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右手を失い、愛も失った
右手を失い、愛も失った

右手を失い、愛も失った

78 エピソード
完結
事故で漆芸家としての右手を失い、婚約者の裏切りによって祖父の命と全てを奪われた主人公の再起を描くモダンな復讐劇。タイトル『右手を失い、愛も失った』の通り、絶望の底に突き落とされた彼女の前に現れたのは、外科医の藤岡だった。「必ず道へ戻してみせる」という彼の言葉を糧に、彼女は愛憎渦巻く運命に立ち向かう。人気のromance novelであり、緻密な人間模様が楽しめるweb novelです。愛と再生、そして奪われた誇りを取り戻すための戦いが今、幕を開ける。
『右手を失い、愛も失った』第1話

「もう、以前のようには動かせないでしょう」

医者の声が、麻酔の霧を切り裂いた。

右手。私のすべてだったはずのその場所には、ただ白い包帯の塊があるだけ。

感覚のない、私のものではない何か。

漆芸家としての私の命は、そこで絶たれた。

五年も婚約していた彼、新幸は、私の目を見ようともしなかった。

「君の治療費だ」と彼は言った。「祖父さんは、その借金を抱えて死んだ」。

愛していたはずの男の唇から紡がれる言葉が、私の心臓を凍らせていく。

祖父。私を育ててくれた唯一の家族。

私のせいで?

その絶望に追い打ちをかけたのは、彼のアシスタント、莉代だった。

彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、スマートフォンの画面を私の顔に突きつける。

そこには、私が知らない新幸の顔があった。愛する人に向ける、甘い笑顔。

「事故も、借金も、全部計画よ」彼女は囁く。「先輩を、新幸さんの人生から消すための」。

愛、未来、職人としての命、そして祖父。

すべてを失った。この漆黒の絶望の中で、私は誓った。

彼らに、私という存在を刻みつけてやると。

そんな私の前に、一人の男が現れた。

私の死んだはずの手を見つめる、手の外科医、藤岡先生。

「絶望するにはまだ早い」彼は言った。

「あなたの手は、まだ奇跡を覚えている。私が、あなたを漆芸の道へ必ず戻してみせる」

第1章

琴穂 POV:

結婚式のたびに新幸が「今回は無理だ」と告げる声を聞くのは, もう何度目だろう. 私たちは五年も婚約していた. 漆芸の職人である私にとって, その五年間は, まるで漆が何層にも塗り重ねられていくようだった. 最初は薄く, しかし確実に, 二人の未来の絵が描かれていくものだと信じていた. その絵が, 今やただの汚れた下書きに過ぎなかったと知るのは, もう少し先のことだ.

「琴穂, 少し話があるんだ」

新幸の声はいつも通り穏やかで, 私の心臓は一瞬, 期待に跳ね上がった. けれど, その期待はすぐに冷たい水へと変えられた. 彼の口から出る言葉は, いつも同じだったから.

「また, 延期? 」

私の声は, 自分が思っていたよりもずっと震えていた.

「ああ, すまない. 例の国際コンペの準備で, どうしても手が離せないんだ. 君も職人だからわかるだろう? 」

彼の言葉は, まるで麻酔のように私の感覚を鈍らせる. 私は彼が私の仕事を理解してくれると信じていた. それこそが, 彼が私を愛している証だと. しかし, 麻酔が切れるたびに, 鈍い痛みが私の心を蝕んでいく.

その日は, 私が祖父から譲り受けた漆の工房で, 新しい作品の仕上げをしていた. 集中していたはずなのに, 新幸の言葉が頭から離れない. 繊細な作業中に, カッ, と乾いた音がした. 私は息を呑んだ.

「しまった…」

鑿 (のみ) の刃が滑り, 右手の甲を深く抉った. 鮮血が漆の輝きに吸い込まれていく. 激痛が走り, 思わず膝から崩れ落ちた. 特異体質である私の体は, 漆に触れるとひどくかぶれる. 血と漆が混じり合い, 皮膚がみるみるうちに赤く腫れ上がった.

意識が遠のく中, 私は必死に電話を手に取った. 新幸の番号を探す. 私の心は, 彼だけが私を救ってくれると叫んでいた.

「新幸…助けて…」

私の声はか細く, 途切れがちだった.

「琴穂? どうしたんだ? 随分と声が震えているが」

彼の声は, 遠くで聞こえるようだった.

「手が…漆に…切ってしまって…」

それだけ言うのがやっとだった. 視界がぼやけて, 呼吸が荒くなる.

「分かった, すぐに行く. 動かないで, いいか? 」

彼の言葉に, 私は安堵した. 意識が途切れる寸前, 私は彼が私を愛していると, 彼だけが私の味方だと, そう強く信じていた.

次に私が目を覚ましたのは, 病院のベッドの上だった. 天井の白い光が目に痛い. 隣には新幸が座っていた. その顔には, 疲労と心配の色が浮かんでいた.

「琴穂, 大丈夫か? 目が覚めて良かった」

彼の声を聞くと, 胸の痛みが少し和らいだ. 私はかすれた声で尋ねた.

「祖父は…? 」

新幸は少し間を置いてから答えた.

「大丈夫だよ, 琴穂. 心配ない」

その言葉に, 私は安心した. 祖父は私にとって, この世で最も大切な人だったから.

