2

東陵グループ本社、会議室。

外出先から戻った颯真は、会議室に入るなり異様な空気を察知した。

幹部たちの表情はどこかおかしかった。視線は泳ぎ、必死に隠そうとしているが、その瞳の奥に潜む好奇と……。同情のようなものを、彼は見逃さなかった。

顔を曇らせたものの、それらの異変を無視し、会議を始めようとした。

しかし、彼が腰を下ろした途端、秘書の島崎大輝が外から血相を変えて飛び込んできた。

「西園寺社長!」

大輝はスマホを握りしめ、額に大粒の汗を浮かべていた。

颯真は微かに眉を動かし、漆黒の鋭い瞳を島崎に向けた。

長くしなやかな指で机を軽く叩き、生まれ持った威圧感を帯びた声で問うた。

「何事だ?」

島崎はごくりと唾を飲み込み、額の冷や汗を拭い、スマホを颯真に差し出した。

颯真はそれを受け取り、視線を落とした。

その瞳が、見る間に冷たく凍りついていった。

1秒、2秒、3秒……。

時が止まったかのようだった。

「精子無力症」

「西園寺颯真は不能」

「西園寺颯真、寝取られる?!」

「精子無力症で妊娠可能か?」

……

次々と飛び込むトレンドワード。彼の顔色はみるみる深く翳った。

彼は奥歯を噛み締め、頬の筋肉を微かに震わせた。その身から放たれる殺気は凍りつくほど冷徹で、周囲を震え上がらせるほど恐ろしかった。

(美月……!)

(あの女……!)

インタビュー動画を再生し、彼女の口から次々と放たれる言葉を耳にするにつれ、スマホを握る颯真の指の関節は怒りのあまり白く浮き上がった。

突如、彼は立ち上がり、呆然と顔を見合わせる幹部たちを残して会議室を後にした。

残された者たちは困惑したように互いの顔を窺い、視線を交わし合った。

(これで散会ということか?)

(社長には、やはり例の疾患があって、動揺したのか?)

部下たちが自分をどう嘲っているかなど、今の颯真の関心事ではなかった。彼の心にあるのは、美月を殺してやりたいという衝動だけだった。

颯真は急ぎ車を走らせて帰宅した。玄関に入ると、家政婦の中島さんが笑顔で迎えてくれた。「旦那様……」

「美月はどこだ?」

冷徹な声で颯真が問うた。

中島さんは颯真のただならぬ様子に気圧され、言葉を詰まらせながら答えた。「に、2階にいらっしゃいます」

颯真は階段を駆け上がり、2階へと向かった。寝室のドアを荒々しく押し開けると、美月はシャワーを浴び終え、浴室から出てきたところだった。

彼の怒りに満ちた顔を見ても、美月は少しも動じなかった。

彼女は髪を拭きながら颯真を一瞥もせず、その横を通り過ぎようとした。

だが、すれ違いざまに彼に手首を掴まれた。彼は問答無用で彼女を壁に押し付け、冷ややかな瞳で見下ろしながらその顔を見据えた。

「美月、誰の許しを得てあんなデマを流している?」

「俺が不能だ?お前が一番よく知っているだろうが」

そう言う彼の昏い瞳には、すでに情欲の炎が揺らめいていた。

颯真の視線に、美月は背筋が凍る思いがした。

彼が夜の営みに長けていることは嫌というほど知っていた。愛はなくとも、彼は執着に近いほど美月の身体を求めてきた。

結婚してからというもの、彼にその気が向けば、一晩に5、6回は当たり前。彼女が泣きながら許しを請うまで、彼は決して解放してはくれなかったのだ。

全てにおいて彼は常に傲慢で、独善的で、他人の意思など顧みなかった。

ベッドの上でも職場でも、彼女に避妊薬を飲ませることも、愛人を堂々と家に連れ込むことも、彼は彼女の気持ちなどまったく気に留めなかった。

3年間、彼は彼女が従順に耐え忍ぶ姿に慣れきっていた。だからこそ、突然の反抗と反発が、彼をこれほどまでに怒らせたのだろう。

男の尊厳を傷つけられることは、彼にとって断じて許しがたい侮辱なのだ。

そう思うと、美月は自分がどうしようもなく滑稽に思えてきた。

他の女たちが挑発してくるのは我慢できた。だが、颯真に大切に扱われている千夏だけは、どうしても許せなかった。 ましてや、彼が千夏のために策略を巡らせ、離婚を迫ることなど、受け入れられるはずもなかった。

