話 2
白川南音は、まるで他人のものを黙って持ち出した盗人のような扱いを受けていた。
「今どこにいる? 雪織にそのネックレスをつけてパーティーに出てもらう約束をしたんだ。 すぐに返してこい!」
入口で招待状を手渡しながら、南音は電話口に冷笑を浮かべて言い放った。「そのネックレスは、私が白川家から持ってきた嫁入り道具よ。 どうして他人に勝手に使わせられるの? それとも朝倉家って、もうそんなに逼迫してるの?妻の持参金まで引っ張り出さなきゃ回らないなんて、情けない話ね」
朝倉奏真は言葉を詰まらせた。
しばしの沈黙のあと、低く重たい声が返ってくる。
彼は厳しい声で言った。 「南音、これが最後の警告だ。 さっさと返せ。俺を本気で怒らせたら、どうなるか分かってるよな」
あの声色は、かつて彼が全ての我慢を打ち捨てたときの合図だった。
続くのはいつも、連絡先の削除とブロック、そして最低一ヶ月のシカト。 南音がどれだけ頭を下げ、声を震わせても、彼の微笑みひとつさえ返ってこなかった。
前世――彼のご機嫌をうかがうことがすべてだった日々を思い返し、南音は内心で吐き気を覚える。
「じゃあ、私からも最後にひとこと言わせてもらうわ」 声に棘を含ませて、彼女は言い放つ。「妻の持参金で、他の女に『贈り物』って――朝倉奏真、君は社長のくせにヒモ気取り 「怒りたいなら好きなだけ怒れば? 病気の、早期発見を祈ってるわ」
言うが早いか、電話を一方的に切った。受話器の向こうで、奏真が歯ぎしりしている気配が手に取るようにわかる。
いつもは彼が電話を切る側だった。南音から切られるなんて、彼にとっては屈辱だったに違いない。
すぐ隣でその様子を見ていた朝倉雪織が、恐る恐る声を上げる。「奏真お兄ちゃん……南音お姉ちゃん、もしかして……私と一緒にオークションに行くのが気に入らなくて、 わざとネックレスを貸してくれなかったのかな……?」
その言葉に、朝倉奏真の怒りはさらに勢いを増し、炎のように燃え上がった。
「またその手か……俺の気を引きたいばかりに、 こんな見え透いた真似をするとは。結婚してまだ一年ちょっとで、白川南音がここまで浅ましい女になるとはな……」吐き捨てるような声には、嘲りと失望が滲んでいた。
南音がネックレスを返す気がないと悟った朝倉雪織は、内心の苛立ちを必死に抑えながら、泣きそうな顔で口を開いた。
「……もう、いいよ。私、宴には行かない。 たかが一本のネックレスのために、南音お姉ちゃんがここまで敵意を向けるなんて……もし本当に私があなたのパートナーとして現れたら、どれだけ取り乱すかわからないし」
「取り乱させておけ 恥をかくのは白川家なんだからな!」
怒鳴ったあとで、奏真はふうっと息を吐き、感情を整えるように雪織の髪をそっと撫でた。「心配するな。君には必ず、エメラルドのネックレスを身に着けさせてやる。今日の会場で、誰よりも美しく、誰よりも注目を集める存在にしてみせる」
その言葉に、雪織の瞳がぱっと輝いた。 「さすが奏真お兄ちゃん……私、やっぱり一番好き!」彼の胸元に顔をうずめ、雪織は嬉しそうに甘えた。
一方その頃、会場に足を踏み入れた白川南音のもとへ、スーツ姿のプロフェッショナルが丁寧に頭を下げながら近づいてきた。
「朝倉夫人、今回のオークションでご出品される品について、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
南音は歩みを止め、ほんの一瞬だけ思案の間を置いたのち、静かに言った。「今回の出品は……朝倉家ではなく、私個人の名義でお願いしたいのですが、 可能かしら?」
マネージャーは一瞬言葉を失い、すぐに表情を戻して丁寧に答えた。「もちろん可能です。 オークションはすべて、出品者様のご意志を最優先とさせていただいております」
南音は軽くうなずくと、首元にかかったエメラルドのネックレスにそっと手を添えた。
「私の出品物は……このネックレスよ」
その言葉に、マネージャーの目が見開かれる。 彼はこの世界で長年オークションを取り仕切ってきたプロフェッショナルだ。そのネックレスがいかほどの価値を持つか、ひと目で理解した。
「奥様……その、ご厚意には心から感謝申し上げます。しかしながら、今回のオークションは主に慈善活動を目的とした場でして、また、これは一ノ瀬家が各界名士との親交を深めるための社交の場でもあります。決して本格的な競売ではないのです」 「このネックレスの素材は極めて希少で、職人の技術も最上級。それに……かなりの年代を経た継承品であることも、拝見すればすぐにわかります。 このような場所で出品されるのは、いささか“宝の持ち腐れ”になってしまうのではと……」
