1

誕生日当日。

望月星奈は自分へのご褒美ケーキを抱えて、ほんの少しだけ浮かれた足取りで街を歩いていた。

家に着いた頃には、すでに深夜近くだった。途中で土砂降りの雨に全身びしょ濡れで、髪先から雨水がぽたぽたと落ちていく。

星奈がリビングに入ると、招かれざる客と鉢合わせた。義母だ。夫である緒方慎也の母親である。

星奈のみじめな姿を見るなり、義母は露骨に顔をしかめて一歩後ずさり、怒鳴りつけた。「夜更けに家を空けて、どこほっつき歩いてたの!大奥様が情けをかけなきゃ、あんたなんか緒方家に入れるわけないでしょ! 結婚してもうすぐ2年になるのに、ガキの1人も産めないなんて!恩を仇で返すつもり!?」

義母の嫌味には慣れっこだ。星奈はソファ脇のタオルで髪を拭きながら、淡々と言い返す。「結婚して18ヶ月、緒方慎也がまともに帰ってきたことなんてありました?私、空気で妊娠する能力なんて持ってませんから」

義母は鼻で笑った。「今すぐ慎也を呼び戻しなさい。妻なら、夫の機嫌取りくらいして当然でしょ!」

星奈は相手にする気になれず、黙ってスマホをいじり始めた。 結婚してからの2年間、この義母の嫌味にはもう十分すぎるほど耐えてきたのだ。

義母の小言をBGMに聞き流していると、星奈のスクロールする指がピタリと止まった。

藤原初実がSNSを更新していた。「急に土砂降り。でも、ピンチの時にいつも現れてくれる人がいて救われた」

写真の隅に見切れている黒いロールス・ロイス。星奈はすぐにそれが慎也の愛車だと気づいた。国内にたった1台しかない車だ。

初実の父親は、かつて慎也をかばって爆発事故で亡くなっている。それ以来、緒方家は初実を目に入れても痛くないほど可愛がってきた。

慎也とは幼馴染として育ち、ずっと言葉にできない曖昧な関係を続けている。

胸のあたりがつかえるように痛み、星奈は義母に吐き捨てた。「そんなに孫が欲しいなら、藤原初実に産んでもらえばいいじゃないですか」

「何バカなこと言ってんの!大奥様が無理やりあんたと慎也を結婚させなきゃ、チャンスなんて欠片もなかったくせに!」 義母は逆上し、手近にあった陶器の花瓶を星奈めがけて投げつけた。

避ける間もなく、花瓶が頭を直撃する。ガシャーンと音を立てて床で砕け散った。

涙が出そうなほど痛かったが、幸い花瓶が小さかったおかげで、流血沙汰にはならずに済んだ。 誕生日に顔に傷が残るなんて、それこそ悲劇だ。

義母は星奈を見下ろし、冷たく言い放つ。「私に口答えする暇があるなら、夫の心を取り戻す努力でもしたら?」

言い捨てると、義母は鼻を鳴らして去っていった。

ドアが乱暴に閉まる音が響いて、ようやく星奈は我に返る。

リビングを見渡すと、ガランとした空間が孤独をいっそう際立たせていた。

去年の誕生日、2人はまだ新婚だった。

慎也は派手なパーティーを開いてくれて、みんなの前でキスをし、熱っぽい瞳で見つめてくれた。 焼き尽くされそうなほど、遠慮もせず注がれた愛。

目は口ほどに物を言う。(あの瞬間、慎也の心には確かに私がいたはずだ。)

(だからこそ彼女は溺れた。本気で愛し、契約結婚の中で愛に巡り合えたことに、心から幸せを感じていた。)

(だが、その愛は刹那的なものだった。激しく燃え上がり、あっという間に冷めていった。最後にその場に立ち尽くしたのは、たった一人の彼女だけだった。)

着信音が鳴り響く。見知らぬ番号だったので無意識に拒否ボタンを押したが、相手はしつこくかけ直してきた。

電話に出ると、相手は息を荒げた声で切り出した。『もしもし、緒方さんの奥様でしょうか? こちら県立第二病院です。緒方さんが交通事故で搬送されまして……』

初実のSNS投稿を思い出し、星奈は医者の言葉を遮って冷たく告げた。『どうも。忙しいので行けません。 彼の“彼女”に連絡してください』

初実が慎也からの寵愛を享受しているのなら、介護の義務だって引き受けるべきだ。

しかし、医者の声色が一段と厳しくなる。『そういうわけにはいきません。患者様は大出血を起こしており、命の危険があります。手術同意書には直系親族のサインが必須なんです』

