1

熱い唇が彼女の肌の隅々を這い、時折甘噛みする。首筋から肩甲骨、そして背中の下まで。

痛みとくすぐったさ、そして痺れるような感覚がゆっくりと全身に広がっていく。

結菜は思わず甘い声を漏らし、男の名前を呼んだ。「明男……」

松本明男は相変わらず優しさの欠片もなく、荒い息を吐きながら熱い吐息を彼女の首筋に吹きかけてくる。まるで飢えた狼のようだ。

バン――!という大きな音で、成瀬結菜は夢から引きずり戻された。ぼんやりした頭で、自分がまだバーにいることを思い出す。

「動くな!一斉摘発だ!」

せっかくのいい夢を邪魔され、結菜が目を開けると、その瞳には不満と怒りが滲んでいた。

しかし次の瞬間、入り口から逆光を背負って入ってきた男と視線がぶつかる。

冷酷な顔立ちの男が威厳ある警察の制服姿で立っていた。その陰鬱な表情からは、周囲を凍らせるような冷気が放たれている。

「隊長、……奥さんです……」

傍らの署員が恐る恐る口を開いた。

明男は目を暗くし、少し唇を開き、冷たい声で命じた。「調べろ」

数秒の驚きの後、結菜はソファから起き上がった。体にかかっていたブランケットが滑り落ち、その下から抜群のプロポーションが露わになる。

今日の結菜は胸元が深く開いたキャミソールドレスを着ており、妖艶な美しさを放っていた。彼女は嘲るような笑みを浮かべる。

1ヶ月間の冷戦。再会がガサ入れの現場で、しかも自分が摘発される側になるとは誰が想像できただろうか。

明男の部下たちは空気を読んで結菜には目もくれず、おざなりに個室の中で酔いつぶれている男女の取り調べを始めた。

結菜は酔いがすっかり覚めていた。もともと大して飲んでいない。ただホテルのベッドが広すぎて眠れなかったから、友人を何人か呼んで飲んでいたのだ。

彼女は猫のように目を細め、男をじっと見つめ、意味深な笑みを浮かべて言った。「松本隊長は刑事じゃなかったの? 今日はどうして風紀の取締りなんてしてるわけ?」

明男が一歩ずつ結菜に近づいてくると、凍てつくような冷気が顔に当たった。

彼は結菜の前に立ち、不機嫌な声で問い詰めた。「どうしてこんなに飲んだんだ?」

結菜の心に突然怒りが湧き上がった。この1ヶ月、彼女のことなど気にも留めなかったくせに、今になってどうしてどうでもいい小言を言う権利があるの?

結菜は拗ねたように言い放った。「私の勝手でしょ」

心の中で本当に言いたかったのは、「松本隊長は外の愛人の心配でもしてれば!」ということだった。

交際1年、結婚3年。この3年間、二人はベタベタ甘い関係だったとは言えない。だが結菜は明男のことを理解していた。彼は冷たい性格で、甘い言葉も言わず、ロマンチックなこともしない。ただベッドの上でだけは、毎回理性を失い、彼女がいないと生きていけないかのように思わせてくれる。

もしずっとこのまま一生を過ごすなら、結菜はそれでもいいと思っていた。彼女はすでに計画を立てていた。あと2年、芸能界で遊び尽くしたら、引退して彼のために子供を産み、家で子育てに専念しようと。

しかし、明男は彼女にその時を待つチャンスを与えなかった。

彼は浮気したのだ。

1ヶ月前、結菜は偶然、明男のポケットにベビー用品を買ったレシートが入っているのを見つけた。

結菜はずっと知っていた。明男が子供好きであることを。しかし、彼は決して彼女に子供を産んでほしいとは言わなかった。結菜は彼が待ってくれているのだと思っていた。しかし調べてみると、明男は複数のベビー用品店で買い物をしているだけでなく、妊婦用の出産準備セットまで買っていたのだ。

結菜は怒り狂った。

その場でその女が誰なのか問い詰めたが、返ってきたのは呆れるほどあっさりした答えだった。「友達の代わりに買ったんだ」

出産準備セットまで買ってあげる友達って何?

わざわざ自分の番号でベビー用品店の会員登録までしている友達って何?

