話 2
依央はペントハウスに戻ってこなかった。
その代わり、彼の復讐は静かに始まった。兜町というチェス盤の上で、計算され尽くした一連の動きとして。
グロリアはオフィスで、真壁が朝の報告をするのを聴いていた。白いドーベルマンが彼女の膝に頭を乗せている。彼女がその滑らかな頭を撫でると、真壁の落ち着いた声に犬の耳がぴくりと動いた。
「神崎が、我々の技術セクターにおける主要戦略パートナーの一つであるチェン・インダストリーズに対し、敵対的買収を開始しました」
グロリアの手が、犬の頭の上で止まった。
「また、バイオジェン社に対する我々のポジションを空売りしています。ここで働いていた時に得た情報を利用して」
彼女は沈黙したまま、視線を摩天楼に固定していた。
「そして、冬城様」
真壁の声が、初めてためらいがちに響いた。
「もう一つございます」
彼は一呼吸置いた。
「聖路加国際病院東棟の解体許可が、今朝承認されました」
ドーベルマンが、彼女の手に突然走った緊張を感じ取り、クンと鳴いた。
東棟。
希・冬城記念小児がん病棟。
彼らが娘を偲んで資金を提供した、あの病棟。
グロリアの指が、無意識の怒りの痙攣で、犬の首輪を強く握りしめた。ドーベルマンが苦痛にキャンと鳴く。
彼女はすぐに力を緩め、息を呑んだ。
「もう一度言って」
彼女の声は、危険なほど静かだった。
「神崎が病院の理事としての地位を利用し、解体を早めたようです」
真壁は厳しい顔で報告した。
「構造上の問題を挙げていますが、それは嘘です」
「なぜ?」
その言葉は、かろうじて囁きになった。
「最新鋭の高級スパとウェルネスセンターを建設するとのことです。吉良カイリへの……贈り物として」
グロリアの唇から、息を呑む音と唸り声の中間のような音が漏れた。
彼女は椅子が壁にぶつかるほど唐突に立ち上がった。
机の上のバカラのクリスタルグラスが、水で満たされたまま震え、大理石の床に砕け散った。
「車を回して」
彼女の声は氷のようだった。
聖路加国際病院への道中は、記憶が曖昧だった。到着した時には、破壊はすでに始まっていた。
クレーンに取り付けられた鉄球が、建物に向かって気だるそうに揺れ、レンガとガラスの塊をえぐり取っていた。
「希・冬城記念病棟」と刻まれた大きなブロンズの銘板は壁から引き剥がされ、瓦礫の山に打ち捨てられていた。
そして、埃と混沌のただ中に、カイリがいた。
彼女は鮮やかな黄色のヘルメットをかぶり、陽気で大げさな身振りで作業員たちに指示を出していた。
手にはピンクの風船の束を持っている。
依央はその近くに立ち、自分のレクサスにもたれかかり、彼女を見つめながら優しい笑みを浮かべていた。彼らはまるで、夢のマイホームの建設を見守る幸せなカップルのようだった。
グロリアの車が、甲高い音を立てて急停止した。
彼女は車を降り、トランクを開けた。別荘に行く時に使うショットガンを取り出す。
彼女はトランクを叩きつけた。その音は、騒がしい工事現場に響く雷鳴のようだった。
カイリが振り返り、グロリアが近づいてくるのを見て、その笑みが揺らいだ。
「グロリア! びっくりしたわ」
彼女はさりげなさを装って、甲高い声で言った。
グロリアはショットガンを構えた。
カイリを狙ったのではない。
風船を狙った。
彼女は引き金を引いた。
爆発音が周囲のビルに反響する。ピンクの風船はゴムの切れ端となって四散した。
カイリは悲鳴を上げ、瓦礫の山の後ろに飛び込んだ。
「気は確かか!」
依央が前に駆け寄り、怒鳴った。
グロリアは彼を無視した。ショットガンを装填し、鋭く威嚇的な音を立て、再び空中に向かって発砲した。
今度は、解体作業員たちが道具を落とし、我先にと避難した。クレーンのオペレーターは、両手を挙げて凍りついた。
現場に静寂が訪れた。
「神崎依央と吉良カイリ以外の全員」
グロリアの声が、明瞭で、威厳を持って響き渡った。
「五秒以内に立ち去りなさい。それ以降は、あなたたちも標的と見なす」
