話 1
「余命はあと8年です」
医師にそう告げられた日、かつて私の全てだった男――高山翔一は、別の女性との婚約を発表した。
生きるための手術費を稼ぐため、私は恥を忍んで彼のもとを訪れた。
しかし、視力を取り戻した彼が私に向けたのは、氷のような冷徹な眼差しだった。
「金のために戻ってきたのか? 2年前に俺が失明した時、お前は逃げ出したくせに」
違う。あの時、私もまた脳が萎縮し記憶を失っていく不治の病を宣告されていたのだ。
彼のお荷物になりたくなくて、私は姿を消した。
だが、今の彼の隣には美しい婚約者・サエコがいた。
彼女は私をあざ笑い、わざと転んで私を悪者に仕立て上げた。
翔一は私にファイルを投げつけ、土下座を強要した。
そのストレスと衝撃で、私は彼との間にできていた小さな命さえも流産してしまった。
それでも私は真実を言わなかった。
かつて彼の母も同じ病で亡くなっていたから。愛する人が壊れていく恐怖を、二度も彼に味わわせたくなかった。
私は彼の中で「最低な裏切り者」として死ぬことを選んだのだ。
「俺の前から消えろ」
そう言われた通り、私は海外の療養所へ行くことを決めた。
すべての記憶が消え、私が「私」でなくなる前に。
しかし、私が空港へ向かったその日、サエコが勝ち誇った顔でばら撒いた私の診断書を、翔一が拾い上げてしまった。
「進行性健忘症……?」
震える手で真実を知った彼が病院に駆けつけた時、私はもう、目の前の男が誰なのかさえ思い出せなくなっていた。
第1章
「余命8年」
医師から告げられたのは、それだけの言葉だった。
私の脳はゆっくりと萎縮し、記憶は砂のように指の間からこぼれ落ちていき、やがて自分が誰なのかさえわからなくなるという。
私が空っぽの抜け殻になるカウントダウンが始まったまさにその日、かつて私の世界の全てだった男――高山翔一(たかやま しょういち)は、別の女性との婚約を世間に発表した。
震える手で病院の領収書を握りしめ、私は高山グループの高層ビルを見上げた。
あまりに残酷な皮肉だ。
生きるために必要な高額な医療費を稼ぐため、私は自分を最も憎んでいる男の会社で働かざるを得なかったのだ。
自動ドアが開くと、冷房の冷たい風が肌を刺した。
ロビーの巨大スクリーンには、翔一と冴子(さえこ)の写真が映し出されている。二人は幸せそうで、完璧に見えた。
視線を足元に落とし、受付に向かって歩き出した。
その時だった。
カツ、カツ、カツ。
大理石の床を叩くヒールの鋭い音が、私の鼓動のリズムを乱した。
ロビーの空気が一瞬にして変わるのを感じた。社員たちの視線が一点に集中する。
「あら、美咲(みさき)じゃない」
甘い毒のような声が鼓膜に絡みつく。
顔を上げると、そこに冴子が立っていた。スクリーンの写真と同じ、完璧な微笑みを浮かべて。
彼女は輝いていた。
高級ブランドのスーツに身を包み、自信に満ち溢れている。それに比べて、私はどうだ。色あせたシャツに、履き古した靴。病魔に蝕まれ始めた体は、あまりに惨めだった。
「久しぶりね」彼女は少し首を傾げて言った。「まだ生きてたの?」
彼女は私を、まるで靴底についた汚物を見るかのように見下ろした。
周囲から、社員たちの嘲笑が聞こえてくる。
「奥様の言う通りだわ」
「裏切り者のくせに、よく顔を出せるわね」
「翔一さんが失明した時に逃げ出した女でしょう?」
彼らの言葉の一つ一つが鋭利なナイフとなって、私の背中を突き刺す。
唇を噛み締め、拳を握りしめた。
違う。
私は逃げたりしていない。でも、今さら真実を話したところで、誰が信じてくれるだろうか。
「仕事の……書類を届けに来ました」
私の声は情けなく震えていた。
