話 2
白石英梨と電話で愛を囁き続ける湊の姿を見つめながら、有栖川詩織は伝えようとしていた言葉を飲み込んだ。
静かに踵を返し、書斎を後にする。
彼にとって、自分は家に住まわせている義理の妹に過ぎない。
どこの大学に行こうが、彼には関係ないことだ。
それなら、わざわざ伝える必要もない。
あと十五日で、私はこの高遠家を出る。
湊の前から、姿を消す。
自室に戻り、ベッドサイドで温かい光を放つトトロのナイトライトを見つめる。
詩織の顔に、一瞬だけ悲しみの色が浮かんだ。
緑の葉の傘をさして小さな女の子を守る、ずんぐりとしたトトロの姿は、かつて自分を庇ってくれた湊の姿そのものだった。
でも、過去は過去だ。
小さくため息をつき、ナイトライトのスイッチを切る。
部屋が、闇に沈んだ。
「行くって決めたんだから、荷造りしなくちゃ」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
クローゼットの上から古いダッフルバッグを引きずり下ろし、壁一面の大きな飾り棚を開ける。
ガラス張りの棚の中には、思い出の品々が並んでいた。
湊が神社で買ってきてくれた合格祈願のお守り。
フランス旅行で彼女のために特別に調合してくれた、「青い海の珊瑚」という名前の香水。
一つ、また一つと、それらをダッフルバッグに詰めていく。
バッグが思い出で満たされていくのとは裏腹に、詩織の心は空っぽになっていくようだった。
まるで、冷たい風が吹き抜ける空洞ができたみたいに。
悲しみを押し殺し、飾り棚の一番下の引き出しを開ける。
中には、黄ばんだ一冊の日記帳があった。
ページをめくると、波乱に満ちた幼少期の、鉛筆で書かれた幼い文字が目に飛び込んできた。
『新しい先生は優しいけど、クラスの子は私のことを疫病神だって言う。お父さんもお母さんも一人ずつで、誰も私を欲しがらないからだって』
あの頃、湊がこの日記を見つけたことを思い出す。
このページを読んだ彼は、優しく彼女の頭を撫でた。
「馬鹿だな、お前は疫病神なんかじゃない。俺の目には、誰よりもキラキラ輝く星に見える」
その日を境に、学校で悪口を言われることはなくなった。
後になって、湊が学校に出向き、その子たちに静かに釘を刺したのだと知った。
彼は、彼なりのやり方で、静かに彼女の子供時代を守ってくれていたのだ。
日記をめくっていくと、鉛筆の文字は次第に整っていく。
どのページにも、湊のことばかりが綴られていた。
ページをめくるたびに、涙で視界が滲む。
最後のページには、高校で文理選択をしたときの、彼からのメモが挟まっていた。
『ちび、文系でも理系でも、大学は横浜市内のところに行け。卒業したら、高遠グループで働けばいい。小さい頃はお前を守ってやった。大人になっても、俺がお前の面倒を見てやる』
一粒の涙が、静かに日記の上に落ち、インクを滲ませた。
詩織は気を取り直し、胸の中に渦巻く複雑な感情を押し殺した。
そして、日記のページを破り始めた。
手紙も、一緒に。
紙が破れる音と共に、湊との思い出が一つ、また一つと消えていくようだった。
破り捨てた紙片をすべてダッフルバッグに放り込み、ジッパーを閉める。
しばらくして、階下から騒がしい声が聞こえてきた。
部屋を出ると、リビングで湊に抱きついている白石英梨の姿が見えた。
彼女の傍らには、スーツケースが置かれている。
詩織の心臓が跳ね、階段の途中で足が凍りついた。
彼女に気づいた英梨は、笑顔で手を振った。
「詩織ちゃん! しばらく泊まることになったの。プレゼント、持ってきたわよ!」
英梨は持っていた華やかな箱を開ける。
「気に入るかしら?」
中には、ピンクのメタルバンドの腕時計が入っていた。
可愛らしく、少しブリティッシュなスタイルだ。
詩織は眉をひそめた。
手を伸ばそうとはしない。
彼女は子供の頃から金属アレルギーだった。
九歳のとき、お手伝いさんが金属のスプーンで食事をさせ、小さな発疹が出ただけで、湊はそのお手伝いさんを即座に解雇した。
彼女の肌に触れる可能性のある金属製品はすべて取り替えさせ、アレルギーの原因になるものは一切近づけさせなかった。
物思いに沈んでいると、湊の声が空気を切り裂いた。
「早く受け取れ。義姉さんの好意を無にするな」
その言葉が、彼女に突き刺さった。
彼の、当たり前のような表情を見つめていると、悲しみの波が押し寄せてくる。
彼は、私への特別扱いをすべて取り上げただけでなく、私のことなんて、すっかり忘れてしまったんだ。
詩織は深く息を吸った。
箱を受け取り、腕時計を手首につける。
「ありがとうございます、お義姉さん。それから……ありがとう、湊さん」
