話 1
夫の書斎の床に落ちていた極秘報告書.
そこに記された一文が, 私の人生を粉々に砕いた.
『仁科乃々紗の救助を最優先とし, 妻の真理は後回しにせよ』
1年前の豪華客船沈没事故.
夫は「救助が遅れた」と泣いて謝ったが, 全ては偽りだったのだ.
あの日, 私は炎の中で夫の名を叫び続け, お腹の子を失い, 一生消えない火傷を負った.
それなのに夫は, 私が心血を注いだ香水を愛人の手柄として発表し, 私に笑顔で付き添えと命じた.
発表会の夜, 愛人は私の耳元で勝ち誇ったように囁いた.
「あの流産も火傷も, 全部私が仕組んだのよ. お姉様なんていらないわ」
私の心の中で, 愛が憎悪へと変わる音がした.
私は夫に「別荘で朝日を見よう」と嘘の約束をし, 嵐の海へと向かった.
彼に送ったのは, 全ての証拠データと離婚届.
そして私は, 岸壁にストールだけを残し, この世から「消える」ことを選んだ.
第1章
菊地真理 POV:
私の心臓は, 夫の書斎の冷たい床に落ちた. そこに広がる極秘報告書の一文が, 私の人生を, そして私たちの結婚が抱えていた偽りの全てを, 一瞬で引き裂いたからだ. 1年前の豪華客船沈没事故. あの日の悪夢が, 私の脳裏に鮮明に蘇る. あの時, 私はお腹の子を失い, 体には一生消えない火傷を負った. 成也は, 救助隊の到着が遅れたせいだと言った. 私はその言葉を信じた. 彼を信じたかった.
しかし, この報告書は, 成也の直筆サイン入りで, こう告げていた. 『仁科乃々紗の救助を最優先とし, 他の乗客 (真理を含む) は後回しにせよ』.
私の呼吸が止まった. 胸が締め付けられ, 肺が空気を拒否する. 全身の血が一瞬で冷えきった. 体の震えが止まらない. 目に映る文字は, ただのインクの染みではなく, 私の愛と信頼を踏みにじる鈍器のように感じられた. あの時, 船が傾き, 炎が迫る中で, 私は何度も成也の名前を叫んだ. 助けを求めた. しかし, 彼は来なかった. いや, 彼は「来なかった」のではなく, 「私を助けない」という選択をしたのだ.
私の腕に残る火傷痕が, ズキズキと痛み始めた. 胎動を感じられなくなったあの日, 血の海に倒れ込んだ私の絶望. それは, 成也が乃々紗のために下した「冷酷な決断」の代償だった.
「救助隊の到着が遅れた」?
彼の言葉は, 私の耳の中で嘲笑うように響いた. それは私を慰めるための嘘などではなかった. 私を, そして私たちの子を, 見殺しにしたという事実を隠蔽するための, ただの偽りだ.
私の手は, 報告書の端を強く握りしめた. 指の爪が紙に食い込み, 小さな破れ目ができる. しかし, その痛みさえも, 心臓が引き裂かれるような激痛の前では何の意味も持たなかった.
愛していた. 心から. 彼の妻として, 彼の会社の陰の立役者として, 全てを捧げてきた. 私の才能, 私の時間, 私の人生. 全てを成也のために使ってきた. それが, 彼の私への「報い」だったのか.
書斎の重厚なドアが開き, 成也が部屋に入ってきた. 彼はいつものように, 完璧なビジネススーツに身を包み, 疲れた顔をしていた. 彼が私を見つけるなり, その表情が少し和らいだ.
「真理, こんなところで何をしていたんだ? もうすぐ乃々紗の香水発表会だ. 準備はいいかい? 」
彼の声が, 私の耳には現実味のない遠い響きに聞こえた. 乃々紗の香水発表会. 私が心血を注いで完成させた『エターナル・ラブ』. その功績は, 全て乃々紗のものとして発表される.