千夏という存在は、彼女の心の奥深くに突き刺さった、1本の棘だったのだ。

拳を握りしめていた両手を緩める。美月は不意に、糸が切れたように力が抜けた。この政略結婚を必死に維持したところで、何を得るというのだろうか。

深く息を吸い込むと、美月は瞳を上げて颯真を真っ直ぐに見据えた。

「デマとは言えないでしょう? お世辞にも上手とは言えなかったもの。持続力もテクニックも普通、体位も変えない。全然気持ちよくなかったわ。ほかの女たちは文句を言わなかったの? それとも、怖くて言えなかっただけかしら?」

彼女の言葉1つ1つが颯真の神経を逆撫でした。人を呑み込みそうなほど陰鬱な眼差しで美月を睨みつけ、奥歯をぎりっと噛みしめたかと思うと、ふっと鼻で笑った。「はっ、美月……。いい度胸だな?」

そう吐き捨て、颯真は美月の顎を強く掴み、無理やり視線を合わせさせた。

それは、この上なく不快だった。

「離して!」

美月が必死に抗うものの、彼は手を緩めない。もみ合ううちに、身体を覆っていたバスタオルが無情にも床へ滑り落ちた。

美月の動きが止まり、 瞬時に彼女の顔は真っ赤に染まった。

タオルを拾い上げる間もなく、唇が奪われた。深く、執拗に。2人の身体が密着し、美月が息苦しさに喘ぐまで、彼は決して唇を離そうとはしなかった。

息を切らして逃げ出そうとする美月を、颯真は逃がさない。その眼差しは丸ごと飲み込もうとしているように鋭い。

「やめて、離して!」恐怖に身を震わせた。3年を共にした妻として、この眼差しが何を意味するか分かっていた。

だが、颯真が彼女を逃がすはずもなかった。片手で細い手首を掴み上げ、頭上で壁に押さえつけ、もう一方の手で後頭部を抱え込み、長い指が半乾きの髪をかき乱した。

容赦なく、荒々しいキスが襲いかかった。

それはあまりに激しく、飢えた獣のように。

抗う術をことごとく封じられ、美月の膝から力が抜けて崩れ落ちた。

「颯……。あ……。んっ……」

喉の奥から漏れる細い声。身体をくねらせて必死に拒もうとするが、颯真は彼女の意思など全く意に介さなかった。

そのまま彼女を抱き上げると、ベッドへと放り投げた。

「颯真!やめて……。したくない……。んっ……」

起き上がろうとする美月の体を押さえ込み、颯真は覆いかぶさった。大きな掌が彼女の肌を容赦なくなぞり、情欲の火を焚きつけていく。抗う術もなく、彼女は最後まで徹底的に貪り尽くされた。

「不能」と言われたことが、よほど癪に障ったのだろうか。以前にも増して強引で、耐えがたいほど激しかった。彼が満足した後の美月は、力尽きたようにぐったりとしていた。 ベッドに横たわったまま、指先1つ動かす気力さえ残っていなかった。

颯真が浴室へ向かった後、美月は天井の暖かな光を放つシャンデリアをぼんやりと見つめていた。脳裏には、これまでの記憶が走馬灯のように浮かんでは消えていった。

3年前、千夏が留学した直後のことだった。藤原家と西園寺家の政略結婚が決まった。颯真は美月が千夏を追い出したと信じ込み、3年にわたる結婚生活の間、美月に冷たく当たり続けた。 「お前が藤原家の令嬢でなければ、西園寺夫人の座は千夏のものだった」――彼は、幾度となくそう言い放ってきた。