結菜は怒り、問い詰めた。しかし明男は逃げるように仕事を理由にして警察の寮に住み込み始めた。結菜も腹を立て、その夜、荷物をまとめてホテルに転がり込んだ。それが1ヶ月も続いている。

そのことを思い出すと、結菜は鼻の奥がツンとした。

一人の警察官が明男に近づいて言った。 「隊長、こっちは終わりました。……奥さんを先に連れて帰りますか?」

結菜の思考は現実に引き戻された。

これだけ大勢の人がいる手前、あまり醜態を晒したくなくて、彼女は二人の事情を暴露することは避け、淡々と言った。「結構よ。後で翔太が迎えに来るから」

羽田翔太の名前が出なければよかったが、その名前を聞いた途端、明男の顔はすぐに険しくなった。

彼は手を上げ、着ていたコートのボタンを1つ1つ外し、脱いで、結菜の頭からすっぽりとかぶせた。

結菜は不意打ちを食らい、もがいて引き剥がそうとしたが、突然体が宙に浮くのを感じた。見慣れた匂いが彼女をすっぽりと包み込んだ。

明男の冷ややかな声が耳元で響いた。「撮られたくないなら大人しくしてろ」

結菜はむやみに動けなくなった。彼女はただのマイナーな芸能人だが、ネットには何十万人かのファンがいる。これからも顔で稼いでいかなければならない。こんな姿を撮られたら、確かに悪影響だ。

2人がバーの入り口まで歩いていくと、ちょうど駆けつけてきた翔太に出くわした。

明男を見た瞬間、翔太は彼が抱えているのが結菜だと察した。

翔太は結菜のマネージャーで、1日24時間、寝る時以外は常に一緒にいる。二人の事情は翔太が1番よく知っていた。

止めに入ろうとした翔太を、明男が冷酷な視線で射抜いた。

「死にたくなければ失せろ」

翔太は怯えて声も出せず、結菜が明男にパトカーへ押し込まれるのをただ見ているしかなかった。

車は猛スピードで走り出した。まるで今の怒りに満ちた持ち主のようだった。

結菜は頭から被せられたコートを外した。明男の匂いが一気に散っていく。彼女は深呼吸をしてその匂いを名残惜しんだが、どれだけ強烈な愛でも、応えてもらえなければ、いつかは冷める日が来る。

結菜は静かに口を開いた。「松本明男、離婚しましょう……」

2

松本明男は成瀬結菜の言葉が全く聞こえていないようだった。いや、聞こえていたとしても気にしていないのだろう。

しかし、彼女がどれだけの勇気を振り絞ってその言葉を口にしたか、彼は知らない。1文字1文字が棘のように彼女の心に刺さり、血を流していることを。

車はまず警察署へ向かった。明男の自家用車に乗り換えた後も、2人は終始無言だった。

家に着くと、明男が彼女を車から抱き下ろした。結菜は頭がぼんやりとしていて動く気にもなれず、されるがままになっていた。

しかし、淡々とした表情をしたままの男が、家に入るなり部屋に戻る間も惜しんで彼女をソファに押し倒した。血走った目で、嵐のようなキスを結菜に浴びせる。

スカートが引き裂かれ、明男は前触れもなく挿入してきた。先ほどまで見ていた夢の余韻がまだ残っていたため、この行為は結菜の体の空虚さを和らげてくれたが、心はすでにボロボロだった。

明男は夜の半分以上をかけて彼女を激しく抱いた。ソファから寝室、そしてバスルームへと場所を変え、結菜が指1本動かせなくなるまで疲れ果て、泣きながら「ケダモノ」と罵るまで続いた。

明男は彼女の耳を甘噛みし、冷たい声で警告した。「結菜、二度と離婚なんて口にするな」

その時の結菜は眠気と疲労で、彼の言葉の意味を考える余裕などなく、ただ頷くしかなかった。それでようやく明男は彼女を解放した。

明男がシャワーを浴びに行き、辺りが静かになると、結菜はまどろみ始めた。

突然、ピコンと明男のスマホが鳴った。

深夜3時のメッセージ。怪しまない方が無理だ。

彼女はガバッと起き上がり、バスルームの方をちらりと見た。結局、好奇心に勝てず明男のスマホを手に取った。ロックを解除するまでもなく、画面の中央にそのメッセージくっきりと表示されていた。

「明男、今日言い忘れたけど、明日は妊婦健診の日なの。一緒に来てくれる?」

差出人:唐沢恵子。

「妊婦健診」「恵子」。この2つの言葉は、単独でも組み合わせても、結菜にとって致命的な一撃だった。

結菜が明男を猛烈に追いかけていたあの1年、彼には幼い頃から忘れられない本命の女性がいると、複数の人から聞かされていた。それが恵子だった。

彼に心に決めた人がいるなら、自分には見込みがないと結菜も思っていた。いくら自分が顔で売っているとはいえ、1年間追いかけても振り向いてもらえないなら、それは自分のせいじゃない。そう思って諦めようとしていた矢先、なんと明男の方から会いに来たのだ。

