話 2
骨身に沁みる寒さだ。
けれど、家を出る前に夫の沈南から投げつけられた言葉ほど、胸に突き刺さるものはなかった。
「あいつが何度も理由をつけて癇癪を起すのは、結局あれやこれや買って俺に機嫌を取ってほしいだけなんだ。 今回は、先週欲しがっていたヴィトンのバッグが目当てだろう」
「こっちは実験研究でくたくたなのに、無理に笑顔を作って機嫌を取らなきゃいけない」
「年年、妻が君の半分でも物分かりが良かったらなあ」
これまで彼が見せてきた謝罪や譲歩は、すべて私が無理強いしたもので、本心ではなかったのだ。
けれど、疲れているのは彼だけだろうか?
一体、私は何に怒っていたのだろう。
私の誕生日に、彼は「学生が待っている」の一言で、レストランに私を一人置き去りにした。
結婚記念日には、何の説明もなく朝帰りした。
私が四十度の熱を出した夜、彼の電話は何度かけても話し中だった。
これが、「物分かりが悪い」ということらしい。
ふらふらとホテルにチェックインすると、スマホに一件の友達申請が届いた。
アイコンは、研究室の林年年が、満面の笑みで沈南を指で囲っている写真だった。
【奥さん、沈先生が酔っていて、ずっと奥さんの名前を呼んでいます。ビデオ通話に出てもらえませんか?】
長年愛した人だ。どうしても非情にはなれなかった。
私は通話ボタンを押した。
画面の向こうで、意識が朦朧とした沈南が繰り返し呟いていた。
「年年、行かないでくれ。ここにいてくれ」
頭から冷水を浴びせられたような衝撃が、全身を凍らせた。 沈南は私のことを「年年」とは呼ばない。いつも「江佳年」か、「佳年」と呼ぶ。
ならば、この「年年」は――今夜、彼が必死に引き留めようとしている、林年年のことだ。
私は一言も発せず、震える手で通話を切った。
頭の中が、ブーンという音で満たされる。
その夜は両膝を抱えたまま一睡もできず、朝を迎えた。
離婚協議書を手に入れると、私は一秒も無駄にせず家へと向かった。
玄関を開けると、卵の香ばしい匂いが漂ってくる。キッチンでは、沈南が不器用な手つきで二つの皿に朝食を盛り付けていた。
結婚して七年、彼がキッチンに立ったことなど一度もなかった。それに、私が卵アレルギーであることも知っているはずだ。
この二皿の朝食は、彼と林年年のためのものに違いなかった。
案の定、主寝室から林年年が眠そうな目をこすりながら出てきた。
彼女が着ていたのは沈南のTシャツで、下着はつけていないようだ。私に気づくと、彼女は殊勝な顔で言った。
「奥様、お帰りなさい!昨日は急に泊まることになったので着替えがなくて……沈先生が服を貸してくれたんです。お気になさらないでくださいね?」
沈南はばつが悪そうに頭を掻きながら、謝罪の言葉を口にした。
「君が今帰ってくるとは思わなくて。卵なしの朝食をもう一つ作るよ。次からは、帰る前に連絡をくれると助かる」
私はこみ上げる怒りを必死に押し殺し、彼を問い詰めた。
「私が自分の家に帰るのに、いちいちあなたの許可が必要だとでも?」
「連絡をすれば、あなたたちが昨夜の痕跡を片付ける時間ができるものね」
「私が見て見ぬふりをすれば、二人が清廉潔白なままでいられるとでも思っているの?」
その言葉に、彼は再び激高した。
「何を馬鹿なことを言っているんだ! 噂が広まったら年年の評判にどれだけ傷がつくか、お前は責任を取れるのか!」
「昨夜は年年が徹夜で俺を看病してくれたんだ。その礼に朝食を作っただけなのに、感謝するどころか人を貶めるのか!」
昨夜のビデオ通話での彼の言葉は、アルコールのせいではなかった。今回も、すべては林年年のため。
かつては、私に大声を出すことすらなかった人なのに。
涙が、意思に反して頬を伝った。
それを見た彼は途端に慌てふためき、私の涙を拭おうと手を伸ばす。
「すまない、佳年。怒鳴るつもりはなかったんだ。ただ、君の言い方があまりにひどかったから、ついカッとなってしまって」
「そうだ、ヴィトンのバッグを買ってあげよう。ずっと欲しがっていただろう? だから、許してくれ」
(また、心にもない譲歩をするの?)
