話 1
私の婚約者、西園寺蓮。彼は帝都大学病院の天才外科医で、いつも私をそれはそれは大切にしてくれた。
だから私たちの結婚式は、これまで33回も延期された。
ある夜、病院で蓮と彼の友人の会話を耳にしてしまった。
33回に及ぶ私の「事故」すべてが、彼の仕業だったと。
新人の研修医、佳玲亜(カレア)に本気で、家の事情だけで私と結婚するのは耐えられない、と。
彼の残酷さは、日に日にエスカレートしていった。
佳玲亜が私に殴られたと嘘をついた時、彼は私をベッドに突き飛ばし、「気でも狂ったのか」と罵った。
彼女が屋上で投身自殺の芝居を打った時、彼は彼女を救うために駆け寄り、私には一瞥もくれず、屋上から転落するのをただ見ているだけだった。
私が病院のベッドで麻痺して横たわっている間、彼は罰として刑務所にいる母を痛めつけ、母はその傷が元で亡くなった。母の葬儀の日、彼は佳玲亜をコンサートに連れて行った。
私は彼の婚約者だった。私の父は、彼の父を救うために自らのキャリアを犠牲にした。私たちの家は、そうやって結ばれていた。それなのに彼は、出会ったばかりの女のために、私の身体を、母を、そして声を、すべて破壊した。
そしてついに、彼は愛する佳玲亜に私の喉の手術を執刀させ、彼女は意図的に私の声帯を傷つけ、私が二度と歌えないようにした。声も心も壊され、麻酔から覚めた私が目にしたのは、彼女の勝ち誇った笑み。その時、私はようやくすべてを理解した。
私はSIMカードをへし折り、病院を抜け出し、すべてを捨てた。彼は私の声を奪った。でも、私の残りの人生まで奪わせはしない。
第1章
34回目の結婚式は、明日のはずだった。
そしてそれは、34回目の延期が決まった日でもあった。
最初は階段から落ちて足を骨折。二度目はシャンデリアが落下して脳震盪。三度目は食中毒。そんなことが延々と続いた。
毎回、それは「事故」だった。毎回、私は病院送りになり、結婚式は中止になった。
殺風景な白いベッドに横たわる私の身体は、新旧の傷で地図のようだった。衰弱しきって、何度も命の淵を彷徨った。医者や看護師たちは、なんて不運な女だと囁き合った。
起き上がろうとすると、肋骨に鋭い痛みが走る。ただ水が飲みたいだけなのに。日常からかけ離れた生活の中で、せめてそれくらいの当たり前のことがしたかった。それだけのことで、息が切れた。
婚約者の西園寺蓮は、この街で最も優秀な外科医。彼はいつも、私のことをとても大切にしてくれた。
少なくとも、私はそう信じていた。
静まり返った病院の廊下をゆっくりと進んでいると、人けのないバルコニーから声が聞こえてきた。一つは、蓮の声だった。
私は廊下の角に隠れて、足を止めた。
「蓮、本気か?また『事故』だって?」
それは彼の友人であり、同僚の医師の声だった。
「詩織さんが怪我をするのは、結婚式の直前でこれで33回目だぞ。もう、やりすぎじゃないか?」
全身の血が凍りつく。壁に手をついて身体を支えようとしたが、その手は震えていた。
33回。彼は、数えていたのだ。
「他にどうしろって言うんだ?」
蓮の声は冷たく、いつも私に向ける温かさなど微塵もなかった。
「あいつとは結婚できない」
「だったら、婚約を解消すればいいだろう!なんでこんな風に彼女を傷つけ続けるんだ?前回はもう少しで死ぬところだったんだぞ」
「そんな簡単な話じゃない」
蓮の声には、苛立ちが滲んでいた。
「俺の家は彼女に借りがある。親父が彼女の父親のキャリアを台無しにしたんだ。俺たちには責任がある。この結婚が、その責任なんだ」
責任。愛じゃない。
何年も目を背けてきた真実が、突然、目の前に突きつけられた。
「その責任を、彼女を拷問することで果たすつもりか?」
友人は、信じられないという口調で問い詰めた。
「仕方ないだろ」
蓮は吐き捨てるように言った。
「でも、それももう関係ない。距離を置かないと。特に、佳玲亜とは」
浜崎佳玲亜。新人の研修医。彼が指導している後輩。彼がその名前を口にする時の、かつては仕事への誇りだと勘違いしていたあの優しい響き。
「お前、彼女に惚れてるんだろ?」
蓮はすぐには答えなかった。その沈黙が、彼の告白だった。
