話 1
東陵グループ、社長室。
「藤原さん、私、西園寺社長の子を妊娠したの」
トップ女優の久我友紀は、手にしていた妊娠検査の診断書を藤原美月の目の前に投げつけた。
その言葉を聞いても、美月は顔も上げず、淡々と言い放った。「あなたで42人目よ」
友紀は一瞬ぽかんとし、すぐには言葉を返せなかった。
「な……。なんですって?」
美月は落ち着き払った様子で顔を上げると、手に持っていたペンを机で軽く叩いた。
「私を訪ねてきた女は、あなたで42人目。西園寺家に嫁ぎたいのかしら? あなたのやり方、まだ少し甘いわね」 美月は手元の診断書に目を落とし、鼻で笑った。「この手の芝居はもう飽きるほど見てきたけれど、あなたの演技、お粗末ね」
友紀は二度も主演女優賞に輝いた大女優だ。「演技がお粗末」だなど、屈辱以外の何物でもない!
「美月さん、私のお腹にいるのは間違いなく西園寺颯真社長の子よ! その辺にいる女たちと一緒にしないで!あなたのその席は、いずれ私のものになるわ!」
友紀は怒りに震えて拳を握りしめたが、美月は相変わらず意に介さない。まるで、拳を綿に打ち込んだような気分だった。
美月は椅子に深く背を預けた。こんなやり取りには、もう嫌というほど慣れてしまっていた。
颯真と結婚して3年。彼の数々のスキャンダルや女たちの後始末してきたおかげで、対応の腕ばかりが上達していく。
それが忘れられない初恋の相手だろうが、情熱を燃やした相手だろうが、彼女の前では皆、引き下がるしかなかった。
西園寺夫人の座に座り続けて3年。この地位を誰かに譲るつもりなど、毛頭なかった。
「お話はそれだけ? 久我さん、こんな大々的に東陵グループまで私を訪ねてきて、明日のトップニュースになるのが怖くないのかしら?」
美月は平然とした表情で友紀を見つめた。
友紀は美月の言葉に一瞬言葉を詰まらせた。彼女は公人であり、評価も非常に高い女優だ。颯真が美月に喧嘩を売るだけの後ろ盾を与えていてくれなければ、自分のキャリアを賭けるような真似はしなかっただろう。
友紀はあたりを見回し、監視カメラがないことを確認すると、颯真からかけられた言葉を思い出し、再び強気な態度を取り戻した。
「美月さん、西園寺夫人の座が手に入るなら、女優の名声なんて惜しくないわ! それに――あなたは西園寺社長と結婚して3年も経つのに子供ができないんでしょう?少しは自分の問題を考えたらどうなの? 私は彼と付き合って、たった一ヶ月で妊娠したのよ。物分かりがいいなら、さっさと離婚しなさい。それがあなたのためでもあるんだから!」
友紀は美月を真っ向から見据えた。美月の心が少しも揺るがないとは信じられなかった。
本来の計画では、今頃美月は逆上して取り乱しているはずだった。
しかし、彼女は終始平然としており、何の隙も見せない。
こんな展開では、颯真にどう報告すればいいのか?
すると、美月はただふっと鼻で笑い、眉を上げた。「久我さんが本当にその子を産みたいのなら、どうぞ。西園寺家には隠し子の1人や2人、養う余裕くらいありますから」
「隠し子」という言葉を、美月は極めて平淡に、しかしことさらに耳障りな響きで口にした。
友紀はその言葉に喉を詰まらせ、しばらく口を開くことができなかった。
美月は立ち上がるとデスクを離れ、ゆっくりと傍らのコートを羽織った。「颯真がどんな男かは、私が一番よく分かっているわ。ここ数年、面倒事を持ち込まれたのも一度や二度じゃないもの。でも、次に私に離婚を迫るなら、もう少しマシな手口を考えてちょうだい」
「お引き取りを。それとも、秘書に送らせましょうか?」
美月はわずかに顎を上げ、友紀に退室を促した。
美月のあまりに落ち着き払った態度に、友紀が用意していた台詞も演技プランも、すべて吹き飛んでしまった。
(どうして……。この女、少しも怒らないの?)
