話 2
橘 澪 POV:
「一体どういうことだ?」
涼介の声がドアの外まで追いかけてきたが、私は足を止めなかった。
沙耶の軽やかで、見下すような笑い声が彼の後に続いた。
「ああ、彼女のことは気にしないで、涼介。大げさに騒いでるだけよ。それより、約束してくれたモナコ旅行のことだけど…」
彼の足音は追ってこなかった。
もちろん、追ってくるはずがない。
彼はもう彼女のものに戻ったのだ。ずっとそうだったように。
涼しい夜の空気が顔に心地よかった。
四年間、私の胸を押しつぶしていた重荷が、初めて持ち上がった気がした。
静かで、穏やかだった。
私はハンドバッグを握りしめた。
サインされた書類のくっきりとした端が、確かな、心強い存在感を示している。
自由。
彼が帰宅したのは遅い時間だった。
画廊が閉まり、沙耶が望む場所へ連れて行かれたずっと後だ。
私は私たちの寝室で、小さなスーツケースに荷物を詰めていた。
彼は後ろから私を抱きしめ、私の肩に顎を乗せた。
それは慣れ親しんだ仕草で、かつては私を安心させてくれたものだった。
今では、それは檻のように感じられた。
「遅くなってごめん」と彼は私の髪に囁いた。「さーやが大変だったんだ。彼女、すごく罪悪感を感じてて…わかるだろ」
私は答えなかった。
彼はため息をつき、腕の力を強めた。
「まだ今夜のこと、怒ってるのか?」
乾いた、ユーモアのかけらもない笑いが私の唇から漏れた。
「怒ってる?いいえ、涼介。怒ってなんかないわ」
彼は私を自分の方に向かせた。その眉間には混乱のしわが寄っている。
彼は私の涙や、静かな懇願に慣れきっていた。
この穏やかな空虚さにどう対処していいのかわからないのだ。
「じゃあ、どうしたんだ?」
「ただ疲れただけ」と私は言った。彼を通り越し、これから私が去る生活を見つめながら。「慰み者でいることに疲れたの」
「それはフェアじゃない、澪。沙耶との約束は知ってただろ。もう終わったんだ。九回のさよならは終わった。これからは俺たちの番だ」
私の番。
まるで私が、彼がようやくプレイする気になったゲームであるかのように。
「いいえ」と私は言った。声は平坦だった。「終わりよ」
私はハンドバッグから折りたたんだ書類を取り出し、彼に差し出した。
彼はそれを受け取り、法律用語の並んだ文章に目を通した。
私は彼の顔が変わっていくのを見ていた。
混乱が不信に、そして暗く、込み上げる怒りへと変わっていく。
紙が彼の手の中で震えていた。
「なんだこれは?冗談だろ?」
彼は低い、危険な声で問い詰めた。
「一時間前にあなたがサインしたのよ、涼介。あなたは彼女を喜ばせるのに必死で、自分が何に同意しているのかさえ読まなかった」
彼は署名欄を、自分の不注意な走り書きを見つめた。
「彼女が俺を騙したのか」
「そうよ」と私は同意した。「でも、あなたは彼女にそうさせた。いつもそうだった」
何年もの間、私は彼が彼女を擁護するのを聞いてきた。
『彼女はただ繊細なんだ、澪』
『彼女は色々大変だったんだ』
『彼女はそういう意味で言ってるんじゃない』
彼は彼女の残酷さに対して無限の言い訳を用意し、私の痛みに対しては一言の慰めもなかった。
彼は彼女を選んだ。毎回、毎回。
彼は私たちの記念日よりも、私の家族よりも、私の健康よりも、私の仕事よりも、彼女を選んだ。
私がそばにいてと懇願した時も、私が黙っていた時も、彼は彼女を選んだ。
ベッドは整えられていなかった。
私はベッドを整えずに放置したことなど一度もなかった。
それは私たちの生活を定義してきた、小さな家庭的な儀式の一つだった。
また一つの嘘。
その夜、彼は客間で眠った。
翌朝、私は荷造りを続けた。
私の人生は二つのスーツケースに収まった。
この家の他のものはすべて、彼か、あるいはすべての部屋に取り憑いている彼女の亡霊に属しているように感じられた。
クローゼットの奥、宝石箱の中に隠してあったそれを見つけた。