「……そんなこと、許されるわけがない」
彼の言葉が、最後の一撃だった。心臓が止まったような気がした。息ができなくなり、廊下がぐにゃりと歪む。
視界がぼやけ、私はよろめきながら後ずさった。気づかないうちに流れていた涙が、頬を伝っていた。
私は走った。ボロボロの身体で走れる限り、病室という安全な場所へと逃げ帰った。ベッドに崩れ落ちると、薄っぺらいマットレスは私の衝撃をほとんど和らげてはくれなかった。
33回の事故。
私のコンサートでの照明の落下。車のブレーキ故障。泳げない私を「誤って」プールに突き落としたこと。
すべて。すべてが、彼だった。
私と結婚したくないという、ただそれだけの理由で。
彼は西園寺蓮。この街で最も権力を持つ医療一族、西園寺家の跡取り。私は茅野詩織。亡き父が天才外科医だった、インディーズのミュージシャン。私の父は、蓮の父が犯した医療ミスの責任を被り、自らのキャリアを犠牲にした。その恩義から、西園寺家は私を引き取り、一生面倒を見ると約束した。
私たちの婚約は、その約束を果たすためのものだった。
彼の細やかな気遣いも、優しい手つきも、私が傷つくたびに見せる心配そうな顔も――私はそれを、愛だと思っていた。
今ならわかる。あれはただの罪悪感だったのだ。
怪我の痛みがぶり返し、胸の苦痛に呼応するように鈍く疼いた。身体中のすべての傷が、彼の裏切りを告発するように叫びを上げていた。
ドアが開いた。蓮だった。
彼は完璧な心配の仮面をかぶって入ってきた。
「詩織、ベッドから出ちゃだめだ。まだ肋骨が治ってないんだから」
また「責任」という言葉を口にした。その言葉に、胃が締め付けられる。
「包帯を替えよう」
彼は私のためだけに見せる、あの優しく気遣うような声で言った。
彼はベッドの端に腰掛け、医療キットを手に取った。消毒の準備をしていると、彼のスマホが鳴った。ちらりと画面を見た瞬間、彼の完璧な仮面がわずかに滑り落ちた。
私は、彼のスマホからぶら下がっているチャームに目を奪われた。小さな、手作りの太陽。
何年も前に、私が手作りした同じようなチャームを彼にあげたことを思い出した。彼はそれを「子供っぽい」と言って、引き出しの奥に放り込んだ。でも、この太陽は、浜崎佳玲亜が付けていたものと全く同じだった。先日、彼女のコートに付いているのを見たばかりだ。
彼は電話に出た。その声は瞬時に変わり、温かく、親密なものになった。
「佳玲亜?どうした?」
電話の向こうから、彼女のか細く、不安そうな声が聞こえてきた。患者のことで助けが必要なのだと、パニックに陥っているようだった。
蓮の唇に、本物の笑みが浮かんだ。ここ何年も、私に向けられたことのない笑顔だった。
「心配するな。すぐに行く」
彼は電話を切った。彼の良い気分は、私に視線を戻した途端に消え失せた。彼は焦っているようで、動きが雑になった。
彼はピンセットと消毒液を浸した脱脂綿を手に取った。いつもなら、まず局所麻酔を打ってくれるはずだった。いつもは、そうだった。
でも、今回は違った。
彼は、消毒液が染みた脱脂綿を、麻酔なしで、私の生々しい傷口に直接押し付けた。
痛みに、息を呑む。冷や汗が額に滲み、目の前がぐらついた。
「蓮……」
私は震える声で、かろうじて彼の名前を呼んだ。
「麻酔は……」
「ああ、そうだった。ごめん、ちょっと気を取られてて」
彼は、気のない口調で言った。手は止めない。それどころか、彼の動きはさらに速く、乱暴になった。
「ちょっと我慢して。すぐに終わるから」
私の身体が痙攣する。シーツに爪を立て、叫び声を堪えるために唇を噛みしめた。肉体的な痛みなど、心に焼き付いていく真実に比べれば、何でもなかった。
彼は彼女の元へ駆けつけるために、私を傷つけている。
彼は手早く処置を終えると、使った器具をガチャンと音を立ててトレーに放り投げた。
「行かないと。病院で緊急事態だ。いい子でベッドにいるんだぞ」
彼は立ち上がり、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
ドアが閉まり、私は痛みと静寂の世界に取り残された。
