話 2
直也は, 目覚めるとひどい喉の渇きを感じた.
昨夜の酒が, まだ体の中に残っている.
いつものように, サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばすが, そこは空っぽだった.
隣には, 静穂の姿がない.
「静穂? 」
呼びかけるが, 返事はない.
彼は, 少しばかり不機嫌になった.
その時, 妹の桃香から電話がかかってきた.
「お兄様, 今から友達連れて行くから! 」
彼の妹は, いつも勝手だった.
直也は, 静穂がいないことに気づき, 眉を顰めた.
いつもなら, 静穂がすべてを準備しているはずなのに.
静穂は, 徹夜でフランス語の勉強をしていた.
頭が重く, 意識が朦朧としていた.
やっと寝入ったかと思うと, 階下から騒がしい声が聞こえてきた.
家中に響き渡る嬌声と笑い声.
私は, ため息をついた.
もう, 休むことも許されないのか.
ノックの音がして, メイドが部屋に入ってきた.
「奥様, お客様がお見えです. お招きしております. 」
メイドの言葉に, 私は顔を顰めた.
「奥様」という呼び名が, 私の心を冷たくする.
私は, この家の奥様ではない.
ただの, 便利な道具.
彼らの前に現れた私を見て, ある男が嘲笑した.
「おや, 奥様じゃないですか. 今日も耳栓ですか? 」
彼の口元が, 醜く歪む.
私は, その言葉に慣れていた.
かつては, ただ笑い返すだけだった.
「そうですよ. 聞こえない振りをして, みんなの話を聞いているんですから. 」
そう言って, 愛想笑いを浮かべた.
でも, もう違う.
彼らの言葉は, 全て私の耳に届いていた.
明確に, はっきりと.
私の心は, 冷たい水に凍りつくようだった.
私は, 彼らにとって, ただの「耳の聞こえない居候」でしかないのだ.
直也は, 私の横にいるのに, 何も言わない.
いや, 何も言えない, といった方が正しいだろうか.
彼の視線は, ずっと理央を追っていた.
その目が, 私を深く傷つけた.
「静穂さん, 大丈夫ですか? 」
数少ない, 私の味方の一人が声をかけてくれた.
彼の優しさが, 私の心を少しだけ温める.
でも, 桃香が, その優しさを打ち砕いた.
「あら, お兄様, 見てください. 静穂ったら, 補聴器をしていないわ! 」
彼女の声は, 甲高く, 悪意に満ちていた.
その言葉に, 周りの人々がどっと笑い出した.
彼らの笑い声が, 私の心を深く抉った.
桃香は, 昔から私が嫌いだった.
いつも, 私を貶めようとする.
私が, 耳が聞こえなくなってからは, その悪意はさらに増した.
かつて, 私が直也のために作ったハーブティーに, わざと塩を入れたこともあった.
私が, それに気づかないふりをして飲んだ時, 彼女は満足そうに笑っていた.
私は, いつもそうやって, 彼らの悪意を受け入れてきた.
でも, もう違う.
私は, もう彼らの餌食にはならない.
私は, 彼らの嘲笑を無視して, 笑みを浮かべた.
聞こえないふりをするのは, もうお手の物だった.
その時, 理央が姿を現した.
彼女の登場に, 場の空気が一変する.
彼女は, まるで光を纏っているかのように, 美しかった.
直也の友人も, 手のひらを返すように理央に群がる.
彼らは, 私を無視して, 理央を賞賛する.
私は, 彼らとは違う.
彼らの世界には, 私がいる場所はない.
直也の書斎にあった, 理央の肖像画が頭に浮かんだ.
「私の唯一のミューズ, 理央へ」
直也の直筆で書かれたその言葉が, 私の心を深く抉った.
私を助けた理由.
私と婚約した理由.
全てが, 理央への執着だったのだ.
私は, もう耐えられなかった.
この場所から逃げ出したい.
そう思った時, 背後から歓声が聞こえてきた.
思わず, 振り返る.
理央が, 水着姿でプールサイドに立っていた.
彼女は, 皆の視線を浴びて, 得意げに笑っている.
その姿は, まるで私を嘲笑っているかのようだった.
直也が, 急いで理央にタオルをかけた.
「理央, 風邪をひくだろう? 」
彼の声は, 優しさに満ちていた.
理央は, 直也の腕に顔を埋め, 甘えるように微笑んだ.
その光景が, 私の心を深く抉った.
私を庇うことは, 一度もなかったくせに.
本当の愛は, 見せびらかすものではなく, 守り抜くものだ.
私は, それを知った.
私は, 自室に戻った.
震える手で, 海外留学代理店の連絡先を探す.
「もしもし. ビザの状況は, どうなっていますか? 」
私の声は, ひどく冷徹だった.
この街には, もう私を留めるものはない.
失うものも, 何も.
ただ, 留学費用が, 私の心を重くする.
私は, 直也が贈ってくれた指輪を眺めた.
これは, 私が得るべきもの.
彼らの心と引き換えに, 私が得た対価だ.
「奥様, お兄様がお飲み物をお探しです. 」
桃香の甲高い声が, 私の耳に届いた.