あの日、彼女は水に飛び込むシーンの撮影をしていた。そのドラマのヒロインは、放送前から「成瀬結菜にビジュアルで負けている」とネットで叩かれており、結菜に嫌がらせをするチャンスを虎視眈々と狙っていたのだ。

気温が氷点下という寒さの中、結菜は何度も水に飛び込まされた。全身が凍りつき、水面から顔を出す力すら残っていない。自分の体が少しずつ沈んでいくのを感じたその時、大きな手が彼女を抱き寄せた。

明男だった。

後になってマネージャーの羽田翔太から聞いた話だが、あの日の明男は恐ろしく冷たい顔をしており、まるで地獄から来た悪鬼のようだったという。彼は撮影スタッフ全員を指差し、冷酷な声で警告した。「もし彼女の身に何かあれば、お前ら全員を殺人未遂でぶち込んでやる!誰1人として逃がさないからな!」

あの日から、結菜は「本命の女」の存在などどうでもよくなった。彼にはチャンスをあげたのだ。わざわざちょっかいを出してきたのは彼の方なのだから、私が付きまとったって文句は言わせない。

しかし意外なことに、明男の方から交際を申し込んできたのだ。

1年ほど付き合った頃、明男は家族から結婚を急かされ、結菜を実家に連れて行った。

明男の両親は結菜が女優だと聞くや否や、門前払いした。

松本家は政界の由緒ある名家で、絶大な権力を持っている。芸能界で這い上がってきたような女を見下すのは当然だった。明男自身も幼い頃から厳格な教育を受け、常に規律を重んじる真面目な人間だ。結菜はもう別れるしかないと思っていた。ところが彼は、そのまま彼女の手を引いて役所へ向かい、婚姻届を提出したのだ。

後になって結菜は知った。警察の幹部ともなれば、結婚には身辺調査や上司の許可が必要で、無断で入籍すれば面倒なことになるのだと。あんなに真面目な人が、よりによって自分のために、そんなルール違反をしてくれたのだ。

その出来事があったからこそ、結菜は「明男は不器用なだけで、私のことを深く愛してくれている」と信じ続けてきた。だからこそ、この3年間、彼に尽くしてきたのだ。

だが今、恵子からのメッセージを見て、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

結菜は一気に目が覚め、全く眠れなくなってしまった。目を見開いて、2人の寝室を見つめる。

3年という月日は、この部屋を自分の物で満たしていくには十分だった。彼女は、明男の心も同じように満たせていると思っていた。

だが結局、自分はただのピエロでしかなかったのだ。

バスルームの水音が止まり、結菜は無意識に目を閉じて寝たふりをした。

明男がベッドに入ってくるのを感じた。体からは冷気が漂っている。どんなに寒い日でも、この人は必ず冷水シャワーを浴びるのだ。

まるで嫌がらせのように、明男は布団の中で温まっていた結菜をぐいっと抱き寄せた。

その冷たさに結菜はビクッと体を震わせた。もう寝たふりなどしていられない。彼女は怒って罵った。「松本明男!あんたって本当にサイテー!」

明男は後ろから彼女を強く抱きしめ、下腹部を押し当てて耳元で囁いた。「1ヶ月も俺を無視したんだ、これくらいは可愛い罰だろ。これ以上逆らうなら、もっとひどいことだってできるぞ?」

以前の結菜なら、この手のやり取りにまんまと乗せられていた。彼の体に溺れていたのだから仕方ない。だが、先ほどのメッセージを思い出し、この体が別の女とも重なり合っていたのだと想像すると、吐き気がこみ上げてきた。

背後の呼吸が徐々に規則正しくなったが、彼女を抱きしめる腕の力は強いままだった。抜け出すこともできず、結菜はただ抱きしめられたまま、空が白む頃になってようやくウトウトと眠りに落ちた。

目を覚ますと、すっかり日が昇っていた。結菜は力なくベッドに起き上がり、ふとベッドサイドに置かれたピルに目をやった。それはひどく目に余る、皮肉な光景だった。

今の時間、彼は病院で別の女の妊婦健診に付き添っているはずだ。

それもそうだ。本命の彼女との間に子供ができたのだから、自分が妊娠する必要などないのだ。

3

松本明男は普段なら必ず避妊具をつける。成瀬結菜にピルを飲ませるのは体に負担がかかるからと彼自身が言っていたのだ。しかし、昨夜の彼は少し余裕がなかった。だからこそ、わざわざ彼女のために薬を用意していたのだろう。

