話 1
私たちの政略結婚には、残酷な条件があった。
夫の涼介は、幼い頃から彼を虜にしている沙耶が考え出した、九つの「忠誠の証」をクリアしなければならなかった。
九回、彼は妻である私よりも、彼女を選ばなければならなかったのだ。
結婚記念日の夜、彼は最後の選択をした。
嵐の中、高速道路の路肩で血を流し、苦しむ私を置き去りにして。
雷が怖い、と彼女が電話してきただけで、彼は彼女のもとへ駆けつけた。
以前にもあったことだ。私の個展のオープニングをすっぽかして、彼女が見た悪夢のために。私の祖母の葬式を抜け出して、都合よく故障した彼女の車のために。
私の人生は、すべて彼らの物語の脚注に過ぎなかった。
後に沙耶が白状したことだが、その役は彼女が私に与えたものだった。
四年間、私はただの慰み者だった。
私の心は氷の塊と化していた。
与えるべき温もりも、打ち砕かれるべき希望も、もう残ってはいない。
私は、ついに終わらせる決心をした。
だから、沙耶が最後の屈辱を与えるために私を自分の画廊に呼び出した時、私の準備はできていた。
私は冷静に見ていた。彼女を喜ばせようと必死な夫が、彼女が目の前に滑らせた書類に、一瞥もせずにサインするのを。
彼は投資契約書にサインしていると思っていた。
その一時間前に、私がファイルに忍ばせた離婚届だとは夢にも思わずに。
第1章
橘 澪 POV:
結婚記念日の夜、夫は血を流す私を高速道路の路肩に置き去りにして、あの女のもとへ向かった。
彼が彼女を選んだのは、これで九回目。
そして、これが最後になる。
フロントガラスを叩きつける雨は、まるで分厚い壁のようだった。
ワイパーは空しく動き続けているが、戦いに負けているのは明らかだ。
鋭い痛みが腹部を走り、私は思わずお腹に手を当てた。
隣で、涼介はハンドルを握りしめている。その指の関節は白くなっていた。
レストランを出てから一言も口を開かないが、彼から放たれる緊張感は物理的な圧力となって、息苦しいほど車内の狭い空間を満たしていく。
その時、彼のスマートフォンが暗い車内を照らした。
画面が彼の顔を青白く、病的な光で浮かび上がらせる。
沙耶。
彼の全身がこわばった。顎の筋肉がぴくりと動く。
彼はコンソールからスマホをひったくると、最初の呼び出し音が鳴り終わる前に親指でスワイプして電話に出た。
「さーや?」
彼の声は低く、切羽詰まっている。
この一時間、私に見せていた冷たさは消え失せ、代わりにねっとりとした甘い気遣いが声に滲んでいた。
その声を聞いて、私の胃は再び、今度はもっと強く締め付けられた。
スピーカーから、彼女の声が聞こえてくる。甲高く、パニックに陥ったような甘えた声。
「涼介、怖いの。雷が…すごく大きくて。眠れないの」
「大丈夫だよ、ベイビー。今すぐ行くから」
彼は一瞬もためらわなかった。
その言葉は自動的に口から出てきた。彼がこれまで千回も交わし、そして守ってきた約束。
私には決して交わしてくれなかった約束。
彼は急ブレーキを踏んだ。
車は濡れたアスファルトの上を滑り、恐ろしい軋み音を立てる。
私たちは人気のない高速道路の路肩に急停車した。
通り過ぎるトラックの赤いテールライトが、雨に濡れた窓ガラス越しに滲んで見える。
「タクシーを拾ってくれ、澪」
彼は私を見ずに言った。
彼の目はすでに暗い道路を探り、彼女のもとへ向かう最短ルートを計算している。
「涼介、お腹が…」
私は言いかけたが、痛みで声が細くなる。
「気分が悪いの」
彼はようやく私の方を向いた。その表情は焦燥と苛立ちに満ちている。
彼はポケットから札束を取り出すと、私の手に押し付けた。
「ほら。これで十分だろ。大丈夫だから」
彼は返事を待たなかった。
エンジンを吹かし、急なUターンをする。その勢いで私は助手席のドアに叩きつけられた。
そして彼は行ってしまった。
彼のヘッドライトが嵐の中に消えていく。彼女のもとへと急いで。
私は轟音の響く暗闇の中に一人取り残された。
手の中に握りしめられたしわくちゃの紙幣が、ゴミのように感じられる。
腹部の痛みなど、胸に広がる冷たく空虚な痛みに比べれば何でもなかった。
