話 2
「私よ」
鳳城宴真の部屋の扉をノックした。
中から足音が近づいてくる。私の声を聞いた彼は、一瞬動きを止めたようだったが、やがて静かに扉を開けた。
彼は相変わらずの矜持をまとい、薄く笑みを浮かべながら、どこか嘲るような目で私を見下ろした。
私は目を逸らさず、彼を見上げる。
「弟……」かつてそう呼んでいたように、あの日々の名残をそのままに、口をついて出た呼び名だった。
鳳城宴真は髪をタオルで拭きながら、笑うともつかぬ顔でこちらを見た。
「どうしたの、義姉さん?」
最後の一言は、まるで酒に溶けたように軽やかで、皮肉めいていた。どうやら少し酒を飲んでいたらしい。シャワーを浴びたあとの清潔な香りの中に、かすかにアルコールの匂いが混じっている。
私はそっと目をそらし、声を抑えて言った。「入ってもいい?」
鳳城宴真は眉をひそめる。「……本気?」
探るような声音で問いかけてくる。
「ええ」 私はうなずいた。
昼間、榊原雪乃に言われた言葉を思い出せば、退くなんてできなかった。
寝室のドアが閉まったその瞬間、背を向けたまま私の言葉を待っている鳳城宴真にそっと近づいた。
「……鳳城宴真、お願いがあるの」
「お義母さんが、私と息子を鳳城家から出て行かせようとしてるの。あなたも知ってるでしょう、息子の体のこと。ここを出たら、すぐに病院からも追い出される。そしたら……息子はきっと、助からない。お願い……お願い、助けて」
かつてのように、
そっと彼の袖に手を伸ばした。
今、私が頼れるのは、彼の中に残っているかもしれない、かつての情だけだった。
もしかしたら、その情すら、もう微塵も残っていないのかもしれないけれど。
鳳城宴真は、私の手を振り払った。その反動で、私はよろけて一歩後退した。
けれど、顔には怯えたふりを浮かべたまま――
私がよろけるのを見て、鳳城宴真は冷笑を浮かべながら腕をつかんできた。「どんな立場で俺に話してるつもりだ? 義姉さん?それとも――昔の女?」
言葉と同時にぐっと引き寄せられ、互いの胸が触れ合うほど距離が縮まった。鼓動が、呼吸が、交わる。
唇を噛みしめると、彼の怒りがむしろ落ち着きをくれた。
言葉を続けさせまいと、私は肩に手をかけ、つま先を伸ばしてその唇に口づけた。
それは一瞬のことだった。唇を離した私は、懇願するように言った。「どうか……私たち親子を助けて。どんなことでもするから。お願い、鳳城宴真……!」
声が震え、涙が一筋、頬を伝った。
まるで狙い澄ましたような、絶妙なタイミングだった。
息子に何かあったら――そう思うだけで恐ろしくて、何だってする覚悟はあった。
彼には、それが伝わっているはずだった。
鳳城宴真は、じっとこちらを見つめていた。その眼差しには、複雑な思いが渦巻いていた。底の見えない深さと、かすかな怒りさえも滲んでいる。
「君は……兄貴の子どものために、そこまでやるんだな」
わたしは何も返さなかった。
彼は視線を宙に泳がせるようにして、ぽつりと続けた。「君はいつだって、誰かのためなら自分を犠牲にできるんだな――」
その言葉が落ちると同時に、彼はわたしの腰に腕を回し、抱き上げてベッドに横たえた。
「……本当に、後悔しないのか?」耳元に囁く声は、氷のように冷たかった。
思わず身がすくみ、わたしは小さく首を振った。「後悔なんて……しない」