私の決心を、さらに固くしてくれて、ありがとう。
話 3
その夜、白石英梨は高遠湊の部屋で眠った。
二人が恋人同士であることは知っている。
一緒に夜を過ごすのが当たり前だということも。
けれど、真夜中の静寂の中、家の中に漂う曖昧な物音は、詩織を眠らせてはくれなかった。
彼女はまた煙草に火をつけた。
細い指に絡みつく煙を見つめながら、深く吸い込む。
その味は、今の彼女の気持ちのように、苦くて、えぐみがあった。
翌朝、詩織は腫れぼったい目で階下へ降りた。
「詩織ちゃん!」
英梨が声をかけ、彼女をソファに座らせる。
英梨の首筋には、微かに赤い痕が見えた。
「もうすぐお兄さんの誕生日でしょ。パーティーを開きたいんだけど、彼がどんなスタイルが好きか知ってる?」
英梨の質問に、詩織は現実に引き戻された。
かつて、湊と二人で海辺を散歩したときの会話を思い出さずにはいられなかった。
きらきら光る海が好き、波の音が好き、朝日が昇る中、彼と手をつないで砂浜を歩くのが好きだと、彼女は言った。
その日、湊は彼女の手を握り、長い長い時間、一緒に歩いてくれた。
「ちび、お前は海が好きなんだな」と彼は言った。
「じゃあ、これからの俺たちの誕生パーティーは、海辺でやろう。お前が好きなものが、俺の好きなものだ」
あの頃、彼の世界は彼女を中心に回っていた。
今、彼は彼女を避けている。
彼女が好きなものなんて、すべて忘れてしまった。
苦い感情が胸に広がる。
声を取り戻すのに、少し時間がかかった。
「私は……」
彼女が口を開こうとしたとき、湊が歩み寄り、その言葉を遮った。
「俺のことは、俺に聞け」
英梨は彼の腕にしがみつき、甘えた声を出す。
「だって、女の子同士の方が、彼のことをよく知ってると思ったのよ。どうやら、妹さんでも、彼のことはあまり知らないみたいね」
詩織は無理に笑みを作った。
「ええ。本当に、何も」
「お二人でどうぞ。私は行かなきゃ」
苦々しさを押し殺し、彼女は言った。
踵を返して立ち去ろうとしたが、湊の目が暗く光る。
「朝っぱらから、何の用があるんだ?」
彼の冷たい声に、一瞬、心臓が止まった。
まだ、私のすることを気にかけてくれるの?
詩織は正直に答えた。
「今日は、入学手続きの予約があるの」
その言葉を聞いた途端、英梨は驚いた顔をした。
「旅行に行くの? 友達と? それとも、彼氏?」
湊は詩織を睨みつけ、その口調は非難に満ちていた。
「有栖川詩織、お前は高校を卒業したばかりだ。大学が始まる前から、変な連中と付き合うな」
氷のように冷たい叱責は、まるで物理的な打撃のようだった。
説明する気力さえ、奪われてしまう。
沈黙の中、英梨が場を和ませた。
「若い女の子がデートするのは普通よ。湊、そんなに厳しくしないで」
そして彼女は詩織に向き直り、優しく慰めるような声で言った。
「好きな人がいるなら、大胆に愛すべきよ。十八歳は一度きりなんだから。お兄さんの言うことなんて聞かなくていいの」
それから英梨は湊の手を取り、二人で去って行った。
彼らの後ろ姿を見送りながら、詩織はゆっくりと拳を握りしめた。
私に一度しかない十八歳は、もう、高遠湊に捧げてしまった。
あと十四日。
そうすれば、ここを出て行ける。
私の青春を、誰にも気づかれないこの沼地に埋もれさせてたまるものか。
詩織は家を出た。
外は霧が立ち込め、小雨が降っている。
夏だというのに、雨のせいで肌寒かった。
昔は、雨が降るたびに、湊が車で送ってくれた。
「俺のちびは濡らしちゃいけない」と彼は言った。
「俺の腕が、お前のシェルターだ」
でも今は、一人で歩くことに慣れなければならない。
彼女は視線を落とし、傘をさして雨の中へと歩き出した。
手続きを終え、タクシーを呼ぼうとしたとき、スマートフォンの通知に気づいた。
特別な通知。湊のSNSからだった。
指が勝手に動き、それをクリックする。
半年に一度くらいしか投稿しない湊が、新しいステータスを更新していた。
『雨の日は、公表するのにぴったりだ』
写真は、完璧に仕立てられたタキシード姿の彼が、マーメイドラインのウェディングドレスを着た白石英梨を抱きしめているものだった。
彼はカメラに向かって、穏やかに微笑んでいる。
そのシンプルな一文とウェディング写真に、詩織は衝撃を受けた。
すでに赤くなっていた目が、焼けるように熱い。
コメント欄は、祝福の言葉で溢れていた。
お似合いのカップルだ、天が定めた二人だと、誰もが言っていた。
詩織は画面を見つめ、何も感じなかった。
いつもの胸の痛みは、もうそこにはなかった。
彼女は、冷静にコメントを打ち込んだ。
『末永くお幸せに』