話 1
私の結婚は、私が主催した慈善パーティーで終わりを告げた。
ついさっきまで、私はIT界の寵児、橘圭吾の妊娠中の幸せな妻だった。
次の瞬間には、ある記者が突きつけてきたスマートフォンの画面が、圭吾と彼の幼馴染である遥が子供を授かったというニュースを世界中に報じていた。
部屋の向こうで、二人が寄り添っているのが見えた。
圭吾の手が、遥のお腹に置かれている。
これは単なる浮気じゃない。
私と、まだ見ぬ私たちの赤ちゃんの存在を、公に消し去るという宣言だった。
会社の数千億円規模の新規株式公開(IPO)を守るため、圭吾と彼の母親、そして私の養父母までもが結託して私を追い詰めた。
彼らは遥を私たちの家に、私のベッドに招き入れ、まるで女王様のように扱い、一方で私は囚人となった。
彼らは私を精神的に不安定だと決めつけ、一家のイメージを脅かす存在だと罵った。
私が浮気をしたと非難し、お腹の子は圭吾の子ではないと主張した。
そして、考えうる限り最悪の命令が下された。
妊娠を中絶しろ、と。
彼らは私を部屋に閉じ込め、手術の予約を入れた。
拒否すれば、無理矢リ引きずって行くと脅して。
でも、彼らは過ちを犯した。
私を黙らせるために、スマートフォンを返してくれたのだ。
私は降伏したふりをして、何年も隠し持っていた番号に、最後の望みを託して電話をかけた。
その番号の主は、私の実の父親、一条彰人。
夫の世界など、いとも簡単に焼き尽くせるほどの力を持つ一族の当主だった。
第1章
上野詩織 POV:
私の結婚が終わったことを、私は世間の人たちと同じ方法で知った。
私が企画した慈善パーティーで、目のくらむようなカメラのフラッシュを浴びて。
ほんの一瞬前まで、私は微笑んでいた。
炭酸水の入ったグラスを上品に持ち、お腹の中で育っている赤ちゃんのことを考えていた。
私たちの秘密、私たちの喜び。
次の瞬間、一人の記者が私の顔にスマートフォンを突きつけてきた。画面には、ニュース速報が光っていた。
「橘夫人、ご主人の重大発表について何かコメントは?」
見出しは、無慈悲で、残酷だった。
『IT界の寵児・橘圭吾氏と幼馴染の桜井遥さん、第一子を授かる』
肺の中の空気が、氷に変わった。
私の微笑みは顔に張り付いたまま凍りつき、今にもひび割れて砕け散りそうな、脆い仮面のようだった。
何百もの視線が私に突き刺さり、豪華絢爛なボールルームに、毒の波のように囁き声が広がっていくのを感じた。
私はゆっくりと、まるでロボットのように振り返った。
そして、彼はそこにいた。
私の夫、圭吾が。
部屋の向こう側で、桜井遥と並んで立っていた。
彼の手は、独占欲を示すかのように彼女の腰のくびれに置かれている。
彼女は涙ぐんだ崇拝の眼差しで彼を見上げ、自身の手で、まだほとんど目立たないお腹の膨らみを守るように抱えていた。
彼らは完璧な絵だった。
美しい秘密を世界と分かち合う、愛情深いカップル。
その秘密は、本来なら私のものであるはずだった。
獲物を見つけたハゲタカのような記者が、さらに近づいてきた。
「橘氏とは別居しているというのは本当ですか?」
圭吾は、ようやく私に気づいた。
記者に、スマートフォンに、そして崩れ落ちていく私の表情に。
彼の目にパニックが走り、遥を掴む手に一瞬力がこもった後、彼は顔を青ざめさせて彼女から手を離した。
人でごった返す部屋の向こうで、私たちの視線が交錯した。
その一瞬の静寂の中で、私たちの7年間の結婚生活が再生され、そして死んだ。
彼が最初のアプリのコードを考えるのを手伝ったいくつもの夜。
私の養父母が私の選んだ仕事を批判した時に、彼が私を抱きしめてくれたこと。
先週、私たちの赤ちゃん、私たちの息子には、私たち二人が本当の意味で得られなかった愛情を注ごうと囁き合った約束。
すべてが、灰になった。
冷たく静かな怒りが、胸の奥で燃え始めた。
氷河のような力が、衝撃を押し流していく。