心臓が、ずたずたに引き裂かれるようだった。一筋の涙が頬を伝い、また一筋と続いた。
傷口と、砕け散った心の痛みは、あまりにも大きすぎた。
意識が遠のき、私は気を失った。
話 2
目を覚ますと、病室は見知らぬ人たちでいっぱいだった。白衣を着た若い医師の一団が私のベッドを取り囲み、ひそひそと何かを話している。
「……誰?」
私はかすれた声で尋ねた。
眼鏡をかけた若い男が前に進み出た。
「研修医です、茅野さん。西園寺先生が指導医で、あなたの症例を見学してもいいと」
彼が言い終わる前に、鋭い女の声が遮った。
「見学って何を?裕福な家に寄生する方法でも?」
顔を向けると、そこには意地悪そうな笑みを浮かべた女がいた。その隣には、臆病で純真そうな顔をした浜崎佳玲亜が立っている。
「西園寺先生の足枷になってるの、あなたでしょ?」
女は軽蔑を込めた声で続けた。
「昔の恩義かなんかにかこつけて、先生にまとわりついて。罪悪感を利用して、先生を縛り付けてるだけじゃない」
彼女の言葉は醜かったが、真実だった。羞恥の波が押し寄せる。何年もの間、私は西園寺家の世話になることを、当然の権利だと思い込んでいた。この「恩義」という名の鎖に、自ら縛られていたのだ。
「あなたさえいなければ、西園寺先生は本当に愛する人と自由に一緒になれるのに」
彼女は佳玲亜をちらりと見ながら言った。
「先生にふさわしい人とね。たかり屋じゃなくて」
佳玲亜は俯き、頬をかすかに赤らめた。不当に扱われた、心優しい魂そのものといった風情だ。その光景に、吐き気がした。
別の研修医が口を挟んだ。
「どうせ母親の差し金でしょ。父親が死んだ途端、金持ちの婿を捕まえようって、娘を西園寺家に押し付けたに違いないわ」
「そうよ、なんて悪賢い女」
彼らは嘲笑し、噂話に興じた。その言葉は、ただ私の幸せだけを願ってくれた母の記憶を歪めていく。
それだけは、我慢ならなかった。
「やめて」
私は身を起こしながら、かすれた声で言った。
「母のことを悪く言わないで」
怒りが、一瞬の力を与えてくれた。私は手を振り上げ、母を侮辱した女の頬を打とうとした。
しかし、一瞬のうちに佳玲亜が動き、私の進路に立ちはだかった。
私の手が、彼女の頬に当たった。それほど強い平手ではなかったが、その音は静かな部屋に響き渡った。
佳玲亜はよろめきながら後ずさり、片手を顔に当て、芝居がかった驚きで目を見開いた。
「詩織!一体何をしてるんだ!」
蓮の怒声が、戸口から轟いた。彼が入ってきたところだった。彼は佳玲亜が頬を押さえ、私がまだ手を上げたままなのを見た。
彼はためらわなかった。大股でこちらへ歩み寄ると、私の頭がヘッドボードに打ち付けられるほどの力で私をベッドに突き飛ばし、佳玲亜を庇うように自分の後ろに引いた。
「気でも狂ったのか!」
彼は私に向かって唸った。その怒りの激しさは、今まで見たこともないものだった。
私は彼を見つめた。心臓が、新たな痛みの波に締め付けられる。彼は一度も、私にそんな口を利いたことはなかった。
彼は佳玲亜の方を向き、その声は瞬時に柔らかくなった。
「大丈夫か?痛かったか?」
彼は優しく彼女の頬を撫でた。その手つきには、もはや私には向けられることのない優しさが満ちていた。彼は彼女を部屋から連れ出し、氷を持ってくると約束した。
他の研修医たちは、私に嫌悪の視線を投げつけてから、彼らの後について出て行った。
数分後、蓮が戻ってきた。その顔は冷たく、硬い仮面のようだった。
「彼女に謝れ」
彼は命じた。
私は彼を黙って見つめ返した。彼女が仕掛けた罠に、謝るつもりはなかった。
「聞こえなかったのか?」
彼の声は、危険なほど低くなった。
「お前はうちの家族に甘やかされすぎたんだ、詩織。いつでも誰でも殴っていいと思ってるのか?」
「彼らが母を侮辱したの」
私は震える声で言った。
「佳玲亜がわざと前に割り込んできた。彼女を殴るつもりはなかった」
蓮の表情は和らがなかった。さらに冷たくなった。
「じゃあ、彼らが間違ってるとでも?お前が俺の足枷になってないって言うのか?」
世界が止まった。息が喉に詰まる。彼は、彼らに同意している。彼は、私がこの物語の悪役だと信じている。私を、重荷だと見なしている。