世間では、颯真と美月の夫婦仲は冷え切っており、互いに干渉しない仮面夫婦だと周知されている。
しかし、たとえ仮面夫婦だとしても、旦那の「愛人」を前にして、何の反応も示さないなんてことがあるだろうか?
それとも、本当に慣れてしまったというのか?
同じ女として、友紀はふと美月に同情を覚えた。
「ねえ、愛のない結婚を本当にこのまま続けられるの? それとも、お金のためなら何でも受け入れるってわけ?旦那の隠し子を育てることになっても、構わないって言うの?」
友紀は美月を激しく睨みつけながら言い放った。
美月はソファへ歩み寄って腰を下ろすと、自分でお茶を淹れ、淡々と返した。「男が浮気しようと思ったら、どうしたって止められないものよ。だから、男の愛を当てにして結婚するべきじゃないわ。彼が何をもたらしてくれるか、その利益を見るべきなの。利益だけは決して裏切らないから」
「久我さんは芸能界に長年いるのだから、そんな道理、もちろんご存知でしょう?」
その言葉に、友紀はその場で凍りついた。しばらく立ち尽くしていたが、やがて美月を憎々しげに一瞥すると、テーブルの上の診断書をひったくった。「西園寺夫人の座、必ずあなたから奪ってみせるわ!」
捨て台詞を残すと、彼女は踵を返してドアを押し開け、去っていった。
美月は友紀が去った方向をしばらく見つめていた。コーヒーカップを握る手は微かに白く強張り、目の奥が熱く潤んでくるまで、その視線を外すことはなかった。
今の美月の顔には、先ほどまでの冷静さはなかった。その瞳の奥には、隠しきれない自嘲の色がにじんでいた。
「隠し子を育てることも構わないのか?」友紀の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
もちろん、平気なはずがない。
だが、彼女にどんな選択肢があるというのか。
彼女は颯真と共に育ち、彼に恋焦がれてきた。ずっと彼の背中を追いかけ、その視界に入り、自分を見つめてほしいと願い続けてきたのだ。彼と一緒にいたい一心で、最も不得意な広報学を専攻し、家族の反対を押し切ってまで、西園寺家との政略結婚に固執した。
西園寺家を支えるため、昼夜を問わず仕事に没頭し、颯真の冷え切った心を温めようと努めてきた。
しかし、結婚して3年。彼女が得たのは、彼の鳴り止まないスキャンダルと、数え切れないほどの愛人たちからの挑発だけだった。
彼と顔を合わせる回数は指で数えるほどしかなく、会えたとしても、向けられるのは限りない冷淡さと無情な言葉。夫婦の営みでさえ事務的で、型通りのものだった。彼が子供は欲しくないと言うので、彼女はずっと避妊薬を飲み続けてきた。
この3年間、彼女はまるで道具だった。西園寺家の体面を保ち、彼の性的な欲求を処理するための道具。
失望は幾度となく積み重なった。それでも、幼い頃に抱いたあの淡い恋心が彼女を突き動かし、彼からは離れられなかった。
深く息を吸い込み、美月は胸に込み上げる苦い思いを無理やり飲み込んだ。感情を押し殺すと、静かに階下へと向かった。
彼女がロビーに降り立つと、待ち構えていた記者たちが一斉に彼女を取り囲んだ。
「出てきたぞ!藤原美月だ!」
記者たちのマイクが、今にも美月の顔に突き刺さらんばかりに迫り、フラッシュの光が激しく明滅する中、容赦のない質問が次々と浴びせられる。
「藤原さん、最近、西園寺社長と女優の久我友紀さんの熱愛の噂、ご存じですか?」
「友紀さんはすでに西園寺社長のお子さんを妊娠し、そのまま結婚するのではないかとの見方もありますが、この件について一言いただけますか?」
「ご家族のために我慢されるのか、それとも西園寺社長との離婚を選ばれるのか、お考えをお聞かせください」