白川南音の唇に、ふっと意味深な笑みが浮かんだ。 もちろん、このネックレスの価値は誰よりも自分が知っている。祖母が嫁入り道具として、特別に誂えてくれた品だ。本来であれば、人前に出すつもりなど毛頭なかった。
だが――前世の記憶が蘇る。朝倉雪織が、注目を集めたいがために彼女の了承も得ず、このネックレスを勝手に出品したのだ。
それを会場の主催者である一ノ瀬家の老夫人が一目で気に入り、その場で最高額で落札。さらに、その縁で朝倉家と一ノ瀬家の提携話が持ち上がり、朝倉家は一気にただの名家から上流の頂点へと駆け上がっていった――。
かつて――このネックレスの本当の持ち主である白川南音が、ただ自分の物を取り戻そうとしただけで、 朝倉奏真から「狂った女」呼ばわりされ、朝倉奏真から「狂った女」呼ばわりされ
その日を境に、彼女は一切の社交の場から姿を消した。
ならば今回は――誰かのために尽くすのではなく、自らの意思で、この手に勝利をつかむ。
「慈善の名のもとに行うのなら、差し出すものには誠意と真心が必要だと思います。それが、きっと一ノ瀬老夫人がこの晩餐会を開かれた本当の目的ではないでしょうか」その一言は、気品と気概をにじませながらも、決して押し付けがましくない。聞いていたマネージャーも、自然と目に敬意の色を浮かべた。
「ただ……ひとつだけ、お願いがあるんです」白川南音は微笑みを添えて言った。 「このネックレスを紹介する際、私自身がモデルとしてステージに上がりたいのです。だって、このネックレスのことを一番よく知っているのは、私ですから」
マネージャーは一瞬目を丸くした。このようなリクエストは通常ルールに反する。だが、そもそも慈善オークション自体が格式ばったものではない。出品者の意向を尊重するのが通例だ。
「承知いたしました。ステージの準備が整いましたら、こちらからご案内させていただきます」
そのやり取りのすべてが、二階の特別室からじっと見つめる二人の目に映っていた。 ひとりは香槟色のスーツに身を包み、胸元のシャツははだけ、鍛えられた胸筋を惜しげもなく覗かせている男。派手で自信満々、まるでステージの主役のような存在感だった。
「すげぇな、白川のお嬢様って、そこまで思い切る? あんな超一級のネックレスまで持ってくるとは。しかも自分がモデルだなんて…… あれを落札したら、否応なしに注目の的だろ?」
そう言って、彼はソファに座るもうひとりの男に視線を送った。その男は半身を影の中に沈め、表情の多くは窺えない 「なあ……彼女、もしかしてお前の祖母さんが、ずっとあのネックレスを欲しがってたこと、知ってるんじゃないのか?」
静かにワインを口に含んだ一ノ瀬 澪は、しばらく黙ったままグラスを揺らし――やがて低く呟いた。 「……彼女、結婚してるはずだろう? なのに、どうして一人で来てる?」
話 3
この話題に触れられた瞬間、如月陽翔の目にいたずらっぽい火が灯った。彼はすぐさま一ノ瀬澪の方へ身を乗り出し、眉をひそめては目配せを繰り返す。
「お前が海外にいた頃のことだから、知らなくても無理ないけどさ――これ、当時の海ノ宮じゃ毎日のように茶飲み話になってたんだぜ」 「朝倉奏真には、まるで宝物みたいに甘やかしてる養妹がいるんだよ。 あの白川南音がバカだったんだ、持参金として資金を丸ごと持って嫁いで、資金繰りに詰まってた朝倉家を救ってやったってのに……」
「それから一年経っても、 宴のたびに奏真が連れて歩くのはいつもその養妹。 朝倉家は何をするにも彼女優先、白川家のお嬢様はただの便利な世話係。嫁というよりは……見えない家政婦扱いだよ。まともな敬意なんて、一ミリもありゃしない」
如月陽翔は肩をすくめ、舌打ちしながら続けた。 「ったく、奏真のやつ、何考えてんだか。 容姿も気品も、どう見たって元・第一名媛の南音の方が格上だろ。 家にあんな美人を置いといて一切触れずに、毎日ベタベタとその……出自も分からん養妹に媚びへつらうなんて、正気の沙汰じゃねえよ」
だが、どれだけ喋っても隣から返事はなかった。不審に思って振り返ると――さっきまでソファに座っていたはずの男の姿は、すでにそこにはなかった。
「おい、ちょっと待てよ、大将! ……って、なんでいきなり消えるんだよ……」
白川南音が署名を終え、会場内の軽食コーナーへ足を向けようとしたそのとき――。背後から響いたのは、腹の底から怒気を含んだ男の声だった。 「白川南音!誰の許可を得て、勝手に一人で宴に来たっていうんだ!」
振り返ると、視界に飛び込んできたのは、華やかすぎるドレスを纏った朝倉雪織。その細い腕をしっかりと絡ませているのは、紛れもなく朝倉奏真だった。 雪織は表向きには気弱で従順な少女のように微笑みながらも、その瞳の奥には、はっきりとした優越感が光っていた。