冴子は鼻で笑った。
「仕事?まだ翔一に寄生するつもりなの?あなたは彼の暗黒時代の汚点に過ぎないのに」
彼女は一歩近づいてきた。
その手首には、エメラルドグリーンの翡翠(ひすい)の腕輪が鈍く光っていた。
息が止まった。
それは、翔一の母が私に託してくれた形見の品だった。
「これ、お義母様が私を実の娘だと思ってくださっている証拠よ」私の視線に気づいた冴子は、わざとらしく腕輪を撫でた。
胸が焼けるように痛んだ。
それは私のものだ。翔一と私を繋ぐ最後の絆だったはずなのに。
「ほら。これを手切れ金だと思って受け取って、さっさと消えなさい」
冴子は鞄から封筒を取り出し、私の足元に投げ捨てた。
白い封筒が汚れた床に落ちる。
「あなたの顔を見るだけで翔一は吐き気がするのよ。2年前みたいに、黙って消えてくれないかしら?」
周囲の人々の視線が私を貫く。
拾え。
プライドを捨てて拾えと、彼らの目が言っているようだった。
私は動けなかった。ただ、床に落ちた封筒を見つめることしかできない。
「どうしたの?お金が欲しいんでしょ?」冴子の嘲笑がロビーに響き渡る。
その時、一人の女性社員が私を助けようと一歩踏み出した。
だが、冴子が冷たい視線を投げかけた瞬間、その女性は怯えて後ずさりした。
誰も私を救えない。
私は一人だ。
いつだって一人だった。
ゆっくりと膝を折り、震える手を伸ばして封筒を拾い上げた。
確かにお金は必要だった。
生きるためではない。
静かに消え去るために。
「……ありがとうございます」
絞り出した声は、自分のものではないようだった。
冴子は満足げに微笑み、踵を返した。
「行きましょ。翔一が待ってるわ」
去っていく彼女を見ながら、私は悟った。
私の尊厳は傷ついたのではない。とっくの昔に死んでいたのだと。
話 2
重厚なマホガニーの扉が呻くように開き、真空に足を踏み入れたかのような緊張感に満ちた空間が現れた。社長室の空気はただ静かなだけでなく、息が詰まりそうだった。
翔一は広々としたデスクの向こうに座り、目の前の書類に視線を落としていた。顔を上げようともしない。
2年ぶりだった。彼は痩せていた。顔立ちはより鋭くなり、氷と怨恨で彫刻されたかのようだった。それでも、その横顔――力強い顎のライン、眉のカーブ――は、私の記憶に刻み込まれた彼そのものだった。
だが、かつて私を見るたびにその瞳に溢れていた温もりは? 消えていた。跡形もなく。
「用件を言え」
彼の声は刃物だった――冷たく、正確で、感情がない。私の体は反射的に強張った。
「書類を……届けに来ました」
恐る恐る一歩踏み出した時、視界の隅で何かが動いた。彼の隣の革張りのソファに優雅に腰掛けていた冴子が体勢を変えたのだ。勝利の悪意に満ちた冷笑が、彼女の唇に浮かんでいた。
「あら美咲? まだいたの?」彼女は軽く、小馬鹿にしたように笑った。「さっき投げ与えてあげたお金じゃ、懐の穴は埋まらなかったのかしら?」
翔一の手が止まった。
ゆっくりと、苦痛を伴うように顔を上げる。ようやく彼の目が私と合った時、そこには再会の喜びなどなく、ただ深く、焼け付くような軽蔑だけがあった。
「金のために戻ってきたのか?」彼の声はオクターブ低くなり、危険な響きを帯びた。「お前は少しも変わっていないな」
「いいえ、違います。私はただ――」
「言い訳は聞きたくない」
彼は私の言葉を遮り、まるで私が壁の染みででもあるかのように書類に意識を戻した。ここには私の居場所はない。それは分かっていた。この部屋の空気は私にとって毒だった。
ただ書類を置いて。ただ立ち去ればいい。
デスクに手を伸ばそうとした、その時だった。
「きゃっ!」