「西園寺社長とご結婚されて3年になりますが、いまだお子さんがいらっしゃらないことから、不妊ではないかという声も出ています。この点については事実なのでしょうか?」
「西園寺社長との夫婦関係は、すでに破綻していると考えてよろしいのでしょうか?」
「藤原さん、一言いただけませんか?」
美月は唇を固く結んだまま、口を開こうとしない。
次から次へと投げかけられる質問は、どれも鋭利な刃物のようだった。
まるで、美月の傷口に塩を塗り込むかのように。
もとから苛立ちを抱えていた彼女の心は、この瞬間、一気に燃え上がった。
この3年間、颯真のために、何度こうした不祥事の火消しに奔走してきたことか。
しかし、颯真は少しも自重しようとしない。それどころか、こうした騒動を利用して彼女を離婚に追い込もうとしているのだ。
今朝、共通の友人のSNSで目にした投稿が頭をよぎる。颯真の忘れられない女性――橘千夏が帰国した。
(これこそが、彼がなりふり構わず私との離婚を急ぐ理由なのね?)
友紀が会社へ乗り込んできた情報も、彼がマスコミにリークしたに違いない。
颯真の差し金がなければ、これほど多くの記者が東陵グループの敷地内でこれほど好き勝手できるはずがない。
しかし、なぜ?
(私が正真正銘の西園寺夫人なのに、どうしてこんな屈辱を味わわなければならないの? 誰も彼もに、離婚を強いられて……)
美月は拳を固く握りしめた。心の底に押し殺してきた感情が、この瞬間、ついに決壊した。
心の奥底に隠してきた屈辱と苦しみ、そして友紀に浴びせられた言葉の数々。それらが蜘蛛の巣のようにまとわりつき、彼女の心臓を締め付け、息もできないほどに追い詰めていく。
不意に、彼女は顔を上げた。最も近くにいた記者を真っ向から見据えると、艶然と微笑んでみせた。
「颯真は精子無力症なの。それに5分も持たないのよ。浮気の心配をするくらいなら、むしろ寝取られて私に恥をかかせないか心配した方がマシだわ」
この噂を流したのが彼だというのなら、その報いは自分自身で受けてもらうまで。
それはあまりにも予想外の告白だった。
その場の空気が凍りついたように静止した。
(そんなこと、言っていいのか……?)
(精子無力症?)
(5分ももたない?)
(我々にそこまで言っていいのか……?)
一瞬の静寂の後、記者たちは我に返ったように猛烈な勢いでシャッターを切り、美月が車に乗り込んで会社を去る姿を次々と撮影した。そして、このニュースは瞬く間にトレンドのトップに躍り出て、爆発的な注目を集めた。
話 2
東陵グループ本社、会議室。
外出先から戻った颯真は、会議室に入るなり異様な空気を察知した。
幹部たちの表情はどこかおかしかった。視線は泳ぎ、必死に隠そうとしているが、その瞳の奥に潜む好奇と……。同情のようなものを、彼は見逃さなかった。
顔を曇らせたものの、それらの異変を無視し、会議を始めようとした。
しかし、彼が腰を下ろした途端、秘書の島崎大輝が外から血相を変えて飛び込んできた。
「西園寺社長!」
大輝はスマホを握りしめ、額に大粒の汗を浮かべていた。
颯真は微かに眉を動かし、漆黒の鋭い瞳を島崎に向けた。
長くしなやかな指で机を軽く叩き、生まれ持った威圧感を帯びた声で問うた。
「何事だ?」
島崎はごくりと唾を飲み込み、額の冷や汗を拭い、スマホを颯真に差し出した。
颯真はそれを受け取り、視線を落とした。
その瞳が、見る間に冷たく凍りついていった。
1秒、2秒、3秒……。
時が止まったかのようだった。
「精子無力症」
「西園寺颯真は不能」
「西園寺颯真、寝取られる?!」
「精子無力症で妊娠可能か?」
……
次々と飛び込むトレンドワード。彼の顔色はみるみる深く翳った。
彼は奥歯を噛み締め、頬の筋肉を微かに震わせた。その身から放たれる殺気は凍りつくほど冷徹で、周囲を震え上がらせるほど恐ろしかった。
(美月……!)