私は彼の手を振り払い、自分の名前を署名した離婚協議書をテーブルの上に置いた。
「サインして」
話 3
私は彼を冷ややかに見つめた。
「もうヴィトンなんていらないわ。私のご機嫌取りがそんなに苦痛なら、もう無理しなくていい」
「私がここへ来たのは、あなたに離婚協議書を渡すため。プレゼントをねだりに来たんじゃないの」
林年年が、信じられないというように目を見開いた。
「奥様、昨日の離婚の話って本気だったんですか?あのミルクティー一杯のせいで?」
その瞳には、はっきりと計算高さが浮かんでいた。
なのに、沈南にはそれが見えない。
沈南は離婚協議書を手に取ると、みるみる顔色を変えた。
「あのミルクティー一杯のことで、本気で言っていたのか? 君が何を飲みたいかなんて今まで話してくれなかったから、適当に頼んだだけだ。そんな些細なことで離婚を持ち出すなんて」
私は答えず、代わりに林年年に問いかけた。
「あなたはいつも、氷なしの甘さ控えめを飲むわよね?」
彼女はこくりと頷くと、はっとしたように沈南のそばに寄り添い、彼の服の裾を掴んだ。その瞳は、ひどく無垢に見えた。
「奥様、沈先生はただ、何度か私にミルクティーを買ってくださったことがあるから、私の好みに合わせて注文してしまっただけなんです。どうか、私のことを責めないでください」
沈南は彼女をかばうように後ろに立たせると、うんざりした様子で私に言った。
「思い込みで話をするのはやめてくれ。そんなつまらないことでやきもちを焼いている時間があるなら、外に出て何かやることを見つけたらどうだ。どうせ子供も産めないんだから、お姫様気分の君を構っている暇はないんだ」
「年年を見習ったらどうだ。毎日たくさんの本を抱えて、朝早くから研究室で私を待っている。まだ修士の一年なのに、能力は三年生にも引けを取らない。君に彼女ほどの向上心と根気があれば、俺の一挙手一投足ばかりを監視したりしないはずだ。君自身のためにもなる」
顔を上げて彼を見ると、その瞳は疲労と苛立ちに満ちていた。
私が一体、誰のために仕事を辞めて家庭に入ったと思っているのだろう。
かつて、私と彼は首席の座を分け合った仲だった。子供が欲しいと言い出したのは彼の方だ。私が多嚢胞性卵巣症候群だと診断され、静養が必要だと医者に言われると、彼はあっさりと私に年収二千万円の仕事を辞めさせ、家で妊活に専念させた。
それなのに今、彼は他人の前で、私が子供を産めない役立たずで、向上心もないと嘲笑うのか?
怒りが頂点に達し、私は思わず乾いた笑いとともに拍手していた。
「沈南、つまりあなたは林年年に惚れたってことでしょう?そう言えばいいじゃない。 遠回しに私を貶めるなんて、みっともないわ」
沈南は右手を高く振り上げた。その顔は恐ろしいほどに険しい。
だが、その平手は、いつまでたっても振り下ろされなかった。
私は顎を上げ、負けじと彼を見つめ返すと、口の端を吊り上げた。
「どうしたの?殴らないの?」
林年年が沈南の背後から彼を抱きしめ、必死に叫んだ。
「先生!私のために、そんなことしないでください!」
彼は彼女の両手を握り、振りほどこうとはしなかった。私に向けられたその眼差しは、深い失望に彩られていた。
「佳年、どうして君はそんな人間になってしまったんだ?」
変わってしまったのは、一体どちらだというのか。
もはや、言い争う気力もなかった。
私は家の鍵をテーブルに置き、軽蔑するように笑った。
「離婚協議書は、サインしたら私の親友に送ってくれればいいわ。この件はすべて彼女に任せてあるから」
「この鍵は、あなたの優秀な教え子にあげる。今後、あなたたちがここでどう暮らし、どんなおままごとをしようと、私には関係ない」
「忘れないで。この家の資産価値の半分を、現金で振り込んでくれればそれで終わりよ」
彼は私を睨みつけた。「……本気なのか?」
私が答えないでいると、彼は吐き捨てるように言った。「後悔するなよ」
沈南はためらうことなく名前を書き殴ると、ペンと書類をテーブルに叩きつけた。
「郵送なんて面倒だ。今すぐ持って行け」
身を屈めて書類を拾い上げると、指の震えが止まらなかった。
七年間の結婚生活は、こうして惨めに幕を閉じた。
もはや、半分の言葉も出てこない。
私は最後に、かつて温もりで満ちていたはずの、私たちの家を見渡した。
彼が腰の悪い私のために、市内で一番高価なマットレスを買ってくれたベッド。昨日の夜から、その上で眠る人間はもう私ではない。
ちょうどその時、親友から電話がかかってきた。
「明日のフライト、何時?見送りに行くわ」
私は背を向け、家を離れながら答えた。
「お昼の12時。香港行きよ」
沈南が私の腕を掴んだ。いつもの癖で、彼は尋ねる。
「今回は何日間の予定だ?」
私は深く彼を一瞥し、何も答えずにその手を力強く振り払い、歩き出した。
どれくらいの期間かなんて、もう重要ではない。
私、江佳年は、もう二度とこの男と関わることはないのだ。