私は, 振り向いた.
「お飲み物ですか? 」
私の声は, 冷静だった.
桃香は, 私を睨みつけた.
「まさか, まだ準備していないの? ! 」
私は, もう何日も, 直也のためにお茶を淹れていなかった.
かつての私は, 毎日, 直也のためにハーブティーを淹れていた.
彼の健康を気遣い, 薬膳の勉強までした.
彼が, 一口飲むだけで, 私の心は満たされた.
たとえ, 彼が残したとしても.
しかし, 手術後, 私はもう何も準備しなくなった.
私の心は, 完全に枯れ果てていた.
「誰にお飲み物ですか? 」
私は, 桃香に問いかけた.
彼女の顔が, 驚きで歪む.
「もちろん, 理央よ! 理央が風邪をひいたら, お兄様が心配するでしょう! 」
彼女の声に, 私は静かに頷いた.
「そう. おじい様も, 奥様の役割をしっかり果たすよう, おっしゃっていたわよね. 」
私は, 心の中で嘲笑った.
私は, もう彼らの人形ではない.
彼らの鎖から, 解き放たれたのだ.
理央が, わざとらしく咳をする.
「静穂さん, お願い. ハーブティーを淹れてくれない? あなたのハーブティーが, 一番効くのよ. 」
彼女の声は, 甘く, 媚びるようだった.
私は, 彼女の演技を見抜いていた.
彼女は, 私を試している.
私を, 従順な「奥様」として, 利用しようとしているのだ.
私は, 静かに頭を下げた.
「分かりました. 失礼いたします. 」
そう言って, キッチンに向かおうとした時, 理央が私を呼び止めた.
「でも, 私が奥様専属のハーブティーを奪ってしまっていいのかしら? 」
彼女の言葉に, 私は顔を上げた.
彼女は, わざとらしく私を気遣うふりをしている.
私は, 冷たい視線で彼女を見つめた.
「あなたは, 私のハーブティーを奪うことなど, できませんわ. 」
私の言葉に, 彼女の顔が凍りついた.
その時, 直也が階段を降りてきた.
彼の目は, 私と理央の間をさまよう.
私の心は, 冷たい氷に覆われていた.
彼が, 何を言うか, 私は知っていた.
彼は, 理央を選び, 私を捨てるだろう.
そして, 私の予想通り, 彼は言った.
「静穂, 理央が風邪をひいているんだ. 早くハーブティーを淹れてやってくれ. 」
彼の声は, 命令的だった.
理央は, 直也の腕に抱きつき, 甘えるように微笑んだ.
「直也, いいのよ. 静穂さんには悪いわ. 」
彼女の演技は, 完璧だった.
私は, もうこれ以上, 彼らの茶番に付き合う気はなかった.
「申し訳ありませんが, 私にはできません. 」
私の声は, 静かに, しかしはっきりと響いた.
直也の顔が, 驚きで歪む.
「どういうことだ? 」
彼の声には, 怒りの色が混じっていた.
「この家には, メイドがいるでしょう? 彼女たちに頼んでください. 」
私は, そう言って, その場を離れた.
彼らの顔が, 驚きと怒りで歪む.
私は, もう彼らの感情に, 振り回されることはない.
私の心は, 完全に自由になったのだ.
話 3
直也は, 私が出て行った後の静けさに戸惑っていた.
「静穂は, 一体どうしたんだ? 」
彼には, 私の態度が理解できなかった.
いつものように, 私をなだめるために, 彼は秘書に命じた.
「最高級の宝石を用意しろ. 静穂に贈る. 」
彼は, 金で女の心を操れると信じていた.
かつては, 私もそうだった.
彼が贈ってくれた宝石に, 私は喜びを隠しきれなかった.
しかし, それは, 私を縛り付ける鎖でしかなかった.
秘書は, 彼に報告した.
「奥様は, 特に喜んでいらっしゃいませんでした. 」
直也は, その言葉に眉を顰めた.
彼は, その意味を深く考えることはなかった.
ただ, 今は目の前の仕事に集中するだけだ.
彼の頭の中は, 新しいプロジェクトのことでいっぱいだった.
私は, 論文のテーマを提出していた.
卒業は, もう間近に迫っている.
論文の執筆は, 私にとって苦ではなかった.
むしろ, 私の才能を思う存分発揮できる場所だった.
しかし, 私には, 一つだけ問題があった.
言葉の壁.
聴力を失っていた間, 私の言語能力は著しく衰えていた.
私は, 必死に勉強した.
フランス語, 英語, そして日本語.
すべてを, 一から学び直した.
私は, 友人に電話をかけた.
「もしもし. ちょっと, 相談したいことがあるのだけれど... 」
私の声に, 友人は驚いていた.
「静穂? 本当に, 聞こえるようになったの? ! 」
彼女の声は, 震えていた.
私は, 微笑んだ.
「ええ. また, 会って話しましょう. 」
私たちは, 近いうちに会う約束をした.
友人を待っている時, 直也から電話がかかってきた.