その瞬間、彼はさらに近づき、吐息が触れるほどの距離で問うた。「君は……鳳城椋にも同じように頼んだのか?あいつがこれを知ったら、どんな顔をすると思う?」
最後の一言には、あからさまな悪意がこもっていた。
鳳城宴真は昔から鳳城椋を嫌っていた。兄弟でありながら、ふたりの間に情の通いはなかった。
わたしの身体は、言葉を失ったまま硬直した。
どれほどの時間が経ったのか分からない。意識は朦朧とし、何度も逃げ出したくなる衝動に駆られたが、そのたびに引き戻され、ついには意識を失った。
うっすらと耳に届いたのは、鳳城宴真の声だった。「九条瑠璃……お前、本気で俺を狂わせたいのか?」
「どうして、俺が助けると思った?」
「あいつは俺の子じゃない」
現実とも幻ともつかないその言葉が、心の奥にざわめきを残していく。
次に目を覚ましたとき、私は自室のベッドの上に横たわっていた。身体中が重く、痛む。慌ててスマートフォンを手に取ると、鳳城宴真からのメッセージが届いていた。
【明日の夜、絶対に来いよ。義姉さん】
その一文を見て、不思議と胸の奥が軽くなった。
これで、しばらくは鳳城家に留まれる。息子の治療も、続けられる――。
鳳城宴真と私はかつて恋人同士だった。九条家もかつてはA市で一目置かれる名家。私たちは年も近く、家柄も釣り合いが取れていた。まわりからは理想のカップルとまで言われていた。
けれど、その幸せは長くは続かなかった。信頼していた取引先の裏切り、そして九条家の傍系による画策。父の会社は破産に追い込まれ、誇り高く生きてきた父は、その現実に耐えきれず命を絶った。母は深い悲しみに沈み、病を患い、妹は留学を諦めて帰国寸前だった。
すべてが一度に押し寄せ、私は奈落の底に突き落とされた。
この一連の出来事を知った榊原雪乃は、留学中だった鳳城宴真が帰国するのを頑なに阻んだ。
彼が私と再び関わらないようにと。
でも私はわかっていた。当時まだ学生だった鳳城宴真が帰国しても、状況を変える力はなかった。だから彼を責めるつもりはない。
けれど、私には今すぐの助けが必要だった。そのとき、鳳城椋が私の前に現れ、手を差し伸べてくれた。条件は、彼との結婚。
彼が私を想っていたことは知っていた。でも私は、鳳城宴真が好きだった。彼もそれをわかっていた。
それでも私は、母の治療費と妹の学業のために、鳳城椋の求婚を受け入れた。
やがて、鳳城宴真はあらゆる手を尽くして帰国した。だがそのとき、彼が目にしたのは、他の男の妻になった私の姿だった。
それ以来、私は彼を「義弟」と呼び、彼は私を「義姉さん」と呼ぶようになった。
私は鳳城椋に感謝していた。彼が現れてくれたおかげで、九条家はどん底に堕ちずにすんだのだ。
母は治療の道を閉ざされることなく、妹も学業を諦めずにすんだ。
過去の記憶をそっと手放す。
その密やかな関係は、半月ものあいだ続いた。
鳳城宴真は約束どおり、息子のために最高の専門医を招き、最も効果のある薬を手配してくれた。
けれど――久しぶりに本家へ荷物を取りに戻ったその日、玄関を出たところで彼女を待っていたのは、榊原雪乃の秘書・梅子さんだった。
彼女は傲慢で軽蔑の色を隠そうともせず、こう言い放った。「奥様が、リビングでお待ちです」
その目が語っていた。――お前、なんて卑しい女なの。