片方だけの、けばけばしいダイヤモンドのイヤリング。沙耶のものだ。
彼女はいつも自分の痕跡を残していく。自分の縄張りを主張するように。
私は、涼介が二回目の結婚記念日にくれた、お揃いのネックレスを手に取った。
当時は重く感じた。義務の鎖のように。
今ではただ安っぽく感じられる。汚れている。
家全体が汚れているように感じられた。
家具の一つ一つ、壁にかけられた絵画の一枚一枚が、私の愚かさの記念碑だった。
私はダイニングテーブルの上に広げられた、新しい画廊の設計図を見た。
これは私のものだ。
私自身の両手で、私自身の才能を見抜く目で築き上げたもの。
それは私の人生の中で、涼介が触れることのできなかった唯一の部分だった。
私は弁護士にテキストメッセージを送り、私と涼介の家、一条グループの不動産帝国を結びつけていたコンサルティング会社を解散させた。
また一つ、繋がりが断ち切られた。
私のスマホが震えた。
友人の杏奈からのメッセージだった。彼女はジャーナリストで、いつも何かを知っている類の人だ。
『今夜の同窓会の募金パーティーに来た方がいいわよ。もしかしたら…色々わかるかも』
私は行くのをやめようと思っていた。
あの笑顔の毒蛇たちの群れに直面することを考えると、肌が粟立った。
しかし、杏奈のメッセージには警告が含まれていた。
沙耶は、もちろんそこにいた。
彼女は取り巻きの輪の中心で、皆が彼女の一言一句に聞き入っている。
まるで獲物を追い詰めたばかりの捕食者のようだった。
「それでね、信じられる?涼介ったら、彼女を道の脇に置き去りにしたのよ」と沙耶は言っていた。その声は最大限のドラマを引き出すように調整されている。「私が怖がっているのを聞いて、耐えられなかったんだって。まっすぐ私のところに来てくれたの。彼はいつも私のヒーローよ」
私が知っている女性、白石さんが夢見るようにため息をついた。
「彼は本当にあなたに献身的よね、沙耶。昔からずっと」
沙耶は私の視線に気づき、小さく、哀れむような笑みを浮かべた。
「あら、澪、あなた。そこにいたのね」
彼女は私の方へ滑るように近づいてきた。彼女の香水は甘ったるく、息が詰まるようだ。
「涼介があなたのことをすごく心配してたわ。彼、あなたが最近…感情的になっていることについて、とても心を痛めているって言ってた」
話 3
橘 澪 POV:
沙耶の言葉が、偽りの同情に満ちて空中に漂った。
彼女は心配する友人の役を完璧に演じきっていた。その表情は、同情心の完璧な仮面だ。
彼女の周りの女性たちは私たちを見ていた。その目は、まるでハゲタカが獲物を狙うかのようだ。
彼女たちの裁くような視線が、鋭く、容赦なく突き刺さるのを感じた。
「昔から涼介と沙耶は特別だったものね」と白石さんが別の女性に大声で言ったが、その言葉は私に向けられたものだった。「子供の頃からよ。誰もが知ってたわ。彼らはソウルメイトなのよ」
沙耶は私の腕に優雅な手を置いた。
「彼女たちの言うことなんて気にしないで、あなた。涼介はあなたのことを気にかけているわ。彼なりにね」
彼女はさらに身を寄せ、声を潜めて共犯者のように囁いた。
「でも、理解してあげないと。いくつかの絆は…どうしても断ち切れないものなのよ」
そして彼女は身を引き、残酷な小さな笑みを唇に浮かべた。
「だって結局、彼のためにあなたを選んだのは、私なんだから」
肺の中の空気が氷に変わった。
これ以上壊れることはないと思っていた私の心が、百万の小さな破片に砕け散ったようだった。
部屋が傾き、群衆のざわめきが耳の中で鈍い轟音に変わっていく。
「なんて言ったの?」
私の声はかろうじて囁きになった。
沙耶の笑みはさらに広がった。彼女は致命的な一撃を与えたことを知っていた。
「あら、やだ、澪。まさか彼が自分であなたを選んだなんて思ってたわけ?私が去った後、彼はめちゃくちゃだったのよ。彼には安定した人が必要だった。誰か…単純で。問題を起こさない人が。あなたは完璧だと思ったわ。あなたは彼の相手をして、一条家の血筋を安泰に保ち、そして私が彼を必要とするときに邪魔にならない」