「静穂, ハーブティーの作り方を教えてくれ! 」
彼の声は, ひどく焦っていた.
私は, 困惑した.
なぜ, 今更?
電話の向こうから, メイドたちの慌てた声が聞こえる.
「坊ちゃま, それは危険です! 」
直也は, メイドたちの制止を振り切り, 必死にハーブティーを作ろうとしているようだった.
「なぜ, 俺には静穂のような味が出せないんだ! 」
彼の声は, 苛立ちに満ちていた.
「理央が, 熱を出しているんだ. いくら薬を飲ませても, 熱が下がらない. 」
彼の言葉に, 私は静かに耳を傾けた.
理央.
彼の心を支配する女.
彼の頭の中は, 今, 理央のことだけでいっぱいなのだろう.
私は, 想像した.
彼が, 理央のために, 必死にハーブティーを作っている姿を.
そして, 彼が, 私のためには, 一度もそうしなかったことを.
直也は, 普段, 料理など一切しない男だった.
私のために, 食事を用意してくれたことなど, 一度もない.
私が, 高熱を出して寝込んだ時も, 彼は私を看病しようとはしなかった.
ただ, メイドに看病を任せ, 自分は遊びに出かけていた.
私は, 異国の地で, 一人孤独に病と闘った.
その時のことを思い出すと, 今でも心が痛む.
しかし, 理央のためなら, 彼は変わる.
初恋の相手.
その言葉が, 私の心を深く抉った.
私は, 冷たいコーヒーを口に含んだ.
苦いはずなのに, 何も感じない.
私の心は, 完全に麻痺していた.
私は, 電話を切った.
もう, 彼らに関わる必要はない.
友人が, 息を切らして駆け寄ってきた.
「静穂, ごめんね. 直也に捕まってしまったの. 」
彼女は, そう言って, 直也の文句を言った.
「あの男, 理央のために, また宝石を探しているのよ. 私に, 夜中に無理やり付き合わせるなんて! 」
私は, 彼女の言葉に驚いた.
直也が, 理央のために, また宝石を贈ろうとしているのか.
友人は, 私に一枚の写真を見せた.
そこには, 直也が理央に贈る予定の, 豪華なネックレスが写っていた.
私は, それを見て, 静かに頷いた.
私は, もう彼らのことを, 何とも思わない.
私の耳は, 全てを聞き取っていた.
彼らの悪意. 彼らの嘲笑.
全てが, 私の心を冷たくする.
私が, 留学の費用について話すと, 友人は呆れた顔をした.
「静穂, あなたは何を言っているの? そんなもの, お金で解決すればいいじゃない. 」
彼女の言葉に, 私は驚いた.
「お金で? 」
「そうよ. あなたは, あの貝塚家の婚約者だったのよ. タダで出ていくなんて, もったいないわ! 」
彼女は, そう言って, 私の肩を叩いた.
私は, 静かに頷いた.
彼女の言葉に, 私は救われた気がした.
友人は, 真剣な顔で私に尋ねた.
「静穂, 本当にあいつと別れるの? 」
私は, 迷うことなく頷いた.
「ええ. 」
私の心に, 迷いはなかった.
「そう. なら, この指輪, 売ってしまいましょう. 」
友人は, そう言って, 私の指輪を指差した.
私は, 驚いた.
「いいの? 」
「もちろんよ. あなたには, もっと良い指輪が似合うわ. 」
彼女の言葉に, 私は微笑んだ.
友人は, 一枚の招待状を私に差し出した.
そこには, 「チャリティオークション」の文字が書かれていた.
「このオークションで, あなたの指輪を売れば, 高値で売れるはずよ. 」
私は, 彼女の言葉に驚いた.
彼女は, 本当に私のことを考えてくれている.
私は, 心の中で深く感謝した.
数日後, 私は直也の家を出た.
私は, 彼に電話をかけた.
しかし, 電話に出たのは, 桃香だった.
「あら, 静穂. どうしたの? もしかして, お兄様の様子を探っているの? 」
彼女の声は, 嘲笑に満ちていた.
「お兄様は, 今, 理央とウェディングドレスを選んでいるわ. あなたには, もう関係ないことなのよ. 」
その言葉に, 私の心は凍りついた.
桃香は, 私に警告した.
「二度と, お兄様の邪魔をしないで. あなたは, もうこの家族とは関係ないのよ. 」
私は, 電話を切った.
私の心は, 空っぽだった.
私は, 自嘲するように笑った.
直也は, 私が消えても, 何も感じないだろう.
私の存在など, 彼にとっては, どうでもいいものだったのだから.
私は, オークション会場に向かった.
私の服装は, 周りの華やかな人々と比べて, ひどく地味だった.
でも, 私は, もう気にならなかった.
私には, 私が手に入れた自由がある.
その時, 会場がざわめいた.
皆の視線が, 舞台に向けられる.
そこには, 直也と理央が立っていた.
理央の指には, あの豪華なネックレスが輝いていた.
直也が, 理央のために用意した, あのネックレス.
かつて, 私が彼から贈られたのは, ありふれたものだった.
私は, 彼の愛が, 私にとっては偽りだったことを知った.