これが九回目。九回目のさよなら。
それは、沙耶が私たちの政略結婚を画策した時に考え出した、たちの悪いゲームだった。
彼女は涼介に、彼の忠誠心がまだ自分のものであることを知る必要があると言った。
だから、彼女は九つの試練を考え出した。
彼が妻である私と彼女の間で、選択を迫られる九つの瞬間。
彼が九回、揺るぎない忠誠を証明して初めて、彼女は彼を「解放」し、私の本当の夫になることを許すという。
私は馬鹿だった。
これを乗り越えさえすればいい、そうすれば私たちの生活が始まる、という彼の言葉を信じてしまった、世間知らずで希望に満ちた愚か者。
私たちの生活が始まることなんて、決してなかった。
これが、終わり。
私は車からよろめき出た。
雨が瞬く間に私の髪と薄いドレスの生地を濡らしていく。
冷たい金属に身を寄せながら、私は砂利の上に嘔吐した。ついに腹部の痙攣が限界に達したのだ。
こみ上げてくる吐き気は、決して私のものにはならない男を待ち続けた四年間の無駄な歳月に対する、身を切るような嗚咽そのものだった。
すべてが嘘だった。
私たちの結婚も、私たちの家も、私たちが築いていると思っていた生活も。
それはただの待機期間。沙耶が彼を取り戻したいと決めるまで、彼が快適に待つための場所だった。
そして私は、痛みを突き抜けるほどの明晰さで悟った。
すべては沙耶が仕組んだことだったのだと。
私の人生は、彼女と涼介の物語の脚注に過ぎなかった。
私たちの結婚は、単なる時間稼ぎの駒だった。
私は他のさよならを思い出した。
私の最初の大きな個展のオープニングの夜、沙耶が悪夢を見たと電話してきた。彼は去った。
私の祖母の葬式の日、沙耶の車が都合よく一時間も離れた場所で故障した。彼は去った。
私が高熱で意識が朦朧としていた時。彼は去った。沙耶が母親への誕生日プレゼントを選ぶのを手伝ってほしいと言ったから。
私の心は、胸の中で氷の塊になったようだった。
与えるべき温もりはもうない。打ち砕かれるべき希望もない。
ただ…空っぽだった。
この日が来ることはわかっていた。
私は準備をしていた。
私の画廊に、新しいウィングのための投資ポートフォリオの中に紛れて、一つのマニラフォルダがある。
それには、沙耶が涼介にサインさせたいと思っていた提案書が入っていた。
美術品の購入という「合法的な見せかけ」を通して、彼らの財産を結びつけるためのものだ。
彼女はあまりにも傲慢で、彼を支配していることに自信を持ちすぎていたため、フォルダの中の他の書類には目も通していなかった。
だが、私は読んでいた。
そして、私自身の書類を一枚、追加しておいた。
離婚届だ。
一時間後、彼女からのテキストメッセージが私のスマホに表示された。
『画廊で会いましょう。涼介からあなたにサプライズがあるわ』
それが何かはわかっていた。
彼女は私の目の前で、彼に投資契約書にサインさせるつもりなのだ。
最後の屈辱の儀式。
いいわ。好きにさせてあげましょう。
私が中に入ると、沙耶は悲劇の女王のように椅子に身を預けていた。
涼介は彼女の隣に立ち、罪悪感と苛立ちが混じった表情を浮かべている。
「澪」と沙耶が言った。その声は偽りの同情に満ちている。「本当にごめんなさい。彼にはあなたと一緒にいるべきだと言ったのだけど、どうしても私のところに来ると言って聞かなくて」
涼介はフォルダをテーブルの向こうから私の方へ押しやった。
「沙耶が、君の画廊に投資するのが、埋め合わせにいい方法だと思ってる」
彼は私と目を合わせようとしない。
ただ最後のページを指さした。
「ここにサインしてくれ」
彼は自分が何にサインしているのかさえ見ていなかった。
私が小さく、きれいに「×」印をつけた線の上に、ただ自分の名前を走り書きしただけだ。
沙耶は微笑んだ。勝利に満ちた、毒々しい唇の歪み。
彼女はサインされた書類を手に取り、軽く振ってみせた。
「はい、これで全部終わり。あなたは自由よ、涼介」
だが、彼女の目は私に向けられていた。
その目に宿る勝利の光は、鋭く、残酷だった。
私自身の心は、胸の中で静かに死んでいた。