作業員たちに二度言う必要はなかった。彼らは逃げ出した。
カイリが瓦礫の後ろから顔を覗かせた。その顔は青白い。
「あんたはただ、彼が幸せなのが我慢できない、負け犬のババアよ」と彼女は吐き捨てた。
依央は彼女の前に立ち、自分の体で彼女を庇った。その庇護的な仕草が、グロリアの心の奥深くをねじ曲げた。
「もう終わりだ、グロリア」
依央の声には、残酷な憐れみが滲んでいた。
「過去からは前に進まないと。カイリが俺の未来だ。彼女は俺に子供をくれる。新しい始まりを」
彼は後ろに手を伸ばし、カイリの手を取った。
「お前はいつも仕事に、支配することに執着していた。そうじゃなかったら、希は今もここにいたかもしれない」
その言葉は、物理的な打撃のような力で彼女を襲った。
「カイリは純粋なんだ」
彼は吐き気のするような誠実さで満ちた声で続けた。
「俺たちがいたような……罪に汚れていない。この場所は……悪い思い出が多すぎる。新しいもの、美しいものを築く時なんだ」
グロリアの手が震えた。一瞬、視界がぼやけ、ショットガンの照準を合わせることができなかった。
「奥様?」
真壁が彼女の肘に寄り添い、低い声で心配そうに囁いた。
彼女は首を振り、彼を優しく押しやった。
彼女はショットガンを下ろした。
彼らを通り過ぎ、ブロンズの銘板が横たわる瓦礫の方へ歩いていく。彼女は硬い動きで屈み、部下二人にそれを持ち上げるよう命じた。
「帰るわ」
彼女の声はかすれていた。
彼女は振り返り、重い銘板を運ぶ部下たちを連れて車へと戻り始めた。
病棟の献堂式にもいた、病院の牧師であるマイケル神父が駆け寄ってきた。彼は、外れていた小さな礎石の箱を彼女の手に渡した。中には、彼女と依央の写真、そして彼女自身の髪の束が入っていた。
彼女はその箱を胸に抱きしめた。あの日の記憶はあまりにも鮮明だった。依央が、彼女の肩に腕を回し、カメラに向かって微笑んでいた。彼は、娘の記憶が他の病気の子供たちの希望の光になると約束した。
「待て」
依央が後ろから呼びかけた。
彼女は立ち止まったが、振り返らなかった。
「それを勝手に持って行くな」と彼は言った。「それは病院の歴史の一部だ。新しいスパのデザインに……組み込むことができる。追悼として」
「そうよ!」
カイリが熱心に付け加えた。
「泥風呂の部屋にでも置けばいいじゃない!」
グロリアは答えなかった。ただ歩き続けた。
依央は彼女に飛びかかり、箱を奪おうとした。
彼女のボディガードが即座に彼を阻止し、その腕を背後で押さえつけた。
彼女はついに彼と向き合った。その目は冬の空のように死んでいた。
「これは決してビジネスの話ではなかった、依央」
彼女の声は平坦で、均一だった。
「でも、あなたはこれを殲滅戦にした」
「これからは、あんたが吸う息の一口一口が、私からの贈り物よ。そして私は、必ず取り立てに行く」
話 3
依央は二週間、ペントハウスに戻らなかった。
彼が再び姿を現した時、それは街中のあらゆる雑誌やタブロイド紙の表紙だった。
彼とカイリはどこにでも写真に撮られた。ファッションウィークの最前列、サント・バルテルミー島でのヨット休暇、エッフェル塔の下でのキス。
彼らはニューヨークの新しいゴールデンカップルだった。
インタビューで、依央はカイリを絶賛した。彼は彼女を救世主、暗く毒々しい螺旋から彼を救い出してくれた女性と呼んだ。グロリアの名前は決して口にしなかったが、その含意は明らかだった。
グロリアはペントハウスからその全てを見ていた。天空の要塞にいる、沈黙の観察者として。
「彼は傲慢になっています」
真壁が最新の見出しが載ったタブレットを彼女の机に置きながら言った。
「あなたが打ち負かされたと思っているのです」
グロリアは何も言わなかった。
外の世界に対しては、彼女はパワフルで動じない仮面を維持していた。役員会に出席し、数十億ドル規模の取引をまとめ、政治資金パーティーを主催した。
誰も彼女と依央が結婚していることを知らなかった。それは彼らが八年間守り続けてきた秘密だった。