その言葉は雷のように星奈の頭の中で炸裂した。心臓が跳ね上がり、慌てて答える。『わかりました、すぐ向かいます』

恨んでもいるし、憎んでもいる。でも、死んでほしいなんて思ったことは一度もない。

慎也は確かにろくでなしだが、死刑になるほどの罪人じゃないのだ。

……

着替える暇さえなかった。病院に着く頃には、びしょ濡れだった服が生乾きになり、シワシワになって肌に張り付いている。見た目だけで言えば、患者よりも悲惨かもしれない。

「すみません、さきほど事故で運ばれた緒方慎也はどこに……」 彼女は慌てて通りがかりの看護師を呼び止めた。

返事を聞く間もなく、次の瞬間——星奈の瞳は看護師の肩越しに廊下の奥を捉えた。言いかけた言葉が喉で凍りつき、全身が雷に打たれたように硬直した。

病院のベンチに慎也が座り、その足元で初実がしゃがみ込み、彼の手のひらを自分の頬にそっと押し当てていた。

2

緒方慎也は抵抗することなく、藤原初実がベタベタするのを許していた。

彼には確かに、クズ男になれるだけのスペックがある。「イケメン」なんて言葉じゃ安っぽすぎるほどだ。彫りの深い顔立ちに、骨の髄から滲み出る気品。

上半身は黒シャツ1枚で、襟元は少しだけ開いている。長い腕には包帯が巻かれていたが、惨めさよりも、どこか無造作で不敵な色気を漂わせていた。

これじゃあ、初実が既婚者相手だとわかっていても泥沼にハマるわけだ。

慎也は腰をかがめて初実を立たせた。「座って休んでなよ。ずっとしゃがんでると疲れるだろ? 検査結果も見たはずだ。俺はなんともないって」

「全部私のせいだよ。今日、慎也がわざわざ送ってくれなきゃ、こんな事故に遭わなかったのに」 初実は慎也に支えられてベンチに腰を下ろしたが、それは座ったというより、彼の懐に寄りかかったような距離感だった。

望月星奈は少し離れた場所に立ち尽くし、近づけずにいた。濡れた体の寒さなど、胸の奥の冷えに比べれば取るに足らない。

慎也にはとっくに愛想を尽かしている。それでも、他の女とイチャつく姿をこうも正面から見せつけられると、錆びた刃物で心を抉られたような鈍い痛みが走った。

(私と彼女、一体どっちが本当の「緒方の妻」なんだろう。)

1人の医師が星奈の方へ歩いてきた。手にした2枚の検査レポートを掲げ、申し訳なさそうに言った。「すみません、取り違えていました。ご主人は軽傷です。緊急処置が必要なのは、別の『緒方さん』でして。 さっきの10台玉突き事故で、現場が混乱していましてね」

「……そうですか」 星奈は短く答え、立ち去ろうとした。その瞬間、慎也と視線がぶつかる。彼の瞳は闇のように翳り、感情が読み取れなかった。

あまりに久しぶりの再会で、空気が気まずく張り詰める。

星奈はバッグの持ち手をギュッと握りしめた。

沈黙を破ったのは慎也だった。彼は鼻で笑って言った。、「ハッ、俺が死ぬって聞いて、やっと来る気になったか。 生きててガッカリしただろ?」

「私が来ようが来まいが、何が違うの?」 星奈は淡々と答え、視線を初実の方へ流した。

初実は申し訳なさそうに星奈を見つめた。「星奈姉さん、ごめんなさい。全部私のせいで…… 慎也が送ってくれなきゃ、こんなことには……雨の日って事故が起きやすいし」

口では謝っているが、星奈を見るその目は完全に勝ち誇っていた。“愛されている側”の余裕そのものだ。

星奈は視線を逸らし、彼女の言葉には応じず、そのまま踵を返した。

そんな安っぽいマウントで傷ついていたのは、慎也を愛していたからだ。関係を諦めたくなかったからだ。

今や離婚モードのゲージはMAX寸前。初実との腹黒い茶番に付き合う気なんて、もうない。

「望月星奈!」不意に慎也が呼び止めた。

だが星奈は足を止めず、むしろ早足で出口へ向かった。

慎也はその背中を見て目を細め、瞳に冷ややかな光を宿した。(いつからだ?こいつが俺をここまでないがしろにするようになったのは。)