何も感じなかった。本当に、何も。
「おめでとう、沙耶」と私は言った。声は平坦だった。「あなたの勝ちよ」
涼介は混乱した様子だった。
「何が勝ちなんだ?澪、何の話をしてるんだ?」
私は彼に答えなかった。
私は束の中から、公証済みの離婚届を取り出し、きれいに折りたたんでハンドバッグに入れた。
そして振り返り、ドアに向かって歩き出した。
四年間分の私の魂が宿る、真っ白な画廊に二人を残して。
話 2
橘 澪 POV:
「一体どういうことだ?」
涼介の声がドアの外まで追いかけてきたが、私は足を止めなかった。
沙耶の軽やかで、見下すような笑い声が彼の後に続いた。
「ああ、彼女のことは気にしないで、涼介。大げさに騒いでるだけよ。それより、約束してくれたモナコ旅行のことだけど…」
彼の足音は追ってこなかった。
もちろん、追ってくるはずがない。
彼はもう彼女のものに戻ったのだ。ずっとそうだったように。
涼しい夜の空気が顔に心地よかった。
四年間、私の胸を押しつぶしていた重荷が、初めて持ち上がった気がした。
静かで、穏やかだった。
私はハンドバッグを握りしめた。
サインされた書類のくっきりとした端が、確かな、心強い存在感を示している。
自由。
彼が帰宅したのは遅い時間だった。
画廊が閉まり、沙耶が望む場所へ連れて行かれたずっと後だ。
私は私たちの寝室で、小さなスーツケースに荷物を詰めていた。
彼は後ろから私を抱きしめ、私の肩に顎を乗せた。
それは慣れ親しんだ仕草で、かつては私を安心させてくれたものだった。
今では、それは檻のように感じられた。
「遅くなってごめん」と彼は私の髪に囁いた。「さーやが大変だったんだ。彼女、すごく罪悪感を感じてて…わかるだろ」
私は答えなかった。
彼はため息をつき、腕の力を強めた。
「まだ今夜のこと、怒ってるのか?」
乾いた、ユーモアのかけらもない笑いが私の唇から漏れた。
「怒ってる?いいえ、涼介。怒ってなんかないわ」
彼は私を自分の方に向かせた。その眉間には混乱のしわが寄っている。
彼は私の涙や、静かな懇願に慣れきっていた。
この穏やかな空虚さにどう対処していいのかわからないのだ。
「じゃあ、どうしたんだ?」
「ただ疲れただけ」と私は言った。彼を通り越し、これから私が去る生活を見つめながら。「慰み者でいることに疲れたの」
「それはフェアじゃない、澪。沙耶との約束は知ってただろ。もう終わったんだ。九回のさよならは終わった。これからは俺たちの番だ」
私の番。
まるで私が、彼がようやくプレイする気になったゲームであるかのように。
「いいえ」と私は言った。声は平坦だった。「終わりよ」
私はハンドバッグから折りたたんだ書類を取り出し、彼に差し出した。
彼はそれを受け取り、法律用語の並んだ文章に目を通した。
私は彼の顔が変わっていくのを見ていた。
混乱が不信に、そして暗く、込み上げる怒りへと変わっていく。
紙が彼の手の中で震えていた。
「なんだこれは?冗談だろ?」
彼は低い、危険な声で問い詰めた。
「一時間前にあなたがサインしたのよ、涼介。あなたは彼女を喜ばせるのに必死で、自分が何に同意しているのかさえ読まなかった」
彼は署名欄を、自分の不注意な走り書きを見つめた。
「彼女が俺を騙したのか」
「そうよ」と私は同意した。「でも、あなたは彼女にそうさせた。いつもそうだった」
何年もの間、私は彼が彼女を擁護するのを聞いてきた。
『彼女はただ繊細なんだ、澪』
『彼女は色々大変だったんだ』
『彼女はそういう意味で言ってるんじゃない』
彼は彼女の残酷さに対して無限の言い訳を用意し、私の痛みに対しては一言の慰めもなかった。
彼は彼女を選んだ。毎回、毎回。
彼は私たちの記念日よりも、私の家族よりも、私の健康よりも、私の仕事よりも、彼女を選んだ。
私がそばにいてと懇願した時も、私が黙っていた時も、彼は彼女を選んだ。
ベッドは整えられていなかった。
私はベッドを整えずに放置したことなど一度もなかった。
それは私たちの生活を定義してきた、小さな家庭的な儀式の一つだった。
また一つの嘘。
その夜、彼は客間で眠った。
翌朝、私は荷造りを続けた。