(あの女……!)
インタビュー動画を再生し、彼女の口から次々と放たれる言葉を耳にするにつれ、スマホを握る颯真の指の関節は怒りのあまり白く浮き上がった。
突如、彼は立ち上がり、呆然と顔を見合わせる幹部たちを残して会議室を後にした。
残された者たちは困惑したように互いの顔を窺い、視線を交わし合った。
(これで散会ということか?)
(社長には、やはり例の疾患があって、動揺したのか?)
部下たちが自分をどう嘲っているかなど、今の颯真の関心事ではなかった。彼の心にあるのは、美月を殺してやりたいという衝動だけだった。
颯真は急ぎ車を走らせて帰宅した。玄関に入ると、家政婦の中島さんが笑顔で迎えてくれた。「旦那様……」
「美月はどこだ?」
冷徹な声で颯真が問うた。
中島さんは颯真のただならぬ様子に気圧され、言葉を詰まらせながら答えた。「に、2階にいらっしゃいます」
颯真は階段を駆け上がり、2階へと向かった。寝室のドアを荒々しく押し開けると、美月はシャワーを浴び終え、浴室から出てきたところだった。
彼の怒りに満ちた顔を見ても、美月は少しも動じなかった。
彼女は髪を拭きながら颯真を一瞥もせず、その横を通り過ぎようとした。
だが、すれ違いざまに彼に手首を掴まれた。彼は問答無用で彼女を壁に押し付け、冷ややかな瞳で見下ろしながらその顔を見据えた。
「美月、誰の許しを得てあんなデマを流している?」
「俺が不能だ?お前が一番よく知っているだろうが」
そう言う彼の昏い瞳には、すでに情欲の炎が揺らめいていた。
颯真の視線に、美月は背筋が凍る思いがした。
彼が夜の営みに長けていることは嫌というほど知っていた。愛はなくとも、彼は執着に近いほど美月の身体を求めてきた。
結婚してからというもの、彼にその気が向けば、一晩に5、6回は当たり前。彼女が泣きながら許しを請うまで、彼は決して解放してはくれなかったのだ。
全てにおいて彼は常に傲慢で、独善的で、他人の意思など顧みなかった。
ベッドの上でも職場でも、彼女に避妊薬を飲ませることも、愛人を堂々と家に連れ込むことも、彼は彼女の気持ちなどまったく気に留めなかった。
3年間、彼は彼女が従順に耐え忍ぶ姿に慣れきっていた。だからこそ、突然の反抗と反発が、彼をこれほどまでに怒らせたのだろう。
男の尊厳を傷つけられることは、彼にとって断じて許しがたい侮辱なのだ。
そう思うと、美月は自分がどうしようもなく滑稽に思えてきた。
他の女たちが挑発してくるのは我慢できた。だが、颯真に大切に扱われている千夏だけは、どうしても許せなかった。 ましてや、彼が千夏のために策略を巡らせ、離婚を迫ることなど、受け入れられるはずもなかった。
千夏という存在は、彼女の心の奥深くに突き刺さった、1本の棘だったのだ。
拳を握りしめていた両手を緩める。美月は不意に、糸が切れたように力が抜けた。この政略結婚を必死に維持したところで、何を得るというのだろうか。
深く息を吸い込むと、美月は瞳を上げて颯真を真っ直ぐに見据えた。
「デマとは言えないでしょう? お世辞にも上手とは言えなかったもの。持続力もテクニックも普通、体位も変えない。全然気持ちよくなかったわ。ほかの女たちは文句を言わなかったの? それとも、怖くて言えなかっただけかしら?」
彼女の言葉1つ1つが颯真の神経を逆撫でした。人を呑み込みそうなほど陰鬱な眼差しで美月を睨みつけ、奥歯をぎりっと噛みしめたかと思うと、ふっと鼻で笑った。「はっ、美月……。いい度胸だな?」
