2

芳賀綾子 POV:

私は授賞式の会場には向かわず, 桑名邸へと引き返した. 重いドレスを脱ぎ捨てると, 体から何かが剥がれ落ちたような解放感があった. 前世で賢治のために捧げた日々が走馬灯のように脳裏をよぎる. 賢治のために世界中の旅行を計画し, 彼にサプライズを仕掛けたこともあった. しかし, 彼は私の計画を冷たく拒否し, その代わりに桃歌穂と旅に出たものだ.

一度, 彼らの旅行に無理やり同行させられた際, 私は悪天候の中で崖から転落し, 数ヶ月間寝たきりになった. あの時の絶望感は, 今でも鮮明に思い出せる. もう二度と, あんな思いはしない. 賢治から完全に離れること. それが, 私の新しい人生の第一歩だった.

私は素早く荷物をまとめ始めた.

「綾子さん, どこへ行かれるんですか? 」

賢治の声が, 突然背後から響いた. 彼は誕生日パーティに間に合うはずなのに, なぜここに? 彼の顔は怒りに歪み, その手には, 私が詰めかけたスーツケースが握られていた. 次の瞬間, 彼はそれを床に叩きつけ, 中身が散乱した.

「賢治さん, 何をするんですか! 」私の声は怒りで震えた.

彼は冷笑し, 私を幼稚だと非難した. 「また自殺でも企んでいるのか? 僕を引き留めるために, またくだらない真似をするつもりか? 」彼の目には, 私への軽蔑と嫌悪が露わだった.

「自殺なんてしません. 私はこの人生を, 大切に生きたいんです. 」

そう言うと, 彼は鼻で笑った. 「どうせまた, 僕に気を引かせようとしているんだろう」

その時, 廊下の奥から桃歌穂が現れた. 彼女は賢治の腕にそっと触れ, 優しく言った. 「賢治さん, 綾子さんも辛い思いをしているんです. きっと, 賢治さんの気を引きたいだけですよ. 昔みたいに, すぐに飛び降りるなんて言わないでくださいね? 」

桃歌穂の言葉に, 賢治の私への嫌悪感がさらに深まるのを肌で感じた.

ああ, そうか.

高校時代, 桃歌穂に夢中になった賢治が私を避けるようになり, 私は彼を引き留めるために, 本気で川に飛び込もうとしたことがある. その一件で, 賢治の両親が介入し, 彼と桃歌穂の関係を強制的に終わらせた. それ以来, 賢治は私を憎み, 一切口を聞かなくなった. 桃歌穂の取り巻きからは, 陰湿な嫌がらせを受け, 賢治はそれを見て見ぬふりをした.

「私は旅行に出るんです. 」私は賢治の目をまっすぐ見て言った.

彼はまた鼻で笑った. 「旅行? どこへ行くんだ, お前ごときが. 」

桃歌穂がため息をつき, 私の手を掴んだ. その指先が, 私の肌に爪を深く食い込ませる.

「綾子さん, 賢治さんの誕生日パーティに行きましょう? みんな綾子さんが来るのを待っていますよ. 」

その言葉に, 背筋が凍りつく. 桃歌穂の狙いは明らかだった.

私は本能的に彼女を突き飛ばした.

桃歌穂は, まるで糸が切れたようにぐらりと傾き, そのまま床に崩れ落ちた. その顔は苦痛に歪み, 私を指差して, か細い声で叫んだ. 『あなた... 何をするの... ! 』

3

芳賀綾子 POV:

桃歌穂が床に崩れ落ちるなり, 賢治の目が血走った. 「お前, 桃歌穂に何をした! 貴様は本当に悪魔だな! 」彼は怒鳴りつけ, 私の胸を激しく突き飛ばした.

私の頭は壁に激しく打ち付けられ, 鈍い痛みが走った. 視界がぼやけ, 世界が歪む. 賢治の怒鳴り声が耳鳴りのように響く. 「お前はいつもそうだ! 誰かを傷つけずにはいられないのか! 死ね! 」

「私は... 私はもう, あなたのものじゃない! 」痛みに耐えながら, 私は彼を遮った. 「私は出ていく! あなたの家からも, あなたの人生からも! 」

賢治は私を睨みつけ, 呻く桃歌穂を抱き抱えて部屋を後にした.

私は後頭部に触れた. ねっとりとした感触. 指先を見ると, 血が滲んでいた.

十五歳の頃の賢治を思い出した. あの頃の彼は, 私を心から守ってくれた. 私が少しでも怪我をすれば, 怒り狂ったように震え, 私を傷つけようとした相手に殴りかかった. あの時は, 私たちはずっとこのままの関係でいられると信じていた.

しかし, 今の賢治には, 微塵もそんな優しさは残っていない. 私の心は, 彼に対する最後の未練が消え去るのを感じた. もう, 賢治のことなどどうでもいい. 私の人生には, 彼など必要ないのだ.

賢治の両親が帰ってきたら, 婚約破棄を申し出よう. そう心に決めた. しかし, この頭の痛みが酷い. 私は使用人に助けを求めた. 「病院に行きたいのですが... 」

使用人は賢治の命令を受けているのか, 冷たい目つきで私を見て, 首を横に振った.

苦笑した. この家では, 私がどんなに苦しんでも, 誰も助けてはくれない. 賢治の両親は常に不在で, 家は賢治の絶対的な支配下にあった. 彼は使用人たちに, 私を「いないもの」として扱うよう命じていた. 私の食事は捨てられ, 私の存在は無視された. もう慣れっこだった.

私は一人で病院へ向かい, 脳震盪と診断された. 二日間の入院を経て退院し, 再び桑名邸へ. 散乱した荷物を拾い集める私を, 使用人たちはまた冷たい目で見下ろしていた. 彼らの助けを借りることなく, 私は残りの荷物をまとめ, 新しいアパートへと引っ越した.

卒業, 就職, そして婚約破棄. この街を出て, 新しい人生を送る. それが私の唯一の願いだった.

引っ越して三日後, 賢治から電話がかかってきた. 泥酔しているのか, 彼の声は呂律が回っていない. 「今すぐ来い, 綾子! 」

私は苛立ちを覚え, 冷静に彼の意図を尋ねた. 電話の向こうが, 一瞬静かになった. 周りの騒がしい音も止まる.

「お前, どこにいるんだ? 」賢治の声は, 驚きと困惑に満ちていた.

「もう, あなたの家にはいません. 」私は淡々と答えた.

彼は鼻で笑った. 「何を言っているんだ. また僕に仕返しをするつもりか. お前が桃歌穂を傷つけるようなことをすれば, 二度と許さないぞ. 」

彼の言葉の裏にある支配欲が透けて見えた. 私は何も言わず, 彼の言葉を待った.

「何も言えないのか? どうせまた, 僕の気を引きたいだけなんだろう. 謝れば家に帰れるぞ. 」

「ええ, この街を出ます. もう二度と, あなたの前に現れません. 」

私は彼の返事を待たずに, 通話を終了した. もう彼との間に言葉は必要ない. 私の心は, 彼から完全に離れていくのを感じた.

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