短く鋭い悲鳴が静寂を切り裂いた。計算された不器用さで、冴子の手がテーブルの上のクリスタルグラスを弾き飛ばしたのだ。
水が彼女のスカートにかかる。グラスがカーペットに鈍い音を立てて落ちた。
「熱い! 何するのよ!?」
冴子は弾かれたように立ち上がり、私の胸を指差して非難した。その演技は完璧だった――オスカー賞ものだ。震える唇、目に滲む涙。まるで私が水をかけたかのようだった。
「冴子!」
翔一は一瞬で椅子から立ち上がり、彼女の元へ駆け寄った。「怪我はないか?」
「い、いいえ……大丈夫よ」彼女は言葉を詰まらせ、彼の腕にしがみつき、その肩に顔を埋めた。「でも美咲が……急に……」
彼の肩越しに、彼女の涙ぐんだ目が私を捉えた。口角が微かに吊り上がる。デザイナーズブランドを纏った悪魔。
「貴様……」
翔一が振り返り、私を睨みつけた。その顔は怒りで歪んでいた。
「誤解です、私は何も――」
バシッ!
翔一はデスクの上の分厚いファイルを掴み、私に投げつけた。白とベージュの塊が視界をかすめ、硬い角が頬骨を直撃した。
鋭く刺すような痛みが走り、すぐに温かいものが肌を伝う感覚があった。血だ。
だが、頬の痛みなど、心が引き裂かれる感覚に比べれば何でもなかった。
「出て行け!」翔一の怒号が部屋を揺らした。
「2年前と同じだ。俺が失明した時、お前は自分のことしか考えなかった。逃げ出したんだ」
「翔一、お願い、聞いて……」
「俺の名を呼ぶな!」
彼は冴子を引き寄せ、彼女を庇い、私を完全に拒絶した。「俺が地獄にいた時、そばにいてくれたのは冴子だ。お前とは違う」
彼の言葉は最後の一撃となり、私に残された希望の欠片を打ち砕いた。
2年前。事故が彼の光を奪った日。
その同じ日に、私もまた死刑宣告を受けていたのだ。
肉体の死ではない、心の死を。記憶がゆっくりと、残酷に消去されていくという診断。私は彼を忘れ、自分自身さえ忘れる運命にあった。
重荷になりたくなかった。暗闇の中で足掻く彼に、私が消えていく様を見せたくなかった。だから私は姿を消した。彼が自由になれるように、私を憎ませたのだ。それが私の愛だった。
そして今、その愛が私を殺している。
「痛い……翔一、怖いの」冴子は泣き言を言い、演技を続けた。
翔一は彼女の背中を撫で、何年も聞いていなかった優しい囁き声を出した。「大丈夫だ。俺がいる。俺が守るから」
それは私の過去から盗まれた光景だった。
かつて彼が私にしてくれたことだ。膝を擦りむいた時、両親が死んだ時……彼は私の光だった。私のヒーローだった。
今、彼は私の処刑人だ。
「冴子には二度と近づくな」冷たい瞳で私を貫きながら、彼は言った。「次はないぞ」
震える手を上げ、頬の血を拭った。自分を守る力はもう残っていなかった。彼は彼女を信じた。彼女を選んだのだ。
私が守りたかった笑顔……それはもう私のものではなかった。
ゆっくりと、私は頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
その言葉は、棺にかけられる土のように唇からこぼれ落ちた――私たちの愛の墓標に捧げる、最後の言葉として。
話 3
社長室の空気は重く淀み、息苦しいほどの緊張感に満ちていた。
私は部屋の中央に立たされ、判決を待つ罪人のように二人を見上げさせられていた。
翔一は革のソファに深く腰掛け、その隣には新しいグラスを手にした冴子がぴったりと寄り添っている。
力関係は明白だった。
彼らは支配者であり、私はただの侵入者。汚点に過ぎない。
「謝れ」
翔一の声は低く、絶対的な命令として響いた。
「土下座しろ。床に額を擦り付けて、誠心誠意、冴子に許しを請え」
私は自分の耳を疑った。
土下座?