私は彼に向かって歩き始めた。
部屋のざわめきは静まり、群衆はモーゼの前の紅海のように私のために道を開けた。
聞こえるのは、大理石の床を打つ、私のヒールの規則的で、意図的な音だけ。
一歩一歩が、私たちの結婚の土台を打ち砕くハンマーの一撃だった。
私は彼の真正面で立ち止まった。
遥には目もくれなかった。
私の全世界は、圭吾のハンサムで、裏切りに満ちた顔だけに狭まっていた。
「60秒あげる。私が信じられるかもしれない嘘を考えて」
私の声は、全ての温かみを剥ぎ取られ、危険なほど低く響いた。
彼は口を開き、そのカリスマ的な魅力がすでに動き出していた。
「詩織、なあ、見た目通りじゃないんだ。家に帰って、全部説明させてくれ」
私は彼に最後まで言わせなかった。
私の手は、まるでそれ自身の意志を持ったかのように、目にも留まらぬ速さで動いた。
彼の頬を打つ私の平手の乾いた音が、大広間の洞窟のような静寂に響き渡った。
観衆から、一斉に息をのむ音がした。
圭吾は呆然と立ち尽くし、彼の肌には私の手の赤い跡がくっきりと浮かび上がっていた。
彼は怒っているようには見えなかった。
ただ…捕まった、という顔をしていた。
「お願い、圭吾さんを責めないで!」
遥の声は、わざとらしい脆さをまとった、甘ったるい囁きだった。
彼女は私たちの間に割って入り、圭吾の胸に手を置いた。
「全部、私のせいなの。私…寂しくて。彼はただ、親切にしてくれただけ…」
完璧なタイミングで涙を浮かべた彼女の瞳が、私を捉えた。
その目に謝罪の色はなかった。
ただ、勝利の色だけが。
私の中の怒りがついに氷を突き破り、熱い涙が一筋、冷たい頬を伝った。
最後の理性が砕け散るのを感じた。
圭吾が私に手を伸ばし、必死にかすれた声を出した。
「詩織、お願いだ」
彼は私を腕の中に引き寄せようとしたが、私は火傷でもしたかのように彼の感触から身をすくめた。
「触らないで」
私は喉に詰まった声で言った。
彼の広報担当者が彼のそばに現れ、耳元で必死に何かを囁いた。
圭吾の顎が引き締まる。
彼は広報担当者、見守る大勢の顔、遥の懇願するような表情、そして最後に、私へと視線を移した。
彼の目の中の計算高さに、吐き気がした。
「あの子は、俺の子だ」
彼の声は今やはっきりと、力強かった。
私のためではなく、聞いている全ての人々のために。
「遥とは長い付き合いだ。俺たちは、これを一緒に乗り越えていく」
遥は小さくすすり泣き、彼にもたれかかり、高価なスーツに顔を埋めた。
彼は彼女の肩に腕を回し、抱き寄せた。
守るための仕草。
彼が、彼の妊娠中の妻である私には見せなかった仕草。
彼が作り出した瓦礫の中に、一人で立っている私には。
「圭吾、何を言ってるの?」
私は囁いた。言葉が喉に詰まる。
「私たちの赤ちゃんは、どうなるの?」
彼はついに私を見た。
彼の目は暗い痛みに満ちていたが、それは私のためではなく、彼自身のためだとわかった。
私がもたらした不都合のために。
「家で話す」
彼は低く、張り詰めた声で呟いた。
彼は泣きじゃくる遥を出口へと導き始め、彼のチームはまるで王室の護衛のように彼らの周りを固めた。
彼は私を置いていく。
この屈辱に立ち向かうために、私をここに一人で残していく。
彼らが去っていくのを、私は凍りついたように立って見ていた。
彼の公の宣言の重みが、窒息しそうな覆いのように私にのしかかった。
彼はただ浮気を認めただけではなかった。
彼は公に他の女性の子供を自分の子だと認め、そうすることで、私たちの子供を消し去ったのだ。
足の力が抜け、私はよろめきながら後ろに下がり、手つかずのシャンパングラスが並んだテーブルに体を支えた。
部屋が、回り始めた。
彼の会社、橘テックは、ここ10年で最大級のIPOを目前に控えていた。
スキャンダル、泥沼の離婚、非嫡出子――それは大惨事だっただろう。
しかし、妊娠中の幼馴染のそばに立つIT界の寵児?