「ああ, もちろんよ, 成也さん」
私は震える声で答えた. 唇の端が, 勝手に引きつるのを感じた. 私の目には, 彼の顔が, 知らない人のように映っていた. 見慣れたはずのその顔が, 今や冷酷な裏切り者の仮面に見えた.
成也は私の顔をじっと見た. 何かを感じ取ったのだろうか. 彼の眉が, わずかにひそめられた.
「どうかしたのか? 顔色が悪いようだが…無理はするな. 乃々紗は体が弱いから, 自信を持たせてやりたいんだ. 君も理解してくれるだろう? 」
その言葉が, 私の心臓をもう一度, 冷たいナイフで突き刺した. 彼の声には, 私への配慮など微塵も感じられなかった. あるのは, 乃々紗への過保護な愛情と, 私への当然視された要求だけだ. 彼の目には, 乃々紗のことしか映っていない. 私のアレルギーを軽視して屋敷中にカサブランカを飾った日のことが, 走馬灯のように脳裏を駆け巡った. あの時も, 今も, 彼は乃々紗のことしか考えていない.
私はゆっくりと立ち上がった. 報告書は, すでに私の手の中に隠されている.
「ええ, もちろん. 私は, あなたの妻だもの」
私は無理に微笑んだ. その笑顔が, どれほど虚ろなものだったか, 彼には見えなかったはずだ. 彼にとって, 私は「いるのが当たり前」の存在. 空気と同じだ. 私の心の中では, 愛が憎しみに変わる音を立てて崩れ落ちていく. そして, 私の心には, もう一つの感情が芽生え始めていた.
復讐だ.
私の心の奥底で, 何かが決壊する音がした. 崩れ落ちる残骸の中から, 冷たく, 硬い決意が生まれる.
「では, 私は先に行って準備しておくわ. あなたも早く来てね」
私はそう言って, 成也の書斎を後にした. 彼の背中が, まるで私の存在など最初からなかったかのように, 遠ざかっていく. 私の手の中の報告書が, 私の未来の道筋を鮮やかに照らしているように感じられた. それは, 絶望の道ではなく, 決別の道だ.
私の心は, 凍りついていた.
話 2
菊地真理 POV:
翌朝, 私はいつものように目を覚ました. ベッドの隣には, まだ深く眠る成也がいた. 昨夜の衝撃的な真実が, まだ心臓を締め付けている. しかし, 私の顔には一切の感情が表れていないはずだ. 私は仮面を被ることに慣れていた.
洗面台の前で, 私は自分の顔をじっと見つめた. そこには, 完璧に整えられた妻の顔があった. 化粧が, 私自身の感情を隠す盾となる. 鏡の中の私は, もう怯える私ではなかった.
リビングに降りると, テーブルには朝食が並べられていた. いつも通りだ. 私が淹れた紅茶の香りが, 部屋を満たす. 成也が降りてきて, 椅子に座った.
「おはよう, 真理」
彼の声は, 昨夜と変わらない優しさを装っていた. 私はただ, 無言で頷き, 彼のカップに紅茶を注いだ.
「今日はいよいよ乃々紗の発表会だね. 君の作品が世に出るんだ. 嬉しいかい? 」
彼は私の顔を見ずに, 新聞を広げながら言った. 私の作品. 私が夜を徹して, 心を込めて作った香水『エターナル・ラブ』. その香水には, 私たちの愛が永遠に続くようにという, 私の切なる願いが込められていた. しかし, その願いは, 彼の手によって踏みにじられた.
「ええ, もちろんよ. とても光栄だわ」
私は, 乾いた声で答えた. 心の中では, 吐き気がしていた. これは, 私にとって, 彼らの欺瞞に満ちた世界に, 妻として出席する最後の機会となるだろう.
会場に着くと, すでに多くの招待客で賑わっていた. きらびやかな衣装を纏った人々が, シャンパングラスを片手に談笑している. その中心には, もちろん, 乃々紗がいた. 彼女は白いドレスを身にまとい, まるで純真無垢な天使のように微笑んでいる. しかし, 私の目には, その笑顔の裏に隠された醜悪な本性が見えていた.