様々な手を使い女癖の悪い男を演じ続けてきたのも、全て彼女に離婚させるためだった。

ここ数年、颯真の浮いた噂は絶えることがなく、次々と新しい女が現れた。

兄からは何度も離婚を勧められたが、彼女は幼い頃からの恋心を捨てきれず、耐え続けてきた。

だが、今や千夏が帰国した。彼はどんな手を使ってでも離婚を成立させ、千夏にこの座を渡すつもりだろう。

(彼に切り出されるくらいなら……)

「ザー――」

浴室から出てきた颯真がベッドサイドに歩み寄り、横たわる美月を傲然と見下ろした。彼は髪を拭いながら、冷ややかに嘲笑う。「所詮その程度か。気を引くために、わざと逃げてみせただけだろう」

彼は今日の出来事を、彼女の仕組んだ策略だと決めつけていた。

美月が沈黙を守っていると、颯真は背を向け、悠然と着替えを始めた。そして、淡々とした口調で言う。「今日の友紀……」

「颯真、離婚しましょう」

突然、美月が深く息を吐き出し、心の奥底にずっと押し込めてきたその言葉を、ついに口にしたのだ。

3

その言葉を口にすれば、心が引き裂かれるような痛みに襲われると思っていた。だが不思議なことに、胸の奥は凪いだ水面のように静かで、さざ波1つ立たなかった。

一族の利益のために縛り付けられたこの結婚は、とっくに終わらせるべきだったのだ。

どれほど未練があろうと、もう手放すべき時なのだ。

颯真の顔から、一瞬だけ表情が固まった。

だが、すぐにいつもの平然とした顔つきに戻る。

「それがお前の考えた新しい手口か?」 彼は落ち着き払った動作で、淡々と服を着ている。

美月が本当に離婚したがっているなどとは、信じていなかった。

2人が結婚して以来、西園寺家と藤原家の提携はより強固なものとなった。今やこの婚姻は2人だけの問題では済まされない。

更には、この潮見市で美月が彼に心酔していることを知らない者などいないのだ。

かつて美月は彼と結婚するため、藤原家の令嬢という立場を利用して圧力をかけ、千夏を海外へ追いやった……。

そこまで考えると、颯真の瞳の奥に宿っていたわずかな情熱の火は、完全に消え失せた。

千夏は、彼にとって決して触れてはならない逆鱗だった。

美月は、何があっても千夏にだけは手を出すべきではなかったのだ。

だからこそこの3年間、彼は美月に対して異常なほど冷淡に振る舞ってきた。たとえ西園寺夫人の座を手に入れても、彼女は何者でもないと悟らせるために。

美月が自分と離婚するなどあり得ないことだと、颯真は高を括っていた。

彼女がただ意地を張っているだけだと思っている。

「美月、わがままに何度も付き合えるほど、俺は忍耐強くない。友紀の件でグループに迷惑をかけたのは俺の不手際だが、その件はもう終わりだ。彼女とは二度と……」

「千夏が戻ってきたのね?」

美月がベッドから身を起こす。

静かに颯真を見据えた。整った顔立ちは青ざめていたが、その瞳の底には渦巻く怒りが潜んでいた。

「千夏を呼び戻した上に、友紀を会社に寄越して私に嫌がらせをさせて、離婚に追い込もうとする……。要するに、私に身を引けってことじゃないの?」

嘲るような笑いが漏れた。「颯真、そんなに偽善ぶらないで」

かつての彼女は自分を欺き続けてきた。献身的に尽くしてさえいれば、いつか彼が心を開くと信じて。

彼の好みに合わせて服装もメイクも変えた。胃の弱い彼のために、令嬢育ちの彼女が料理を学び、毎日胃に優しい粥を炊いた。

だが彼は?遊び歩くだけでなく、かつての想い人とも曖昧な関係を続け、愛人を堂々と家に上げ、さらには妊娠検査の結果まで突きつけて彼女に離婚を迫ったのだ。

(もう限界……)