それは忠誠の物語だ。
高潔な物語だ。
それは、私と私たちのまだ見ぬ子供を、彼の野心の祭壇に捧げる嘘だった。
彼の警備員の一人が、詮索好きな目やカメラのフラッシュから私を遠ざけるため、通用口から私を連れ出そうと近づいてきた時、吐き気を催すような事実に気づいた。
圭吾はただ過ちを犯しただけではなかった。
彼は、選択をしたのだ。
そして、彼は私を選ばなかった。
彼は、彼女を選んだのだ。
話 2
上野詩織 POV:
私たちのペントハウスへの帰り道は、沈黙に包まれていた。
圭吾の険しい顔つきの運転手と私の間に、言葉にならない言葉の厚く、息苦しい毛布が広がっていた。
私はきらめく東京の夜景をぼんやりと眺めていたが、何も見えていなかった。
私の心は、裏切りと不信の混沌とした嵐だった。
私がデザインし、私たちのために築いた聖域であるはずの家が、今や私を閉じ込めるのを待つ金色の檻のように感じられた。
私たちが到着したとき、圭吾はすでにそこにいた。
リビングルームを行ったり来たりしており、街のスカイラインが彼の苦悩の劇的な背景となっていた。
彼はジャケットとネクタイを脱ぎ、袖を腕まくりしていた。
戦いの準備をしている男のようだった。
私が部屋に入ると、彼は立ち止まり、私の顔を探るように見つめた。
「詩織」
私は何も言わなかった。
彼を通り過ぎ、床から天井まである窓辺に行き、暗く渦巻く黒いリボンのような川を見下ろした。
「怒っているのはわかってる」
彼は柔らかく、説得力のある声で話し始めた。
何十億ドルもの取引をまとめ、懐疑的な投資家を魅了する時に使う声だ。
「君が怒るのは当然だ。でも、わかってほしい。IPOが…」
「やめて」
私は平坦な声で彼を遮った。
「今、IPOの話なんてしないで」
「すべてなんだ、詩織!俺たちが築き上げてきたすべてなんだ!」
「私たち?」
私はくるりと振り返り、抑えていた怒りがついに爆発した。
「『私たち』が築き上げた?あなたが諦めそうになった時、支えていたのは私よ。あなたの家族でさえあなたを失敗者と呼んだ時、あなたを信じていたのは私よ。そして、これがあなたの恩返し?公衆の面前で私を辱め、他の女の子供を自分の子だと認めるのが?」
「そんなんじゃない!」
彼は一歩私に近づきながら主張した。
「遥は…彼女は脆いんだ。誰もいない。家族にも追い出された。助けを求めて俺のところに来たんだ」
「じゃあ私は何なの、圭吾?私は脆くないの?私はあなたの子供を身ごもっていないの?それとも、私たちの赤ちゃんは、あなたの幼馴染の子供ほど重要じゃないってこと?」
その言葉は、重く、毒々しく、空気中に漂った。
まるで私が再び彼を平手打ちしたかのように、彼は身をすくめた。
「もちろん、俺たちの赤ちゃんは重要だ」
彼は必死の囁き声に声を落とした。
彼は私の前にひざまずき、私の両手を握った。
彼の感触は異質で、間違っているように感じた。
私は引き離さなかった。体は衝撃で凍りついていた。
「詩織、俺を見てくれ。愛してる。君は俺の妻だ。それは何も変わらない」
私は彼の頭のてっぺん、私の足元にひざまずく愛する男を見下ろし、広大で、空虚な冷たさしか感じなかった。
「これはただの見せかけなんだ」
彼は言葉を早口でまくしたてた。
「マスコミ向けのストーリーだ。IPOが完了すれば、すべて元通りになる。真実を公表する、約束する。君こそが俺の後継者を身ごもっていると、世界に告げる。俺たちは、俺たち自身の子供を静かに養子に迎えるんだ。法的にはクリーンになる。誰も知ることはない」
彼の計画のあまりの大胆さに、息を呑んだ。
彼は私に、自分の妊娠を隠せと言うのだ。
私たちの息子を秘密裏に出産し、後で「養子」にする。