そう吐き捨て、颯真は美月の顎を強く掴み、無理やり視線を合わせさせた。
それは、この上なく不快だった。
「離して!」
美月が必死に抗うものの、彼は手を緩めない。もみ合ううちに、身体を覆っていたバスタオルが無情にも床へ滑り落ちた。
美月の動きが止まり、 瞬時に彼女の顔は真っ赤に染まった。
タオルを拾い上げる間もなく、唇が奪われた。深く、執拗に。2人の身体が密着し、美月が息苦しさに喘ぐまで、彼は決して唇を離そうとはしなかった。
息を切らして逃げ出そうとする美月を、颯真は逃がさない。その眼差しは丸ごと飲み込もうとしているように鋭い。
「やめて、離して!」恐怖に身を震わせた。3年を共にした妻として、この眼差しが何を意味するか分かっていた。
だが、颯真が彼女を逃がすはずもなかった。片手で細い手首を掴み上げ、頭上で壁に押さえつけ、もう一方の手で後頭部を抱え込み、長い指が半乾きの髪をかき乱した。
容赦なく、荒々しいキスが襲いかかった。
それはあまりに激しく、飢えた獣のように。
抗う術をことごとく封じられ、美月の膝から力が抜けて崩れ落ちた。
「颯……。あ……。んっ……」
喉の奥から漏れる細い声。身体をくねらせて必死に拒もうとするが、颯真は彼女の意思など全く意に介さなかった。
そのまま彼女を抱き上げると、ベッドへと放り投げた。
「颯真!やめて……。したくない……。んっ……」
起き上がろうとする美月の体を押さえ込み、颯真は覆いかぶさった。大きな掌が彼女の肌を容赦なくなぞり、情欲の火を焚きつけていく。抗う術もなく、彼女は最後まで徹底的に貪り尽くされた。
「不能」と言われたことが、よほど癪に障ったのだろうか。以前にも増して強引で、耐えがたいほど激しかった。彼が満足した後の美月は、力尽きたようにぐったりとしていた。 ベッドに横たわったまま、指先1つ動かす気力さえ残っていなかった。
颯真が浴室へ向かった後、美月は天井の暖かな光を放つシャンデリアをぼんやりと見つめていた。脳裏には、これまでの記憶が走馬灯のように浮かんでは消えていった。
3年前、千夏が留学した直後のことだった。藤原家と西園寺家の政略結婚が決まった。颯真は美月が千夏を追い出したと信じ込み、3年にわたる結婚生活の間、美月に冷たく当たり続けた。 「お前が藤原家の令嬢でなければ、西園寺夫人の座は千夏のものだった」――彼は、幾度となくそう言い放ってきた。
様々な手を使い女癖の悪い男を演じ続けてきたのも、全て彼女に離婚させるためだった。
ここ数年、颯真の浮いた噂は絶えることがなく、次々と新しい女が現れた。
兄からは何度も離婚を勧められたが、彼女は幼い頃からの恋心を捨てきれず、耐え続けてきた。
だが、今や千夏が帰国した。彼はどんな手を使ってでも離婚を成立させ、千夏にこの座を渡すつもりだろう。
(彼に切り出されるくらいなら……)
「ザー――」
浴室から出てきた颯真がベッドサイドに歩み寄り、横たわる美月を傲然と見下ろした。彼は髪を拭いながら、冷ややかに嘲笑う。「所詮その程度か。気を引くために、わざと逃げてみせただけだろう」
彼は今日の出来事を、彼女の仕組んだ策略だと決めつけていた。
美月が沈黙を守っていると、颯真は背を向け、悠然と着替えを始めた。そして、淡々とした口調で言う。「今日の友紀……」