自分に嘘をつくのも、終わりにしよう。

颯真は彼女を愛してなどいない。

永遠に、愛されることなどないのだ。

その瞬間、長年胸の奥に溜め込んできた感情が溢れ出し、目頭が熱くなる。

あらゆる悔しさと悲しみが複雑に絡み合い、まるで蜘蛛の巣のように彼女を捕らえて、身動きを封じ込めた。

「離婚しましょう、颯真。すべて終わりにしましょう」

彼女は必死に感情を押し殺すと、顔を上げて同じ言葉を繰り返した。

幼い頃の想いも、この3年間追いかけ続けた結婚生活も、すべて、この瞬間に解き放つ。

空気が張り詰める。

颯真が険しい顔で鋭い視線を美月に向けた。

「今日のふざけた騒ぎは、全部千夏のせいか?」

(千夏……。なんて親しげな呼び方)

美月の胸の奥にかすかな苦さが広がったが、それ以上に強くこみ上げてきたのは怒りだった。

「ねえ、素直になったらどうなの? ずっと千夏と結婚したかったんでしょ? 彼女のためにおじい様と喧嘩までして、私を形だけの夫人にしたじゃない。離婚すれば願いが叶うわ」

怒りをぶつけた後、美月は強情なほどに真っ直ぐな視線で、颯真を見つめた。

颯真は一瞬言葉に詰まったが、何かを言いかけたその時、電話の着信音が響いた。画面に表示された名を確認すると、彼は迷うことなく背を向け、電話に出た。

『もしもし、千夏……』

颯真は部屋の外へと歩き去り、その声は次第に遠のいていく。

美月は自嘲気味に笑うと、スマホを取り出し、藤原家の顧問弁護士に電話をかけた。

『もしもし、佐藤先生?離婚協議書の作成をお願いします』

美月は弁護士と離婚について打ち合わせを終えると、静かに電話を切った。

この一歩を踏み出すのはさぞかし難しいことだろうと思っていた。

だが、意外なことに、彼女の心には微かな解放感が広がっていた。

(颯真が戻ってきたら、きちんと話をしよう)

――そう心に決めた。

時は刻一刻と過ぎていく。

彼が戻ってくる気配は一向にない。

美月は何かを悟り、上着を羽織って部屋を出た。

案の定、リビングは気味が悪いほど静まり返っている。

颯真は、すでに出て行っていたのだ。

どこへ向かったのか――聞くまでもない。

千夏のところだ。

この瞬間、美月は自分がピエロに思えた。

こんな状況で、きちんと話そうなどと考えていたなんて。

颯真の目に、彼女の存在など最初から映ってはいなかったのだ。

美月は深く息を吸い込み、乱れた心を落ち着かせようとした。だが、胸の奥からは依然として疼くような痛みが伝わってくる。

颯真のこうした振る舞いには、慣れているはずだ。

それでも心は、繰り返される仕打ちに悲鳴を上げていた。

彼がそのつもりなら、もう顔を立ててやる必要などない。

美月は踵を返し、部屋へと戻った。

30分もかからず、わずかな荷物をまとめ終えた。

クローゼットに並ぶ服は一着も持たない。

彼女の好みではないからだ。

すべては颯真に気に入られたい一心で、買い揃えたものばかりだった。

離婚を決意した今、もう誰かに媚びる必要などどこにもない。

これからは、ただの藤原美月だ。

部屋の入り口に立ち、がらんとした寝室を見渡すと、美月の胸に清々しいほどの解放感が湧き上がった。彼女はそのまま、振り返ることもなくその場を後にした。

「あら、奥様!夕食はどうなさいますか?」

「こんな時間に、どちらへ行かれるのですか!」

中島さんは、先ほど颯真が慌ただしく出て行くのを見送ったばかりだった。それなのに、今度は美月までもが家を出ようとしている。

彼女の瞳には、隠しきれない不安が滲んでいた。

中島さんは颯真に雇われた身だ。

だが、結婚してからは、颯真よりも長く美月に寄り添ってきた。

そんな彼女を、無視するわけにはいかない。

「夕食は結構です」

「今日だけじゃなくて、これからも……。ずっと」

言い終えると、美月はそれ以上立ち止まることなく、車に乗り込んだ。

遠ざかっていく車の後ろ姿とエンジン音を見送りながら、中島さんは何事かを悟ったように、呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。

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捨てたのは私の方なのに。~土下座して縋る傲慢CEOの歪んだ求愛~

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