「乃々紗様, 素晴らしい香水ですね! 」
「一体, どのようにしてこんな香りを生み出されたのですか? 」
周囲の称賛の声が, 乃々紗に降り注ぐ. 「ありがとう存じます. これも, 成也お兄様の支えがあったからこそ. そして, 菊地真理お姉様の助言も, ほんの少しございましたのよ」
乃々紗は, 謙虚を装いながら, 私に視線を向けた. その目は, 一瞬だけ, 悪意に満ちた光を放った. それは, 私に対する勝利宣言のようだった.
私の心臓が, 冷たい氷でできた塊のように感じられた. あの女は, 私の努力を, 私の才能を, 私の人生を, 全て奪い去ろうとしている.
「乃々紗様, 今夜は特に美しいですね」
成也が乃々紗の隣に立ち, その肩に手を置いた. 彼の顔には, 私が滅多に見ることのない, 深く優しい愛情が浮かんでいる. その瞬間, 私の存在は, 彼らの間にある見えない壁によって完全に遮断されたように感じた.
私の視線は, 展示されている香水『エターナル・ラブ』に吸い寄せられた. 洗練されたボトルデザイン. その中に揺れる琥珀色の液体. それは, 私の魂の結晶だった. 私がどれほどの情熱と時間を, この香りに注ぎ込んだか.
「まさか, これが…」
私の唇から, かすれた声が漏れた. それは, 私がかつて成也のために作った, 特別な香水だった. 彼への愛を, 形にしたものだ. それなのに, それが今, 乃々紗の名前で, 世に出されようとしている.
「あら, お姉様, どうかなさいましたの? 」
乃々紗が, 私のすぐ隣に立っていた. 彼女の白い指が, 私の腕に触れる. その触れた場所から, 冷たい悪寒が走った.
「この香水は, まさか…」
私は, 震える声で尋ねた. 乃々紗は, 私の耳元に顔を寄せ, 囁いた.
「ええ, お姉様のために, 私が, 特別に調合したものよ. 成也お兄様が, お姉様が調香師としての才能を枯らさないようにと, 私の名を借りて, 発表を許可してくださったの. 感謝して頂戴ね」
彼女の言葉は, 蜜のように甘く, しかしその裏には, 猛毒が隠されていた. 彼女は, 私の才能を「枯らさないように」という名目で, 私から全てを奪ったのだ.
私の爪が, 手のひらに食い込んだ. 怒りが, 私の血管を煮えたぎらせる. しかし, 私は感情を表に出さない.
「…そう. それは, ありがとう」
私は, 絞り出すような声で言った. その時, 乃々紗が, 突然バランスを崩し, 展示台にぶつかった. 瓶がいくつか倒れ, ガラスが砕け散る音が会場に響き渡った.
「きゃっ! 」
乃々紗は, 小さな悲鳴を上げた. 彼女の手のひらから, 血がにじんでいる. 会場の視線が, 一斉に私たちに集まった.
「乃々紗様! 大丈夫ですか! ? 」
成也が, 乃々紗の元へ駆け寄った. 彼の顔には, 深い心配の色が浮かんでいる. 彼は, 私の存在など, 最初から目に入っていないかのように, 乃々紗の小さな擦り傷を心配している.
「お姉様が, 急に押したから…」
乃々紗は, 成也の腕の中で, か細い声で囁いた. その言葉が, 会場中に響き渡る. 人々の視線が, 私に突き刺さる. 非難, 疑惑, 軽蔑. それらの視線が, 私を貫いた.
「真理! 一体, 何をしていたんだ! 」
成也の声が, 氷のように冷たく, 私の心を凍らせた. 彼は, 私の目を見て, まるで私がこの世で最も忌まわしい存在であるかのように, 私を睨んだ.
「成也さん…私は…」
私は, 何か言い訳をしようとした. しかし, 言葉が喉に詰まって出てこない.
「この香水は, 私が作ったものよ! 乃々紗さん, あなた, 私の作品を盗んだでしょう! 」
私は, 怒りと絶望に震える声で叫んだ. 会場が, 一瞬, 静まり返る.