彼女の言葉は物理的な暴行だった。
私の平静は崩れ去った。
私はよろめきながら後ずさりした。彼女から、彼女の告白の毒々しい真実から離れるために。
私はバルコニーに逃げ込み、冷たい夜の空気を吸い込んだ。手は冷たい石の手すりを握りしめている。
これで全てが腑に落ちた。
私の結婚生活の四年間は、すべてが巧妙に構築された嘘だった。
私は単なる時間稼ぎの駒ではなかった。彼女の病的な、 manipulative なゲームの中で、手ずから選ばれた駒だったのだ。
私は、見て見ぬふりをする、波風を立てない、彼が投げ与えるどんな注意の切れ端にも感謝して受け取る、物静かで安定した妻。
そして私は、その役を完璧に演じてきた。
ウェイターが私の肩を叩いた。
「お客様?中でゲームが始まります。西園寺様がお客様をお呼びです」
私は幽霊のように部屋に戻った。
沙耶は輪の中心に立ち、シャンパンのグラスを手にしている。
「ゲームは簡単よ」と彼女は告げた。「愛のために誰かがしてくれた、最も贅沢なことについての話を共有するの」
白石さんがくすくす笑った。
「沙耶からどうぞ!きっとあなたが一番すごい話を持ってるわ」
沙耶の目が部屋の向こうの私を捉えた。
「そうねえ」と彼女は絹のように滑らかな声で始めた。「私が特定のデザートが食べたいって言っただけで、ディナーのためだけにパリまでプライベートジェットをチャーターしてくれたことがあったわ」
背筋に悪寒が走った。
私はその週末を覚えていた。涼介は私に、シカゴで緊急の、直前のビジネスミーティングがあると告げていた。
「それから」と沙耶は続けた。声に勢いがついていく。「私の誕生日に、私の名前を空に描くために、花火会社を丸ごと買い取ってくれたこともあったわ」
私の血の気が引いた。
彼は私に、それは彼が出席を義務付けられている会社のイベントだと言っていた。彼は三日間留守だった。
彼は私の妹の結婚式をビジネス旅行のために欠席した。
彼は私の父の命日を、取引をまとめるために逃した。
嘘。すべてが。すべて彼女のために。
部屋が回っていた。胃がむかつく。
ここから出なければ。
「それは誰だったの、沙耶?」と誰かが叫んだ。「そのミステリアスな男性は誰?」
沙耶はただ微笑んだ。秘密めいた、意味ありげな表情で。
「彼はもうすぐここに来るわ」
まるで合図したかのように、ボールルームのドアが開いた。
涼介が入ってきた。
彼の目は群衆を見渡し、顔には不安のちらつきが見える。
そして彼は彼女を見た。
彼の肩から緊張が解け、純粋で、混じりけのない安堵の表情に変わった。
彼の視線は沙耶に釘付けになり、まるで部屋に他の誰も存在しないかのようだった。
彼は私にさえ気づかなかった。
私は10フィート離れた場所に立っていたのに、彼にとって私は完全に、全く見えていなかった。
彼はまっすぐ彼女のもとへ歩いていった。
「遅くなってごめん」と彼は言った。声は低く、彼女だけに向けられていた。「会議が長引いて」
私は彼がどこにいたか知っていた。
杏奈が私に写真を送ってきていた。
彼は沙耶の無謀な仲間の一人、ヴィニー・サレルノとの危険なストリートレースに参加していた。
彼は『オメルタ』、神聖な沈黙の掟を破り、ライバルの家からの『ヴェンデッタ』と暴露のリスクを冒していた。すべては彼女への忠誠を証明するためだ。
彼はようやく振り返り、その目が私をかすめた。認識のちらつきがあった。
「ああ。澪。来てたのか」
「帰るわ」と私は言った。声は空虚だった。
「わかった。車を回すよ」
彼は私の言葉をほとんど気にも留めていないようだった。彼の注意はすでに沙耶へと移っている。
「いいえ」と私は言った。声は固かった。「自分で帰るから」
私は彼らを残して歩き去った。
彼らは完璧に見えた。
美しく、毒々しい王子と、その毒々しい王女。
地獄で結ばれたお似合いのカップル。