私の人生は二つのスーツケースに収まった。
この家の他のものはすべて、彼か、あるいはすべての部屋に取り憑いている彼女の亡霊に属しているように感じられた。
クローゼットの奥、宝石箱の中に隠してあったそれを見つけた。
片方だけの、けばけばしいダイヤモンドのイヤリング。沙耶のものだ。
彼女はいつも自分の痕跡を残していく。自分の縄張りを主張するように。
私は、涼介が二回目の結婚記念日にくれた、お揃いのネックレスを手に取った。
当時は重く感じた。義務の鎖のように。
今ではただ安っぽく感じられる。汚れている。
家全体が汚れているように感じられた。
家具の一つ一つ、壁にかけられた絵画の一枚一枚が、私の愚かさの記念碑だった。
私はダイニングテーブルの上に広げられた、新しい画廊の設計図を見た。
これは私のものだ。
私自身の両手で、私自身の才能を見抜く目で築き上げたもの。
それは私の人生の中で、涼介が触れることのできなかった唯一の部分だった。
私は弁護士にテキストメッセージを送り、私と涼介の家、一条グループの不動産帝国を結びつけていたコンサルティング会社を解散させた。
また一つ、繋がりが断ち切られた。
私のスマホが震えた。
友人の杏奈からのメッセージだった。彼女はジャーナリストで、いつも何かを知っている類の人だ。
『今夜の同窓会の募金パーティーに来た方がいいわよ。もしかしたら…色々わかるかも』
私は行くのをやめようと思っていた。
あの笑顔の毒蛇たちの群れに直面することを考えると、肌が粟立った。
しかし、杏奈のメッセージには警告が含まれていた。
沙耶は、もちろんそこにいた。
彼女は取り巻きの輪の中心で、皆が彼女の一言一句に聞き入っている。
まるで獲物を追い詰めたばかりの捕食者のようだった。
「それでね、信じられる?涼介ったら、彼女を道の脇に置き去りにしたのよ」と沙耶は言っていた。その声は最大限のドラマを引き出すように調整されている。「私が怖がっているのを聞いて、耐えられなかったんだって。まっすぐ私のところに来てくれたの。彼はいつも私のヒーローよ」
私が知っている女性、白石さんが夢見るようにため息をついた。
「彼は本当にあなたに献身的よね、沙耶。昔からずっと」
沙耶は私の視線に気づき、小さく、哀れむような笑みを浮かべた。
「あら、澪、あなた。そこにいたのね」
彼女は私の方へ滑るように近づいてきた。彼女の香水は甘ったるく、息が詰まるようだ。
「涼介があなたのことをすごく心配してたわ。彼、あなたが最近…感情的になっていることについて、とても心を痛めているって言ってた」
話 3
橘 澪 POV:
沙耶の言葉が、偽りの同情に満ちて空中に漂った。
彼女は心配する友人の役を完璧に演じきっていた。その表情は、同情心の完璧な仮面だ。
彼女の周りの女性たちは私たちを見ていた。その目は、まるでハゲタカが獲物を狙うかのようだ。
彼女たちの裁くような視線が、鋭く、容赦なく突き刺さるのを感じた。
「昔から涼介と沙耶は特別だったものね」と白石さんが別の女性に大声で言ったが、その言葉は私に向けられたものだった。「子供の頃からよ。誰もが知ってたわ。彼らはソウルメイトなのよ」
沙耶は私の腕に優雅な手を置いた。
「彼女たちの言うことなんて気にしないで、あなた。涼介はあなたのことを気にかけているわ。彼なりにね」
彼女はさらに身を寄せ、声を潜めて共犯者のように囁いた。
「でも、理解してあげないと。いくつかの絆は…どうしても断ち切れないものなのよ」
そして彼女は身を引き、残酷な小さな笑みを唇に浮かべた。
「だって結局、彼のためにあなたを選んだのは、私なんだから」
肺の中の空気が氷に変わった。
これ以上壊れることはないと思っていた私の心が、百万の小さな破片に砕け散ったようだった。
部屋が傾き、群衆のざわめきが耳の中で鈍い轟音に変わっていく。
「なんて言ったの?」
私の声はかろうじて囁きになった。
沙耶の笑みはさらに広がった。彼女は致命的な一撃を与えたことを知っていた。