自嘲的な、苦い笑みが私の唇に浮かんだ。
「わかったわ」
私は囁いた。
「謝る」
痛む身体を引きずってベッドから出ると、私はゆっくりと彼のオフィスに向かって歩いた。廊下が、ありえないほど長く感じられた。
佳玲亜は彼のオフィスに一人で、彼の椅子に座っていた。私が入ってくると、彼女は顔を上げた。その目には一瞬、勝利の色が浮かんだが、すぐに優しい気遣いの表情に変わった。
蓮がいつも、彼のオフィスは立ち入り禁止だと言っていたのを思い出した。「仕事は仕事だ、詩織」と彼は言っていた。「邪魔はするな」と。
どうやら、彼の主義は、どうでもいい人間にしか適用されないらしい。
胸の痛みが鋭すぎて、息をするのも苦しかった。
私はプライドも、尊厳も、愛も、すべて飲み込んだ。
「佳玲亜さん」
私は平坦な声で言った。
「ごめんなさい」
彼女は驚いたふりをして立ち上がった。
「まあ、茅野さん、そんなこと言わないでください。あなたは西園寺先生の婚約者で、私の先生の奥様なんですから。謝るべきは私の方です」
「彼女をそう呼ぶな」
戸口から蓮が言った。彼は私の後をつけてきていた。彼の眉間には、苛立ちの皺が刻まれている。彼は、愛する女に、たとえ見せかけであっても、私のことを妻と呼ばれたくなかったのだ。
砕け散った心の最後の欠片が、塵になった。
「申し訳ありません、西園寺先生」
佳玲亜は、おとなしく俯いて言った。
「気をつけます」
彼女は私の方を向いた。
「茅野さん、許します。ただの誤解でしたから」
彼女の寛大さは、どんな平手打ちよりも侮辱的だった。
「もう行っていい」
蓮は、私に dismissive な口調で言った。
私は踵を返し、手のひらに爪を食い込ませながら、歩き出した。
遠くへは行けなかった。ドアを通り過ぎた時、廊下を急いでいた誰かにぶつかられた。私はバランスを崩して床に倒れ、身体中が悲鳴を上げた。
オフィスの中から、蓮の心配そうな声が聞こえた。
「佳玲亜、大丈夫か?驚いただろ?」
私は冷たく硬い床の上に横たわり、完全に無視されていた。
ついに堰が切れた。涙が、熱く、静かに頬を伝った。身体を震わせる嗚咽を抑えるために、口を手で覆った。
数分後、蓮と佳玲亜がオフィスから出てきた。「ストレス解消」のために、特別なランチに連れて行くのだと彼は言った。彼らは、まるで私がそこにいないかのように、私のそばを通り過ぎていった。
その後の入院生活中、私は看護師や研修医たちが、西園寺先生が有望な教え子である佳玲亜にどれほど献身的であるかを褒めそやすのを聞かされ続けた。彼らは一緒に学会に行き、彼は複雑な手術を個人的に指導し、毎日彼女に昼食を買ってあげていた。
その一つ一つの話が、新たな傷となった。彼はいつも、私とはそういうことをするには「忙しすぎる」と言っていたのに。
私の心は、 методично に引き裂かれていくようだった。私は話すのをやめ、反応するのをやめた。
ある夜、窓から街の灯りを眺めていると、穏やかな気持ちが押し寄せてきた。それは、完全な終焉がもたらす静けさだった。
もう、終わりだ。
彼を自由にしてあげる。そして、私も自由になる。
話 3
退院した日、私は家には帰らなかった。タクシーでまっすぐ西園寺家の屋敷に向かった。
書斎で西園寺氏を見つけた。革張りの本が並び、古い紙と罪悪感のかすかな匂いがする、壮大な部屋だった。
「西園寺さん」
私は落ち着いた声で言った。
「蓮さんとの婚約を、解消させてください」
彼は書類から顔を上げ、純粋な驚きの表情を浮かべた。
「詩織くん?一体どうしたんだ?蓮が何か君を怒らせるようなことでもしたのか?」
私は、そこに浮かんでいるであろう苦々しさを隠すために、目を伏せた。
「いいえ」
私は嘘をついた。
「彼のことではありません。もうすぐ母が刑務所から出てきます。母を連れて、どこか別の場所で新しい生活を始めたいんです」
それが、彼が疑問を抱かずに受け入れてくれるであろう、唯一の言い訳だった。
彼は長い間、私の顔をじっと見つめていた。その顔には、見慣れた悲しみが刻まれていた。
「そうか」
彼はついに言った。