すべては彼のパブリックイメージと会社の株価を守るため。
彼は私に、遥の子供が祝福される一方で、私たちの子供が汚れた秘密として生まれることを受け入れろと言っているのだ。
「あなた、狂ってるわ」
私は彼の手から自分の手を引き抜きながら囁いた。
「完全に、狂ってる」
「これしか方法がないんだ!」
彼は立ち上がりながら懇願した。
「母さんももう賛成してくれてる。君の両親もだ。みんな、これが家族とビジネスを守るための最善の解決策だと同意してくれてる」
私たちの家族の名前が出たことは、物理的な打撃のように感じられた。
彼の母親、橘恵津子は、何よりも社会的地位を重んじる女性で、常に私を息子の成功のためのアクセサリーとしか見ていなかった。
そして私の養父母、上野夫妻は、子供の頃に私を引き取ったものの、決して心から愛してはくれなかった、最高級の成り上がり者だ。
もちろん、彼らは圭吾の側につくだろう。
橘家の財産は、彼らが何としてでもしがみつきたい賞品なのだ。
「彼らに話したの?」
私は震える声で尋ねた。
「私に話す前に、私の子供の運命を彼らと話し合ったの?」
「危機管理をしなければならなかったんだ、詩織!」
「これは危機じゃない、圭吾!これは私たちの人生よ!私たちの家族!私たちの息子なの!」
最後の言葉で私の声は割れた。
私はお腹の周りに腕を回した。
彼が犠牲にしようとしている小さな命を守るための、原始的な本能だった。
「そして俺は彼を守っているんだ!」
彼は苛立ちが沸点に達し、叫んだ。
「俺は彼の未来を守っている!彼が受け継ぐべき財産を!」
「彼に財産なんて必要ない!」
私は涙を流しながら叫び返した。
「彼に必要なのは、彼を認めてくれる父親よ!株価のティッカーシンボルのために、彼の正当性を売り渡さない父親よ!」
彼は髪をかきむしり、ついに冷静さを失った。
彼は追い詰められ、必死に見えた。
「俺にどうしろって言うんだ、詩織?」
彼は私のフルネームを使った。
彼がそうするのは、距離を置こうとするとき、個人的な対立をビジネスの交渉に変えようとするときだけだった。
「離婚したい」
その言葉は、酸のような味がした。
彼の顔は衝撃で弛緩した。
「だめだ。絶対にだめだ。今すぐの離婚は問題外だ。大惨事になる」
「あなたの惨事なんてどうでもいいわ、圭吾。あなたは私の惨事を引き起こしたのよ」
彼は私に大股で近づき、私の腕を掴んだ。
彼の握力は強く、痛みに近かった。
「君は俺と離婚しない。このアパートから出ない。俺たちはこれを家族として乗り越えるんだ。わかったか?」
その脅しは、紛れもないものだった。
私は自分の家で、囚人だった。
彼の家で。
彼には金も、権力も、家族の支援もある。
私には、何もない。
ドアベルが鳴った。
鋭く、邪魔な音に、私たちは二人とも飛び上がった。
圭吾は私を離し、ドアに向かった。
そこにいた人物を見て、私の心は沈んだ。
遥だった。
彼女は小さく、無力そうに立っており、足元には一泊用のバッグが置かれていた。
彼女の後ろには圭吾の母親、恵津子が立っていた。
その顔は冷たい不承認の仮面で覆われていた。
そして私の養父母も。
その表情は、強欲と哀れみが混じり合っていた。
敵が、到着した。
そして彼らは、引っ越してくるつもりだった。
恵津子は圭吾を通り過ぎ、彼には一言もかけず、その氷のような視線を私に向けた。
「詩織さん。お話があります」
私の運命は、もはや私の手にはないようだった。
それはビジネス取引であり、私は管理されるべき負債だった。
話 3
上野詩織 POV:
「彼女の荷物を主寝室から出して」
橘恵津子は、私ではなく、玄関に現れた家政婦の一人に向かって命じた。