「慎也……」初実が彼の腕を揺する。

声が小さすぎたのか、慎也は完全に無視して立ち上がった。

初実の目が瞬時に赤くなり、声を張り上げる。「慎也!」

慎也はようやく振り返り、心ここにあらずという様子で初実の頭を軽く撫でた。「俺は帰る。お前は仕事に行け」

それだけ言うと、初実の返事も待たずに、彼は出口へ向かって走り出した。

残された初実はその場に立ち尽くし、慎也の背中を睨みつける。その目には、隠しきれない恨みの色が滲んでいた。

救急外来のロビーを出ると、ちょうど星奈が車に乗り込もうとしているところだった。慎也はほっと息をつく。

大股で星奈に追いつき、言った。「一緒に帰るぞ」

星奈は怒りを押し殺し、冷たく返す。「方向が違います」

慎也は当然の口調で告げた。「俺の車はもう廃車だ。乗せていけ」

ーーなるほど。慎也が追いかけてきたのは、単に運転手が欲しかっただけか。

星奈が口を開く前に、彼は続けた。「月見荘に戻る」

星奈は感情のない笑顔を浮かべた。「それはそれは。1年以上ぶりですね、緒方社長が家に帰ってくるなんて」

ふと顔を上げると、視界の端に人影が映った。病院の入り口の階段に立ち、初実がじっと2人を見下ろしている。

3

望月星奈は冷ややかな顔で助手席のドアを開け、喉まで出かかっていた「さっさと失せろ」という言葉をぐっと飲み込んだ。

緒方慎也を愛していないとしても、あの愛人にこれ以上でかい顔をさせるわけにはいかない。

道中、慎也と2人きりになる気まずさを心配していたが、幸い彼は助手席に座るなり軽く目を閉じ、全身に疲れを滲ませていた。

星奈は無表情のまま、彼を横目で一瞥する。

(わざわざ愛人のご機嫌取りに行ってたんだから、私の前で疲れたフリなんてしなくていいのに。)

星奈はアクセルを踏み込み、どんどん加速していった。

慎也がカッとなって目を開け、声を荒らげる。「望月星奈、運転くらいまともにできないのか?」

星奈は鼻で笑った。「忘れないでよ。さっき事故を起こしたのは誰だっけ?」

慎也がムッとする様子を見て、星奈は1日中溜め込んでいた鬱憤が一気に晴れた。

月見荘に戻ると、星奈はそのまま主寝室に入り、ドアを内側から鍵をかけた。

ーーもう慎也のことなんて知ったこっちゃない!

……

パジャマに着替えてベッドに潜り込む。張り詰めていた神経が緩むと同時にめまいが襲い、星奈は意識が朦朧としたまま眠りに落ちた。

それから間もなく、悪寒が走って星奈の夢を乱した。

夢うつつの中、誰かが背後から抱きしめてくる感覚がある。相手の熱い体温が、彼女の体の冷えを追い払っていく。

新婚当初、星奈が熱を出したとき、慎也はこうして抱いて眠ってくれたものだ。

まだ寝ぼけていたせいで、2人の関係が冷え切っている事実を一瞬忘れてしまったのだろう。彼女は無意識に体を後ろへ預け、その温もりをもっと感じようとした。

「動くな」 耳の縁に羽のような軽いキスが落ちてくる。唇と舌が絡み合う間に漏れる言葉は掠れて不明瞭で、そこには懸命に抑え込まれている何かが滲んでいた。

直後、腰のあたりに硬いものが当たり、腰のくぼみに押し付けられて不快感が走る。

星奈は思わず身じろぎした。

背後で聞こえる低い息遣いが、次第に荒くなっていく。

大きな手が服の裾から忍び込み、腰を辿って這い上がると、胸の膨らみを掬うように揉みしだいた。

星奈もウブな少女ではない。下腹部に熱いものが込み上げてくるのを感じ、思わず声を漏らしてしまう。

その声を聞いた瞬間、慎也の理性を繋ぎとめていた最後の糸がぷつりと切れた。もう片方の手がズボンのゴムを越えて滑り込み、濡れた場所へと伸びる。

久しく行為から遠ざかっていた星奈にとって、不意の指の侵入は痛みでしかなかった。とっさに両足を閉じる。

カッと目を見開き、意識が一気に覚醒する。 彼女は慎也を強く突き飛ばし、ヘッドボード側へ身を引いてサイドランプをつけた。

「なんで入ってきたの?」 彼女は険しい顔で慎也を睨みつけた。頬に残っていた紅潮は、急速に怒りへと変わっていく。

慎也はベッドに手をつき、ゆっくりと上体を起こした。ゆったりしたパジャマのズボンを押し上げていた膨らみが、徐々に収まっていく。

彼は鼻で笑うと、皮肉っぽく問い返した。「ここは俺の家だぞ。俺が入ってこなきゃ、誰が来ると期待してたんだ?」

その言葉に、星奈は強烈な屈辱を感じた。反射的に振り上げた手が、重い音を立てて彼の頬を打つ。

生まれてこの方、男は彼しか知らないというのに。その言い草では、まるで自分が誰とでも寝る尻軽女みたいではないか。

このところ藤原初実と一緒に暮らしていたくせに、今度は自分のベッドに潜り込んできた。その事実を思い返すと吐き気が込み上げ、星奈は激しく言い放った。 「誰でも自分と同じだと思わないでよ!心が汚い人間には、周りも汚れて見えるのね!」

慎也は、星奈が全力で叩いたのだと悟ったのか、冷笑を浮かべた。「望月星奈、そんなに俺が価値のない男なら、なんで結婚を承諾した?」

「結婚前は細やかな気遣いをしてくれたから、私は愛情だと勘違いしたのよ。 結婚した途端に愛人を作るような男だって知っていたら、死んでも結婚なんてしなかったわ!」

「夫がいないも同然の生活なんて、もううんざりよ!」

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その溺愛、手遅れです。

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