成也の目が, 驚きに見開かれた.
「真理, 何を言っているんだ. 乃々紗が, 君の作品を奪うわけがないだろう. 乃々紗は体が弱いんだ. 君も知っているだろう? 」
彼はそう言って, 乃々紗を庇った. 彼の言葉は, 私の心を打ち砕く最後のハンマーだった. 彼の目には, 疑念と, 私への失望が混じっていた.
私が作った『エターナル・ラブ』. それは, 私たち二人の永遠の愛を願って作られた. しかし, 今やそれは, 彼らの裏切りの象徴となった.
私の口から, 乾いた笑いが漏れた. それは, 悲しみでも, 怒りでもない, ただの空虚な響きだった.
「ふふふ…あはははは! 」
私の笑い声が, きらびやかな会場に響き渡る. 人々の視線が, 私を狂人を見るように見ている.
成也の顔が, わずかに狼狽の色を帯びた. 彼は私の腕を掴み, 会場から連れ出そうとした.
「真理, 落ち着くんだ. 話は後で聞くから」
彼の言葉には, 今や何の温かみもなかった. 彼の触れる手が, 私には汚れたもののように感じられた.
私は, 彼の腕を振り払った. そして, 彼の目を見つめ, 言った.
「成也さん…お願いがあるの」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
「私と一緒に, 朝日を見に行かない? あの海の別荘で」
それは, 私たちにとって, 最初で最後の, そして最も残酷な, 別れの儀式となるだろう.
話 3
菊地真理 POV:
成也は私の突然の提案に戸惑いながらも, 頷いた. 車の中は, 重苦しい沈黙に包まれていた. エンジンの音が, 私たちの間に広がる壁のように感じられる. 私は窓の外に流れる夜の街並みをぼんやりと眺めていた. 成也は, 時折, 私に視線を投げかけるが, 私はそれに応えなかった.
彼の手に, そっと私の手が重ねられた. その温もりが, 私には何の感情も呼び起こさない. かつては, この手の温かさが, 私をどれほど安心させてくれただろう. しかし, 今では, それはただの偽りの温もりだ.
「真理, すまなかった. 今日の乃々紗のことは…」
成也が, 口を開いた. 彼の声は, 罪悪感に満ちていた.
「いや, いいの」
私は, 彼の言葉を遮った.
「きっと, 私が悪かったのね」
私は, 自嘲するように呟いた. 彼の言葉など, もう私には届かない.
「そんなことはない. 君は, いつも私を支えてくれた. 乃々紗のことは…あの子は体が弱いから, つい, 私も…」
彼の言葉が, 私の耳には, 砂を噛むように響いた. 体の弱い乃々紗. その言葉が, 私の心の中で, 子供を失ったあの日と, 私を救わず乃々紗を優先したあの報告書と結びついた.
「ねぇ, 成也さん」
私は彼の顔を見た. 彼の目は, 私を真っ直ぐに見つめていた.
「もし, 私たちが…あの時, 子供を失わなかったら, どうなっていたと思う? 」
私の言葉に, 成也の顔色が, 一瞬にして青ざめた. 彼は, ハンドルを握る手に力を込めた.
「真理…その話は…」
「怖いの? 」
私は, 冷たい声で尋ねた.
「私たちが, あの時, 無事に子供を授かっていたら, あなたは, 乃々紗を優先したかしら? 」
成也は, 答えなかった. 彼の視線は, 前方の道路に固定されていた. その沈黙が, 私の問いへの答えだった.
一瞬の沈黙の後, 彼の携帯電話が鳴り響いた. 着信画面には, 「乃々紗」の文字.
成也は, 一瞬ためらったが, 電話に出た.
「もしもし, 乃々紗…どうした? 」
彼の声は, 私と話していた時とは打って変わって, 優しい響きを帯びていた. 電話の向こうから, 乃々紗のか細い声が聞こえてくる.
「ええ, 分かった. すぐに駆けつけるよ」
成也は, 電話を切った. 彼の顔には, 再び心配の色が浮かんでいる.