「あら、やだ、澪。まさか彼が自分であなたを選んだなんて思ってたわけ?私が去った後、彼はめちゃくちゃだったのよ。彼には安定した人が必要だった。誰か…単純で。問題を起こさない人が。あなたは完璧だと思ったわ。あなたは彼の相手をして、一条家の血筋を安泰に保ち、そして私が彼を必要とするときに邪魔にならない」
彼女の言葉は物理的な暴行だった。
私の平静は崩れ去った。
私はよろめきながら後ずさりした。彼女から、彼女の告白の毒々しい真実から離れるために。
私はバルコニーに逃げ込み、冷たい夜の空気を吸い込んだ。手は冷たい石の手すりを握りしめている。
これで全てが腑に落ちた。
私の結婚生活の四年間は、すべてが巧妙に構築された嘘だった。
私は単なる時間稼ぎの駒ではなかった。彼女の病的な、 manipulative なゲームの中で、手ずから選ばれた駒だったのだ。
私は、見て見ぬふりをする、波風を立てない、彼が投げ与えるどんな注意の切れ端にも感謝して受け取る、物静かで安定した妻。
そして私は、その役を完璧に演じてきた。
ウェイターが私の肩を叩いた。
「お客様?中でゲームが始まります。西園寺様がお客様をお呼びです」
私は幽霊のように部屋に戻った。
沙耶は輪の中心に立ち、シャンパンのグラスを手にしている。
「ゲームは簡単よ」と彼女は告げた。「愛のために誰かがしてくれた、最も贅沢なことについての話を共有するの」
白石さんがくすくす笑った。
「沙耶からどうぞ!きっとあなたが一番すごい話を持ってるわ」
沙耶の目が部屋の向こうの私を捉えた。
「そうねえ」と彼女は絹のように滑らかな声で始めた。「私が特定のデザートが食べたいって言っただけで、ディナーのためだけにパリまでプライベートジェットをチャーターしてくれたことがあったわ」
背筋に悪寒が走った。
私はその週末を覚えていた。涼介は私に、シカゴで緊急の、直前のビジネスミーティングがあると告げていた。
「それから」と沙耶は続けた。声に勢いがついていく。「私の誕生日に、私の名前を空に描くために、花火会社を丸ごと買い取ってくれたこともあったわ」
私の血の気が引いた。
彼は私に、それは彼が出席を義務付けられている会社のイベントだと言っていた。彼は三日間留守だった。
彼は私の妹の結婚式をビジネス旅行のために欠席した。
彼は私の父の命日を、取引をまとめるために逃した。
嘘。すべてが。すべて彼女のために。
部屋が回っていた。胃がむかつく。
ここから出なければ。
「それは誰だったの、沙耶?」と誰かが叫んだ。「そのミステリアスな男性は誰?」
沙耶はただ微笑んだ。秘密めいた、意味ありげな表情で。
「彼はもうすぐここに来るわ」
まるで合図したかのように、ボールルームのドアが開いた。
涼介が入ってきた。
彼の目は群衆を見渡し、顔には不安のちらつきが見える。
そして彼は彼女を見た。
彼の肩から緊張が解け、純粋で、混じりけのない安堵の表情に変わった。
彼の視線は沙耶に釘付けになり、まるで部屋に他の誰も存在しないかのようだった。
彼は私にさえ気づかなかった。
私は10フィート離れた場所に立っていたのに、彼にとって私は完全に、全く見えていなかった。
彼はまっすぐ彼女のもとへ歩いていった。
「遅くなってごめん」と彼は言った。声は低く、彼女だけに向けられていた。「会議が長引いて」
私は彼がどこにいたか知っていた。
杏奈が私に写真を送ってきていた。
彼は沙耶の無謀な仲間の一人、ヴィニー・サレルノとの危険なストリートレースに参加していた。
彼は『オメルタ』、神聖な沈黙の掟を破り、ライバルの家からの『ヴェンデッタ』と暴露のリスクを冒していた。すべては彼女への忠誠を証明するためだ。
彼はようやく振り返り、その目が私をかすめた。認識のちらつきがあった。
「ああ。澪。来てたのか」
「帰るわ」と私は言った。声は空虚だった。
「わかった。車を回すよ」
彼は私の言葉をほとんど気にも留めていないようだった。彼の注意はすでに沙耶へと移っている。
「いいえ」と私は言った。声は固かった。「自分で帰るから」
私は彼らを残して歩き去った。
彼らは完璧に見えた。
美しく、毒々しい王子と、その毒々しい王女。
地獄で結ばれたお似合いのカップル。