彼女は、彼が彼女の元へ来た夜のことを思い出した。バイオテクノロジー企業への悲惨な賭けの後、彼のヘッジファンドは崩壊寸前だった。彼は破滅していた。
彼は彼女の前にひざまずいた。何年も前にあの路地裏でそうしたように。
「助けてくれ、グロリア」と彼は懇願した。「何でもする」
彼女は自分が創り上げた男、愛した男を見下ろし、彼を永遠に自分に縛り付けるチャンスを見た。
「私と結婚して」と彼女は言った。
それは要求ではなかった。取引の条件だった。彼女は彼を救済し、これまで以上に強力にし、その見返りに彼は彼女のものになる。完全に。
彼は一瞬だけためらった。
「一つ条件がある」
彼は絶望の中でもプライドを保ちながら言った。
「秘密にしておくことだ。俺のキャリア…俺の評判…『ミスター・フランコ』として見られるわけにはいかない」
彼女はその時、彼が何者であるかを悟った。彼は彼女の力が欲しかったが、彼女の名前は欲しくなかった。彼は彼女の帝国の恩恵を、彼女の配偶者であるという見かけ上の恥辱なしに欲していた。
彼女は同意した。所有権を得るための代償としては、安いものだった。
彼らは共に帝国を築いた。金融界を支配する、沈黙のパートナーシップ。彼はカリスマ的な顔、彼女は冷酷な頭脳だった。
今、そのパートナーシップは戦争となっていた。
チャリティーオークションはメトロポリタン美術館で開催され、街のエリートたちのためのきらびやかな催しだった。
グロリアは自分のテーブルに座り、高価すぎるアートやジュエリーのパレードに退屈していた。
そして、最後の品がステージに運ばれた。
それはネックレスだった。巨大なコロンビア産エメラルドがあしらわれた、繊細なヴィンテージのカルティエ。
それは彼女の母の形見だった。何十年も前に父の事業が破産した後、失われた彼女の家族の遺産の最後のひとかけら。彼女は何年もそれを探し続けていた。
グロリアはためらうことなくパドルを上げた。
「五百万ドル」とオークショニアが告げた。
「六百万」
部屋の向こうから声が上がった。
カイリだった。彼女は依央の隣に座り、勝ち誇った笑みを浮かべてパドルを振っていた。
依央はグロリアと目が合うと、小さく、見下したような笑みを浮かべた。彼はカイリの耳に何かを囁き、彼女はクスクスと笑った。
グロリアは真壁に合図した。彼は再びパドルを上げた。
「一千万」
「一千五百万」
カイリが即座に返した。
入札合戦は急速にエスカレートした。観衆は、数字が馬鹿げた高さにまで登りつめるのを、呆然と見守っていた。
「三千万」
グロリアの指示で、真壁が入札した。
依央が立ち上がった。
「五千万」
彼の声が静かなホールに響き渡った。
「現金で払う」
部屋中にどよめきが走った。
真壁がグロリアに身を寄せた。「彼にそれほどの流動資産はありません」と彼は囁いた。「クリーンな資金では、ですが」
グロリアはかすかに微笑んだ。
「ええ、知っているわ」
彼女の声は柔らかな囁きだった。
「ヴィラロボス・カルテルからの金よ。彼はこの一年、彼らの金を自分のファンドを通して洗浄してきたの」
彼女は何ヶ月も前からそのことを知っていた。彼女は最初の繋がりさえも手引きした。彼の事業の中心に仕掛けた、隠された時限爆弾だった。
彼女は立ち上がり、その動きは優雅で、慌てていなかった。
彼女はガウンを整え、オークションハウスから後ろを振り返ることなく歩き去った。
真壁は待っていた車まで彼女について行った。
「ネックレスはよろしいのですか、冬城様?」
彼は彼女のためにドアを開けながら尋ねた。
「物はただの物よ、真壁」
彼女は豪華な革のシートに身を落ち着けながら言った。
「買われ、売られ、失われる。その唯一の真の価値は、誰かがそれにいくら払うかということだけ」
車が縁石から離れると、彼女は窓の外を見た。
「そして今夜」
彼女は冷たい笑みを唇に浮かべながら付け加えた。
「依央は、想像を絶するほどの代償を払ったわ」