その声は、砕けたガラスのように鋭く冷たかった。
「遥さんには休息が必要です。ゲスト用の部屋では、体のデリケートな女性にはメインのリビングから遠すぎます」
圭吾は何も言わなかった。
ただドアのそばに立ち、その顔は険しく、読み取れない仮面のようだった。
遥は、純粋で毒々しい勝利の小さな、震えるような笑みを私に向けた。
私の養母、上野佳代子は遥のそばに駆け寄り、雌鶏のように彼女の世話を焼いた。
「かわいそうに、お疲れでしょう。さあ、落ち着きましょうね」
私の養父、治は、ただ深い失望の眼差しを私に向けただけだった。
まるで私の存在そのものが、一家の名声の汚点であるかのように。
私は自分の家で、その地位を奪われようとしていた。
そして、私を守ると誓ったはずの夫は、それをただ傍観していた。
給料を支払う男に忠実な使用人たちは、私の服、私の本、私の人生を、圭吾と共有していた部屋から、ペントハウスの奥にある小さく、殺風景な客室へと運び出し始めた。
街のパノラマビューと、私たちの子供が宿ったベッドのある主寝室は、今や彼女のものになった。
「これは一時的なものだ、詩織」
後になって、ハイエナたちが選ばれし者を新しい巣に落ち着かせた後、圭吾は言った。
彼は、荷物の箱に囲まれて窮屈な客室の真ん中に立っている私を見つけた。
「マスコミの注目が収まるまでだ」
「一時的?」
私は空虚な声で繰り返した。
「あなたは他の女を私たちのベッドに寝かせたのよ、圭吾。それに一時的なものなんて何もないわ」
「見せかけのためだ!」
彼は苛立ちを募らせて囁いた。
「遥がここにいるところを見せる必要がある。母さんがそうしろって。それがストーリーを固めるんだ」
「じゃあ私たちのストーリーは?真実はどうなるの?」
「今は真実なんてどうでもいい!重要なのは物語だ!」
それからの数日間、私の人生は悪夢そのものだった。
私は自分の家で幽霊になった。
圭吾は仕事に没頭し、IPOの立ち上げを指揮していた。
家にいるときは、遥と一緒だった。
リビングで彼らが笑っている声が聞こえ、テラスで食事を共にしているのが見えた。
恵津子が家事を仕切り、スタッフにオーガニックの妊婦用スムージーから特注の枕まで、遥の気まぐれにすべて応えるよう指示していた。
私自身の妊娠は無視された。
存在しないものとして。
つわりで苦しんでいると、料理人は恵津子夫人から遥の許可された食事プランにあるものしか作らないように指示されたと告げた。
圭吾に話しかけようとすると、彼はいつも会議中か電話中だった。
彼は私を避け、野心の壁の後ろに隠れていた。
私の養父母も同じだった。
彼らは毎日訪れたが、私に会うためではなく、遥をちやほやし、恵津子と「新しい家族」をマスコミにどう見せるか戦略を練るためだった。
彼らは遥の赤ちゃんを、橘帝国の正統な後継者への黄金の切符と見なし、吐き気を催すほどの熱意でそれに便乗していた。
私は完全に、そして全く一人ぼっちだった。
もはや私のものとは思えない家に囚われ、その存在が誰にとっても不都合な子供を身ごもっていた。
ある午後、私は自分のアトリエで遥を見つけた。
私のプライベートな空間で。
彼女は私の建築模型に手を滑らせ、唇にはかすかな、見下したような笑みを浮かべていた。
「あなた、とても才能があるのね」
彼女は振り返らずに言った。
「全部諦めなきゃいけないなんて、残念だわ」
「何も諦めるつもりはないわ」
私は張り詰めた声で言った。
彼女はついに私の方を向き、その表情は偽りの同情に満ちていた。
「あら、あなた。まだわかってないの?あなたは過去よ、詩織さん。私が未来なの。圭吾さんはもちろん、あなたに責任を感じているわ。でも彼の心は…彼の心は、いつも私と一緒だったのよ」