「奏真お兄ちゃん、南音お姉ちゃんを責めないで。 きっと私があなたのパートナーとして来たのが気に入らなくて、わざと先に来て……困らせたかったんだと思うの」 「だから……」彼女は潤んだ瞳で奏真を見上げ、唇をかすかに震わせた。「……私、帰った方がいいよね? 南音お姉ちゃんがこれ以上不機嫌にならないように」
その言葉に、奏真は冷えた視線を白川南音に投げた。今日の南音は、これまでのような甘いドレスではない。凛としたチャイナドレスが、彼女の引き締まった身体を美しく包み、その立ち姿からは、一時の迷いも見えなかった。
まるでかつて――白川家の名を背負って帝都を魅了した、あの「社交界の華」が目の前に甦ったかのようだった。手が届かぬほど高貴で、そして憎らしいほど気高い。
奏真は鼻で笑い、「こういう場に、あんな気位だけ高い女を同伴させたら……朝倉家の顔に泥を塗ることになるだろう?」言葉には、冷たく鋭い棘があった。
朝倉奏真は、慰めるように雪織の手をそっと叩き、その声は限りなく優しかった。 「子どもの頃から、どんな宴でも俺の隣にいたのは君だった。これからも、唯一のパートナーは君だけだよ」
その一言で、二人の呼吸はぴたりと揃い、息の合ったやりとりの中で、白川南音はあっさりと“その他”に分類され、まるでそこにいないかのように扱われた。
「やれやれ……白川夫人も、なんで毎回こんな場で張り合おうとするのかしらね。 旦那があれだけ養妹に肩入れしてるって分かってるはずなのに……結局、毎回自分が辱められるだけじゃない」周囲にいた客の一人が、小声で呟いた。
だが、当の白川南音は、そんな言葉にも動じることなく、優雅な微笑みを湛えて言った。「ええ、雪織さんが奏真のパートナーなら、私も安心して見ていられるわ」
その柔らかい物腰に、誰もが「あれ、今日は騒がないのか?」と内心で首をかしげた。まさか白川南音が、あの“情熱家”から一転して、穏やかで包容力のある“良妻”の仮面を被るとは――予想だにしなかった。
雪織も一瞬目を見開いた。これはてっきり、奏真に叱られてようやく大人しくなったのだと 胸の内でほくそ笑んだその刹那――南音がふと声のトーンを変えて、さらりと放った。 「少なくとも、外で拾ってきたような女よりは、まだ“清潔”で安心よね」
その一言に、雪織の瞳がギラリと憎悪に染まった。
だが表面上は涙をにじませ、今にも零れ落ちそうな瞳で南音を見上げる。 「南音お姉ちゃん……私、分かってるよ。奏真お兄ちゃんが私に優しいからって、それでずっと私を責めてるんだよね。 私はいいの。 だって南音お姉ちゃんは名家のご令嬢、私みたいなのなんて、きっと見下されても仕方ないもの」 「でも……いくらなんでも、朝倉家をこんなふうに侮辱するのは違うと思うの。 何か言いたいことがあるなら、私に直接ぶつけてくれればいいのに。どうして、こんなに人を傷つける言い方をするの?」
その問いかけに、白川南音の胸の奥では、冷たい笑いが静かに渦を巻いた。
あのとき、朝倉家が没落の危機に瀕していたことを、彼女は誰よりもよく知っている。だからこそ、両家の縁組は世間から「身を落として嫁いだ」と揶揄され、メディアにもそう書き立てられた。 そしてそれこそが、朝倉奏真の心にずっと巣食っていた棘だった。
少しでも“家柄”の話題が出れば、彼は途端に敏感になり、南音が自分を見下していると思い込む。――実際には、ただ彼の劣等感がそう錯覚させているに過ぎない。
だが、その心理を誰よりも巧みに利用しているのが、朝倉雪織だった。いつもそうだ。言い争いになるたび、彼女はすかさず話題を「南音が家柄を盾に人を見下している」にすり替える。すると決まって、奏真の怒りは白川南音に向かうのだった。
今回も、例外ではなかった。 「謝れ!」奏真は怒りを露わにして、南音に向かって声を荒げた。 「前から思ってた。お前は“お姫様気取り”で、何様のつもりだ? だが今日の言動は、もう単なる高慢を超えてる。まるで下品な女だ。 白川家ってのは、そんな風に娘を育てる家だったのか? 百年の名門だって?笑わせるな!」
その目には、もはや警告の色すら浮かんでいた。 「今すぐ雪織に謝れ。そしてその首にかけてるネックレス、彼女に譲れ。 誠意を見せろ。そうすれば……今回のことは考えてやらんでもない」
その口調は、まるで命令だった。
――もしこれが以前の白川南音だったなら、きっと怖気づいて、素直に頭を下げたはずだ。彼の無言の圧に怯え、どんな理不尽も飲み込み、せめて一ヶ月にも及ぶ冷たい沈黙を避けようとしただろう。
だが、今の彼女は違った。あまりにも横暴な言葉を聞いた瞬間、彼女は静かに、けれどはっきりと叫んだ。
「……何ですって? あなた、私に“あの子”に土下座しろって言ってるの!?」