「颯真、離婚しましょう」
突然、美月が深く息を吐き出し、心の奥底にずっと押し込めてきたその言葉を、ついに口にしたのだ。
話 3
その言葉を口にすれば、心が引き裂かれるような痛みに襲われると思っていた。だが不思議なことに、胸の奥は凪いだ水面のように静かで、さざ波1つ立たなかった。
一族の利益のために縛り付けられたこの結婚は、とっくに終わらせるべきだったのだ。
どれほど未練があろうと、もう手放すべき時なのだ。
颯真の顔から、一瞬だけ表情が固まった。
だが、すぐにいつもの平然とした顔つきに戻る。
「それがお前の考えた新しい手口か?」 彼は落ち着き払った動作で、淡々と服を着ている。
美月が本当に離婚したがっているなどとは、信じていなかった。
2人が結婚して以来、西園寺家と藤原家の提携はより強固なものとなった。今やこの婚姻は2人だけの問題では済まされない。
更には、この潮見市で美月が彼に心酔していることを知らない者などいないのだ。
かつて美月は彼と結婚するため、藤原家の令嬢という立場を利用して圧力をかけ、千夏を海外へ追いやった……。
そこまで考えると、颯真の瞳の奥に宿っていたわずかな情熱の火は、完全に消え失せた。
千夏は、彼にとって決して触れてはならない逆鱗だった。
美月は、何があっても千夏にだけは手を出すべきではなかったのだ。
だからこそこの3年間、彼は美月に対して異常なほど冷淡に振る舞ってきた。たとえ西園寺夫人の座を手に入れても、彼女は何者でもないと悟らせるために。
美月が自分と離婚するなどあり得ないことだと、颯真は高を括っていた。
彼女がただ意地を張っているだけだと思っている。
「美月、わがままに何度も付き合えるほど、俺は忍耐強くない。友紀の件でグループに迷惑をかけたのは俺の不手際だが、その件はもう終わりだ。彼女とは二度と……」
「千夏が戻ってきたのね?」
美月がベッドから身を起こす。
静かに颯真を見据えた。整った顔立ちは青ざめていたが、その瞳の底には渦巻く怒りが潜んでいた。
「千夏を呼び戻した上に、友紀を会社に寄越して私に嫌がらせをさせて、離婚に追い込もうとする……。要するに、私に身を引けってことじゃないの?」
嘲るような笑いが漏れた。「颯真、そんなに偽善ぶらないで」
かつての彼女は自分を欺き続けてきた。献身的に尽くしてさえいれば、いつか彼が心を開くと信じて。
彼の好みに合わせて服装もメイクも変えた。胃の弱い彼のために、令嬢育ちの彼女が料理を学び、毎日胃に優しい粥を炊いた。
だが彼は?遊び歩くだけでなく、かつての想い人とも曖昧な関係を続け、愛人を堂々と家に上げ、さらには妊娠検査の結果まで突きつけて彼女に離婚を迫ったのだ。
(もう限界……)
自分に嘘をつくのも、終わりにしよう。
颯真は彼女を愛してなどいない。
永遠に、愛されることなどないのだ。
その瞬間、長年胸の奥に溜め込んできた感情が溢れ出し、目頭が熱くなる。
あらゆる悔しさと悲しみが複雑に絡み合い、まるで蜘蛛の巣のように彼女を捕らえて、身動きを封じ込めた。
「離婚しましょう、颯真。すべて終わりにしましょう」
彼女は必死に感情を押し殺すと、顔を上げて同じ言葉を繰り返した。
幼い頃の想いも、この3年間追いかけ続けた結婚生活も、すべて、この瞬間に解き放つ。
空気が張り詰める。
颯真が険しい顔で鋭い視線を美月に向けた。
「今日のふざけた騒ぎは、全部千夏のせいか?」