話 3
榊原雪乃は紅茶のカップを手に、ちらりとこちらを一瞥した。赤縁の眼鏡越しでもその威圧感は隠せず、真紅の口紅が彼女の傲慢さを際立たせている。
一口紅茶を含んでカップを置くと、彼女は皮肉げに言った。「まさか、あなたがそんな女だったなんてね。私が鳳城家から出ていけと言ったのに、私の留守中に宴真のベッドに潜り込むなんて。椋があの世で見ていたら、もう一度死にかねないわ」
その口調は嘲りに満ち、目には軽蔑が浮かんでいた。
私は彼女を見返し、淡々と答える。「あなたが私たち母子を追い出さなければ、鳳城宴真を頼ることもなかった」
もしも鳳城椋がこの状況を見ていたとしても、私を責めたりはしない。彼はきっと、私が何を守ろうとしているのか分かってくれるはずだ。
「ふん。子どもがどうなろうと、私には関係ないわ。どうやら、あなたたち母子に少し優しすぎたみたいね」
「宴真は、私たちを苦しめないと約束してくれた」私は彼女をまっすぐに見据える。
息子の体は、もうこれ以上の波風には耐えられない。榊原雪乃が何をしでかすか分からず、私は鳳城宴真の名前を出すことで、少しでも牽制しようとした。
「そう?彼が何をどう約束したっていうの? あなたなんて、ただタダで抱かれた落ちぶれ女でしょう?そんな身で私に駆け引きしようなんて、おこがましいわね」
その言葉に、指先がじんと痺れた。
彼女の性格は分かっている。鳳城宴真がどんなに釘を刺していても、榊原雪乃は自分の不満と嫌悪を思うままにぶつけてくるだろう。
鳳城椋が生きていた頃は、彼女も多少は牙を隠していたが、
今や権勢を手にし、遠慮なく本性を剥き出しにしている。
「半月だけ待ってやるなんて、私ってば本当に甘かったわ。まさか息子と寝たくらいで、この家に居座れると思ってるんじゃないでしょうね? 彼が今日、どこに行ったか分かってる?」
私は平静を装っていた。
榊原雪乃はにこやかに言葉を継いだ。「鳳城家は間もなく朝比奈家と縁組する予定よ。今日、鳳城宴真が外出したのも、朝比奈さんとの夕食のため。あなたみたいな女が、卑劣な手を使って鳳城家に残ろうだなんて――身の程知らずもいいところね」
そう言って、榊原雪乃は梅子さんに目配せをした。
梅子さんがすっと近づき、無言のまま平手を振り抜いた。
ここ最近の出来事で心身ともに消耗していた私の頬に、その一撃は容赦なく響いた。視界がぐらりと揺れ、焼けるような痛みが走る。
榊原雪乃は、わざとゆっくりとした口調で言った。「止めていいなんて、私言ったかしら?」
その言葉を合図に、梅子さんのもう一発が頬を打った。もし誰かに腕をつかまれていなければ、きっとそのまま倒れ込んでいただろう。
とても自力では抗えない力だった。
だが、逃げようとは思わなかった。――打たれてさえいれば、同情を引けるかもしれない。それくらいの策は、もうとっくに覚悟の上だった。
意識が遠のきそうになったそのとき、耳元で激しい物音がした。
続いて、大股で部屋に入ってきたのは――鳳城宴真だった。梅子さんは容赦なく蹴り飛ばされ、私の腕を押さえていた相手も彼の一撃で吹き飛んだ。何が起きたのか理解できず、榊原雪乃と同じく、私はその光景を呆然と見つめていた。
……だって、鳳城宴真は今、朝比奈さんと夕食のはずじゃなかったの!?