「それが君の本当に望むことなら、私は引き止めない。秘書に、君と君のお母さんのために十分な資金を用意させよう。せめてもの償いだ」
「ありがとうございます」
私は囁き、安堵の息を漏らした。
その時、書斎のドアが勢いよく開いた。
「誰が出ていくって?」
蓮だった。彼は戸口に立ち、鍵を指で揺らしながら、何気ない笑みを浮かべていた。
「詩織を迎えに来たんだ。一緒に家に帰ろうと思って」
彼は言った。
彼の父親が何か言う前に、私は素早く答えた。
「母の話をしていたんです。もうすぐ出所するので」
蓮の笑みは崩れなかった。彼は、自分の世界がもうすぐ変わろうとしていることに、全く気づいていなかった。
「父さん、詩織と俺、夕食を食べていくよ」
彼はそう言って、私の肩に腕を回した。その感触に、私はびくりと身をすくめた。
夕食は、苦痛な時間だった。献身的な婚約者を演じる蓮は、習慣的に私の好物を皿に乗せてくれた。その一つ一つの仕草が、今では嘘だと知ってしまった愛の、痛々しい思い出を呼び起こす。かつては、これらの小さな習慣が彼の愛情の証だと思っていた。今では、義務を果たす男の空虚な動きにしか見えなかった。
「いいニュースがあるんだ」
蓮は父親に向かって、陽気に言った。
「結婚式の会場、再予約できたよ。来月、やっと結婚できる」
私は凍りつき、フォークが皿に当たってカチャンと音を立てた。
西園寺氏は、息子と私を交互に見て、眉をひそめた。
「蓮、それは問題かもしれない。詩織くんは、結婚を取りやめたいと、さっき言っていたんだ」
空気が、緊張で重くなった。
タイミングよく、蓮のスマホが鳴り、重い沈黙を破った。
彼は画面をちらりと見た。佳玲亜からだった。
テーブルの向こうからでも、彼女の弱々しく、涙ぐんだ声が聞こえた。熱がある、一人で怖い、と。
蓮はスマホを握る手に力を込めた。
「どこにいる?今すぐ行く」
彼の声は、切迫感で張り詰めていた。
彼は電話を切ると、椅子から立ち上がった。さっきまでの上機嫌は消え失せていた。
「なんで結婚式をキャンセルしたいんだ?」
彼は私に尋ねた。その口調は、上の空で、焦っていた。
私が答える前に、彼は首を振った。
「まあいい。後で話そう。緊急なんだ」
彼はダイニングルームを駆け出し、椅子の脚が床を激しく擦る音がした。
私は彼の後ろ姿を見つめた。胸には、見慣れた痛みが広がっていた。彼は私を愛していない。それは、痛いほど明らかだった。
西園寺氏に丁寧だが短い別れを告げた後、私は屋敷を出て、まっすぐ刑務所に向かった。
母は、記憶の中よりも老け、弱々しく見えた。白髪が増え、かつてはあんなに輝いていた目が、心配で曇っていた。
「詩織、愛しい子」
彼女は、面会用の電話越しに、かすれた声で言った。
「元気?西園寺さんたちは、よくしてくれてる?」
私は無意識に袖を引き下げ、腕の新しい痣を隠した。
「とてもよくしてくれるわ、お母さん」
私は明るい笑顔を無理に作りながら言った。
「全部、大丈夫」
「結婚式は?」
彼女は、悲しげな笑みを浮かべて尋ねた。
「バージンロードを歩くあなたを見られないなんて、本当にごめんなさいね」
喉の奥に、大きな塊が詰まったような気がした。
「実はね、お母さん……私、結婚しないの」
彼女の笑みが消えた。
「え?どうして?」
「ここから連れ出してあげる」
私は、こらえきれない涙で声をつまらせながら言った。
「二人で、どこか新しい場所へ行くの。やり直しましょう」
彼女は私を見つめた。その目には、深く、胸が張り裂けるような痛みが満ちていた。私が何も言わなくても、私が傷ついていることを、彼女は知っていた。
「わかったわ、ベイビー」
彼女は囁き、一筋の涙が頬を伝った。
「あなたが望むなら。お母さんは、あなたと一緒に行くわ」
私は蓮と暮らしていた家に戻った。そこは冷たく、空っぽで、決して本物ではなかった人生の博物館のようだった。
私は荷造りを始めた。自分の持ち物を、 методично に整理していく。本当に自分のものだけを持っていく。西園寺家がくれた服も、宝石も、車も――すべて、置いていった。
その夜、蓮は帰ってこなかった。
彼が帰ってきたのは、翌日の午後遅くだった。