結菜が腹を立ててそのピルの箱をゴミ箱に投げ捨てたところへ、ちょうど明男がドアを開けて入ってきた。

その光景を見た彼は少し眉をひそめ、無言で歩み寄ってきた。そしてゴミ箱から薬の箱を拾い上げ、封を開けて1錠取り出すと、結菜に差し出した。

「飲んで」

結菜は淡々と彼を見つめ返し、その薬を受け取ることなく言った。「飲みたくない。松本明男、あなたは私が子供を産むのがそんなに怖いの?」

明男はそれを聞いて少し動揺したような目を向け、薬を持った手を無意識にぎゅっと握りしめて尋ねた。「お前、子供が欲しいのか?」

結菜は彼のそんな反応をすべて見透かすように、皮肉めいた口調で言い放った。「どうして? あなたはずっと子供が好きだったじゃない」

「結菜、お前はまだ若い。もし今妊娠したら、仕事は全部ストップしなきゃならない。今受けてるCMや広告の仕事はどうするんだ? 俺たち2人とも仕事が忙しいし、子供の面倒を見る時間なんてどこにもない」

「松本明男、そんな建前ばかり並べないで。私が今聞いてるのはね、もし私が仕事を全部辞めて、あなたのために子供を産むって言ったら、あなたは喜んでくれるの?」

明男は困り果てたような、どうしようもないという目で結菜を見つめていた。

彼は結菜の手を引き寄せ、その手のひらに薬を乗せると、優しくなだめるように言った。「結菜、今はまだその時期じゃない。もう少し時間が欲しいんだ」

結菜の胸の奥に、濡れた綿が詰まったような苦しさが広がり、息が詰まった。彼女は明男の手を振り払い、冷たく吐き捨てた。「もういい。あなたが欲しくないなら、産まない」

そう言って、彼女は手の中の薬をそのまま口に放り込み、水もなしに無理やり飲み込んだ。

胸が張り裂けそうに痛くて、彼女の目から音もなく涙がこぼれ落ちた。

明男は表情を和らげ、彼女の涙を拭おうと手を伸ばしたが、結菜はそれを避けた。ちょうどその時、彼のスマホが着信を知らせた。

空を切った手を行き場なく下ろし、明男は少し迷ったものの、隊からの連絡かもしれないと思い、先に電話に出た。

『もしもし、松本さんでいらっしゃいますか? 奥様が病院の産婦人科で倒れられまして、お手数ですがこちらまでお越しいただけますでしょうか』

明男はスマホを耳から離して画面を見て、ようやくそれが唐沢恵子の番号からの着信だと気づいた。

彼の顔に途端に焦りの色が浮かぶ。そのままクルリと背を向けて外へ向かいながら、電話口の相手に告げた。『すぐに向かいます、少しの間だけ面倒を見てやって……』

ドアが閉まり、彼の声は外へと遮断された。だが結菜は、その場に呆然と立ち尽くしたままだった。

ーー奥様……産婦人科……。

それらは本来、自分と明男の間にあるべき言葉だった。しかし今、その言葉が彼ともう1人の女を繋いでいる。

あの2人にはもう子供がいるというのに、自分は一体何を期待していたのだろう。

胃が激しくかき回されるような感覚に襲われ、結菜はえずきながら洗面所に駆け込んだ。朝ごはんは何も食べていなかったため、吐き出したのはさっき飲み込んだばかりのあのピルだった。

羽田翔太が結菜を迎えに来た時、彼女の真っ青な顔を見てギョッと驚き、心配そうに尋ねた。「松本隊長に殴られたのか?」

結菜は首を横に振ったが、彼に事情を説明する気力すらなかった。ただ手にしていたスーツケースを翔太に押し付け、弱々しい声で言った。

「行こう。残りの荷物は、また時間がある時に何人か連れて手伝いに来て」

翔太は驚愕し、スーツケースを引きずりながら結菜の背中を追って声を上げた。「完全に家を出るつもりか? 昨日の夜帰ってきて寝たのに、まだ仲直りしてないのかよ。 どうしてそんなに拗れてるんだ?」

結菜は今日、どうしても外せない重要なCM撮影を控えていた。車に乗り込むと、すぐに目を温めて腫れを引かせる準備を始めた。

翔太は気が気じゃなかった。結菜がどれほど明男を想っているか、彼は嫌というほど知っているからだ。かつて彼女が明男と付き合い始めた時、事務所が間に入って別れさせようとした。しかしその時、結菜は社長のデスクに契約解除の書類と、違約金代わりの白紙の小切手を叩きつけたほどだったのだ。

「翔太、私、松本明男と離婚する。何も聞かないで、今はまだ話したくないの。誰かにお願いして離婚協議書を用意して。私、財産も何もいらない。身一つで出ていくわ」

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私を見殺しにしたくせに、今さら這いつくばって許しを乞うなんて

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