「私のアトリエから出て行って」
私は両手を固く握りしめて言った。
「ここはもうあなたのアトリエじゃないわ」
彼女は製図台の端を指でなぞりながら、甘い声で言った。
「もうすぐ、ここは子供部屋になるの。圭吾さんとちょうど話していたところよ。星空をテーマにするのが素敵だと思うんだけど、あなたもそう思わない?」
私の中で何かが切れた。
私は彼女に飛びかかった。
視界が真っ赤な怒りでぼやける。
何をしようとしていたのかはわからなかった。
ただ、彼女の得意げで、勝ち誇った顔をもう一秒たりとも見ていられなかった。
しかし、私が彼女に届く前に、手が私の腕を掴み、後ろに引き寄せた。
圭吾だった。
彼は私たちの高ぶった声に気づき、静かに入ってきていた。
彼は私を自分の後ろに引き寄せ、まるで私が脅威であるかのように、私が怪物であるかのように遥をかばった。
「詩織、一体何をしてるんだ!」
彼は怒りに燃える目で要求した。
「彼女が赤ちゃんを傷つけようとしてる!」
遥は叫び、お腹を抱えて大げさに後ろによろめいた。
「圭吾さん、怖い!」
「私は彼女に触れてない!」
私は彼の腕に抗いながら叫んだ。
「彼女は嘘をついてる!」
しかし、圭吾はもう私を見ていなかった。
彼は遥を見ており、その表情は心配で和らいでいた。
彼は彼女のそばに駆け寄り、椅子に座らせ、低い、なだめるような声で話しかけた。
彼は彼女を信じた。
一瞬の躊躇もなく、彼は私よりも彼女を信じた。
その瞬間、私は理解した。
これはただIPOのためだけではない。
これは一時的な取り決めではない。
これはクーデターだ。
そして私は、すでに負けていた。
その夜遅く、橘恵津子が私の部屋に来た。
彼女はノックをしなかった。
刑務所の所長のような雰囲気で入ってきて、私の養父母が忠実な番犬のように彼女の後ろについていた。
「あなたは問題になりました、詩織さん」
恵津子は、何の感情も含まない声で言った。
「あなたの不安定さは、会社にとって、私の息子にとって、私の孫にとってリスクです」
彼女は小さな机の上に書類を滑らせた。
契約書だった。
「これは婚前契約書です」
彼女は説明した。
「あなたの圭吾との将来の条件が概説されています。IPOが終わるまで結婚生活を続けること。公の場で発言しないこと。遥さんの子供の親権をすべて圭吾に譲ること。その代わり、あなたは十分な補償を受け取ります」
そして、最後の、壊滅的な一撃が来た。
「さらに」
彼女は冬の海のように冷たい目で続けた。
「遥さんから、あなたが私の息子を裏切ったと聞いています。彼女に、あなたのお腹の子が圭吾の子ではないかもしれないと告白したそうですね。今日のあなたの暴力的な振る舞いを考えると、私たちは争われる父子関係のスキャンダルのリスクを冒すことはできません。あまりにも厄介です」
私の血の気が引いた。
「それは嘘よ。吐き気のするような嘘だわ」
「どうでもいいことです」
恵津子は平然と言った。
「重要なのは、どう見られるかです。したがって、あなたは妊娠を中絶します。直ちに」
息が止まった。
私は恵津子の無慈悲な顔から、養父母へと視線を移した。
彼らは私の目を見ようとしなかった。
彼らは共犯者だった。
彼らは私と、私の子供を、橘家のパイの一切れのために売り渡していた。
「いや」
私は信じられないという思いで首を振りながら囁いた。
「いやよ。そんなことしない」
恵津子の唇が、残酷な笑みに歪んだ。
「残念ながら、あなたに選択肢はありません。予約は明日の朝です。自分でそこへ歩いて行くか、私の部下たちがあなたを運ぶか、どちらかです」