 自分の腹の子を武器に, 私を追い出そうとしている.

「義両親は, 何を言っていたのですか? 」私の声は, 絞り出すようだった.

田中さんは, 俯いた. 「義両親は, 『確かに亮美は, 子供ができない. 仕方ないことだ. 萌紗が跡取りを産んでくれるなら, 多少のことは目をつぶろう』と…」

私の心臓が, まるで氷の塊になったかのように冷たくなった. 彼らは, 私を人間として否定している. 私のすべてを奪おうとしている.

「ふふふ…」私は, 乾いた笑いを漏らした. 彼らは, 私が何もできないとでも思っているのだろうか.

「亮美様…」田中さんが, 心配そうに私の顔を覗き込んだ.

私は, 田中さんをまっすぐ見た. 「田中さん, 今の話を誰にも漏らさないでください. そして, 何事もなかったかのように振る舞ってください. 」

田中さんは, 私の言葉に頷いた. 「承知いたしました. 」

私は, 窓の外を見た. 竜一と萌紗が, 手を繋いで旅館の門を出ていくのが見えた. 二人の顔には, 幸せそうな笑みが浮かんでいた.

私は, 過去を思い出した.

「亮美, お前は, この土屋家の跡取り娘だ. 将来は, 旅館を継ぎ, 土屋の伝統を守っていくんだ. 」父の声が, 私の耳に蘇った.

私は, 幼い頃から, 土屋旅館の一人娘として, 厳しく育てられてきた. 着付け, 茶道, 華道, そして, 旅館経営の知識. すべてを身につけ, 土屋の女将としてふさわしい人間になることを期待されてきた.

そんな私には, 幼馴染がいた. 桐生大雅. 外資系ホテルチェーンの御曹司で, 幼い頃から私を慕ってくれていた. 両親も, 彼との結婚を望んでいた.

「亮美, 大雅くんは, お前のことを大切にしてくれるだろう. お前も, 彼のことを…」母が, 私に優しく語りかけた.

しかし, 当時の私は, 大雅の気持ちに気づかなかった. 私は, 自分の夢に夢中だった. 絵を描くこと. それが, 私のすべてだった.

ある日, 私は偶然, 竜一と出会った. 彼は, 一流大学の経営学部を卒業したばかりの, 若き経営コンサルタントだった. 彼の端正な顔立ち, 知的な雰囲気, そして, 私を惹きつける情熱的な眼差し. 私は, 彼に一目惚れした.

「土屋亮美さん, ですよね? まさか, こんなところで, あなたにお会いできるとは. 」彼の声は, 私の心臓を震わせた.

彼は, 私のことを知っていた. 私の家柄, 私の生い立ち. すべてを知った上で, 彼は私に近づいてきた.

「亮美さんのような美しい女性が, この旅館を継ぐなんて. もったいない. 」彼は, 私の手をそっと取った. 「亮美さんの才能は, もっと大きな舞台で輝くべきだ. 」

彼の言葉は, 私の心を揺さぶった. 私は, 彼に惹かれていった. 私は, 両親の反対を押し切って, 彼との結婚を選んだ.

「亮美, お前は後悔するぞ. あの男は, お前の家柄と財産しか見ていない. 」父の声は, 私を心配していた.

「亮美さん, 彼は…」大雅も, 私を心配していた. 彼の目には, 悲しみが宿っていた.

しかし, 当時の私は, 彼らの言葉に耳を傾けなかった. 私は, 竜一の言葉だけを信じていた.

「亮美, 俺は, お前の夢を応援する. この旅館を, もっと大きくしよう. そして, お前は, 自由に絵を描けばいい. 」竜一の言葉は, 私の心を温かく包み込んだ.

私は, 彼のために, 自分の夢を諦めた. 旅館の経営を学び, 彼の支えになろうと努力した. 彼の両親にも, 尽くした.

しかし, 結婚してからの竜一は, 私に冷たかった. 彼は, 私を責め続けた.

「亮美, お前は女将の器じゃない. お前は, もっと俺に従うべきだ. 」

「亮美, お前は俺の妻なんだから, 俺の言うことを聞け. 」

私は, 彼の言葉に傷つき, 苦しんだ. しかし, 私は彼を愛していた. 彼の言葉を信じ, 彼の望む女になろうと努力した.

そして, 今, 彼は私を裏切った.

私は, 窓の外の桜の木を見つめた. かつて, 大雅と二人で遊んだ桜の木だ.

「亮美, お前は, 本当にそれでいいのか? 」大雅の声が, 私の耳に蘇った.

あの時, 私は大雅の言葉を軽んじた. しかし, 今, 私は彼の言葉の意味を理解した.

私は, 拳を握りしめた. 私の心臓は, もう痛みを感じなかった. あるのは, 冷たい怒りだけだった. 私は, この怒りを, 彼らにぶつけるだろう. 彼らが, 私にしたことのすべてを, 償わせるだろう.

そして, 私は, 彼らに, 私の本当の姿を見せてやるだろう.

3

萌紗が離れに入居してから数日後, 私は自分の部屋に閉じこもっていた. 萌紗は, 毎日律儀に私の部屋を訪ねてきては, 「一緒に夕食をいかがですか? 」と, 甘ったるい声で誘ってきた. そのたびに, 私は「結構です」と, 冷たくあしらった.

ある晩, また萌紗が私の部屋の前に現れた. 私は, ドア越しに彼女の声を聞いていた. 「亮美様, そろそろお食事の時間ですよ. お一人で召し上がるのは, 寂しいでしょう? 」

私は, 返事をしなかった. すると, 萌紗は, 私の部屋のドアの前で, すすり泣き始めた. その声は, わざとらしく, 私を苛立たせた.