しかし, 私の右手は包帯でぐるぐる巻きにされ, 感覚が全くなかった. 医師が冷たい声で告げた.

「倉田さん, 右手は残念ながら…もう, 以前のようには動かせないでしょう」

その言葉は, 私の世界を打ち砕いた. 職人にとって命ともいえる右手を失う. それは, 私が生きていく意味を失うことだった. 新幸は, その隣で静かに私の手を見つめていた. 彼の表情は, 悲しんでいるようにも見えたけれど, どこか遠い目をしていて, 私には彼が何を考えているのか分からなかった.

数週間が経ち, 私はリハビリを始めた. 痛みに耐えながら, 指を一本ずつ動かす訓練. けれど, 右手は石のように動かない. ある日, リハビリ室で, 私は偶然, 医師たちの会話を耳にした.

「広岡さんの婚約者, あの優秀な倉田先生の孫娘だろ? まさか, あれほどの重傷になるとは…」

「ああ, 広岡さんもさぞかし困っているだろうな. 結婚式の延期も, もう限界だろうし」

「それにしても, 漆にかぶれる体質なのに, なぜそんな深い傷を負ったんだ? 普通なら, もっと早く気づくはずだろ」

「それが…事故の直前の検査で, 漆アレルギーの数値が一時的に異常に高まっていたらしい. 普通では考えられないほどに. もしかしたら…」

医師たちの会話はそこで途切れた. 私は全身が凍り付くのを感じた. 漆アレルギーの数値が異常に高まっていた? 私がそんな状態だったのなら, 新幸はなぜ私に漆の作業を続けさせたのだろう? いや, 彼が知るはずがない. 私は自分に言い聞かせた.

その日, 新幸は珍しく早く病院に来た. 彼の顔には, 疲労の色が濃く出ていた.

「君の手術のことで, 色々と手配しないといけなくてな. 君の祖父のことも, 心配で…」

彼はそう言って, 私の額に手を置いた. その手は冷たかった. 彼の言葉は, 私を安心させるはずなのに, なぜかざらついた違和感を覚えた.

次の日, 私は病院の廊下で, 新幸が誰かと電話しているのを見た. 彼は少し離れた場所で, 壁に寄りかかっていた. 彼の背中は, 私に背を向けていたけれど, その声は聞こえてきた.

「…莉代, 君のことだから, うまくやってくれると信じているよ. 彼女にはもう, 何もできないから」

莉代? 中山莉代? 新幸のアシスタントの? 私の心臓が, 嫌な予感を覚える. 彼は何を「うまくやってくれる」と言っているのだろう? それに, 「彼女にはもう何もできない」とは, 一体どういう意味だ?

私の混乱は, さらに深まった. 私にとって, 新幸は光だった. 彼が私の右手を失った職人としての私の未来を, きっと支えてくれると信じていた. しかし, その光の裏に, 深い闇があるような気がしてならなかった.

その夜, 私は眠れなかった. 新幸の言葉が頭の中をぐるぐると回る. 「彼女にはもう何もできない」. その言葉が, 私の心に深く突き刺さる. 彼は, 私のことを言っていたのだろうか? まさか. 彼がそんなことを言うはずがない.

私は必死に自分に言い聞かせた. けれど, 一度芽生えた疑念は, まるで漆のように私の心に張り付いて, 剥がれ落ちなかった.

翌朝, 私はリハビリ室で, 中山莉代の姿を見た. 彼女は新幸のアシスタントだが, なぜこんなところに? 彼女は私に気づくと, にこやかに微笑んだ.

「倉田先輩, お体の具合はいかがですか? 広岡先輩, ずっと心配していらっしゃいましたよ」

彼女はそう言ったけれど, その目は一切笑っていなかった. 私の背筋に, 冷たいものが走る. 彼女の言葉は優しいのに, なぜかぞっとするような感覚を覚えた.

その日の夕食後, 新幸は私に, とある書類を差し出した. それは, 私の祖父が所有する工房の土地の権利書だった.

「琴穂, 君の祖父は, 君の手術費用とリハビリ費用を賄うために, この土地を担保に入れたんだ. 君が安心して治療に専念できるようにと…」

新幸はそう言った. 祖父が私のために. 私は胸が締め付けられる思いだった. 祖父は私が生きる理由そのものだった. しかし, 私の心には, どこか違和感が残った. 祖父は, そんなことを私に秘密にするような人ではなかった.

「新幸, 祖父はどこにいるの? 会わせてほしい」

私の問いに, 新幸は目を伏せた.

「祖父は, 今, 安静にしている. 君が心配するから, 会わない方がいいと…」

彼の言葉は, 私をさらに不安にさせた. 祖父が安静に? なぜ? 私は何度も祖父に会いたいと懇願したけれど, 新幸は頑として聞き入れなかった.

その夜, 私は病室の窓から外を眺めた. 漆黒の闇が広がっている. 私の心の中も, 同じように闇に覆われていた. 新幸の言葉, 莉代の不気味な笑顔, そして, 祖父の不在. 点と点が, 私の中で繋がり始めていた. しかし, その繋がりが示す真実が, あまりにも残酷であることに, 私はまだ気づいていなかった.

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