(千夏……。なんて親しげな呼び方)
美月の胸の奥にかすかな苦さが広がったが、それ以上に強くこみ上げてきたのは怒りだった。
「ねえ、素直になったらどうなの? ずっと千夏と結婚したかったんでしょ? 彼女のためにおじい様と喧嘩までして、私を形だけの夫人にしたじゃない。離婚すれば願いが叶うわ」
怒りをぶつけた後、美月は強情なほどに真っ直ぐな視線で、颯真を見つめた。
颯真は一瞬言葉に詰まったが、何かを言いかけたその時、電話の着信音が響いた。画面に表示された名を確認すると、彼は迷うことなく背を向け、電話に出た。
『もしもし、千夏……』
颯真は部屋の外へと歩き去り、その声は次第に遠のいていく。
美月は自嘲気味に笑うと、スマホを取り出し、藤原家の顧問弁護士に電話をかけた。
『もしもし、佐藤先生?離婚協議書の作成をお願いします』
美月は弁護士と離婚について打ち合わせを終えると、静かに電話を切った。
この一歩を踏み出すのはさぞかし難しいことだろうと思っていた。
だが、意外なことに、彼女の心には微かな解放感が広がっていた。
(颯真が戻ってきたら、きちんと話をしよう)
――そう心に決めた。
時は刻一刻と過ぎていく。
彼が戻ってくる気配は一向にない。
美月は何かを悟り、上着を羽織って部屋を出た。
案の定、リビングは気味が悪いほど静まり返っている。
颯真は、すでに出て行っていたのだ。
どこへ向かったのか――聞くまでもない。
千夏のところだ。
この瞬間、美月は自分がピエロに思えた。
こんな状況で、きちんと話そうなどと考えていたなんて。
颯真の目に、彼女の存在など最初から映ってはいなかったのだ。
美月は深く息を吸い込み、乱れた心を落ち着かせようとした。だが、胸の奥からは依然として疼くような痛みが伝わってくる。
颯真のこうした振る舞いには、慣れているはずだ。
それでも心は、繰り返される仕打ちに悲鳴を上げていた。
彼がそのつもりなら、もう顔を立ててやる必要などない。
美月は踵を返し、部屋へと戻った。
30分もかからず、わずかな荷物をまとめ終えた。
クローゼットに並ぶ服は一着も持たない。
彼女の好みではないからだ。
すべては颯真に気に入られたい一心で、買い揃えたものばかりだった。
離婚を決意した今、もう誰かに媚びる必要などどこにもない。
これからは、ただの藤原美月だ。
部屋の入り口に立ち、がらんとした寝室を見渡すと、美月の胸に清々しいほどの解放感が湧き上がった。彼女はそのまま、振り返ることもなくその場を後にした。
「あら、奥様!夕食はどうなさいますか?」
「こんな時間に、どちらへ行かれるのですか!」
中島さんは、先ほど颯真が慌ただしく出て行くのを見送ったばかりだった。それなのに、今度は美月までもが家を出ようとしている。
彼女の瞳には、隠しきれない不安が滲んでいた。
中島さんは颯真に雇われた身だ。
だが、結婚してからは、颯真よりも長く美月に寄り添ってきた。
そんな彼女を、無視するわけにはいかない。
「夕食は結構です」
「今日だけじゃなくて、これからも……。ずっと」
言い終えると、美月はそれ以上立ち止まることなく、車に乗り込んだ。
遠ざかっていく車の後ろ姿とエンジン音を見送りながら、中島さんは何事かを悟ったように、呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。