「亮美様, どうして私をそんなに嫌うのですか? 私, 何か悪いことをしましたか? 」

「萌紗, どうしたんだ? 」竜一の声が, 廊下から聞こえてきた.

萌紗は, 泣き声を大きくした. 「竜一さん…亮美様が, 私のことを罵倒するんです. 私が悪い子だから, 一緒に食事もしてくれないって…」

私の心臓が, 怒りで爆発しそうになった. この女は, どこまで私を愚弄するつもりだ.

私は, 勢いよくドアを開けた. 萌紗は, 私の顔を見て, 一瞬怯んだ. だが, すぐに涙を流し, 竜一の腕に抱きついた.

「亮美, 一体何をしているんだ! 萌紗をいじめるんじゃない! 」竜一の声は, 怒りに満ちていた.

「いじめているのは, どちらでしょう? 」私の声は, 私自身が驚くほど冷静だった.

萌紗は, 竜一の影に隠れながら, 私に小さな包みを差し出した. 「亮美様, これ…お詫びの品です. どうか, 受け取ってください. 」

その包みの中には, 安物のアクセサリーが入っているのが分かった. 私は, その包みを受け取ろうとしなかった.

「お詫び? 何の? 」私は, 萌紗をまっすぐ見据えた. 「あなたが, 私の夫を奪い, 私の家を乗っ取ろうとしていることの, お詫びですか? 」

萌紗は, 竜一にしがみついた. 「竜一さん…亮美様が, 怖いです. 」

竜一は, 萌紗を抱きしめ, 私を睨んだ. 「亮美, いい加減にしろ! 萌紗は, お前を気遣って…! 」

「気遣い? 私を気遣うのなら, 私の前から消えてみせてはいかが? 」私の言葉は, 萌紗の心を突き刺した.

萌紗は, 竜一の腕から離れ, 私の前に進み出た. 「亮美様…どうして, そんなひどいことを言うんですか? 私, ただ, あなたと仲良くしたいだけなのに…」

彼女は, 再び泣き始めた. その涙は, 私には演技にしか見えなかった.

「亮美! 」竜一の怒声が, 廊下に響き渡った. 彼の右手が, 私の頬を打ち据えた.

私の頬が, 焼けるように熱くなった. 私は, 竜一をまっすぐ見据えた. 彼の目には, 私への憎しみと, 萌紗への庇護が混じっていた.

「お前は, 本当に化け物だ! 萌紗は, 傷ついているんだぞ! この, 冷酷な女! 」竜一の声は, 私を罵倒した.

私は, 彼の言葉に, 心の中で冷笑した. 化け物? 冷酷な女? そうかもしれない. だが, そうさせたのは, あなただ.

私の心の中で, 何かが音を立てて砕け散った. もう, 彼との間に, 何の感情も残っていなかった.

私の右手が, 竜一の頬を打ち据えた. 乾いた音が, 廊下に響き渡った.

竜一は, 驚いたように私を見た. 彼の頬には, 私の手の跡が赤く残っていた.

「化け物? 冷酷な女? 」私の声は, 低く, 冷たい. 「あなたに, そんなことを言う資格はありません. 私は, 土屋亮美. この土屋旅館の女将です. あなたに, 私を殴る権利などない. 」

「亮美! お前, 何を…! 」義母の声が, 興奮気味に聞こえてきた.

義両親が, 廊下に駆けつけてきた. 義母は, 私の頬に手を当てようとした. だが, 私はその手を振り払った.

「亮美様, 申し訳ありません. 竜一が悪かった. どうか, 萌紗ちゃんのためにも…」義母の声は, 私をなだめようとしていた.

「萌紗のため? 」私は, 義母をまっすぐ見据えた. 「あなた方は, 萌紗のためなら, 私をいくらでも傷つけてもいいとでも思っているのですか? 」

「亮美! お前, いい加減にしろ! 」竜一が, 私に掴みかかろうとした.

私は, 彼の目をまっすぐ見据えた. 「あなたに, 私を止めることはできません. もう, すべてが終わったのです. 」

私は, その場を後にした. 私の心は, もう何も感じなかった.

翌朝, 私は早朝から旅館を出た. 従業員たちの目には, 私への同情と, 萌紗への嫌悪が混じっていた.

「亮美様, 萌紗さんが, 昨晩から大声で騒いでいましたよ. 『亮美様は, 私をいじめる. 亮美様は, 私の赤ちゃんを呪っている』と. 」番頭の田中さんが, 私に耳打ちした.

私は, 冷笑した. あの女は, どこまで私を悪者に仕立て上げようとするのだろう.

「亮美様, お体に気をつけて. 何かあれば, すぐに連絡してください. 」田中さんの言葉は, 私を温かく包み込んだ.

私は, 頷いた. 私の心の中には, もう迷いはなかった.

オフィスに着くと, 私は秘書を呼んだ. 「田中さん, 西浜竜一のすべての業務を停止してください. そして, 彼を会社から追放してください. 」

秘書は, 驚いたように私を見た. 「亮美様, それは…」

「彼の経営コンサルタントとしての職務をすべて解除し, 彼の名義で契約されているすべての契約を破棄してください. 彼が, この旅館に関わるすべての権利を剥奪してください. 」私の声は, 冷徹だった.

秘書は, 私の言葉に頷いた. 「承知いたしました. 」

私は, もう迷わない. 彼らに, 私の怒りを見せてやるだろう.

今すぐ全編を読む
作者の『Moboreader』を応援して、素晴らしい物語の続きを楽しみましょう!
全話ロック解除

裏切りの夫と愛人、女将の復讐

第2話
エピソード
カスタマイズ
次の章