梅子さんは腹を押さえながら地面に倒れ込み、うめくように呻いていた。榊原雪乃は怒りに満ちた顔で立ち上がり、鳳城宴真を指さして叫ぶ。「正気なの!?小梅にまで手を出すなんて!彼女、私についてきてどれだけ経つと思ってるの!」
鳳城宴真は黙って私の肩を押さえ、顔に残る傷を確認する。
そして冷え切った目で梅子さんを一瞥し、榊原雪乃に向かって淡々と言い放った。「九条瑠璃のことは俺が処理すると言ったはずだ。あなたが口を出す必要はない。……どうやら、誰も俺の言葉を本気にしていないようだな」
地面に横たわる梅子さんの顔が恐怖に引きつる。
鳳城宴真の部下たちは彼の合図を受け、何のためらいもなく梅子さんを地面から引きずり出し、他の者ふたりも同様に連行し始めた。
梅子さんは必死に叫ぶ。「奥様!奥様――!」
助けを求める声だった。
だが鳳城宴真が九条瑠璃を庇う姿を目の当たりにした榊原雪乃は、もう平静ではいられなかった。品位などとうに消え去り、歯を食いしばって怒鳴る。「このクズ……!今は朝比奈さんと食事してるべき時間でしょう!?何が大事かもわからないの!?」
「まさか、この女を庇うために戻ってきたの!? 彼女はあなたの長兄の女よ、あなたの“義姉さん”じゃない!」
それでも鳳城宴真の意思は微塵も揺らがない。「もともと、九条瑠璃は俺の女だ。鳳城椋はもうこの世にいない」
その言葉を口にしたとき、彼は九条瑠璃の腕を強く握りしめていた。まるで、次の瞬間には彼女が消えてしまうのではないかと怯えるように。
その手のひらから伝わる張り詰めた感情に気づき、九条瑠璃はそっと息を吐いた――。
榊原雪乃は怒りで仰け反り、そのままソファに身を沈めた。額を押さえながら、苦々しく言い放つ。「まさか、あんな尻軽女のために、実の母親を殺す気じゃないでしょうね? この家は、あの女がいれば私が去る。私がいれば、あの女は許さない!」
「よく考えなさい。あの女はあなたの役に立つどころか、今や未亡人よ。そんな相手のために、すべてを犠牲にする価値なんてないわ」
損得を並べて、冷静に訴えかける。
「母さんも再婚だったこと、忘れたのか。父さんは気にしなかった。俺だってそうだ。当時、母さんの反対がなければ、俺たちは別れることもなかった」
「朝比奈さんのことなら、俺がきっちり片をつける。何も問題は起こさない。 これから九条瑠璃は、俺の私邸に住むことになる。俺の許可なく、母さんも誰も近づかせない。彼女に何かあったら、そのときは……俺は容赦しない」
「母さんは、ここで安心して女主人を続けてくれればいい。誰にもその地位を脅かさせない」
そう言い残すと、彼は躊躇なく私を連れてその場を去った。
榊原雪乃の怒号や恫喝など、まるで耳に入っていないかのように。
彼の口から「朝比奈さん」と聞いたとき、一瞬、胸の奥に冷たい違和感が走った。でも、自分の身さえも危うい今、よけいな詮索などすべきではない。私は何も言わず、黙って鳳城宴真の後についていった。
車内で、鳳城宴真は冷蔵庫から取り出した氷嚢を私の頬に当てながら、怒りを含んだ声で言った。「どうして俺に連絡しなかった?手がないわけでも、携帯がないわけでもないだろ」
窓の外を流れていく景色を眺めながら、私は小さな声でつぶやいた。
「……息子に会いたいの。しばらく病院にも行ってないし、きっと寂しがってる」
実際には、ほんの数時間しか経っていないのだけれど。
「そんな顔で行ったら、あのこが驚くだろ」
「道中でもう少し冷やせば腫れも引くよ。大丈夫、適当に理由つけてごまかすから。あの子、ちょろいし」
私は彼の手を押しのけ、自分で氷嚢を持ち直した。
私の拗ねた様子を見て、鳳城宴真はむしろ嬉しそうに笑った。
「朝比奈家との婚約の話に怒ってるのか?」
「まさか。私が怒る資格なんてないわ」
私は首を横に振って否定した。
それでも彼は、上機嫌で説明を続けた。「外ではいろいろ噂されてるけど、朝比奈さんとの食事はただの演出だよ。記者が記事を書きやすいようにってだけ。実際は、あくまでビジネスパートナーだ」
私の表情を伺いながら、彼はさらに言葉を継ぐ。「こういう報道が出るのは、両社にとって悪い話じゃない。株価にもプラスだし、まあ、ウィンウィンってやつだ」
私は彼を見つめ、氷嚢を手渡した。
「……私も、ちょろい方かも」
思わず漏れた独り言に、鳳城宴真は低く笑った。「昔のままだな」
その言葉に、二人してふと黙り込む。
――きっと、わかっているのだ。過去には戻れないということを。