「真理, すまない. 乃々紗が…少し気分が悪いらしくて. すぐに病院に連れて行かないと」
彼は, 私に視線を向けた. その目には, 私への申し訳なさよりも, 乃々紗への心配の方が強く表れている.
「そう…分かったわ」
私は, 静かに答えた. 何の感情も込めていない声だった.
「私は, このまま別荘に向かうわ. あなたは, 乃々紗さんのところに行ってあげて」
成也は, 私の言葉に, 驚いたような顔をした.
「だが, 真理…君一人で…」
「大丈夫よ. 慣れているもの」
私は, 微笑んだ. その笑顔は, 私の心と同じくらい, 冷たいものだった. 成也は, 私の言葉に, 何も言えなかった. 彼は, 私を途中の駅で降ろすと, 乃々紗の元へと車を走らせた. 彼の車のテールランプが, 暗闇の中に消えていく.
私は一人, タクシーを拾い, 海辺の別荘へと向かった. 外は, 嵐の前の静けさだった.
別荘に着くと, 私は携帯電話を取り出した. 乃々紗のSNSアカウントを開く. そこには, 数分前に投稿されたばかりの写真がアップされていた. 病院のベッドに横たわる乃々紗. その傍らには, 心配そうに見つめる成也の姿.
「成也お兄様が, ずっとそばにいてくださるわ. 優しいお兄様」
彼女の投稿には, そんな言葉が添えられていた. 私の心臓が, 再び冷たい氷でできた塊のように感じられた. 彼は, 私との約束を破り, 乃々紗の元へと駆けつけたのだ.
私は, 成也の携帯電話に電話をかけた. 呼び出し音が鳴る. しかし, 誰も出ない.
その時, 電話の向こうから, 乃々紗の声が聞こえてきた.
「もしもし? あら, 菊地真理お姉様じゃない. こんな夜中に, 何の御用かしら? 」
乃々紗の声は, どこか得意げだった. 私の心臓が, 激しく脈打つ.
「成也さんは…? 」
私は, 震える声で尋ねた.
「成也お兄様なら, 私の隣で眠っていらっしゃるわ. 私が, 寂しいからって, お願いしたの. お姉様が, 一人で寂しく朝日を見るなんて, 可哀想ね」
彼女の声が, 私の耳元で嘲笑うように響いた.
「そういえば, お姉様, あの船の事故のこと, まだ覚えていらっしゃるかしら? あの時, 成也お兄様は, 私を一番に助けるようにって, はっきりと命令してくださったのよ. お姉様が, お腹に子供がいたとしても, 関係ないって. ふふふ, お姉様って, 本当に不運ね」
乃々紗の言葉が, 私の脳裏に, あの日の惨状を鮮明に蘇らせた. 炎, 水, そして成也の冷酷な言葉.
「あの火傷も, 流産も, 全部, 私が仕組んだことよ. あなたなんかいらない. 成也お兄様には, 私がいればいいのよ! 」
彼女の言葉は, 私の心を, 完全に打ち砕いた. 私は, 携帯電話を握りしめる手に力を込めた. 指の爪が, 手のひらに食い込み, 血がにじむ.
私は, 震える手で, 電話を切った.
外の風が, 激しく窓を叩く. 嵐の夜が始まろうとしていた. 私は一人, 別荘の窓辺に立ち, 荒れ狂う海を見つめた. 成也は, 来ない. 彼は, 乃々紗の元へと行ってしまった. 私との約束など, 彼にとっては, どうでもいいことなのだ.
かつて成也が, 私に囁いた愛の言葉が, 虚しく私の耳に響く.
「真理, 君こそが, 僕の永遠の愛だ」
「どんな時も, 君を一番に守る」
彼の言葉は, 今や, 私への最も残酷な嘲笑となった. 乃々紗には, あれほど優しかった彼が, 私には, 冷酷な裏切り者だった. 私の心は, 完全に冷え切っていた. もう, 何も感じない. 何も求めない.