何のために?
私はただ書類を持ってきただけで、水をこぼしたのは彼女自身なのに。
「……私は、何もしていません」蚊の鳴くような声で囁いた。
「まだ嘘をつくの?」冴子は冷たく、乾いた音を立てて笑った。「翔一、見て? 彼女、全然反省してないわ」
「聞こえなかったのか、美咲?」翔一が私を睨みつける。
「お前がやったかどうかはどうでもいい。冴子が不快な思いをした。それが全てだ」
真実は無関係だった。
彼にとって価値があるのは、冴子の機嫌を損ねないことだけ。あるいは、かつての恋人を踏みにじることに歪んだ優越感を見出しているのかもしれない。
「謝らないなら、今すぐ荷物をまとめて会社を出て行け。退職金など一銭も期待するなよ」
それは死刑宣告だった。
貯金はない。新しい仕事を探す気力もない。保険もなく、給料もなければ、医療費の支払いに押しつぶされる。私はただ野垂れ死ぬだけだ。
鉄の味がするほど唇を噛み締めた。
プライド?
死にゆく者にプライドなどという贅沢は許されない。それは生き残るための障害でしかない。
私は膝を折った。
冷たい床の感触が服を通して肌に伝わり、身震いする。あの事故で両親が死んだ日、親戚に頭を下げて助けを求めた日のことを思い出した。
全く同じだ。
世界はいつだって弱者に残酷だ。
「……申し訳ありませんでした」額を床に押し付け、震える声で言った。
「聞こえないわ」冴子がクスクスと笑う。「もっと大きな声で言えないの? 心を込めて」
鋭く息を吸い込んだ。肺が痛み、喉が塞がったように感じる。
「冴子様! 不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
叫んだ瞬間、頭上から冷たいものが降り注いだ。
バシャッ!
水だ。
冴子がグラスの中身を私の頭にぶちまけたのだ。
氷のような滴が髪を伝い、顔を濡らし、床に滴り落ちる。
「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃった」
謝罪の色など微塵もない声だった。
顔を上げることができない。私は濡れて、惨めで、哀れだった。
翔一はどうしているだろう?
恐怖に駆られ、ゆっくりと視線を上げた。彼はただ私を見下ろしていた。表情は凍りついたままだ。
彼は止めなかった。
怒りもしなかった。
道端の小石に向けるような無関心さで私を見ていた。そしてその目は、何よりも私を傷つけた。
彼はこれを容認しているのだ。
この屈辱を。この暴力を。
「翔一、行きましょう。服が汚れちゃうわ」冴子が甘ったるい声で言った。
翔一は頷いた。「ああ。行こう」
二人は立ち上がり、床に蹲る私を残してドアへと向かった。
翔一の背中が遠ざかっていく。
かつて、その広い背中は私を守る盾だった。
今、それは拒絶の壁でしかなかった。
「……片付けておけ」
去り際に投げ捨てられた言葉が、私の心に止めを刺した。
ドアが閉まる音が銃声のように響く。
部屋に静寂が戻った。私は一人、濡れた服で震えながら残された。
涙は出なかった。
心が痛みを処理する機能を停止してしまったのかもしれない。
機械的に立ち上がり、ハンカチで床を拭き始めた。
これが私の現実。
これが私の選んだ道。
彼を愛した代償がこれなら、受け入れるしかない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
そこに立っている女はただの抜け殻だ。
私の魂は、冷たい床に滴り落ちる水と共に洗い流されてしまったのだ。